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259話「この先も」

最後の段ボールが、寝室の隅へ運び込まれた。


「これで全部ですね」


 中井が、手にしていた一覧へ最後の印をつける。


 玄関からリビングまで、大小さまざまな段ボールが並んでいた。


 陽菜の衣類。


 中井の本。


 二人分の食器。


 仕事の資料。


 すぐに開けるものと、しばらく開けなくても困らないもの。


 箱の側面には、それぞれ中身と置き場所が書かれている。


 その中に一つだけ、陽菜の大きな字で【大事な物・取扱注意】と書かれた箱があった。


 写真。


 腕章。


 昔の仲間から受け取った手紙。


 そして、衣類カバーに包まれた桃色の特攻服。


 陽菜が過去から持ってきたものも、すべて新しい家へ運び込まれていた。


『終わったー』


 陽菜はリビングの床へ座り込み、そのまま後ろへ倒れた。


「まだ終わっていません」


『全部運んだじゃん』


「開けていない箱が、これだけあります」


『暮らしながら開ければいいよ』


「必要なものが出てこなくなります」


『中井くんが書いてくれたから分かるでしょ』


「陽菜さんが途中から箱を入れ替えましたよね」


『入らなかったから』


「台所用品の箱から、靴が出てきました」


『一足だけでしょ』


「数の問題ではありません」


 中井は一覧を閉じ、床に寝転んだままの陽菜を見下ろした。


「せめて、今日使うものだけは出しましょう」


『今日使うものって?』


「着替え。洗面用品。食器。寝具」


『ベッドはあるよ』


「まだシーツを掛けていません」


『じゃあ、中井くんお願い』


「陽菜さんもやるんです」


『動けない』


「先ほどまで、遠藤さんたちの前では元気だったじゃないですか」


『みんな帰ったから、力が切れた』


 引っ越しには、凛と柚希、美園が手を貸してくれた。


 樹里も仕事を終えてから顔を出し、陽菜が残そうとしていた不要品を容赦なく分けていった。


 黒澤まで短い時間だけ現れ、自分も若い頃は一人で三人分の荷物を運んだと語ったが、実際に運んだのは軽い箱を二つだけだった。


 夕方には全員が帰り、今は陽菜と中井しかいない。


 二人の家に、初めて二人だけの夜が来ようとしていた。


「手を貸してください」


 中井が、陽菜へ手を差し出す。


 陽菜はその手を掴んだ。


 起き上がるかと思いきや、両手で握ったまま自分の方へ引く。


「陽菜さん」


『中井くんも休もうよ』


「危ないです」


『じゃあ、ゆっくり』


 中井は諦めたように膝をつき、陽菜の隣へ腰を下ろした。


『最初から、こうすればいいんだよ』


「座ったら、余計に動けなくなります」


『今日はもう、頑張ったでしょ』


「まだ夕食も食べていません」


『何か頼もうよ』


「引っ越し初日から、出前ですか」


『冷蔵庫、何も入ってないじゃん』


「買い物へ行く予定でした」


『無理』


「立つだけですよ」


『その立つのが無理なの』


 陽菜は中井の肩へ頭を預けた。


『お寿司がいい』


「また高いものを選びましたね」


『引っ越し祝い』


「誰が払うんですか」


『二人の家なんだから、二人で』


 中井が陽菜を見る。


 これまでも、外食の費用を分けたことはある。


 だが、「二人の家だから」という言葉がつくと、同じことでも少し違って聞こえた。


「分かりました」


『やった』


「注文は陽菜さんがしてください」


『中井くんのスマホでいい?』


「どうしてですか」


『あたしの、鞄の中』


「取ってきてください」


『遠い』


 陽菜の鞄は、手を伸ばせば届く場所に置かれている。


 中井は何も言わず、自分のスマートフォンを取り出した。


『中井くん、優しい』


「今だけです」


『明日からは?』


「自分で取ってください」


『一緒に暮らしても?』


「一緒に暮らすからです」


 陽菜は笑い、中井のスマートフォンを受け取った。


     ◇


 夕食が届くまでの間に、二人は寝室を整えた。


 中井の部屋から運んだベッド。


 二人で選んだ新しいシーツ。


 枕は、それぞれが使っていたものを持ってきた。


 同じベッドの上に、色も形も違う二つの枕が並んでいる。


『中井くんの枕、買い替えないの?』


「まだ使えます」


『ちょっと硬いよ』


「陽菜さんが使うわけではありません」


『たまに使ってる』


「朝になると、僕の方へ寄っていますね」


『中井くんが、あたしの方へ来てるんじゃない?』


「違います」


『寝てるのに分かるの?』


「最初に寝る位置は覚えています」


『細かいなあ』


 陽菜は自分の枕を置くと、そのまま新しいシーツの上へ倒れ込んだ。


『気持ちいい』


「着替えてから寝てください」


『まだ寝ないよ』


 陽菜は枕へ顔を埋める。


『今日から、ここで寝るんだね』


「はい」


『明日の朝も?』


「はい」


『明後日も?』


「そのために引っ越したんですよね」


『ちゃんと言ってよ』


「これからは、毎日ここで寝ます」


『一緒に?』


「一緒にです」


 陽菜は満足そうに目を細めた。


『そっか』


 中井は、ベッドの横へ置いた自分の鞄を見る。


 中には、小さな箱が入っている。


 陽菜の部屋で荷造りをしていたとき、見つからないよう移しておいたもの。


 いつ渡すのか。


 どのような場所で渡すのか。


 何を言うのか。


 何度も考えた。


 雰囲気のいい店を予約することも考えた。


 二人で旅行へ行ったときに渡すことも考えた。


 だが、どれも自分たちらしくない気がした。


 特別な場所を用意するより、この家で渡したかった。


 二人が選び、二人で帰ってくると決めた場所。


 それでも、今ではない。


 まだ夕食も食べていない。


 中井は鞄から視線を外した。


『中井くん』


「何ですか」


『今、何か隠した?』


「隠していません」


『鞄、見てた』


「仕事の資料を出した方がいいかと思っただけです」


『今日くらい、仕事やめようよ』


「分かっています」


『怪しい』


「夕食が届く前に、洗面用品を出しましょう」


『話、逸らした』


 陽菜はベッドから起き上がると、中井の鞄へ近づいた。


 中井が反射的に、その前へ立つ。


 陽菜の足が止まった。


『やっぱり、何かある』


「ありません」


『じゃあ退いて』


「嫌です」


『あるじゃん』


「陽菜さん」


『見ないって約束したけど、そんな守り方されたら気になるよ』


 中井は黙った。


 陽菜は鞄へ手を伸ばさない。


 ただ、中井の顔を見ている。


『まだ、見ちゃ駄目?』


「……はい」


『そっか』


 陽菜は意外なほど素直に引き下がった。


『じゃあ、待つ』


「すみません」


『何で謝るの?』


「同じ家で暮らすのに、隠し事をしているので」


『言えるときに言ってくれればいいよ』


 陽菜は笑い、中井の横を通り過ぎた。


『あたしも全部言ってるわけじゃないし』


「何か隠しているんですか」


『あるかもね』


「教えてください」


『中井くんが教えてくれたら』


「それは困ります」


『じゃあ、お互い様』


 玄関の呼び鈴が鳴った。


『お寿司来た!』


 陽菜は先ほどまでの追及を忘れたように寝室を飛び出していった。


「走らないでください」


『早く行かないと帰っちゃう』


「帰りません」


 中井は鞄を見下ろした。


 もう少しだけ。


 言葉にする覚悟ができるまで、小さな箱をそこへ残した。


     ◇


 段ボールを端へ寄せ、二人で選んだばかりのテーブルへ寿司を並べた。


 椅子はまだ届いていない。


 二人は床へ座り、向かい合っている。


『この前も床で食べたね』


「今日はテーブルがあります」


『ちょっと進化した』


「次は椅子ですね」


『なくてもよくない?』


「毎日床へ座るんですか」


『疲れたら寝転べるよ』


「陽菜さんは、食事中でも寝そうですね」


『寝ないって』


「以前、酔ってテーブルに突っ伏していました」


『あれは酔ってたから』


「今日は酒を買わなくてよかったです」


『冷蔵庫に入ってるよ』


 中井の手が止まる。


「いつ買ったんですか」


『昨日。荷物と一緒に持ってきてもらった』


「引っ越し初日から飲むつもりだったんですね」


『お祝いだもん』


「明日も仕事です」


『一本だけ』


「先ほど、疲れて動けないと言っていましたよね」


『お酒を飲む元気はある』


「元気ではなくなる方です」


 陽菜は冷蔵庫から缶ビールを二本持ってきた。


 一本を中井の前へ置く。


『乾杯しよ』


「一本だけですよ」


『分かってる』


 二人で缶を開ける。


『何に乾杯する?』


「引っ越しに、ではないんですか」


『それだけ?』


「では、新しい生活に」


『固いなあ』


「陽菜さんは?」


 陽菜は少し考え、自分の缶を持ち上げた。


『これから、ずっと一緒に帰ってくることに』


 中井の手が止まる。


『中井くん?』


「いえ」


 中井も缶を持ち上げた。


「これから、ずっと一緒に帰ってくることに」


 缶同士が、軽く触れた。


『乾杯』


「乾杯」


 二人は同時にビールを口へ運ぶ。


 陽菜は、すぐに寿司へ手を伸ばした。


『中井くん、その海老食べないでね』


「僕の方に入っています」


『あたしのサーモンあげるから』


「サーモンは二つありますよね」


『海老も二つあるじゃん』


「それぞれに一つずつです」


『二人の家では、食べ物も共有でしょ』


「先ほど、すべてを共有する必要はないと言いました」


『都合の悪いことだけ覚えてる』


「陽菜さんに言われたくありません」


 結局、中井は海老を陽菜へ渡した。


 陽菜は代わりに、サーモンを一つ中井の容器へ置く。


『中井くん、あたしと暮らすの楽しい?』


「まだ数時間です」


『今のところ』


「疲れました」


『ひどい』


「ですが、楽しいです」


『どっち?』


「両方です」


 中井は、目の前に座る陽菜を見る。


 床に座り、寿司を食べながら、自分の好きなものを当然のように奪っていく。


 明日からも、この姿が家の中にいる。


 朝になれば、起こしてもなかなか起きない。


 脱いだ服は置きっぱなしにする。


 食事を忘れ、仕事へ夢中になる。


 きっと何度も困らされる。


 それでも、そのすべてを失いたくないと思った。


「陽菜さん」


『なに?』


「幸せですか」


 陽菜の箸が止まった。


『急にどうしたの?』


「聞きたくなりました」


『幸せだよ』


 迷いのない答えだった。


『中井くんは?』


「幸せです」


『じゃあ同じだね』


「はい」


 夕食を終え、二人で食器を片づける。


 寿司の容器をまとめ、空き缶を洗う。


 陽菜が水を飛ばし、中井が台所を拭き直す。


 歯ブラシを並べる。


 二人分の部屋着を出す。


 明日の出勤に必要なものを、玄関の近くへ置く。


 何もなかった家に、生活が一つずつ増えていった。


 陽菜が先に風呂へ入り、髪を乾かしながらリビングへ戻ってくる。


『中井くん、お風呂空いたよ』


「ありがとうございます」


『着替え、出した?』


「出しています」


『タオルは?』


「あります」


『パンツは?』


「確認しなくて大丈夫です」


『忘れてたら持っていってあげようと思って』


「忘れていません」


『残念』


「何がですか」


『何でもない』


 中井が浴室へ向かう。


 陽菜はソファ代わりに置いたクッションへ座り、部屋を見回した。


 開けていない段ボールは、まだいくつもある。


 壁には何も掛かっていない。


 それでも、前に来たときとは違った。


 台所には二人分のカップがある。


 洗面所には二本の歯ブラシ。


 寝室には、二つの枕。


 玄関には、中井の革靴と陽菜の靴が並んでいる。


 ここが二人の家になったのだと、ようやく実感が追いついてきた。


 中井が風呂から出てくる。


 部屋着へ着替え、まだ乾き切っていない髪をタオルで拭いていた。


『中井くん』


「はい」


『こっち来て』


「髪を乾かしてからです」


『あたしがやる』


 陽菜は中井からタオルを受け取り、自分の前へ座らせた。


 髪を乱すように拭く。


「もう少し優しくお願いします」


『ちゃんと拭いてるよ』


「首まで引っ張られています」


『動くから』


 中井は諦めたように、陽菜へ背中を預けた。


 その重さを感じながら、陽菜の手が少しだけゆっくりになる。


『ねえ』


「はい」


『毎日、こんな感じになるのかな』


「髪は自分で拭きます」


『そこじゃないよ』


「では、どこですか」


『ご飯食べて、お風呂入って、明日の準備して』


 陽菜は、中井の髪へタオルを当てたまま続ける。


『何でもない話して、一緒に寝るの』


「そうなると思います」


『飽きない?』


 中井が振り返る。


『あたし、毎日いたら面倒でしょ』


「今さらですね」


『否定してよ』


「面倒ではあります」


『中井くん』


「ですが、いない方が嫌です」


 陽菜の手が止まる。


「数日間、陽菜さんが自分の部屋へ戻ったときに分かりました」


『何が?』


「一人で暮らしていた頃の部屋と、陽菜さんがいなくなった部屋は、同じではありませんでした」


 中井は、真っ直ぐに陽菜を見る。


「静かなだけだった部屋が、寂しくなりました」


『中井くんでも、寂しいって思うんだ』


「思います」


『じゃあ、もう寂しくない?』


「はい」


『あたし、ここにいるから?』


「はい」


 中井は立ち上がった。


 陽菜の前を離れ、寝室へ向かう。


『どこ行くの?』


「待っていてください」


『また隠し事?』


「もう、隠しません」


 中井は寝室へ入り、鞄を持って戻ってきた。


 陽菜の前へ座る。


 鞄の中から、小さな箱を取り出した。


 陽菜の表情が止まった。


『それ』


「荷造りのときに、見つけられそうになったものです」


『やっぱり、あたしへのプレゼントだったんだ』


「まだ、プレゼントではありません」


『違うの?』


「受け取っていただけるか、分からないので」


 中井は箱を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。


 何度も考えた言葉。


 もっと気の利いた言い方があるのかもしれない。


 陽菜を驚かせる演出も、きっとあった。


 だが、この家で向かい合う今は、飾った言葉を使いたくなかった。


「陽菜さん」


『うん』


「僕は、これからも陽菜さんと一緒に暮らしたいです」


『もう暮らしてるよ』


「期間を決めずに、です」


 陽菜の口が閉じる。


「仕事が忙しいときだけではありません。食事を取れない陽菜さんを支えるためだけでもありません」


 中井は一度、小さく息を吸った。


「嬉しい日も、苦しい日も、何もない日も。帰ってきた陽菜さんへ、おかえりと言いたいです」


 箱を開く。


 中には、小さな指輪が収められていた。


 陽菜は何も言わない。


 からかうような笑顔も消えている。


「僕と、結婚してください」


 中井の声は震えていなかった。


 だが、箱を持つ指先には僅かに力が入っている。


 陽菜は、指輪を見た。


 次に、中井の顔を見る。


『いつ買ったの?』


「少し前です」


『あたしが部屋に戻ってたとき?』


「はい」


『一人で選んだ?』


「神谷さんと佐藤さんに相談しました」


『二人とも知ってたの?』


「相談しただけです。いつ渡すかは伝えていません」


『美園さんも、気づいてた』


「そうかもしれません」


『総長は?』


「知りません」


『本当に?』


「少なくとも、僕からは話していません」


『そっか』


 陽菜は、もう一度指輪を見る。


 そして、困ったように笑った。


『どうしよう』


 中井の表情が僅かに強張る。


『違う。嫌なんじゃないよ』


「はい」


『嬉しいんだけど、嬉しすぎて、何て言えばいいか分かんない』


 陽菜の目に、少しずつ涙が溜まっていく。


『あたし、ちゃんとした奥さんになれるかな』


「僕も、ちゃんとした夫になれるかは分かりません」


『二人とも分かんないじゃん』


「なら、二人で覚えましょう」


 陽菜の頬を、涙が一筋だけ伝った。


 中井が手を伸ばそうとする。


 その前に、陽菜が中井へ抱きついた。


 勢いを受け、中井の上体が後ろへ傾く。


「陽菜さん。指輪が」


『なくさないで』


「陽菜さんがぶつかったんですよ」


『絶対なくさないで』


「分かっています」


 陽菜は、中井の胸へ顔を埋めた。


『結婚する』


「……はい」


『中井くんと結婚したい』


 中井の腕が、陽菜の背中へ回る。


『これからも一緒に帰ってきたい』


「はい」


『おかえりって言ってほしい』


「何度でも言います」


『あたしも言う』


「お願いします」


 陽菜は顔を上げた。


 泣きながら、それでも笑っている。


『返事、これでいい?』


「十分です」


『ちゃんと言った方がいい?』


「陽菜さんの言葉で構いません」


 陽菜は一度だけ涙を拭った。


『中井くん』


「はい」


『あたしと、家族になってください』


 中井の目が、僅かに揺れる。


「はい」


 今度は中井の声が震えた。


「よろしくお願いします」


 中井は箱から指輪を取り出した。


「左手を出していただけますか」


『どっち?』


「左です」


『こっち?』


「反対です」


『緊張して分かんなくなった』


「僕も緊張しています」


『見えない』


「手が震えています」


『本当だ』


 陽菜は中井の手を包む。


『落とさないでね』


「動かないでください」


『分かってる』


 中井は、陽菜の左手の薬指へ指輪を通した。


 途中で僅かに止まり、最後まで収まる。


 陽菜は手を持ち上げ、何度も角度を変えて指輪を見た。


『すごい』


「きつくありませんか」


『大丈夫』


「緩くは?」


『多分』


「確認してください」


『今、そういうこと聞く?』


「毎日着けるなら大事です」


『中井くんらしい』


 陽菜は笑い、指輪のついた手で中井の頬へ触れた。


『ありがとう』


「受け取ってくださって、ありがとうございます」


『あたし、中井くんのお嫁さんになるんだ』


「まだ、手続きは必要です」


『今はそういう話しなくていいの』


「すみません」


『そこは、うんって言って』


「はい」


『もう一回』


「陽菜さんは、僕の妻になります」


『まだちょっと固い』


「どう言えばいいんですか」


『お嫁さん』


「恥ずかしいです」


『あたしには言わせるのに?』


「言わせてはいません」


『じゃあ、言って』


 中井は、陽菜の左手を握った。


「陽菜さんは、僕のお嫁さんになります」


『うん』


 陽菜は嬉しそうに笑い、中井の唇へ自分の唇を重ねた。


     ◇


 寝室の照明を消すと、カーテンの隙間から淡い光が差し込んだ。


 新しい家で迎える、最初の夜。


 二人は同じベッドに入っていた。


 これまでにも、何度も隣で眠った。


 中井の部屋でも。


 陽菜の部屋でも。


 旅行先でも。


 それでも今夜は、触れ合う指先の意味まで違うように感じられた。


 陽菜の左手には、指輪がある。


 中井は、その手を自分の胸元へ引き寄せた。


「外さなくていいんですか」


『今日くらい着けてたい』


「傷がつくかもしれません」


『中井くん、本当に今それ言う?』


「気になったので」


『雰囲気ないなあ』


「すみません」


『でも、好き』


 陽菜は身体を寄せ、中井の胸へ頬をつけた。


『ねえ、中井くん』


「はい」


『もう一回言って』


「何をですか」


『好きって』


「好きです」


『結婚してくれる?』


「僕からお願いしました」


『それでも』


「結婚します」


『ずっと一緒?』


「はい」


 中井は、陽菜の頬へ触れた。


「ずっと一緒です」


 唇が重なる。


 最初は、確かめるように。


 次第に、互いの距離がなくなっていく。


 何度触れても、陽菜は中井の首へ回した腕を解かなかった。


 新しいシーツが、小さく音を立てる。


 中井は一度だけ身体を離した。


 いつものように、枕元へ手を伸ばす。


 その手首を、陽菜が掴んだ。


「陽菜さん?」


『今日は、いい』


 中井の動きが止まる。


 初めて言われた言葉ではない。


 以前にも陽菜は、同じように中井の手を止めた。


 そのたびに中井は理由を尋ね、妊娠の可能性を伝え、それでも陽菜が望むのかを確かめた。


 何度経験しても、中井は自分の判断だけで省こうとはしなかった。


「今回も、ですか」


『うん』


「意味は、分かっていますね」


『分かってるよ。今までだって、分かって言ってた』


「はい」


『中井くん、毎回聞くね』


「毎回確認します」


『あたしが何度頼んでも?』


「前に望んだことが、今も望んでいることの証明にはなりませんから」


 陽菜は、掴んでいた手首から力を抜いた。


 その代わりに、中井の指へ自分の指を絡める。


『そういうところ、好き』


「茶化さないでください」


『茶化してないよ』


 陽菜は中井を見つめた。


『今夜も、中井くんにそうしてほしい』


「妊娠する可能性があります」


『うん』


「今まで何もなかったからといって、次も同じとは限りません」


『それも分かってる』


「結婚が決まった直後だから、気持ちが高ぶっているだけではありませんか」


『中井くん』


 陽菜の声から、からかうような響きが消えた。


『あたし、前から頼んでたでしょ』


「はい」


『結婚が決まったから、急に言い出したんじゃないよ』


 中井は黙って聞いている。


『今までは、中井くんとの子どもができることを、ちゃんと考え切れてなかった』


「今夜は、考えたんですか」


『全部なんて分かんないよ』


 陽菜は正直に答えた。


『でも、できたら困るとは思ってない』


「陽菜さん」


『中井くんとの子どもなら、二人で育てたい』


 中井の表情が僅かに揺れる。


『今すぐ欲しいって、決めたわけじゃない。でも、もし来てくれたら、あたしは嬉しいと思う』


「怖くはありませんか」


『怖いよ』


 陽菜は、中井の手を握った。


『中井くんは?』


「怖いです」


『二人とも怖いんだ』


「はい」


『じゃあ、そのときも一緒に怖がろ』


「それでいいんですか」


『一人で平気なふりするより、いいでしょ』


 中井は、陽菜の言葉を受け止めるように黙った。


 それから、その手を強く握り返す。


「分かりました」


『うん』


「途中で嫌になったら、必ず言ってください」


『中井くんもね』


「はい」


 二人はもう一度、唇を重ねた。


 照明の消えた寝室で、互いの温度だけを確かめる。


 初めて選んだことではない。


 それでも、今夜はこれまでと同じ意味ではなかった。


 不安を見ないふりはしない。


 どちらか一人の願いにもしない。


 まだ見えない未来まで、二人で受け止めると決めた夜だった。

     ◇


 しばらくして。


 陽菜は、中井の胸へ身体を預けていた。


 新しい家の中は静かだった。


 乱れた呼吸が落ち着くにつれ、遠くを走る車の音が聞こえ始める。


 中井の腕が、陽菜の背中を包んでいる。


『中井くん』


「はい」


『眠い』


「寝てください」


『お風呂は?』


「朝でも構いません」


『珍しい。中井くんが適当なこと言った』


「今日は、疲れましたから」


『引っ越しで?』


「全部です」


 陽菜が小さく笑う。


『幸せ?』


「はい」


『あたしも』


 陽菜は、自分の左手を見る。


 暗い寝室でも、薬指にある指輪の輪郭は分かった。


『明日、みんなに言っていい?』


「もうですか」


『駄目?』


「駄目ではありません」


『総長、どんな顔するかな』


「驚くと思います」


『美園さんは、知ってたかも』


「指輪には気づいていたかもしれません」


『凛ちゃんと柚希ちゃんにも言う』


「会社中へ広まりそうですね」


『中井くん、嫌?』


「覚悟しています」


『黒澤部長にも?』


「報告は必要です」


『また仕事の話する』


「同じ会社ですから」


『じゃあ、明日はRoseで先に言おうよ』


「日高さんたちへ、ですか」


『うん。三人に』


「三人?」


『総長と美園さんと、あたし』


「陽菜さんは報告する側ですよね」


『三人の話だから』


 中井は、すぐには意味を理解できなかった。


 陽菜にとって結婚は、中井と二人だけのものではない。


 人生の多くを共に歩いてきた樹里と美園。


 離れていた時間を越え、ようやく三人で並べるようになった二人へ、自分の未来を伝えたいのだろう。


「分かりました」


『一緒に来てね』


「もちろんです」


『総長、最初は絶対「そうか」しか言わないよ』


「そうでしょうか」


『賭ける?』


「何をですか」


『言ったら、あたしの勝ち』


「言わなければ?」


『中井くんの勝ち』


「勝った方は、何をもらえるんですか」


『明日決める』


「また決めずに始めるんですね」


『楽しいからいいでしょ』


 陽菜は目を閉じた。


 すぐそばで、中井の心臓が規則正しく鳴っている。


 以前は、誰かに愛されることが怖かった。


 失うくらいなら、最初から深く求めなければいいと思っていた。


 だが今は、中井の腕の中で眠ろうとしている。


 左手には、これからを約束した指輪がある。


 そして、二人が選んだ家がある。


『中井くん』


「何ですか」


『おやすみ』


「おやすみなさい、陽菜さん」


『明日の朝も、いる?』


「います」


『その次も?』


「います」


『ずっと?』


「ずっとです」


 陽菜は安心したように、中井の胸へ頬を寄せた。


 中井は、その髪へ静かに口づける。


 何もなかった部屋に。


 二人分の荷物が増えた。


 二つの枕が並んだ。


 新しい約束が生まれた。


 そして、その夜。


 二人は初めて、まだ見えない未来まで同じ家へ迎え入れた。

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