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257話「二本の鍵」

週明けの午後。


 陽菜は、モデルハウスで接客を終えた直後、東支店からの電話を受けた。


『はい。櫻井です』


「先日お申込みいただいた物件ですが、入居審査が完了しました」


『本当ですか?』


「はい。お二人でご入居いただけます」


『やった!』


 受付にいた凛と柚希が、同時に陽菜を見る。


 萌も、相談記録へ向けていた手を止めた。


『ありがとうございます。中井くんにも、すぐ伝えます』


「契約開始日についてですが、希望されていた日で問題ありません。必要書類は、社内便でもお送りできます」


『あたしたちが行きます』


「こちらへ来られますか?」


『二人の家だから、二人で契約したいんです』


「分かりました。では、日時が決まりましたらご連絡ください」


『はい。ありがとうございました』


 通話を終えた陽菜は、スマートフォンを両手で握った。


「陽菜さん」


 柚希が、恐る恐る尋ねる。


「もしかして」


『審査、通った!』


「おめでとうございます!」


 柚希の声が、モデルハウスへ響く。


 凛も立ち上がった。


「では、本当に一緒に暮らすんですね」


『うん。今度は、ずっと』


「いいなあ」


『凛ちゃんも住む?』


「住みません」


『即答なんだ』


「中井さんに怒られます」


『中井くんなら、一部屋空いてるって言うかも』


「言わないと思います」


 萌が、手帳を持って陽菜へ近づく。


「引っ越し日は決まったんですか」


『まだ。今から中井くんと相談する』


「契約開始日は?」


『希望した日で大丈夫だって』


「今月中ですね」


『うん』


「引っ越し業者は、手配できましたか」


『まだ』


「櫻井さん」


『今日やるよ』


「お二人とも現在の部屋を解約するんですよね」


『そのつもり』


「退去日が重なると、準備が大変です。先に片方の部屋を片づけた方がいいと思います」


『中井くんの部屋からにしようかな』


「なぜですか」


『荷物、少なそうだから』


「確認したんですか」


『見れば分かるよ。あたしの方が多い』


 陽菜は、自分の部屋に積まれた荷物を思い出した。


 洋服。


 仕事の資料。


 使っていない調理器具。


 昔の写真。


 いつか整理しようと思ったまま、開けていない箱もある。


「捨てるものを、先に分けた方がいいですね」


 萌が言う。


『美園さんに手伝ってもらおうかな』


「中村さんですか」


『うん。あたしより、あたしの昔の物に詳しいから』


「自分の物ですよね」


『覚えてない物も、いっぱいあると思う』


「それは少し心配です」


『萌も来る?』


「私には、櫻井さんの思い出までは判断できません」


『そっか』


「ですが、荷造りの手順なら今まとめます」


『萌、本当に引っ越し屋さんみたいだね』


「違います」


 萌は凛と柚希を見る。


「凛さんと柚希さんも、手伝いに行かれるんですか」


「行きます」


 凛が答える。


「私も行きますけど、陽菜さんの昔の物は勝手に触らない方がいいですか?」


『触っていいよ。変なの見つけても笑わないでね』


「変な物があるんですか?」


『あるかもしれない』


「余計に気になります」


「私は、衣類をまとめます」


 凛が言った。


「柚希さんは、台所をお願いできますか」


「分かりました。萌さんは来ないんですか?」


「私は仕事です」


「私たちも、休日ですけど」


「では、凛さんと柚希さんの分まで、平日に進めておきます」


「そう言われると断れません」


 柚希は困ったように笑った。


『ありがとう。じゃあ、みんなでやれば一日で終わるね』


「荷物の量によります」


『大丈夫。そんなにないから』


「先ほど、多いと言っていました」


『中井くんよりはね』


 陽菜は、すぐに中井へLINEを送った。


『審査通ったよ!』


 数分待っても、既読はつかない。


 中井も接客中なのだろう。


 分かっていても、陽菜は何度も画面を確認した。


「陽菜さん。お客様が来られました」


 凛が入口へ目を向ける。


『分かった』


 陽菜はスマートフォンを置き、すぐに表情を切り替えた。


『いらっしゃいませ』


 家を探す者を迎える仕事。


 その仕事を続けながら、自分にも初めて、帰るための家が決まろうとしていた。


 夕方。


 陽菜が会社へ戻ると、中井が入口で待っていた。


「陽菜さん」


『聞いた?』


「はい。東支店から、僕にも連絡がありました」


『やったね』


「はい」


『もっと喜んでいいよ』


「嬉しいです」


『顔、変わってない』


「これでも、かなり喜んでいます」


『じゃあ、抱きついていい?』


「ここではやめてください」


『まだ何もしてないじゃん』


「しようとしたでしょう」


 陽菜が腕を広げたところで、黒澤が営業部から出てきた。


「入口で何をしてる」


『黒澤部長』


「邪魔になる。中へ入れ」


『あたしたち、審査通りました』


「聞いた」


『おめでとうは?』


 黒澤は、陽菜と中井を見る。


「おめでとう」


『本当に言ってくれた』


「言わせたんだろうが」


「ありがとうございます」


 中井は素直に頭を下げた。


 陽菜も笑って頭を下げる。


『ありがとうございます』


「浮かれて仕事を落とすなよ」


『大丈夫です』


「櫻井さんは、明日の訪問資料がまだできてないだろ」


『何で知ってるんですか』


「部長だからだ」


『今からやります』


「先にやれ」


『はーい』


 陽菜が営業部へ入ろうとすると、中井に呼び止められた。


「陽菜さん」


『何?』


「今日、契約日と引っ越しについて相談しませんか」


『うん。中井くんの部屋行く』


「では、夕食を用意しておきます」


『あたしも手伝うよ』


「仕事は何時に終わりますか」


『多分、8時』


「それなら、僕が作ります」


『やった』


「喜ぶところではありません」


『帰ったら、皿洗うから』


「お願いします」


 その夜。


 夕食を終えた2人は、机の上へ予定表を広げた。


 契約日。


 鍵の引き渡し。


 引っ越し日。


 それぞれの部屋の退去日。


 電気、ガス、水道。


 住所変更。


 必要な手続きは、想像していたより多かった。


『家決めたら、すぐ住めると思ってた』


「普段、お客様へ説明していますよね」


『聞く側になると長いね』


「これでも、賃貸は売買より少ないです」


『家具も決めないと』


「まず、持っていくものを確認しましょう」


 中井は紙の中央へ線を引いた。


 左に、陽菜。


 右に、中井。


「大型家具から書き出します」


『あたし、冷蔵庫』


「僕もあります」


『二つ置く?』


「置きません」


『大きい方にしよ』


「陽菜さんの冷蔵庫は、ほとんど空ですよね」


『広いよ』


「僕の方が新しいです」


『じゃあ中井くんの』


 中井の欄へ、丸がつく。


「洗濯機も、僕の方が新しいです」


『あたしのは?』


「処分をお願いしましょう」


『テレビは、あたしの方が大きい』


「では、陽菜さんのものを使いましょう」


『ソファは?』


「僕のものは、二人で座るには小さいです」


『新しく買う?』


「はい」


『机も』


「食事用のものを買いましょう」


 2人で使うもの。


 どちらかが持っていたもの。


 手放すもの。


 新しく選ぶもの。


 一つずつ決めるたび、別々だった暮らしが少しずつ重なっていく。


『ベッドは、中井くんのだよね』


 陽菜が書き加える。


「はい」


『あたしのは処分』


「本当にいいんですか」


『うん。二ついらないから』


「分かりました」


『布団は、あたしのも持っていくよ』


「来客用ですか」


『日高先輩が泊まるかもしれない』


「本人は帰ると言っていましたよね」


『美園さんなら泊まるかも』


「では、残しましょう」


 中井は、布団の横へ丸をつけた。


『あとは服と、写真と、昔の物』


「昔の物?」


『開けてない箱があるの』


「いつからですか」


『何年か前』


「中身は分かりますか」


『多分、Rose girlsの頃の物』


 中井の手が止まる。


「捨てるんですか」


『見てから決める』


「僕も、一緒に見ていいですか」


『見たい?』


「はい」


『格好悪いのも入ってるかもよ』


「それも陽菜さんでしょう」


『昔のあたしでも?』


「はい」


 中井は、迷わず答えた。


「僕が知らなかった頃の陽菜さんも、今の陽菜さんへ繋がっていますから」


 陽菜は、紙へ落としていた視線を上げる。


『中井くん』


「はい」


『そういうこと、急に言うのずるい』


「何がですか」


『あたしだけ照れるじゃん』


「僕も照れています」


『顔、変わってないよ』


「見ないでください」


『見る』


 陽菜は机へ頬杖をつき、中井の顔を覗き込んだ。


「予定を決めましょう」


『逃げた』


「逃げていません」


『じゃあ、もう一回言って』


「何をですか」


『昔のあたしも好きって』


「少し違います」


『違うの?』


「好きではないという意味ではありません」


『じゃあ好きなんだ』


「陽菜さん」


『はいはい。続きやろ』


 陽菜は笑いながら、予定表へ戻った。


 最初に片づけるのは、中井の部屋。


 次に、陽菜の部屋。


 大型家具は引っ越し業者へ依頼し、小さな荷物は自分たちでも運ぶ。


 すべてを決め終えた頃には、日付が変わろうとしていた。


『中井くん』


「はい」


『今日も泊まっていい?』


「明日の着替えは?」


『持ってきた』


「最初から泊まるつもりでしたね」


『昨日、中井くんが荷物増えそうって言ったから』


「答えになっていません」


『新しい家が決まるまでだから』


「分かっています」


『嫌?』


「嫌ではありません」


『じゃあ決まり』


 陽菜は、自分の鞄から歯ブラシを取り出した。


「新しいものを持ってきたんですか」


『前の、捨てちゃったから』


「そうでしたね」


 中井は、洗面所に置かれた自分の歯ブラシを少し横へ動かす。


 その隣に、陽菜の新しい歯ブラシが並んだ。


 数日間だけ空いていた場所が、もう一度埋まる。


 ただし、今度は以前と違う。


 この部屋へ戻ってきたのではない。


 2人で出ていくための準備が、始まっていた。


 次の休日。


 陽菜の部屋には、段ボールが並べられていた。


 美園。


 凛。


 柚希。


 そして中井。


 手伝いに来た4人が、室内を見回している。


「陽菜さん」


 凛が、床に置かれた衣類を見る。


「これで、片づけたあとですか?」


『昨日、少しやったよ』


「どこをですか」


『台所』


 柚希が、台所を見る。


「洗っていないカップがあります」


『それは今朝使ったやつ』


「今日は、中井さんのところから来ましたよね」


『じゃあ、いつのだろ』


「陽菜さん」


 中井の声が僅かに低くなる。


『あとで洗うよ』


「先に洗います」


『片づけ始まらないじゃん』


「これも片づけです」


 中井はカップを持ち、台所へ向かった。


 美園は、段ボールへ貼られた紙を見ている。


『衣類、書類、雑貨』


『ちゃんと分けたよ』


『衣類の箱から鍋が出てるけど』


『本当だ』


『あんた、昔から片づけ方変わらないわね』


『急いでたんだよ』


『昨日から分かってたことでしょ』


『美園さん、萌と同じこと言ってる』


『ああ、歓迎会にいた新人の子?』


『そう。川原萌』


『真面目そうな子だったわね』


『すっごく真面目だよ。今日も引っ越しの手順まとめてくれた』


『その子に来てもらった方が、片づけは進んだんじゃない?』


『美園さんだから呼んだの』


『何で』


『昔の物、一緒に見てほしかったから』


 陽菜の言葉に、美園は僅かに目を細めた。


『そう』


『嫌だった?』


『嫌なら来てない』


 美園は新しい段ボールを開く。


『全部出すわよ。必要な物と捨てる物を分けて』


『全部必要かも』


『壊れた目覚まし時計も?』


『思い出あるかも』


『何の思い出』


『寝坊したとき、投げたら壊れた』


『捨てなさい』


『美園さんが決めてるじゃん』


『残す理由がないでしょ』


 凛と柚希が、顔を見合わせて笑う。


「中村さんは、陽菜さんの扱いに慣れていますね」


『昔から面倒を見てるから』


『あたしが美園さんの面倒見てたんでしょ』


『どの口が言ってるの』


『この口』


『塞ぐわよ』


『怖いって』


 部屋の片づけは、想像以上に時間が掛かった。


 昼を過ぎた頃。


 柚希が、押し入れの奥から黒い箱を見つける。


「陽菜さん。これは?」


 陽菜は、箱を見た瞬間に動きを止めた。


『ああ。それ』


「開けてもいいですか?」


『待って』


 陽菜が箱を受け取る。


 長い間、触れていなかった。


 蓋の上には、薄く埃が積もっている。


 美園は、箱を見ると何も言わず、陽菜の隣へ座った。


「Rose girlsの物ですか」


 中井が尋ねる。


『多分ね』


 陽菜は、ゆっくりと蓋を開ける。


 最初に見えたのは、一枚の写真だった。


 まだ10代だった頃の、樹里。


 陽菜。


 美園。


 3人とも、今より幼い顔をしている。


 それでも、真っ直ぐカメラを見据える目だけは変わっていない。


「日高さん、若いですね」


 柚希が写真を覗き込む。


『あたしたちも若いでしょ』


「陽菜さんは、今とあまり変わりません」


『本当?』


「笑い方が同じです」


 写真の中の陽菜は、樹里の肩へ腕を回し、大きく笑っている。


 美園は少し離れて立ちながら、2人を見るように僅かに口元を緩めていた。


『これ、覚えてる』


 美園が写真を手に取る。


『初めて3人で、県外まで走った帰り』


『そうだっけ』


『あんた、途中で道を間違えたでしょ』


『日高先輩じゃなかった?』


『陽菜よ。自信満々で先頭を走って、知らない港に着いた』


『でも、楽しかったでしょ』


『帰りが夜中になったけどね』


『美園さん、写真だと離れてるね』


 陽菜が写真を覗き込む。


『この頃は、まだあんたたちの隣に並ぶのが苦手だったから』


『何で?』


『総長と副総長の間へ、勝手に入っていいと思ってなかった』


『今は?』


『近すぎてうるさいくらい』


『ひどい』


 口ではそう言いながら、美園は写真から目を離さなかった。


 箱の中には、他にも何枚もの写真が重ねられていた。


 3人だけで撮ったもの。


 バイクを並べ、その前で腕を組んだもの。


 大勢の仲間たちと、夜の駐車場へ集まったときのもの。


 柚希は、その一枚を手に取った。


「この写真、皆さんが写っていますね」


『懐かしい』


 陽菜が、柚希の持つ写真を覗き込む。


 中央には、樹里。


 その両隣に、陽菜と美園。


 周囲には、Rose girlsの特攻服を着た仲間たちが並んでいる。


「陽菜さん」


 柚希が、写真の端を指した。


「ここに写っている人、零ちゃんじゃないですか?」


『零?』


 陽菜が、顔を近づける。


 列の一番端。


 前に出ることを避けるように、他の者の後ろへ半分隠れた小柄な姿がある。


 身体に馴染みきっていない特攻服。


 真っ直ぐカメラを見られず、僅かに横を向いた顔。


『本当だ。零だ』


「小さいですね」


 凛も写真を覗き込む。


『今も大きくはないけどね』


『この頃は、まだ入って間もなかったから』


 美園が言う。


『写真を撮るって言ったら、逃げようとしたのよ』


『そうだったっけ』


『陽菜が捕まえて、列の端へ入れた』


『じゃあ、あたしのおかげで残った写真だ』


『本人は残ってほしくなかったでしょうけどね』


「零ちゃん、特攻服を着ていたんですね」


 柚希が、写真を見つめる。


『Rose girlsだったからね』


「今の零ちゃんからは、少し想像できません」


『今も中身は、あまり変わってないよ』


『口調は変わったけどね』


 美園が答える。


『昔は、今より全然喋らなかった』


「今は、たくさん話してくれます」


 柚希の声が、僅かに柔らかくなる。


「私、零ちゃんの昔のことをほとんど知りませんでした」


『零、自分から話さないもんね』


 陽菜は、柚希の顔を見る。


『その写真、零に送る?』


「いいんですか?」


『いいよ。多分、嫌がるけど』


『嫌がると分かってて送るの?』


 美園が呆れたように言う。


『柚希ちゃんが見つけたんだから、柚希ちゃんから送ってみれば?』


「私からですか?」


『うん』


 柚希は迷いながら、写真をスマートフォンで撮った。


 零とのLINEを開き、短い文章と一緒に送る。


「陽菜さんの引っ越しを手伝っていたら見つけました。端にいるのは、零ちゃんですか?」


 すぐには既読がつかなかった。


 柚希はスマートフォンを伏せ、再び写真を見る。


「この写真も、新しい家へ持っていくんですよね」


『うん。持っていく』


 数分後。


 柚希のスマートフォンが震えた。


 届いた返信を読んだ柚希が、思わず笑う。


『何て来た?』


「何でその写真が残ってるんすか。見なかったことにしてください、だそうです」


『零らしい』


「それから、もう一つ来ました」


『何?』


「陽菜さんに、勝手に人へ見せるなって伝えてほしいっす」


『まだ柚希ちゃんにしか見せてないよ』


『これから見せる気でしょ』


 美園が言う。


『日高先輩にも送ろうかな』


『総長は持ってるんじゃない?』


『同じ写真?』


『確か、全員に一枚ずつ渡したはずよ』


「では、零ちゃんも持っているんですか?」


 凛が尋ねる。


『捨ててなければね』


 美園が答える。


 柚希は、写真の中で半分隠れている零を見る。


 見なかったことにしてほしいと言いながら、写真そのものを消してほしいとは書いていない。


「この写真、私も欲しいです」


『零に聞いてみたら?』


「嫌だと言われそうです」


『でも、聞かずに持つよりいいよ』


「そうですね」


 柚希は、再び零へLINEを送った。


「この写真、私も持っていていいですか?」


 今度は、すぐに既読がつく。


 返事が来るまで、少しだけ時間が掛かった。


「他の人には見せないなら、別にいいっす」


 柚希は、その文章を見て笑った。


「大切にします」


『写真一枚で大げさじゃない?』


「私が知らなかった零ちゃんですから」


 柚希はスマートフォンを胸元へ寄せる。


 写真の中にいるのは、今より幼い零。


 まだ柚希と出会う前。


 樹里や陽菜、美園たちの後ろを走っていた頃の姿だった。


 陽菜は、その写真を黒い箱へ戻さず、別に用意した透明な袋へ入れた。


『これは、すぐ見られるようにしとこ』


『零が嫌がるわよ』


『新しい家に来たとき、見せる』


『もっと嫌がるでしょうね』


 箱の中には、写真のほかにも古い腕章、傷のついたキーホルダー、仲間から渡された手紙が入っていた。


 その底から、一枚の紙が落ちる。


 中井が拾い上げた。


 そこには、陽菜の文字で短い言葉が書かれている。


『総長とみんなが走るなら、あたしも最後まで走る』


 陽菜が、紙を覗き込む。


『こんなの書いたっけ』


『書いたわよ』


 美園が即答した。


『美園さん、覚えてるの?』


『あんたが一人で全部背負おうとしたとき、総長が書かせたの』


『日高先輩が?』


『口で分かったって言っても、信用できないから書けって』


『ひどい』


『その日の夜にも、一人で出ていこうとしたでしょ』


『覚えてないなあ』


『都合の悪いことだけ忘れるのね』


 美園は、陽菜の手から紙を受け取る。


『昔から、あんたはそうだった』


『何が?』


『誰かが困ってたら、自分一人で何とかしようとする』


 陽菜は何も言わなかった。


『総長も止めた。私も止めた。それでも、隙があれば一人で行こうとした』


『心配掛けた?』


『今さら聞く?』


『ごめん』


『謝るなら、もうしないことね』


『うん』


 陽菜は、真っ直ぐに頷いた。


『この前は、ちゃんと助けてって言えたよ』


『聞いた』


『日高先輩から?』


『本人から』


『何て言ってた?』


『陽菜がようやく人を頼ったって』


『褒めてた?』


『少しね』


『少しなんだ』


『十分でしょ』


 美園は、紙を陽菜へ返した。


『これは、持っていきなさい』


『うん』


『昔の約束だけど、今のあんたにも必要でしょ』


 陽菜は、紙に書かれた自分の文字を見る。


 かつては、仲間と最後まで走ることを約束させられた。


 今は、チーム櫻井モデルの仲間がいる。


 そして、これから同じ家へ帰る中井がいる。


 もう、一人で走る必要はない。


 陽菜は、写真と紙を重ねた。


『持っていく』


「はい」


 中井も頷く。


 そのとき、衣類を整理していた凛がクローゼットの奥で手を止めた。


「陽菜さん」


『何?』


「こちらに掛かっているものは、どうしますか」


 クローゼットの隅。


 他の衣類から離すように、一着だけ長い衣類カバーへ包まれたものが掛けられている。


 陽菜は立ち上がり、そこへ向かった。


『それも持っていく』


 ハンガーごと取り出し、衣類カバーを開く。


 中から現れたのは、陽菜の特攻服だった。


 以前の引っ越しでこの部屋へ来たとき、処分できずにクローゼットの隅へ掛けたもの。


 それから一度も袖を通していない。


 それでも、皺がつかないよう丁寧に保管されていた。


「これが、陽菜さんの」


 凛が息を呑む。


「背中、見てもいいですか?」


『うん』


 陽菜が、特攻服を裏返す。


 背中には、Rose girlsの文字。


 かつて副総長として走っていた頃の、自分そのものだった。


「着てみてください」


 柚希が言う。


『今?』


「はい」


『片づけ中だよ』


『あんたが言うのね』


 美園が呆れたように言った。


『じゃあ、美園さんも着る?』


『持ってきてない』


『今度、3人で着ようよ』


『樹里が嫌がるでしょ』


『日高先輩、なんだかんだ着るよ』


『否定はできないわね』


「写真を撮らせてください」


 柚希が言う。


『見世物じゃないよ』


『陽菜は見世物でいいでしょ』


『美園さん』


 陽菜は笑いながら、特攻服の肩へ手を添える。


 何年もクローゼットの隅にあったもの。


 今の仕事にも、新しい暮らしにも必要はない。


 それでも、捨てるという選択は浮かばなかった。


「新しい家にも、掛けるんですか」


 中井が尋ねる。


『うん』


「分かりました」


『邪魔じゃない?』


「陽菜さんの大切なものですよね」


『昔の服だよ』


「それでも、陽菜さんがそこにいた証拠です」


 中井は、特攻服を真っ直ぐに見る。


「新しい家にも、持っていきましょう」


『中井くん』


「はい」


『そういうこと言われると、また好きになる』


「今も好きでいてください」


『今よりもっとってこと』


 中井は何も答えず、特攻服を入れるための衣装箱を用意した。


 陽菜は衣類カバーを戻し、丁寧に特攻服を畳む。


 黒い箱に入っていた写真や腕章、手紙。


 そして、クローゼットの隅に掛かっていた特攻服。


 すべてを同じ段ボールへ収める。


『新しい家に、置いてもいい?』


「もちろんです」


『中井くんの物じゃないよ』


「二人の家だからといって、すべてを共有する必要はありません」


『そうなの?』


「陽菜さんの大切なものを、陽菜さんが置ける家でもあります」


『じゃあ、中井くんの大事なものも全部持ってきてね』


「はい」


『あたしに見せたくないものも?』


 中井の表情が、一瞬だけ固まる。


 自分の部屋の引き出しに隠している、小さな箱。


 引っ越しの準備が始まってからは、陽菜に見つからないよう仕事用の鞄へ移していた。


『何かあるんだ』


「ありません」


『今、絶対考えた』


「考えていません」


『元彼女からの手紙?』


「ありません」


『恥ずかしい写真?』


「違います」


『じゃあ何?』


「今は言えません」


 凛と柚希が顔を見合わせる。


 美園は、中井を一度だけ見た。


 その表情に、何かを察したような色が浮かぶ。


 だが、何も言わなかった。


『あたしへのプレゼント?』


「陽菜さん」


『当たった?』


「今は、片づけを続けましょう」


『怪しい』


 陽菜は、中井の顔をじっと見つめる。


 中井は視線を逸らさなかった。


 嘘をついている顔ではない。


 ただ、まだ話せない何かを持っている。


『分かった』


 陽菜は、それ以上聞かなかった。


「聞かないんですか」


 柚希が驚く。


『中井くんが言えないって言うなら、待つ』


「気になりませんか?」


『気になるよ』


 陽菜は笑う。


『でも、一緒に暮らしたら何でも勝手に見ていいわけじゃないでしょ』


 中井の目が、僅かに開く。


『成長したじゃない』


 美園が言った。


『でしょ?』


『今のところはね』


『ちゃんと褒めてよ』


『中井くん』


 美園は、陽菜ではなく中井へ顔を向ける。


『その秘密、隠すなら最後まで隠しなさい。この子、気になったらすぐ探すから』


『探さないよ』


『昔、総長が隠した誕生日プレゼントを、当日の朝に見つけたでしょ』


『あれは偶然』


『押し入れの一番上まで偶然見るの?』


『何かある気がしたから』


「陽菜さん」


『今回は探さないって』


「信じます」


『中井くん、今あたしのこともっと好きになったでしょ』


「皆さんの前で聞かないでください」


『なったんだ』


「片づけましょう」


 中井は立ち上がり、空の段ボールを取りに行った。


 その耳が赤くなっている。


 柚希は笑いを堪え、凛は陽菜へ小さく親指を立てた。


『陽菜』


 美園が呼ぶ。


『何?』


『その箱は、私が詰める』


『美園さんが?』


『あんたに任せたら、また鍋と一緒に入れるでしょ』


『入れないよ』


『信用できない』


 美園は、Rose girlsの品を一つずつ箱へ戻した。


 写真。


 紙。


 腕章。


 手紙。


 最後に、衣類カバーへ戻した陽菜の特攻服を重ねる。


 陽菜は新しい段ボールを用意し、側面へ文字を書いた。


『大事な物』


 美園は、その文字を見る。


『字、変わってないわね』


『美園さんも書く?』


『これは陽菜の物でしょ』


『美園さんとの思い出も入ってるよ』


 美園は僅かに黙った。


 それから、陽菜が書いた文字の下へ、小さく一言だけ加える。


『取扱注意』


『物みたい』


『雑に扱うなって意味よ』


 陽菜は、その文字を見て笑った。


 段ボールの中に入ったものは、陽菜一人の過去ではない。


 樹里と走った日々。


 美園と並んだ時間。


 零や、多くの仲間たちと繋がった記憶。


 それらもまた、新しい家へ運ばれていく。


 その日の夕方には、部屋のほとんどが片づいた。


『これなら、引っ越し日に間に合うわね』


 美園が、並んだ段ボールを確認する。


『みんな、ありがとう』


「食事を奢ってください」


 凛が言った。


『もちろん。何食べたい?』


「焼き肉」


 柚希が即答する。


『高いやつ?』


「手伝った人数分です」


『分かったよ。引っ越し終わったら、みんなで行こ』


『総長も呼ぶんでしょ』


 美園が尋ねる。


『うん。日高先輩にも、引っ越し手伝ってもらおうかな』


『やめた方がいいわよ』


『何で?』


『あの子が来たら、あんたの荷物が半分になる』


『やっぱり?』


『私より容赦ないから』


 全員が笑った。


 契約日。


 陽菜と中井は、東支店の応接室へ並んで座っていた。


 重要事項の説明を受け、契約書を確認する。


 勤務先。


 収入。


 緊急時の連絡先。


 入居する2人の氏名。


 何度も確認し、署名する。


 最後に、担当者が小さなトレイを机へ置いた。


「こちらが、お部屋の鍵です」


 銀色の鍵が、二本。


 同じ形で並んでいる。


「本日から、入室していただけます」


『もう入っていいんですか?』


「はい。ガスの開栓は予約された日時からですが、電気と水道は使用できます」


『じゃあ、帰りに行こう』


 陽菜は中井を見る。


「荷物はありませんよ」


『何もなくてもいいじゃん』


 担当者が、二本の鍵を差し出す。


 中井はそのうち一本を取り、陽菜へ渡そうとした。


 だが、陽菜は首を横に振った。


『中井くんが選んで』


「どちらも同じです」


『じゃあ、あたしが中井くんの選ぶ』


「余計に分かりません」


『早く』


 中井は困りながら、右側の鍵を取った。


 陽菜は、残った左側の鍵へ手を伸ばす。


 同じ部屋を開ける、二本の鍵。


 一本は、中井の手に。


 もう一本は、陽菜の手に収まった。


『中井くん』


「はい」


『今までの鍵、返すね』


 陽菜は鞄から、中井の部屋の合鍵を取り出した。


 以前、一緒に暮らすために渡されたもの。


 期間が終わっても、陽菜は返さずに持っていた。


「もう、要りませんか」


『うん』


 中井が、僅かに寂しそうな顔をする。


 陽菜はその手へ、古い鍵を握らせた。


『こっちがあるから』


 自分の手にある、新しい鍵を見せる。


『今度は、中井くんの部屋に入る鍵じゃない』


「はい」


『二人で帰る鍵』


 中井は、古い鍵を大切そうに受け取った。


「今まで、ありがとうございました」


『鍵に言ってるの?』


「陽菜さんが、僕の部屋へ来てくれた鍵ですから」


『じゃあ捨てないでね』


「残しておきます」


『あたしが預かろうか?』


「返したばかりですよね」


『記念に』


「僕が持っています」


『分かった』


 契約を終えた2人は、そのまま新しい部屋へ向かった。


 玄関の前。


 陽菜と中井は、それぞれ自分の鍵を持っている。


『どっちが開ける?』


「陽菜さんがどうぞ」


『一緒にやろ』


「鍵穴は一つです」


『じゃんけん』


「そこまで決めることですか」


『最初だよ』


「分かりました」


 廊下で、2人が拳を出す。


『じゃんけん、ぽん』


 陽菜がグー。


 中井がパーを出した。


『中井くんの勝ち』


「では、僕が開けます」


『何で? 負けた方じゃないの?』


「決めていませんでしたよね」


『もう一回』


「僕が開けます」


 中井が鍵を差し込む。


 ゆっくりと回すと、扉の向こうで錠の外れる音がした。


「開きました」


『うん』


 中井が扉を開ける。


 何もない玄関。


 照明も、家具も、生活の音もない。


 陽菜は一歩、中へ入った。


『ただいま』


 中井が、その背中へ答える。


「おかえりなさい」


 陽菜は振り返った。


『中井くんも言って』


「何をですか」


『ただいま』


 中井も、玄関へ入る。


「ただいま」


『おかえり』


 たった二人。


 何もない部屋。


 それでも、そこには初めて、二つの声が残った。


 どちらか一方だけが迎えるのではない。


 帰る者も。


 待つ者も。


 これからは、その日ごとに入れ替わる。


 陽菜は新しい鍵を、手のひらで強く握った。


 二本の鍵は、同じ扉を開く。


 そして今日から。


 その扉の向こうが、2人の家になった。

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