258話「何もない夜」
何もない部屋には、二人の足音がよく響いた。
陽菜は玄関から廊下を進み、リビングの扉を開ける。
内見のときにも見た部屋。
白い壁。
何も掛かっていない窓。
家具の跡すらない床。
契約を終えた今も、見た目はあのときと何も変わっていない。
それでも、陽菜には別の場所に見えた。
『広い』
「内見のときと、広さは同じですよ」
『そういう意味じゃないよ』
陽菜はリビングの中央まで歩いた。
振り返る。
玄関に立ったままの中井が、靴を脱いでいる。
『中井くん、遅い』
「靴は揃えてください」
『あとでやる』
「今やれば、あとでやる必要はありません」
『まだ何もない家で、もう小言言われた』
「何もなくても、靴は揃えられます」
中井は陽菜の靴も揃えてから、リビングへ入ってきた。
手にしているのは、契約書類の入った封筒だけだった。
陽菜は両腕を広げ、その場でゆっくりと一回転する。
『ここにソファ』
「窓に近すぎませんか」
『じゃあ、こっち』
「テレビを見る位置も考えないと」
『テレビ、あたしの持ってくるんだよね』
「はい。僕のものより大きいので」
『中井くんのテレビ、小さいもんね』
「一人で見るには十分です」
『これからは二人で見るから、あたしの勝ち』
「勝負だったんですか」
『冷蔵庫は中井くんの勝ち。洗濯機も中井くん。テレビと服の量はあたし』
「服の量で勝っても、置く場所がなくなるだけですよ」
『一部屋、全部あたしの服にする?』
「しません」
『即答』
陽菜は笑いながら、隣の部屋へ向かった。
扉を開ける。
寝室として使う予定の部屋にも、当然何も置かれていない。
中井の部屋にあるベッドを運び、足りない家具は二人で買う。
予定表には、そう書いた。
だが、実際に空の部屋へ立つと、陽菜は改めて床の広さを確かめた。
『ベッド、ここだよね』
「そうですね。壁際へ寄せれば、反対側に棚も置けると思います」
『一個で足りる?』
中井の返事が止まった。
『中井くん?』
「何がですか」
『ベッド』
「今も、一つで寝ていますよね」
『そうだけど。新しい家だから、中井くんが急に恥ずかしがるかと思って』
「今さら別々にする方が不自然です」
『じゃあ、一緒でいいんだ』
「嫌なんですか?」
『全然』
陽菜は、ベッドが置かれる予定の床へ仰向けに寝転んだ。
「陽菜さん」
『何?』
「床ですよ」
『知ってるよ』
「服が汚れます」
『掃除されてるから大丈夫』
「そういう問題ではありません」
『中井くんも寝てみて』
「嫌です」
『ここにベッドがあると思って』
「まだありません」
『想像力が足りないなあ』
陽菜は片腕を伸ばし、自分の隣の床を軽く叩いた。
『ほら』
「床で何をするつもりですか」
『寝室の広さを確かめる』
「立ったままでも確認できます」
『二人で寝たときの広さは、寝ないと分からないでしょ』
「ベッドの寸法は分かっています」
『真面目』
「陽菜さんが適当すぎるんです」
そう言いながらも、中井は陽菜の隣へ腰を下ろした。
『寝ないの?』
「座るだけです」
『じゃあ、あたしも座ろ』
陽菜は上体を起こし、そのまま中井の肩へ頭を預けた。
二人分の体重を受けた床が、僅かに鳴る。
壁に囲まれた空間へ、その音まで大きく響いた。
『静かだね』
「何もありませんから」
『今までの中井くんの部屋も、結構静かだったよ』
「陽菜さんが来てからは、そうでもありませんでした」
『あたし、そんなにうるさかった?』
「独り言が多いです」
『中井くんに話してたんだよ』
「風呂場から、冷蔵庫にプリンがあるか聞かれても聞こえません」
『でも返事してくれたじゃん』
「何度も呼ぶからです」
『これからも呼ぶよ』
「近くまで来てください」
『面倒』
「僕に風呂場まで来させる方が面倒です」
『じゃあ、一緒に入る?』
中井の肩が僅かに動く。
陽菜は顔を上げ、その横顔を覗き込んだ。
『今、想像した?』
「していません」
『した顔してる』
「どんな顔ですか」
『恥ずかしいけど、ちょっと嬉しそうな顔』
「していません」
『耳、赤いよ』
「部屋が暑いんです」
『暖房ついてないよ』
「陽菜さん」
『はいはい』
陽菜は楽しそうに笑い、もう一度中井の肩へ頭を戻した。
静かになる。
何もない部屋。
カーテンも、照明も、時計もない。
外では、誰かの車が通り過ぎる音がした。
廊下から、別の部屋の扉が閉まる音も聞こえる。
ここには、まだ二人の生活の音がない。
『ねえ、中井くん』
「はい」
『本当に、ここで暮らすんだね』
「はい」
『毎日、一緒に帰ってくるの?』
「帰宅時間が同じとは限りません」
『そういうことじゃなくて』
「分かっています」
『朝も一緒?』
「出勤時刻が同じなら」
『また真面目に答える』
「違うんですか?」
『間違ってないけど』
陽菜は、自分の手にある鍵を見る。
何度見ても、中井の持っているものと同じだった。
以前預かっていたのは、中井の部屋へ入るための合鍵だった。
そこには、ほんの少しだけ遠慮があった。
先に帰っていいと言われても、中井がいない部屋へ一人で入るときには、他人の場所を借りているような感覚が残っていた。
だが、この鍵は違う。
中井がいなくても、自分で開けていい。
先に帰って、明かりをつけていい。
散らかせば怒られるだろうが、そこにいていいのかと確かめる必要はない。
『あたしが先に帰ったら、おかえりって言うね』
「はい」
『中井くんが先だったら、言ってね』
「言います」
『喧嘩してても?』
「どうして暮らし始める前から、喧嘩をする前提なんですか」
『するかもしれないじゃん』
「そのときも言います」
『すごく怒ってても?』
「陽菜さんが帰ってきたことと、怒っていることは別です」
陽菜は中井の顔を見る。
『じゃあ、あたしも言う』
「お願いします」
『無視したら?』
「何度でも言います」
『しつこい』
「陽菜さんにだけは言われたくありません」
陽菜が笑う。
その声が空の寝室へ広がり、壁に当たって二人のもとへ戻ってきた。
『今、すごく響いた』
「家具が入れば、少し変わります」
『ちょっと喋ってみて』
「何をですか」
『何でもいいよ』
「何でもと言われても困ります」
『じゃあ、あたしのこと好きって言って』
「どうしてそうなるんですか」
『声がどれくらい響くか確認するため』
「別の言葉でも確認できます」
『言って』
「嫌です」
『好きじゃないの?』
「そういう話ではありません」
『じゃあ好き?』
中井は一度、開いたままの寝室の扉を見た。
誰もいない。
この家には、二人しかいない。
それでも、何も置かれていない空間へ言葉を残すことが、普段より恥ずかしく感じられた。
「好きです」
中井の声が、部屋の中へ響く。
陽菜は満足そうに目を細めた。
『本当に響いた』
「確認できましたか」
『うん。もう一回』
「必要ありません」
『次は、もう少し大きな声で』
「しません」
『けち』
「陽菜さんも言っていませんよね」
『あたし?』
「確認するなら、同じ条件でお願いします」
陽菜は一瞬だけ黙った。
それから中井の肩を離れ、姿勢を正す。
『中井くん』
「はい」
『好きだよ』
先ほどよりも大きな声だった。
何もない部屋の隅々まで届き、少し遅れて二人の耳へ返ってくる。
言った本人の頬が赤くなった。
「陽菜さんの方が、よく響きましたね」
『うるさい』
「自分から言ったんですよ」
『中井くんが言えって言ったんじゃん』
「同じ条件でとお願いしただけです」
『そういう言い方、ずるい』
「陽菜さんに教わりました」
『あたし、そんな言い方しないよ』
「します」
中井が笑う。
陽菜は誤魔化すように立ち上がった。
『お腹空いた』
「先ほど食事をしてから来ればよかったですね」
『早く部屋を見たかったんだから仕方ないでしょ』
「帰りに食べますか」
『ここで食べたい』
「何もありませんよ」
『床がある』
「また床ですか」
『コンビニで何か買ってこようよ。最初の晩ご飯』
「まだ、ここで寝るわけではありません」
『晩ご飯くらいいいじゃん』
陽菜は先に玄関へ向かった。
『中井くん、行こ』
「鍵は持ちましたか」
『持ってる』
「契約書類は?」
『中井くんが持ってる』
「財布は?」
陽菜の動きが止まる。
『……車』
「取りに戻りましょう」
『中井くんが貸して』
「最初の食事を、僕一人が払うんですか」
『次はあたしが払うから』
「その次は、いつですか」
『引っ越した日』
「約束ですよ」
『覚えてたらね』
「今、約束したばかりです」
二人は一度部屋を出て、近くのコンビニへ向かった。
◇
戻ってきた陽菜の手には、弁当と飲み物の入った袋があった。
中井は、小さなレジャーシートを持っている。
『それ、どこにあったの?』
「車に積んでいました」
『何で?』
「以前、モデルハウスの応援で使ったものです」
『仕事の物?』
「私物です。荷物を置くために持っていきました」
『準備いいねえ』
「床へ直接座るよりはいいでしょう」
二人はリビングの中央へシートを広げた。
その上へ弁当と飲み物を並べる。
テーブルも椅子もないため、弁当は膝の上へ置くしかない。
『キャンプみたい』
「室内です」
『新居でピクニック』
「もう少し良いものを買えばよかったですね」
『これでいいよ』
陽菜が選んだのは、から揚げの入った弁当。
中井は、幕の内弁当と二人分の味噌汁を買っていた。
『お湯、ないよ』
陽菜が味噌汁の容器を見る。
中井の手が止まった。
台所には水道がある。
電気も通っている。
しかし、やかんも電気ケトルもない。
「忘れていました」
『中井くんでも、そういうことあるんだ』
「あります」
『写真撮ろ』
「何をですか」
『お湯のない味噌汁』
「撮る必要がありますか?」
『新居で最初の失敗』
「残さなくていい記録です」
『萌なら記録するよ』
「川原さんを何だと思っているんですか」
『記録する人』
「間違ってはいませんが」
陽菜は、弁当と二つの味噌汁をスマートフォンで撮影した。
続けて、中井へ身体を寄せる。
『中井くんも入って』
「今ですか」
『最初の晩ご飯だよ』
「弁当しかありません」
『だからいいの』
陽菜は内側のカメラへ切り替えた。
何もない白い部屋。
床に敷いた小さなシート。
膝の上の弁当。
隣に座る中井。
画面の中には、まだ家具の一つもない家で笑っている二人が映っている。
『撮るよ』
「待ってください。ネクタイが」
『そのままでいいじゃん』
「曲がっています」
『いくよ。3、2、1』
中井が直し終える前に、撮影音が響いた。
「もう一度お願いします」
『これでいいよ』
「確認させてください」
『嫌』
「変な顔をしていたら、消してください」
『中井くん、いつも同じ顔じゃん』
「同じではありません」
『じゃあ、もう一枚』
今度は中井が姿勢を整えるまで待った。
陽菜はその肩へ頭を寄せる。
二度目の撮影音が、空の部屋へ響いた。
撮った写真を確認する。
一枚目の中井は、曲がったネクタイを直そうとしている。
二枚目は、少しだけ緊張した顔で正面を見ていた。
『一枚目の方がいい』
「どうしてですか」
『中井くんっぽいから』
「どこがですか」
『あたしが勝手に撮って、中井くんが困ってるところ』
「これからも、そういう写真が増えるんでしょうね」
『嫌?』
「いいえ」
中井は画面の中にいる二人を見つめる。
「増やしましょう」
陽菜は一瞬だけ目を丸くした。
『今の、もう一回言って』
「写真を増やしましょう」
『何枚くらい?』
「数は決めなくていいと思います」
『壁いっぱい』
「貼る場所は相談してください」
『寝室にも貼る?』
「寝室には必要ありません」
『何で?』
「落ち着きません」
『あたしの写真でも?』
「本人が隣にいるのに、写真まで必要ですか」
陽菜の口元が、ゆっくりと緩む。
『それ、結構恥ずかしいこと言ってるよ』
「そうですか?」
『うん』
「陽菜さんが聞いたんですよ」
『でも、嬉しい』
陽菜は撮った写真を大切そうに保存した。
新しい家で撮った、最初の一枚。
まだカーテンもない。
照明もない。
家具も、食器も、二人分の歯ブラシもない。
生活と呼べるものは、何一つ始まっていなかった。
それでも、残したいと思える時間だけは、もうここにあった。
二人は冷めないうちに弁当を食べ始めた。
『中井くん。その卵焼き欲しい』
「から揚げと交換ならいいですよ」
『一個?』
「一個です」
『二個』
「卵焼きは一つしかありません」
『じゃあ、から揚げ半分』
「減っていますよ」
『あたしのから揚げ、大きいから』
「先ほど一つ食べましたよね」
『細かいなあ』
「それなら交換しません」
『分かった。一個あげる』
陽菜は自分の弁当から、から揚げを一つ中井の容器へ移した。
中井も卵焼きを陽菜へ渡す。
『やった』
「最初から、自分の食べたい弁当を選べばよかったでしょう」
『中井くんの食べてるものって、おいしそうに見えるんだよ』
「同じものを買っても、僕の方を欲しがりますよね」
『隣の芝生は青いってやつ』
「弁当です」
何もなかった部屋へ、少しずつ音が増えていく。
箸が容器へ触れる音。
袋を開く音。
陽菜の笑い声。
それに答える中井の声。
家具が入れば、この声も今ほど響かなくなる。
床に座って弁当を食べることも、今日だけかもしれない。
だからこそ中井は、その時間を急いで終わらせなかった。
食事を終える頃には、窓の外が暗くなっていた。
照明のないリビングへ、近くの建物の明かりが差し込んでいる。
「そろそろ戻りましょうか」
『戻るって、どっちに?』
中井の言葉が止まる。
今夜眠るのは、これまで暮らしていた部屋だ。
ベッドも着替えも、まだ向こうにある。
だが、そこへ行くことを「帰る」と呼ぶのか。
この何もない部屋から離れることを、「戻る」と呼ぶのか。
中井は少し考えた。
「今日は、荷物を取りに行きましょう」
『うん』
「引っ越しが終わったら、ここへ帰ってきます」
『うん』
陽菜は立ち上がり、レジャーシートの上に残った袋をまとめた。
『次に来るときは、何か持ってこようね』
「まず照明が必要です」
『味噌汁のお湯も』
「電気ケトルを先に運びます」
『布団も欲しい』
「引っ越し日まで、ここでは寝ませんよ」
『一晩くらい』
「駄目です」
『中井くんと一緒なら平気だよ』
「明日の仕事に差し支えます」
『真面目』
「陽菜さんも仕事でしょう」
『分かってるよ』
二人はリビングを出た。
中井が契約書類を持ち、陽菜が食事のごみを持つ。
玄関で靴を履き、最後に室内を振り返った。
入ったときと同じ、何もない部屋。
それなのに陽菜には、もう空っぽには見えなかった。
『中井くん』
「はい」
『次は、ただいまって言いながら荷物持って入ろうね』
「はい」
『その次は?』
「家具を置きます」
『そうじゃなくて』
「何ですか?」
『ずっと、ここに帰ってくるんでしょ』
中井は、陽菜の手にある新しい鍵を見る。
「はい」
短く、それでも迷わず答えた。
「二人で帰ってきます」
陽菜は満足そうに笑い、玄関の外へ出た。
中井が照明を消し、扉を閉める。
陽菜は自分の鍵を差し込み、初めて外側から錠を掛けた。
扉の向こうには、家具も生活用品も残していない。
残したのは、二人の声だけだった。
『またね』
「部屋に言ったんですか」
『うん』
「すぐに来ますよ」
『それでも』
陽菜は鍵を抜き、中井の手を握った。
『また帰ってくるね』
今度は、中井も何も言わなかった。
閉じた扉へ一度だけ目を向け、陽菜の手を握り返す。
二人は並んで廊下を歩き始めた。
何もない夜。
それでも二人の家には、もう最初の思い出が残っていた。




