255話「二人の家」
自分の部屋へ戻って、3日が経った。
陽菜は、仕事を終えて玄関の扉を開ける。
『ただいまー』
返事はない。
当然だった。
靴を脱ぎ、照明をつける。
朝に脱いだ上着は、椅子の背へ掛かったまま。
洗っていないカップも、流しに残っている。
中井の部屋にいたときは、帰宅すれば明かりがついていた。
先に帰った中井が夕食を作っていることもあれば、陽菜が買って帰った弁当を2人で食べることもあった。
互いに帰りが遅い日は、駅で待ち合わせた。
どちらかが疲れていれば、もう一人が風呂を沸かした。
それが特別なことだとは、思っていなかった。
チーム櫻井モデルの仕事が終われば、陽菜は自分の部屋へ戻る。
最初から、そういう約束だった。
『静かだなあ』
陽菜は誰もいない部屋へ話し掛ける。
返事がないことを確認してから、持っていた袋を机へ置いた。
中には、2人分の総菜が入っている。
売り場で見たとき、何も考えずに2つずつ取っていた。
『またやった』
昨日も、プリンを2つ買った。
一昨日は、弁当と一緒に中井が好きな缶コーヒーまで買っている。
陽菜は総菜を一つずつ冷蔵庫へ入れた。
その中には、食べきれずに残したものが並んでいる。
『明日から、ちゃんと一人分だけ買おう』
そう宣言してみる。
やはり、返事はなかった。
陽菜はスマートフォンを手に取る。
中井とのLINEを開く。
最後に送ったのは、1時間前。
『今から帰るね』
中井からは、すぐに返信があった。
「気をつけて帰ってください」
その前には、昼休みに食べた定食の写真を送っている。
さらに遡れば、朝は駅に着いたという報告。
昨夜は、眠る前に電話をした。
別々に暮らしていた頃も、LINEは毎日していた。
だが、一緒に暮らしたあとの一人は、以前の一人とは違っていた。
陽菜は新しい文章を打つ。
『帰ったよ』
送信してから、数秒で既読がついた。
「おかえりなさい。夕食は食べましたか」
『今から』
「何を食べるんですか」
陽菜は、机の上へ残した総菜を撮る。
『二人分買っちゃった』
「昨日も買っていませんでしたか」
『昨日はプリン』
「一人で二つ食べたんですか」
『一個残ってる』
「今日の総菜も、明日食べられますか」
『多分』
「消費期限を確認してください」
『中井くん、お母さんみたい』
「それは、この前も言われました」
『じゃあ、お父さん』
「どちらでもありません」
陽菜は笑った。
文字だけでも、中井の困った顔が浮かぶ。
『中井くんは、ご飯食べた?』
「はい」
『何食べたの』
「焼き魚と味噌汁です」
『ちゃんとしてる』
「陽菜さんも、ちゃんと食べてください」
『一人だと面倒なんだよね』
送ってから、陽菜は画面を見つめた。
中井からの返信が、少しだけ遅れる。
「電話しますか」
今度は陽菜がすぐに答えた。
『する』
数秒後、着信音が鳴る。
『もしもし』
「お疲れさまです」
『中井くんも、お疲れさま』
「声に元気がありませんね」
『そう?』
「はい」
『お腹すいてるからかな』
「先に食べますか」
『電話しながら食べる』
「行儀が悪いですよ」
『一人なんだからいいじゃん』
「僕が聞いています」
『じゃあ、一人じゃないね』
陽菜は総菜の蓋を開ける。
中井は何も言わなかった。
『中井くん?』
「はい」
『どうしたの』
「僕も、同じことを考えていました」
『同じこと?』
「電話が繋がっているだけで、一人ではない気がします」
陽菜は箸を止めた。
『寂しい?』
「少しだけ」
『少しだけなんだ』
「かなり寂しいです」
『言い直した』
「陽菜さんは?」
『あたしは、すっごく寂しい』
迷わず答える。
電話の向こうで、中井が息を呑んだ。
『何で黙るの』
「そこまで真っ直ぐ言われると思わなかったので」
『だって本当だもん』
「僕もです」
『じゃあ今から行っていい?』
「もう遅いです。明日も仕事があります」
『中井くんの方が先に寂しいって言ったのに』
「だからこそです。来てもらったら、帰せなくなります」
『帰らなくていいじゃん』
「陽菜さん」
『冗談だよ』
「今のは、あまり冗談に聞こえませんでした」
陽菜自身も、冗談だけで言ったわけではなかった。
今から中井の部屋へ行き、以前と同じように一緒に眠る。
それだけなら、すぐにできる。
合鍵も、まだ陽菜の手元にある。
だが、それでは自分の部屋へ戻った意味がなくなる。
必要になったから、中井の部屋へ泊まる。
寂しくなったから、また戻る。
陽菜が望んでいるのは、その繰り返しではなかった。
『中井くん』
「はい」
『明日、仕事が終わったら時間ある?』
「あります」
『話したいことがある』
「電話では駄目ですか」
『顔見て言いたい』
「分かりました」
『怖い?』
「少し」
『何で?』
「顔を見て話したいと言われると、身構えます」
『別れ話かもよ』
「陽菜さん」
『ごめん、ごめん。違うから』
「本当にやめてください」
いつもより強い声だった。
陽菜は申し訳なく思いながらも、少しだけ嬉しくなる。
『明日、駅前で待ってるね』
「僕が迎えに行きます」
『じゃあ、会社の前』
「分かりました」
『おやすみ、中井くん』
「まだ夕食の途中ですよね」
『食べたら寝る』
「片づけもしてください」
『やっぱりお母さんだ』
「陽菜さん」
『分かってるって』
通話を終えたあとも、部屋は静かだった。
それでも、先ほどまでとは少し違う。
陽菜は残りの総菜を食べ、容器を片づけた。
明日伝える言葉を、頭の中で何度も並べ直す。
翌日。
営業部では、大抽選会で獲得した相談予約への対応が始まっていた。
「櫻井さん。明日の予約ですが、午前が2件、午後が1件です」
萌が予定表を持ってくる。
『分かった。午後の人は、この前最後に来た家族だよね』
「はい。資金相談の前に、収納についても聞きたいそうです」
『覚えてる。娘さんが、おもちゃをいっぱい置きたいって言ってた家族』
「受付票にも残してあります」
『じゃあ、萌も一緒に入って』
「私もですか」
『うん。萌が話を繋いだんだから、そのまま聞いてほしい』
「分かりました」
萌は予定表へ自分の名前を書き加えた。
「それから、神崎さんから受付用紙のデータが届いています」
『早いね』
「こちらの記録用紙も送っておきました。次回の通常公開から、一部を共通化できないか検討します」
『もう動いてるんだ』
「使えるものは、早く使った方がいいので」
『さすが萌』
「櫻井さんも確認してください」
『あとで見る』
「今日中です」
『分かってるよ』
萌が自分の席へ戻る。
入れ替わるように、凛と柚希が陽菜の机へ来た。
「陽菜さん。今日、中井さんと何かありますか?」
凛が尋ねる。
『何で?』
「朝から何度も、中井さんの方を見ているからです」
『見てた?』
「見てました」
柚希も頷く。
「中井さんも、陽菜さんの方を見てます」
陽菜は少し離れた席へ目を向ける。
中井は、神谷と資料を確認していた。
陽菜の視線に気づき、こちらを見る。
目が合った途端、陽菜は手を振った。
中井は周囲を確認してから、小さく頭を下げる。
「ほら」
凛が言った。
『何が?』
「何かある人たちの反応です」
『今日、仕事終わったら話するの』
「何の話ですか?」
『まだ秘密』
「結婚ですか?」
柚希が声を弾ませる。
『違うよ』
「残念」
『何で柚希ちゃんが残念がるの』
「陽菜さんたち、結婚しそうだから」
『そう見える?』
「見えます」
「一緒に暮らしていましたし」
凛も続ける。
『あれは期間限定』
「今は違うんですか?」
『自分の部屋に戻ったよ』
「そうなんですか」
凛と柚希が、同時に驚く。
『何、その反応』
「てっきり、そのまま一緒に暮らすものだと思っていました」
「私も」
『戻ったらさ』
陽菜は声を少しだけ落とした。
『中井くんがいなくて、すっごく寂しかった』
凛と柚希が黙る。
『何で黙るの』
「陽菜さんは、そういうことを隠しませんね」
「私なら、本人以外には絶対言えません」
『本人にも言ったよ』
「えっ」
『中井くんも寂しいって』
柚希が両手で口元を覆う。
「何だか、聞いている方が恥ずかしいです」
『柚希ちゃんから聞いたんでしょ』
「そうですけど」
「それで、今日話すんですか?」
凛の問いに、陽菜は頷いた。
『うん。ちゃんと決めようと思って』
「何をですか?」
『秘密』
「そこまで話して、秘密なんですか」
『決まったら教える』
陽菜は笑い、仕事へ戻った。
その日の夕方。
中井は会社の入口で陽菜を待っていた。
「お疲れさまです」
『お疲れさま。待った?』
「いいえ。今来たところです」
『それ、待ってた人が言うやつ』
「本当に、今来ました」
『じゃあ行こっか』
「どこへ行きますか」
『中井くんの部屋』
「僕の部屋ですか」
『外で話すことじゃないから』
中井の表情に、僅かな緊張が走る。
『別れ話じゃないって言ったでしょ』
「分かっています」
『まだ怖そう』
「陽菜さんが楽しそうなので、余計に不安です」
『大丈夫だって』
2人は並んで歩いた。
数日前まで毎日通っていた道。
だが、今日は陽菜にとって、誰かの部屋を訪ねるための道へ戻っている。
中井が玄関の鍵を出すより先に、陽菜が鞄から合鍵を取り出した。
『まだ持ってるよ』
「返してもらっていませんから」
『返してほしい?』
「いいえ」
『よかった』
陽菜が鍵を開ける。
『ただいま』
「おかえりなさい」
久しぶりに返事があった。
陽菜は玄関に立ったまま、中井を見る。
『やっぱり、これがいい』
「何がですか」
『ただいまって言ったら、おかえりって返ってくるの』
中井は静かに陽菜を見つめた。
「僕もです」
『中井くん』
「はい」
『あたしね、自分の部屋に戻って分かった』
陽菜は靴を脱がず、その場で続ける。
『一人で暮らせないわけじゃない。前はずっと一人だったし、今だって家事は何とかできる』
「何とか、ですか」
『そこは今、突っ込まないで』
「すみません」
『でも、一人で暮らせることと、一人で暮らしたいことは違った』
陽菜は中井の目を見る。
『あたし、中井くんと一緒に帰りたい』
中井の唇が、僅かに動く。
だが、言葉は出てこなかった。
『それでさ』
「はい」
『二人の家、探さない?』
「二人の家……」
『うん』
「ここではなくて、ですか」
陽菜は頷いた。
『ここに戻ったら、また“中井くんの部屋に置いてもらう”ことになるでしょ』
「僕は、そうは思いません」
『中井くんが思わなくても、あたしが思うの』
陽菜は部屋の中を見る。
中井が一人で選んだ家具。
中井が決めた収納。
そこへ陽菜の服や持ち物を加え、一緒に暮らしていた。
居心地はよかった。
だが、最初から2人で作った場所ではない。
『仕事が忙しいからでも、あたしが無理しないようにでもなくて』
陽菜は、もう一度中井へ向き直る。
『あたしが中井くんと暮らしたいから、一緒に住みたい』
「陽菜さん」
『だから、どっちかの家じゃなくて、二人で選んだ家がいい』
中井は俯いた。
『嫌だった?』
「違います」
『じゃあ、どうしたの』
「嬉しくて、すぐに言葉が出ませんでした」
中井は顔を上げる。
「僕も、陽菜さんと暮らしたいです」
『本当?』
「はい」
『期間限定じゃなくて?』
「期限は要りません」
中井は迷わず答えた。
「これからも、ずっと一緒に帰りたいです」
陽菜の顔に、ゆっくりと笑みが広がる。
『じゃあ決まりね』
「決めるのが早いです」
『中井くんも、ずっとって言ったじゃん』
「気持ちは決まりました。でも、家はこれから選びます」
『そうだった』
「家賃や場所も考えないといけません」
『会社に近い方がいい』
「陽菜さんのモデルハウスへの移動もあります」
『あと、バイク置けるところ』
「それは絶対ですね」
『GSを置けない家には住まないよ』
「分かっています」
『お風呂も広い方がいい』
「家賃が上がります」
『じゃあ、キッチンは狭くていい』
「僕はキッチンを使います」
『そうだった』
「陽菜さんも使ってください」
『努力します』
「努力では困ります」
陽菜は靴を脱ぎ、部屋へ上がった。
『今から探そ』
「今からですか」
『不動産屋なんだから、得意でしょ』
「自分たちの家を探すのは、初めてです」
『あたしも』
2人は並んで机へ座った。
中井がノートパソコンを開き、陽菜が紙とペンを持ってくる。
「まず、条件を分けましょう」
『絶対必要なのと、あったら嬉しいの?』
「はい」
『バイク置き場は絶対』
「通勤時間もです」
『お風呂は?』
「希望です」
『絶対がいい』
「そうすると、予算を見直す必要があります」
『じゃあ、あたしが多く出す』
「同じだけでいいです」
『給料、あたしの方が多いよ』
「だからといって、任せきりにはできません」
『じゃあ割合で決める?』
「そうしましょう」
陽菜が紙へ書き込む。
勤務地までの時間。
家賃。
間取り。
バイク置き場。
台所。
風呂。
収納。
『部屋は、いくつ必要?』
「それぞれの部屋があった方がいいと思います」
『何で?』
「一人になりたいときもあるでしょうし、仕事を持ち帰る場合もあります」
『寝る部屋は一緒でしょ』
中井の手が止まった。
『何で固まるの』
「陽菜さんが、会社で話したときのことを思い出しました」
『何の話?』
「今のような話を、凛さんと柚希さんにしていませんか」
『二人の家を探すことは、まだ言ってないよ』
「寝室の話です」
『してないって』
「これからもしないでください」
『分かってるよ』
「本当ですか」
『多分』
「陽菜さん」
中井は困った顔をする。
陽菜は笑いながら、紙へ大きく書き加えた。
『寝室、一つ』
「わざわざ書かなくていいです」
『大事な条件でしょ』
「僕にも見せる紙です」
『二人で決めてるんだから、見るに決まってるじゃん』
陽菜は、さらに線を引く。
『あと、二人でご飯食べる場所』
「はい」
『“ただいま”が聞こえる家』
「それは、間取りの条件ではありません」
『一番大事だよ』
中井は、紙に書かれた文字を見る。
少し考えてから、その横へ自分でも書き加えた。
「おかえりと言える家」
『同じじゃん』
「両方必要です」
陽菜は嬉しそうに、その2つの言葉を丸で囲んだ。
まだ住所は決まっていない。
間取りも、家賃も、引っ越す日も決まっていない。
それでも、2人が帰る場所だけは、この夜に決まった。
どちらかのもとへ戻るのではない。
これから2人で、同じ場所を選ぶ。
机の上に置かれた条件表には、仕事とは関係のない未来が並んでいた。
その一番上に、陽菜は新しい見出しを書く。
『二人の家』
今度は、中井も止めなかった。




