256話「帰りたい部屋」
翌朝。
陽菜は、中井の部屋で目を覚ました。
見慣れた天井。
隣から聞こえる、静かな寝息。
自分の部屋へ戻っていた数日間にはなかった温もりが、すぐそばにある。
陽菜は横を向き、中井の寝顔を見つめた。
『やっぱり、こっちの方が眠れる』
「……起きていたんですか」
目を閉じたまま、中井が答える。
『起こした?』
「少し前から起きています」
『じゃあ何で寝たふりしてたの』
「陽菜さんが、ずっと僕の顔を見ていたので」
『気づいてたんだ』
「はい」
『恥ずかしかった?』
「かなり」
中井が目を開く。
陽菜は枕へ頬をつけたまま、嬉しそうに笑っていた。
「陽菜さんは、恥ずかしくないんですか」
『中井くんの寝顔を見るの?』
「それもですけど、今の状況もです」
『今の状況って?』
「昨日、二人の家を探そうと決めたばかりなのに、そのまま泊まったことです」
『だって遅くなったし』
「着替えも持っていませんでしたよね」
『中井くんの借りればいいと思って』
「最初から帰るつもりがなかったのでは?」
『少しだけ』
「やっぱり」
中井は小さく息を吐く。
陽菜は、以前この部屋へ置いていた部屋着を着ている。
自分の部屋へ戻るとき、ほとんどの荷物を持ち帰ったはずだった。
それでも引き出しの奥には、陽菜が忘れていた服が一組だけ残っていた。
『でも、今日からまた住むわけじゃないよ』
「違うんですか」
『うん』
陽菜は身体を起こす。
『新しい家が決まるまでは、ちゃんと自分の部屋にも帰る』
「ここへ来ることもありますか」
『来るよ』
「どちらなんですか」
『行ったり来たりする』
「荷物が増えそうですね」
『また服置いていい?』
「構いません」
『歯ブラシも?』
「はい」
『化粧品も』
「全部置くつもりではありませんか」
『半分くらい』
「それは、ほとんど戻ってきています」
陽菜は笑いながら、ベッドから下りた。
『でも、今度は違うから』
「何がですか」
『ここに置いてもらうのは、新しい家が決まるまで』
昨夜までは、期限のない未来を決めた。
だが、それを理由に中井の部屋へ居つくつもりはない。
どちらかが、もう一人の生活へ入れてもらうのではなく。
2人で選び、2人で始める。
陽菜は、その違いだけは曖昧にしたくなかった。
『早く見つけようね』
「はい」
『今日、仕事終わったら探せる?』
「今日もですか」
『昨日は条件を書いただけじゃん』
「今夜も探すんですね」
『いい家は、待ってくれないよ』
「不動産会社の社員らしい言葉ですね」
『でしょ?』
「昨日まで、家賃の相場も確認していませんでしたけど」
『それは中井くんに任せる』
「任せないでください。一緒に選ぶんですよね」
『はい』
陽菜は素直に返事をした。
出勤後。
午前中の仕事を終えた陽菜は、休憩時間になるとすぐに中井の席へ向かった。
『中井くん』
「はい」
『物件、見た?』
「昼休みに確認しようと思っていました」
『あたし、もう3件見つけた』
「仕事中に探したんですか」
『移動中の電車で』
「見せてもらえますか」
陽菜は自分のスマートフォンを差し出す。
中井が、一つ目の物件情報を開いた。
「駅から徒歩8分。2LDK。広さも十分ですね」
『いいでしょ』
「バイク置き場がありません」
『近くに借りればいいよ』
「昨夜、絶対条件だと言っていましたよね」
『そうだった』
二つ目を開く。
「バイク置き場はあります。ただ、ここから会社まで1時間以上掛かります」
『ちょっと遠いね』
「それから、定期借家契約です」
『本当だ』
「確認していなかったんですか」
『写真は見た』
「陽菜さん」
三つ目。
中井は、画面を見たまま黙った。
『これはいいでしょ』
「間取りはいいと思います」
『お風呂も広いよ』
「家賃が、昨夜決めた上限を4万円超えています」
『2人で出せば、2万円ずつだよ』
「そういう計算ではありません」
『違うの?』
「違いませんけど、毎月です」
『残業すれば』
「残業を前提に家を選ばないでください」
『難しいなあ』
中井は、3件の画面を閉じた。
「写真の雰囲気だけで選んでいませんか」
『だって、一緒に暮らす家だよ。見た目も大事じゃん』
「大事です。でも、契約条件も確認してください」
『中井くん、厳しい』
「お客さんにも同じ説明をしているでしょう」
『自分の家だと、欲しい方が先に来ちゃう』
「分からなくはありません」
中井は、自分で見つけた物件情報を開いた。
「僕も、候補を4件に絞りました」
『もう探してるじゃん』
「朝の電車で見ました」
『あたしには仕事中に探したのかって言ったのに』
「移動中なら問題ありません」
『同じじゃん』
陽菜は中井のスマートフォンを覗き込んだ。
一件目。
会社まで電車で30分。
築年数は少し経っているが、室内は改装されている。
2LDK。
家賃も、決めた範囲に収まっていた。
『いいじゃん』
「ただし、バイク置き場が空いているかは確認が必要です」
『次は?』
二件目は、新築に近い物件だった。
駅からも近く、設備も整っている。
『これ、綺麗』
「収納が少ないです」
『服、そんなにないよ』
「陽菜さんの荷物を、僕の部屋へ運んだときのことを覚えていますか」
『あれは多く見えただけ』
「段ボールが9箱ありました」
『中井くんだって本いっぱい持ってるじゃん』
「だから、収納が必要です」
『じゃあ駄目だね』
中井が三件目を見せる。
陽菜は画面を見た瞬間、首を横へ傾けた。
『間取り、変じゃない?』
「はい。廊下が長すぎます」
『部屋より廊下が広そう』
「そこまでではありません」
『でも、あたしが朝寝坊したら、玄関まで遠いよ』
「寝坊しないでください」
『毎日起こして』
「家を選ぶ条件へ、僕を入れないでください」
『中井くんと住むんだから入るでしょ』
中井は答えに詰まり、画面を次へ送った。
四件目。
建物の外観を見た陽菜が、少し身を乗り出す。
『ここ、どこ?』
「会社とモデルハウスの、ちょうど中間くらいです」
『駅からは?』
「徒歩12分です」
『ちょっと遠いね』
「陽菜さんなら、歩けますよね」
『歩けるけど、雨の日が嫌』
「バス停は近くにあります」
『バイク置き場は?』
「屋根つきです。大型も相談可能と書いてあります」
『お風呂』
「追い焚き機能つきです」
『キッチン』
「広さは十分だと思います」
『家賃』
「予算内です」
『すごい』
陽菜は、室内写真を一枚ずつ送った。
明るい居間。
対面式の台所。
寝室にできそうな洋室。
その隣に、少し小さな部屋がある。
『この部屋、何に使う?』
「仕事部屋でしょうか」
『二人とも同じ日に仕事持ち帰ったら?』
「居間も使えます」
『あとは、物置』
「それでは部屋がもったいないです」
『お客さん来たときに泊まってもらえるよ』
「誰が来るんですか」
『日高先輩とか、美園さんとか、零とか』
「皆さん、突然来そうですね」
『凛ちゃんと柚希ちゃんも来るかも』
「それなら、片づけておかないといけませんね」
『あたしたちの家、みんな来るかな』
「まだ決まっていません」
『決まったら来るよ』
陽菜は、もうそこに暮らしているかのように笑った。
その声を聞きつけ、柚希が隣の席から顔を上げる。
「何が決まったら、ですか?」
『あっ』
陽菜が口を閉じる。
少し遅かった。
凛も資料を置き、こちらを見ている。
「もしかして、昨日話していたことですか?」
『まだ秘密』
「今、“あたしたちの家”と言いましたよね」
柚希が立ち上がる。
「陽菜さん、中井さんと家を買うんですか?」
『買わないよ。借りるの』
陽菜は即答した。
中井が、隣で目を閉じる。
「陽菜さん」
『何?』
「秘密だったのでは?」
『家を買うって誤解されたから』
「否定するところは、そこではないと思います」
「一緒に暮らすんですか?」
凛の問いに、陽菜は頷いた。
『うん。二人の家を探すことにした』
「やっぱり!」
柚希が声を上げる。
営業部に残っていた者たちが、一斉にこちらを見る。
「早川。声が大きい」
黒澤が奥から注意する。
「すみません」
柚希は声を落とした。
「でも、陽菜さんと中井さんが一緒に暮らすそうです」
「何で部長にまで報告するの」
中井が困ったように止める。
黒澤は、2人を一度だけ見た。
「仕事へ影響を出すなよ」
『それだけですか?』
「何を言ってほしいんだ」
『おめでとうとか』
「物件も決まっていないんだろ」
『はい』
「決まってから言え」
『じゃあ、決まったら言ってくださいね』
「仕事へ戻れ」
『はーい』
陽菜が素直に席へ戻ろうとすると、萌が資料を持って近づいてきた。
「櫻井さん」
『萌まで聞いてた?』
「営業部中に聞こえていました」
『柚希ちゃんのせいだよ』
「陽菜さんが話したんですよ」
柚希が反論する。
「引っ越しは、いつの予定ですか」
萌が尋ねた。
『家が決まったら、すぐ』
「両方の部屋の解約予告は確認しましたか」
『まだ』
「家具は、どちらのものを使うんですか」
『まだ決めてない』
「大型家具の寸法は測りましたか」
『それもまだ』
「引っ越し業者の繁忙期です。3月中に動くなら、早めに確認した方がいいです」
『萌』
「はい」
『一緒に住む?』
「なぜですか」
『全部決めてくれそうだから』
「二人で決めてください」
『ですよね』
萌は中井のスマートフォンへ表示された物件を見る。
「候補は、ここですか」
「まだ一つ目です」
中井が答える。
「条件には、一番近いと思います」
「内見はできますか」
「空室なので可能です」
「なら、早めに行った方がいいと思います。条件のいい物件は、先に申込みが入る可能性があります」
『今日行けるかな』
「今日は担当者の都合がつかないと思います」
「管理しているのは、東支店ですね」
萌が物件情報を確認する。
「明日の午前中なら、担当者の予定が空いています」
『何で分かるの?』
「先ほど、別件で東支店の予定表を見ていました」
『じゃあ予約する』
「私ではなく、中井さんと相談してください」
『中井くん、明日行こ』
「僕は大丈夫です」
「櫻井さん。明日の午後は、先日のご家族の予約があります」
『覚えてるよ。午前中に見て、午後はモデルハウスへ行く』
「移動時間には余裕を持ってください」
『はい』
萌はそれ以上口を出さず、自分の席へ戻った。
入れ替わるように、樹里が陽菜の前へ立つ。
『櫻井さん』
『日高先輩も聞いてました?』
『聞こえていました』
『一緒に住むことにしました』
『そうですか』
『反応薄くないですか?』
『以前も一緒に暮らしていたでしょう』
『今度は、期間限定じゃないですよ』
樹里の目が僅かに動く。
『ずっと?』
『うん』
陽菜は笑って答えた。
『二人で帰る家にする』
樹里は少しだけ黙った。
それから、中井へ顔を向ける。
『中井さん』
「はい」
『櫻井さんは、写真だけを見て物件を決めようとします』
『何で分かるんですか』
『昔からそういう性格だからです』
「気をつけます」
『日高先輩』
『ですが』
樹里は陽菜を見る。
『条件ばかり見ていると、この人は途中で飽きます』
「それも、何となく分かります」
『二人とも、あたしの扱いひどくないですか?』
『実際に部屋へ立ったとき、二人がそこで暮らしている姿を想像できるか。それも見てください』
樹里の言葉に、中井が頷いた。
「分かりました」
『日高先輩は、どんな家がいいと思います?』
『私が暮らすわけではありません』
『でも、日高先輩にも来てほしい』
『呼ばれれば行きます』
『泊まってもいいですよ』
『帰ります』
『まだ家も見てないのに』
『最初から泊まる理由がありません』
樹里は、僅かに口元を緩めた。
『決まったら、教えてください』
『うん』
『今度こそ、二人で決めてください』
『今度こそ?』
『何でもありません』
樹里は自分の席へ戻った。
翌日の午前。
陽菜と中井は、候補に選んだ物件の前に立っていた。
7階建ての賃貸マンション。
築年数は新しくないが、外壁は整備され、共用部分も綺麗に保たれている。
東支店の担当者が、鍵を取り出した。
「お待たせしました。事前に確認しましたが、バイク置き場は1区画空いています。大型でも問題ありません」
『本当ですか?』
「はい。ただし、月額使用料が掛かります」
『それくらいなら大丈夫』
陽菜は、中井より先にバイク置き場へ向かった。
屋根があり、地面も舗装されている。
通路の幅も十分だった。
『中井くん。ここならGS置けるよ』
「はい。出し入れもしやすそうですね」
『もうここでいいかも』
「まだ部屋を見ていません」
『バイク置けるの大事じゃん』
「絶対条件ですけど、それだけで決めないでください」
担当者が笑いを堪えながら、2人を建物内へ案内する。
部屋は4階だった。
玄関を開ける。
改装されたばかりの室内には、まだ新しい壁紙の匂いが残っていた。
『広い』
陽菜が最初に入る。
「靴を脱いでください」
『分かってるよ』
廊下を抜けると、写真で見た居間へ出た。
南向きの窓から、午前の光が差し込んでいる。
陽菜は部屋の中央まで進み、ゆっくりと周囲を見回した。
何も置かれていない空間。
まだ、誰の暮らしもない。
『ここに、机置けるね』
「窓の近くですか」
『うん。二人でご飯食べるやつ』
「今使っているものでは、小さくありませんか」
『じゃあ一緒に買おう』
「そうですね」
『ソファは、あっち』
「テレビとの距離も取れますね」
『中井くん、帰ってきたらどこ座る?』
「まだ家具もありませんよ」
『想像するの』
陽菜は居間の隅を指す。
『あたしは、ここ』
「床ですか」
『ソファ置くの』
「僕もソファに座ります」
『隣?』
「そのためのソファですよね」
『よかった』
陽菜は次に、台所へ入った。
対面式の台所からは、居間全体が見渡せる。
中井が収納を開け、水回りを確認する。
「作業する場所は十分あります」
『料理しながら話せるね』
「陽菜さんも、こちら側に立つんですよ」
『あたしは向こうで応援する』
「一緒に作る約束です」
『覚えてたんだ』
「忘れません」
『じゃあ、あたしが切る係』
「何をですか」
『できるもの』
「少しずつ増やしましょう」
『中井くん、先生みたい』
洗面所。
浴室。
収納。
陽菜は、扉を一つずつ開けていく。
『お風呂、今の部屋より広い』
「足を伸ばせそうですね」
『一緒に入れる?』
担当者が、少し離れた場所で視線を逸らした。
「陽菜さん」
『何?』
「今は内見中です」
『広さを確認しただけじゃん』
「別の言い方があったと思います」
『入れそうだね』
「言い直さなくていいです」
陽菜は笑いながら、寝室にできる洋室へ移る。
窓を開けると、住宅街の向こうに空が見えた。
大きな道路から離れているため、音もそれほど気にならない。
『ベッド、置けるかな』
「今のものなら置けます」
『どっちの?』
「僕のです」
『あたしのもあるよ』
「二つは置けません」
『じゃあ、中井くんの』
「陽菜さんのベッドは、どうしますか」
『捨てる』
「簡単に決めますね」
『二つ使わないでしょ』
担当者が、再び視線を逸らす。
中井は顔を赤くしながら、窓の寸法を測り始めた。
『中井くん』
「何ですか」
『照れてる?』
「陽菜さんのせいです」
『担当の人も、あたしたちが一緒に住むの知ってるよ』
「知っていても、言わなくていいことがあります」
『まだ何も言ってないじゃん』
「十分です」
陽菜は最後に、隣の小さな洋室へ入った。
居間や寝室と比べると狭い。
それでも、机と棚を置くには足りる。
『ここ、仕事部屋にする?』
「そうですね。二人分の机は難しそうですが」
『交代で使えばいいよ』
「仕事を持ち帰らないのが、一番です」
『それがいいね』
陽菜は、部屋の奥にある窓へ近づく。
そこからも、穏やかな光が入っていた。
まだ使い道の決まっていない部屋。
今すぐ必要なものはない。
それでも、空いたままの場所が一つあることを、陽菜は不思議と気に入った。
「陽菜さん」
中井が入口から呼ぶ。
「どうですか」
『いいと思う』
「早くありませんか」
『全部見たよ』
「床の傾きや、窓の建てつけも確認します」
『そういう意味じゃなくて』
陽菜は窓から離れ、中井の前へ立った。
『ここなら、帰ってきたいって思う』
中井は、陽菜の表情を見る。
写真を見ていたときの、弾むような笑顔とは違う。
静かで、迷いのない顔だった。
『玄関開けて、ただいまって言って』
陽菜は、居間の方へ目を向ける。
『中井くんがおかえりって言ってくれるの、想像できた』
樹里に言われたからではない。
この部屋へ入った瞬間から、陽菜には少しずつ見え始めていた。
2人で選ぶ机。
台所へ立つ中井。
その横で、慣れない手つきで包丁を持つ自分。
仕事から帰り、同じ部屋で一日を話す夜。
どちらかが早く家を出る朝。
喧嘩をする日もあるかもしれない。
疲れて、何も話せない日もある。
それでも、最後には同じ場所へ帰ってくる。
「僕も、想像できました」
中井が答えた。
『本当?』
「はい」
『じゃあ、ここにする?』
「一度座って、条件を確認してからです」
『まだ確認するの?』
「申込み前の大事な確認です」
『分かった』
陽菜は素直に頷いた。
2人は居間の床へ並んで座る。
担当者から渡された資料を広げ、初期費用、管理費、更新条件、解約予告の期間を一つずつ確認する。
陽菜も、今度は写真だけを見なかった。
『バイク置き場を入れても、予算内だね』
「はい」
『会社までの時間も大丈夫』
「モデルハウスへは、陽菜さんの今の部屋より近くなります」
『スーパーは?』
「駅からの途中にあります」
『中井くん、一人で買い物行けるね』
「二人で行きます」
『荷物持ってくれる?』
「陽菜さんも持ってください」
『じゃあ半分』
「はい」
陽菜は資料の最後まで目を通す。
『大丈夫だと思う』
「僕もです」
中井は担当者へ顔を向けた。
「申込みをお願いします」
「承知しました」
担当者が書類を取り出す。
陽菜は、差し出された申込書を見る。
契約者。
入居者。
緊急連絡先。
いくつもの欄が並んでいる。
『あたしたちがお客さんになるの、変な感じ』
「普段は、書いていただく側ですからね」
『今なら、お客さんが何回も同じ名前書くの面倒って言う気持ち分かる』
「省略しないでください」
『分かってるよ』
2人で相談しながら、必要な欄を埋めていく。
一枚の用紙に、中井の名前と陽菜の名前が並ぶ。
まだ、名字は違う。
今は、同居人という関係になる。
それでも陽菜には、その並びが嬉しかった。
『中井くん』
「はい」
『写真撮っていい?』
「申込書をですか」
『名前が並んでるから』
「個人情報です。やめてください」
『自分たちのじゃん』
「紛失したら困ります」
『じゃあ、目に焼きつけとく』
陽菜は、書類をじっと見つめる。
「そこまで見なくても消えません」
『だって、嬉しいんだもん』
中井は、ペンを持ったまま黙った。
『中井くんも嬉しい?』
「はい」
『どれくらい?』
「かなりです」
『かなりなんだ』
「陽菜さんと同じです」
担当者の前だということを忘れたように、2人は笑い合う。
審査がある。
契約も、引っ越しの準備も残っている。
家具を選び、荷物を運び、それぞれの部屋を引き払わなければならない。
ここはまだ、2人の家ではない。
だが、帰り際。
玄関から出ようとした陽菜は、もう一度だけ振り返った。
何もない居間。
何も置かれていない台所。
使い道の決まっていない、小さな部屋。
そのすべてが、これから2人で埋めていく場所だった。
『また来るね』
「陽菜さん」
『部屋に言ったの』
「まだ審査前です」
『分かってるよ』
陽菜は扉を閉める。
鍵は、まだ担当者の手にある。
それでも次にこの扉を開けるときは。
誰かの部屋へ入るためではなく、2人で帰るためになる。
陽菜は中井の手を取った。
『早く帰ってきたいね』
「はい」
まだ暮らしていない部屋へ向けた言葉に、中井も迷わず頷いた。




