259話「この先も」
最後の段ボールが、寝室の隅へ運び込まれた。
「これで全部ですね」
中井が、手にしていた一覧へ最後の印をつける。
玄関からリビングまで、大小さまざまな段ボールが並んでいた。
陽菜の衣類。
中井の本。
二人分の食器。
仕事の資料。
すぐに開けるものと、しばらく開けなくても困らないもの。
箱の側面には、それぞれ中身と置き場所が書かれている。
その中に一つだけ、陽菜の大きな字で【大事な物・取扱注意】と書かれた箱があった。
写真。
腕章。
昔の仲間から受け取った手紙。
そして、衣類カバーに包まれた桃色の特攻服。
陽菜が過去から持ってきたものも、すべて新しい家へ運び込まれていた。
『終わったー』
陽菜はリビングの床へ座り込み、そのまま後ろへ倒れた。
「まだ終わっていません」
『全部運んだじゃん』
「開けていない箱が、これだけあります」
『暮らしながら開ければいいよ』
「必要なものが出てこなくなります」
『中井くんが書いてくれたから分かるでしょ』
「陽菜さんが途中から箱を入れ替えましたよね」
『入らなかったから』
「台所用品の箱から、靴が出てきました」
『一足だけでしょ』
「数の問題ではありません」
中井は一覧を閉じ、床に寝転んだままの陽菜を見下ろした。
「せめて、今日使うものだけは出しましょう」
『今日使うものって?』
「着替え。洗面用品。食器。寝具」
『ベッドはあるよ』
「まだシーツを掛けていません」
『じゃあ、中井くんお願い』
「陽菜さんもやるんです」
『動けない』
「先ほどまで、遠藤さんたちの前では元気だったじゃないですか」
『みんな帰ったから、力が切れた』
引っ越しには、凛と柚希、美園が手を貸してくれた。
樹里も仕事を終えてから顔を出し、陽菜が残そうとしていた不要品を容赦なく分けていった。
黒澤まで短い時間だけ現れ、自分も若い頃は一人で三人分の荷物を運んだと語ったが、実際に運んだのは軽い箱を二つだけだった。
夕方には全員が帰り、今は陽菜と中井しかいない。
二人の家に、初めて二人だけの夜が来ようとしていた。
「手を貸してください」
中井が、陽菜へ手を差し出す。
陽菜はその手を掴んだ。
起き上がるかと思いきや、両手で握ったまま自分の方へ引く。
「陽菜さん」
『中井くんも休もうよ』
「危ないです」
『じゃあ、ゆっくり』
中井は諦めたように膝をつき、陽菜の隣へ腰を下ろした。
『最初から、こうすればいいんだよ』
「座ったら、余計に動けなくなります」
『今日はもう、頑張ったでしょ』
「まだ夕食も食べていません」
『何か頼もうよ』
「引っ越し初日から、出前ですか」
『冷蔵庫、何も入ってないじゃん』
「買い物へ行く予定でした」
『無理』
「立つだけですよ」
『その立つのが無理なの』
陽菜は中井の肩へ頭を預けた。
『お寿司がいい』
「また高いものを選びましたね」
『引っ越し祝い』
「誰が払うんですか」
『二人の家なんだから、二人で』
中井が陽菜を見る。
これまでも、外食の費用を分けたことはある。
だが、「二人の家だから」という言葉がつくと、同じことでも少し違って聞こえた。
「分かりました」
『やった』
「注文は陽菜さんがしてください」
『中井くんのスマホでいい?』
「どうしてですか」
『あたしの、鞄の中』
「取ってきてください」
『遠い』
陽菜の鞄は、手を伸ばせば届く場所に置かれている。
中井は何も言わず、自分のスマートフォンを取り出した。
『中井くん、優しい』
「今だけです」
『明日からは?』
「自分で取ってください」
『一緒に暮らしても?』
「一緒に暮らすからです」
陽菜は笑い、中井のスマートフォンを受け取った。
◇
夕食が届くまでの間に、二人は寝室を整えた。
中井の部屋から運んだベッド。
二人で選んだ新しいシーツ。
枕は、それぞれが使っていたものを持ってきた。
同じベッドの上に、色も形も違う二つの枕が並んでいる。
『中井くんの枕、買い替えないの?』
「まだ使えます」
『ちょっと硬いよ』
「陽菜さんが使うわけではありません」
『たまに使ってる』
「朝になると、僕の方へ寄っていますね」
『中井くんが、あたしの方へ来てるんじゃない?』
「違います」
『寝てるのに分かるの?』
「最初に寝る位置は覚えています」
『細かいなあ』
陽菜は自分の枕を置くと、そのまま新しいシーツの上へ倒れ込んだ。
『気持ちいい』
「着替えてから寝てください」
『まだ寝ないよ』
陽菜は枕へ顔を埋める。
『今日から、ここで寝るんだね』
「はい」
『明日の朝も?』
「はい」
『明後日も?』
「そのために引っ越したんですよね」
『ちゃんと言ってよ』
「これからは、毎日ここで寝ます」
『一緒に?』
「一緒にです」
陽菜は満足そうに目を細めた。
『そっか』
中井は、ベッドの横へ置いた自分の鞄を見る。
中には、小さな箱が入っている。
陽菜の部屋で荷造りをしていたとき、見つからないよう移しておいたもの。
いつ渡すのか。
どのような場所で渡すのか。
何を言うのか。
何度も考えた。
雰囲気のいい店を予約することも考えた。
二人で旅行へ行ったときに渡すことも考えた。
だが、どれも自分たちらしくない気がした。
特別な場所を用意するより、この家で渡したかった。
二人が選び、二人で帰ってくると決めた場所。
それでも、今ではない。
まだ夕食も食べていない。
中井は鞄から視線を外した。
『中井くん』
「何ですか」
『今、何か隠した?』
「隠していません」
『鞄、見てた』
「仕事の資料を出した方がいいかと思っただけです」
『今日くらい、仕事やめようよ』
「分かっています」
『怪しい』
「夕食が届く前に、洗面用品を出しましょう」
『話、逸らした』
陽菜はベッドから起き上がると、中井の鞄へ近づいた。
中井が反射的に、その前へ立つ。
陽菜の足が止まった。
『やっぱり、何かある』
「ありません」
『じゃあ退いて』
「嫌です」
『あるじゃん』
「陽菜さん」
『見ないって約束したけど、そんな守り方されたら気になるよ』
中井は黙った。
陽菜は鞄へ手を伸ばさない。
ただ、中井の顔を見ている。
『まだ、見ちゃ駄目?』
「……はい」
『そっか』
陽菜は意外なほど素直に引き下がった。
『じゃあ、待つ』
「すみません」
『何で謝るの?』
「同じ家で暮らすのに、隠し事をしているので」
『言えるときに言ってくれればいいよ』
陽菜は笑い、中井の横を通り過ぎた。
『あたしも全部言ってるわけじゃないし』
「何か隠しているんですか」
『あるかもね』
「教えてください」
『中井くんが教えてくれたら』
「それは困ります」
『じゃあ、お互い様』
玄関の呼び鈴が鳴った。
『お寿司来た!』
陽菜は先ほどまでの追及を忘れたように寝室を飛び出していった。
「走らないでください」
『早く行かないと帰っちゃう』
「帰りません」
中井は鞄を見下ろした。
もう少しだけ。
言葉にする覚悟ができるまで、小さな箱をそこへ残した。
◇
段ボールを端へ寄せ、二人で選んだばかりのテーブルへ寿司を並べた。
椅子はまだ届いていない。
二人は床へ座り、向かい合っている。
『この前も床で食べたね』
「今日はテーブルがあります」
『ちょっと進化した』
「次は椅子ですね」
『なくてもよくない?』
「毎日床へ座るんですか」
『疲れたら寝転べるよ』
「陽菜さんは、食事中でも寝そうですね」
『寝ないって』
「以前、酔ってテーブルに突っ伏していました」
『あれは酔ってたから』
「今日は酒を買わなくてよかったです」
『冷蔵庫に入ってるよ』
中井の手が止まる。
「いつ買ったんですか」
『昨日。荷物と一緒に持ってきてもらった』
「引っ越し初日から飲むつもりだったんですね」
『お祝いだもん』
「明日も仕事です」
『一本だけ』
「先ほど、疲れて動けないと言っていましたよね」
『お酒を飲む元気はある』
「元気ではなくなる方です」
陽菜は冷蔵庫から缶ビールを二本持ってきた。
一本を中井の前へ置く。
『乾杯しよ』
「一本だけですよ」
『分かってる』
二人で缶を開ける。
『何に乾杯する?』
「引っ越しに、ではないんですか」
『それだけ?』
「では、新しい生活に」
『固いなあ』
「陽菜さんは?」
陽菜は少し考え、自分の缶を持ち上げた。
『これから、ずっと一緒に帰ってくることに』
中井の手が止まる。
『中井くん?』
「いえ」
中井も缶を持ち上げた。
「これから、ずっと一緒に帰ってくることに」
缶同士が、軽く触れた。
『乾杯』
「乾杯」
二人は同時にビールを口へ運ぶ。
陽菜は、すぐに寿司へ手を伸ばした。
『中井くん、その海老食べないでね』
「僕の方に入っています」
『あたしのサーモンあげるから』
「サーモンは二つありますよね」
『海老も二つあるじゃん』
「それぞれに一つずつです」
『二人の家では、食べ物も共有でしょ』
「先ほど、すべてを共有する必要はないと言いました」
『都合の悪いことだけ覚えてる』
「陽菜さんに言われたくありません」
結局、中井は海老を陽菜へ渡した。
陽菜は代わりに、サーモンを一つ中井の容器へ置く。
『中井くん、あたしと暮らすの楽しい?』
「まだ数時間です」
『今のところ』
「疲れました」
『ひどい』
「ですが、楽しいです」
『どっち?』
「両方です」
中井は、目の前に座る陽菜を見る。
床に座り、寿司を食べながら、自分の好きなものを当然のように奪っていく。
明日からも、この姿が家の中にいる。
朝になれば、起こしてもなかなか起きない。
脱いだ服は置きっぱなしにする。
食事を忘れ、仕事へ夢中になる。
きっと何度も困らされる。
それでも、そのすべてを失いたくないと思った。
「陽菜さん」
『なに?』
「幸せですか」
陽菜の箸が止まった。
『急にどうしたの?』
「聞きたくなりました」
『幸せだよ』
迷いのない答えだった。
『中井くんは?』
「幸せです」
『じゃあ同じだね』
「はい」
夕食を終え、二人で食器を片づける。
寿司の容器をまとめ、空き缶を洗う。
陽菜が水を飛ばし、中井が台所を拭き直す。
歯ブラシを並べる。
二人分の部屋着を出す。
明日の出勤に必要なものを、玄関の近くへ置く。
何もなかった家に、生活が一つずつ増えていった。
陽菜が先に風呂へ入り、髪を乾かしながらリビングへ戻ってくる。
『中井くん、お風呂空いたよ』
「ありがとうございます」
『着替え、出した?』
「出しています」
『タオルは?』
「あります」
『パンツは?』
「確認しなくて大丈夫です」
『忘れてたら持っていってあげようと思って』
「忘れていません」
『残念』
「何がですか」
『何でもない』
中井が浴室へ向かう。
陽菜はソファ代わりに置いたクッションへ座り、部屋を見回した。
開けていない段ボールは、まだいくつもある。
壁には何も掛かっていない。
それでも、前に来たときとは違った。
台所には二人分のカップがある。
洗面所には二本の歯ブラシ。
寝室には、二つの枕。
玄関には、中井の革靴と陽菜の靴が並んでいる。
ここが二人の家になったのだと、ようやく実感が追いついてきた。
中井が風呂から出てくる。
部屋着へ着替え、まだ乾き切っていない髪をタオルで拭いていた。
『中井くん』
「はい」
『こっち来て』
「髪を乾かしてからです」
『あたしがやる』
陽菜は中井からタオルを受け取り、自分の前へ座らせた。
髪を乱すように拭く。
「もう少し優しくお願いします」
『ちゃんと拭いてるよ』
「首まで引っ張られています」
『動くから』
中井は諦めたように、陽菜へ背中を預けた。
その重さを感じながら、陽菜の手が少しだけゆっくりになる。
『ねえ』
「はい」
『毎日、こんな感じになるのかな』
「髪は自分で拭きます」
『そこじゃないよ』
「では、どこですか」
『ご飯食べて、お風呂入って、明日の準備して』
陽菜は、中井の髪へタオルを当てたまま続ける。
『何でもない話して、一緒に寝るの』
「そうなると思います」
『飽きない?』
中井が振り返る。
『あたし、毎日いたら面倒でしょ』
「今さらですね」
『否定してよ』
「面倒ではあります」
『中井くん』
「ですが、いない方が嫌です」
陽菜の手が止まる。
「数日間、陽菜さんが自分の部屋へ戻ったときに分かりました」
『何が?』
「一人で暮らしていた頃の部屋と、陽菜さんがいなくなった部屋は、同じではありませんでした」
中井は、真っ直ぐに陽菜を見る。
「静かなだけだった部屋が、寂しくなりました」
『中井くんでも、寂しいって思うんだ』
「思います」
『じゃあ、もう寂しくない?』
「はい」
『あたし、ここにいるから?』
「はい」
中井は立ち上がった。
陽菜の前を離れ、寝室へ向かう。
『どこ行くの?』
「待っていてください」
『また隠し事?』
「もう、隠しません」
中井は寝室へ入り、鞄を持って戻ってきた。
陽菜の前へ座る。
鞄の中から、小さな箱を取り出した。
陽菜の表情が止まった。
『それ』
「荷造りのときに、見つけられそうになったものです」
『やっぱり、あたしへのプレゼントだったんだ』
「まだ、プレゼントではありません」
『違うの?』
「受け取っていただけるか、分からないので」
中井は箱を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
何度も考えた言葉。
もっと気の利いた言い方があるのかもしれない。
陽菜を驚かせる演出も、きっとあった。
だが、この家で向かい合う今は、飾った言葉を使いたくなかった。
「陽菜さん」
『うん』
「僕は、これからも陽菜さんと一緒に暮らしたいです」
『もう暮らしてるよ』
「期間を決めずに、です」
陽菜の口が閉じる。
「仕事が忙しいときだけではありません。食事を取れない陽菜さんを支えるためだけでもありません」
中井は一度、小さく息を吸った。
「嬉しい日も、苦しい日も、何もない日も。帰ってきた陽菜さんへ、おかえりと言いたいです」
箱を開く。
中には、小さな指輪が収められていた。
陽菜は何も言わない。
からかうような笑顔も消えている。
「僕と、結婚してください」
中井の声は震えていなかった。
だが、箱を持つ指先には僅かに力が入っている。
陽菜は、指輪を見た。
次に、中井の顔を見る。
『いつ買ったの?』
「少し前です」
『あたしが部屋に戻ってたとき?』
「はい」
『一人で選んだ?』
「神谷さんと佐藤さんに相談しました」
『二人とも知ってたの?』
「相談しただけです。いつ渡すかは伝えていません」
『美園さんも、気づいてた』
「そうかもしれません」
『総長は?』
「知りません」
『本当に?』
「少なくとも、僕からは話していません」
『そっか』
陽菜は、もう一度指輪を見る。
そして、困ったように笑った。
『どうしよう』
中井の表情が僅かに強張る。
『違う。嫌なんじゃないよ』
「はい」
『嬉しいんだけど、嬉しすぎて、何て言えばいいか分かんない』
陽菜の目に、少しずつ涙が溜まっていく。
『あたし、ちゃんとした奥さんになれるかな』
「僕も、ちゃんとした夫になれるかは分かりません」
『二人とも分かんないじゃん』
「なら、二人で覚えましょう」
陽菜の頬を、涙が一筋だけ伝った。
中井が手を伸ばそうとする。
その前に、陽菜が中井へ抱きついた。
勢いを受け、中井の上体が後ろへ傾く。
「陽菜さん。指輪が」
『なくさないで』
「陽菜さんがぶつかったんですよ」
『絶対なくさないで』
「分かっています」
陽菜は、中井の胸へ顔を埋めた。
『結婚する』
「……はい」
『中井くんと結婚したい』
中井の腕が、陽菜の背中へ回る。
『これからも一緒に帰ってきたい』
「はい」
『おかえりって言ってほしい』
「何度でも言います」
『あたしも言う』
「お願いします」
陽菜は顔を上げた。
泣きながら、それでも笑っている。
『返事、これでいい?』
「十分です」
『ちゃんと言った方がいい?』
「陽菜さんの言葉で構いません」
陽菜は一度だけ涙を拭った。
『中井くん』
「はい」
『あたしと、家族になってください』
中井の目が、僅かに揺れる。
「はい」
今度は中井の声が震えた。
「よろしくお願いします」
中井は箱から指輪を取り出した。
「左手を出していただけますか」
『どっち?』
「左です」
『こっち?』
「反対です」
『緊張して分かんなくなった』
「僕も緊張しています」
『見えない』
「手が震えています」
『本当だ』
陽菜は中井の手を包む。
『落とさないでね』
「動かないでください」
『分かってる』
中井は、陽菜の左手の薬指へ指輪を通した。
途中で僅かに止まり、最後まで収まる。
陽菜は手を持ち上げ、何度も角度を変えて指輪を見た。
『すごい』
「きつくありませんか」
『大丈夫』
「緩くは?」
『多分』
「確認してください」
『今、そういうこと聞く?』
「毎日着けるなら大事です」
『中井くんらしい』
陽菜は笑い、指輪のついた手で中井の頬へ触れた。
『ありがとう』
「受け取ってくださって、ありがとうございます」
『あたし、中井くんのお嫁さんになるんだ』
「まだ、手続きは必要です」
『今はそういう話しなくていいの』
「すみません」
『そこは、うんって言って』
「はい」
『もう一回』
「陽菜さんは、僕の妻になります」
『まだちょっと固い』
「どう言えばいいんですか」
『お嫁さん』
「恥ずかしいです」
『あたしには言わせるのに?』
「言わせてはいません」
『じゃあ、言って』
中井は、陽菜の左手を握った。
「陽菜さんは、僕のお嫁さんになります」
『うん』
陽菜は嬉しそうに笑い、中井の唇へ自分の唇を重ねた。
◇
寝室の照明を消すと、カーテンの隙間から淡い光が差し込んだ。
新しい家で迎える、最初の夜。
二人は同じベッドに入っていた。
これまでにも、何度も隣で眠った。
中井の部屋でも。
陽菜の部屋でも。
旅行先でも。
それでも今夜は、触れ合う指先の意味まで違うように感じられた。
陽菜の左手には、指輪がある。
中井は、その手を自分の胸元へ引き寄せた。
「外さなくていいんですか」
『今日くらい着けてたい』
「傷がつくかもしれません」
『中井くん、本当に今それ言う?』
「気になったので」
『雰囲気ないなあ』
「すみません」
『でも、好き』
陽菜は身体を寄せ、中井の胸へ頬をつけた。
『ねえ、中井くん』
「はい」
『もう一回言って』
「何をですか」
『好きって』
「好きです」
『結婚してくれる?』
「僕からお願いしました」
『それでも』
「結婚します」
『ずっと一緒?』
「はい」
中井は、陽菜の頬へ触れた。
「ずっと一緒です」
唇が重なる。
最初は、確かめるように。
次第に、互いの距離がなくなっていく。
何度触れても、陽菜は中井の首へ回した腕を解かなかった。
新しいシーツが、小さく音を立てる。
中井は一度だけ身体を離した。
いつものように、枕元へ手を伸ばす。
その手首を、陽菜が掴んだ。
「陽菜さん?」
『今日は、いい』
中井の動きが止まる。
初めて言われた言葉ではない。
以前にも陽菜は、同じように中井の手を止めた。
そのたびに中井は理由を尋ね、妊娠の可能性を伝え、それでも陽菜が望むのかを確かめた。
何度経験しても、中井は自分の判断だけで省こうとはしなかった。
「今回も、ですか」
『うん』
「意味は、分かっていますね」
『分かってるよ。今までだって、分かって言ってた』
「はい」
『中井くん、毎回聞くね』
「毎回確認します」
『あたしが何度頼んでも?』
「前に望んだことが、今も望んでいることの証明にはなりませんから」
陽菜は、掴んでいた手首から力を抜いた。
その代わりに、中井の指へ自分の指を絡める。
『そういうところ、好き』
「茶化さないでください」
『茶化してないよ』
陽菜は中井を見つめた。
『今夜も、中井くんにそうしてほしい』
「妊娠する可能性があります」
『うん』
「今まで何もなかったからといって、次も同じとは限りません」
『それも分かってる』
「結婚が決まった直後だから、気持ちが高ぶっているだけではありませんか」
『中井くん』
陽菜の声から、からかうような響きが消えた。
『あたし、前から頼んでたでしょ』
「はい」
『結婚が決まったから、急に言い出したんじゃないよ』
中井は黙って聞いている。
『今までは、中井くんとの子どもができることを、ちゃんと考え切れてなかった』
「今夜は、考えたんですか」
『全部なんて分かんないよ』
陽菜は正直に答えた。
『でも、できたら困るとは思ってない』
「陽菜さん」
『中井くんとの子どもなら、二人で育てたい』
中井の表情が僅かに揺れる。
『今すぐ欲しいって、決めたわけじゃない。でも、もし来てくれたら、あたしは嬉しいと思う』
「怖くはありませんか」
『怖いよ』
陽菜は、中井の手を握った。
『中井くんは?』
「怖いです」
『二人とも怖いんだ』
「はい」
『じゃあ、そのときも一緒に怖がろ』
「それでいいんですか」
『一人で平気なふりするより、いいでしょ』
中井は、陽菜の言葉を受け止めるように黙った。
それから、その手を強く握り返す。
「分かりました」
『うん』
「途中で嫌になったら、必ず言ってください」
『中井くんもね』
「はい」
二人はもう一度、唇を重ねた。
照明の消えた寝室で、互いの温度だけを確かめる。
初めて選んだことではない。
それでも、今夜はこれまでと同じ意味ではなかった。
不安を見ないふりはしない。
どちらか一人の願いにもしない。
まだ見えない未来まで、二人で受け止めると決めた夜だった。
◇
しばらくして。
陽菜は、中井の胸へ身体を預けていた。
新しい家の中は静かだった。
乱れた呼吸が落ち着くにつれ、遠くを走る車の音が聞こえ始める。
中井の腕が、陽菜の背中を包んでいる。
『中井くん』
「はい」
『眠い』
「寝てください」
『お風呂は?』
「朝でも構いません」
『珍しい。中井くんが適当なこと言った』
「今日は、疲れましたから」
『引っ越しで?』
「全部です」
陽菜が小さく笑う。
『幸せ?』
「はい」
『あたしも』
陽菜は、自分の左手を見る。
暗い寝室でも、薬指にある指輪の輪郭は分かった。
『明日、みんなに言っていい?』
「もうですか」
『駄目?』
「駄目ではありません」
『総長、どんな顔するかな』
「驚くと思います」
『美園さんは、知ってたかも』
「指輪には気づいていたかもしれません」
『凛ちゃんと柚希ちゃんにも言う』
「会社中へ広まりそうですね」
『中井くん、嫌?』
「覚悟しています」
『黒澤部長にも?』
「報告は必要です」
『また仕事の話する』
「同じ会社ですから」
『じゃあ、明日はRoseで先に言おうよ』
「日高さんたちへ、ですか」
『うん。三人に』
「三人?」
『総長と美園さんと、あたし』
「陽菜さんは報告する側ですよね」
『三人の話だから』
中井は、すぐには意味を理解できなかった。
陽菜にとって結婚は、中井と二人だけのものではない。
人生の多くを共に歩いてきた樹里と美園。
離れていた時間を越え、ようやく三人で並べるようになった二人へ、自分の未来を伝えたいのだろう。
「分かりました」
『一緒に来てね』
「もちろんです」
『総長、最初は絶対「そうか」しか言わないよ』
「そうでしょうか」
『賭ける?』
「何をですか」
『言ったら、あたしの勝ち』
「言わなければ?」
『中井くんの勝ち』
「勝った方は、何をもらえるんですか」
『明日決める』
「また決めずに始めるんですね」
『楽しいからいいでしょ』
陽菜は目を閉じた。
すぐそばで、中井の心臓が規則正しく鳴っている。
以前は、誰かに愛されることが怖かった。
失うくらいなら、最初から深く求めなければいいと思っていた。
だが今は、中井の腕の中で眠ろうとしている。
左手には、これからを約束した指輪がある。
そして、二人が選んだ家がある。
『中井くん』
「何ですか」
『おやすみ』
「おやすみなさい、陽菜さん」
『明日の朝も、いる?』
「います」
『その次も?』
「います」
『ずっと?』
「ずっとです」
陽菜は安心したように、中井の胸へ頬を寄せた。
中井は、その髪へ静かに口づける。
何もなかった部屋に。
二人分の荷物が増えた。
二つの枕が並んだ。
新しい約束が生まれた。
そして、その夜。
二人は初めて、まだ見えない未来まで同じ家へ迎え入れた。




