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254話「戻った場所」

チーム櫻井モデルの振り返りを終えた翌日。


 島川不動産の営業部には、以前と変わらない朝が戻っていた。


 電話が鳴る。


 書類をめくる音が重なる。


 外出予定を確認する者がいれば、取引先へ送る資料を印刷する者もいる。


 大抽選会の会場を埋め尽くした人の声も、抽選器の音も、ここにはない。


 陽菜は自分の席へ座り、机の上を見た。


『……終わったんだねえ』


「何がですか」


 向かいの席から、萌が顔を上げる。


『チーム櫻井モデル』


「昨日、振り返りをしたばかりです」


『分かってるよ。でも、今日から本当に普通に戻った感じがする』


「仕事は残っています」


『余韻に浸らせてよ』


「次回予約をいただいた方への対応があります。大抽選会は終わりましたが、契約へ繋げる仕事はこれからです」


『正しいことしか言わない』


「間違ったことを言った方がいいですか」


『たまには』


「嫌です」


 萌は再び手元の資料へ視線を落とした。


 机の上には、大抽選会で得た相談内容と、その後の対応予定がまとめられている。


 以前なら、書類を完成させてから樹里へ見せていた。


 間違いがないところまで自分で整え、答えをもらうように差し出す。


 今日は違った。


「日高さん」


『はい』


「少し確認をお願いできますか」


 樹里が萌の席へ向かう。


『何でしょうか』


「大抽選会後の連絡についてです。すべて同じ順番で対応するのではなく、購入時期が近い方から優先したいと考えています」


『理由は』


「すぐに具体的な提案を必要としている方を、待たせないためです。ただ、時期が決まっていない方への連絡が遅れすぎないよう、そちらも3日以内には一度連絡します」


『担当の振り分けは』


「資金相談を希望する方は神谷さんと中井さん。土地から探す方は佐藤さんにも入っていただきます」


 萌は一覧表を樹里へ見せた。


「私は、この順番で進めたいです」


 どうすればいいですか、とは聞かなかった。


 自分の判断を持ったうえで、それを確認してほしいと伝えている。


 樹里は一覧へ目を通した。


『いいと思います』


「修正するところはありませんか」


『現時点では。ただし、連絡後に状況が変わった場合は、優先順位を見直してください』


「分かりました」


『川原さん』


「はい」


『昨日の今日で、随分変わりましたね』


「急には変わっていません」


 萌は僅かに口を尖らせた。


「前から考えていました。言わなかっただけです」


『そうでしたね』


「笑っていますか」


『いいえ』


「少し笑っています」


『気のせいです』


 樹里は自分の席へ戻る。


 陽菜が、その背中を見ながら笑っていた。


『いいねえ、教育担当と後輩って感じ』


「櫻井さんも、山本くんの教育担当でしょう」


 萌に言われ、陽菜の笑顔が止まる。


『そうだった』


「忘れていたんですか」


『忘れてないよ。ちょっと今、陸がどこにいるか分かんなかっただけ』


「外出予定表に書いてあります」


『知ってる。試したの』


「何をですか」


『萌がちゃんと陸の予定を把握してるか』


「苦しいですよ」


『日高先輩、助けてください』


『自分で何とかしてください』


『冷たい』


 そのとき、営業部の扉が開いた。


 外出していた陸が戻ってくる。


「戻りました」


『陸、おかえり』


「ただいま戻りました」


『今、陸がどこにいるか当てる話してたんだよ』


「俺は、取引先です」


『知ってたよ』


「予定表に書いてありますから」


『みんな同じこと言う』


 陸は自分の席へ戻る前に、陽菜の机へ一枚の用紙を置いた。


「先方から追加で聞いた内容です」


『あとで見る』


「今、要点だけ伝えてもいいですか」


『うん』


「ご夫婦で希望する条件が違っています。ご主人は駅からの距離を優先していますが、奥様は子どもの学校を変えたくないそうです」


『どっちを優先するか、決めてもらう?』


「それも必要ですが、その前に両方の条件を満たす場所がないか調べたいです」


『うん』


「候補が少ない場合は、それぞれの条件で何を譲れるか聞きます」


『いいじゃん』


「まだ、見落としていることがあるかもしれません」


『あったら、そのとき教えるよ』


「はい」


 陸は頷き、自分の席へ向かった。


 以前の陸なら、聞いた条件をそのまま持ち帰っていた。


 あるいは、どちらか一方を正しいと決め、自分だけで答えを出そうとしていたかもしれない。


 今は違う。


 互いに異なる希望があることへ気づき、それを誰かへ繋ぐ前に、自分なりの案まで考えている。


『陸』


 陽菜が、もう一度呼んだ。


「はい」


『ちゃんと周り見てるじゃん』


「昨日も言われました」


『今日も見てたから、今日も言ったの』


「ありがとうございます」


『頭撫でる?』


「仕事に戻ります」


『即答なんだ』


 陽菜の声に、営業部の何人かが笑った。


 大抽選会は終わった。


 チームとして集まる機会も、ひとまずなくなった。


 それでも、そこで身につけたものまで消えたわけではない。


 それぞれの変化は、日常の仕事の中に残っていた。


 午前10時。


 神谷と樹里は、高槻興産の進捗確認のため、小会議室へ入った。


 机の上には、修正された工程表と、担当者ごとの進捗一覧が置かれている。


「高槻社長から、第一段階の内容について正式に了承をいただきました」


『予定どおりですか』


「はい。先方から追加された条件もありますが、期限へ影響するものではありません」


『森山さんから届いた資料は』


「確認しました。現場側の負担も、以前より具体的に記載されています」


 神谷は工程表の一部を指した。


「ただ、次の段階へ入る前に、緒方さんとの確認が必要です。認識がずれたまま進めると、後半で修正が増えます」


『面談を入れますか』


「そのつもりです。日高さんにも同席をお願いできますか」


『分かりました』


 樹里は工程表を見ながら答える。


『それから、この項目は佐藤さんにも確認してもらった方がいいと思います』


「理由を聞いてもいいですか」


『現場で使用する資料です。作成した私たちより、初めて読む人の方が不明点を見つけやすい』


「分かりました。佐藤へ頼みます」


 神谷は、その場ですべてを抱えようとはしなかった。


 自分で確認した方が早いことでも、必要な者へ任せる。


 高槻興産との取引で一度倒れた経験を、苦い記憶だけにはしていなかった。


「日高さん」


『はい』


「大抽選会、お疲れさまでした」


『神谷さんも、応援に来ていただきありがとうございました』


「櫻井さんからも礼を言われました」


『櫻井さんは、何度でも言うので』


「日高さんも、昨日かなり褒められたそうですね」


 樹里の手が止まる。


『誰から聞いたんですか』


「佐藤です。早川さんから聞いたそうです」


『なぜ、もう広まっているんですか』


「櫻井さんが泣いたことまで聞きました」


『私は泣いていません』


「日高さんではなく、櫻井さんです」


『分かっています』


「もしかして、日高さんも泣いたんですか」


『泣いていません』


 先ほどより、返事が僅かに速かった。


 神谷はそれ以上追及せず、小さく笑う。


『何がおかしいんですか』


「いえ。日高さんたちらしいと思っただけです」


『どういう意味ですか』


「言葉にできないことを、誰かが代わりに言ってくれるところです」


 樹里は何も答えなかった。


 ただ、工程表へ戻した視線は、先ほどより少しだけ柔らかかった。


 昼休み。


 凛のスマホに、青柳からLINEが届いた。


〈次に東京へ行ける日が決まりました〉


 その下には、来月の日付が書かれている。


 以前なら、嬉しい気持ちを隠すように、予定を確認してから返事をしていた。


 今の凛は、画面を見た瞬間に文字を打つ。


〈会いたいです〉


 送信してから、自分の言葉を見直す。


 頬が僅かに熱くなった。


「凛ちゃん、何見てるの?」


 隣から、柚希が画面を覗こうとする。


「何でもないよ」


「今、隠した」


「隠してない」


「青柳さん?」


「どうして分かるの?」


「その顔する相手、一人しかいないじゃん」


「どんな顔?」


「すごく会いたそうな顔」


 凛は何も言えず、スマホを伏せた。


 柚希が笑っていると、今度は自分のスマホが震える。


 零からのLINEだった。


〈今日、仕事終わるの遅いっすか〉


〈それほど遅くならないよ。どうしたの?〉


〈一緒に飯食いたいっす〉


 短い文章を見た柚希の顔が、自然と緩む。


「柚希ちゃんも、同じ顔してるよ」


「私は普通だもん」


「零ちゃん?」


「どうして分かるの?」


「その顔する相手、一人しかいないから」


 先ほどと同じ言葉を返され、柚希は口を閉じた。


「お互い様だね」


「そうみたい」


 2人は顔を見合わせて笑った。


 その日の夕方。


 佐藤は仕事を終えると、Roseへ向かった。


 開店直後の店内で、美園がグラスを磨いている。


『いらっしゃい』


「こんばんは」


『今日は随分疲れた顔してるね』


「少しだけです。高槻興産の資料を確認していたので」


『少しだけって言う人は、たいてい少しじゃないよ』


「神谷さんにも、同じようなことを言われました」


『じゃあ、今日は仕事の話禁止』


「まだ何も話していません」


『顔に書いてある』


 美園は佐藤の前へ、酒ではなく温かい茶を置いた。


「子ども扱いですか」


『疲れてる男に、いきなりお酒を飲ませないだけ』


「美園さんは、俺のことをよく見ていますね」


『今さら気づいたの?』


「前から知っています」


『なら、黙って飲んで』


「はい」


 佐藤は湯気の立つ茶を口へ運ぶ。


 店の外では、まだ冷たい風が吹いている。


 それでも、佐藤には帰る場所が一つ増えていた。


 仕事を終えた陽菜と中井は、並んで駅へ向かっていた。


「陽菜さん。今日は何を食べたいですか」


『鍋』


「先週も鍋でした」


『鍋は毎週でもいいじゃん』


「味を変えますか」


『今日は辛いやつ』


「分かりました。途中で材料を買いましょう」


『うん』


 何でもない会話だった。


 この数か月、何度も繰り返してきた。


 仕事を終えて、一緒に帰る。


 夕食を考える。


 足りないものを買い、同じ部屋へ戻る。


 それが、いつの間にか特別ではなくなっていた。


 スーパーへ入る直前、陽菜が立ち止まる。


『あ、中井くん』


「はい」


『今週末、荷物まとめるの手伝って』


「何か買うんですか」


『違うよ。あたし、自分の部屋に戻ろうと思って』


 中井の足が止まった。


「戻るんですか」


『うん』


「いつから考えていましたか」


『大抽選会が終わったらって、最初から言ってたじゃん』


 陽菜が中井の部屋で暮らし始めたのは、チーム櫻井モデルの仕事が本格化した頃だった。


 帰宅が遅くなり、食事も睡眠も疎かになっていく陽菜を見かねて、中井が提案した。


 一人にしておけない。


 自分のいる場所から仕事へ送り出し、帰ってきた陽菜を迎えたい。


 そこから始まった同棲だった。


 大抽選会を終えるまで。


 最初に、そう決めていた。


「覚えています」


 中井は答えた。


『仕事も普通に戻ったし。いつまでも中井くんに甘えてるわけにいかないでしょ』


「甘えられているとは思っていません」


『でも、中井くんがご飯作って、洗濯して、あたしを起こしてたじゃん』


「陽菜さんも、できるときはやってくれました」


『できるとき、ほとんどなかったよ』


「忙しかったんですから、仕方ありません」


『だから、一回ちゃんと自分の生活に戻る』


「……分かりました」


 中井は、それ以上引き止めなかった。


 約束を忘れていたわけではない。


 陽菜が帰ると言うなら、尊重すべきだと思った。


 それでも、スーパーへ入ったあとの会話は少なくなった。


『中井くん、白菜これで足りる?』


「はい」


『肉は?』


「いつもの量でいいと思います」


『辛いやつ平気だっけ』


「大丈夫です」


『なんか元気ない?』


「そんなことはありません」


『あるじゃん』


「ありません」


『あたしが帰るの、寂しい?』


 中井は買い物かごを持ったまま、陽菜を見る。


 誤魔化すこともできた。


 だが、陽菜は真っ直ぐに答えを待っている。


「寂しいです」


『そっか』


「はい」


『あたしも、ちょっと寂しい』


「少しだけですか」


『今はね』


 陽菜は笑い、買い物かごへ豆腐を入れた。


『まだ帰ってないし』


 週末。


 陽菜は中井の部屋に置いていた服や化粧品を、鞄と段ボールへ詰めた。


 最初は数日分しかなかった荷物が、いつの間にか増えている。


 洗面所には陽菜の歯ブラシ。


 玄関には陽菜の靴。


 冷蔵庫には、陽菜が選んだ飲み物。


 クローゼットの一角には、陽菜の服が並んでいた。


『結構あるね』


「持って帰れますか」


『無理そうなら、また取りに来る』


「車を出します」


『大丈夫だよ』


「荷物が多いです」


『じゃあ、お願い』


 段ボールを閉じながら、陽菜は部屋を見回した。


 数か月前までは、中井が一人で暮らしていた部屋。


 今は、どこを見ても二人で過ごした時間が残っている。


『ねえ、中井くん』


「はい」


『鍵、どうする?』


 陽菜は預かっていた合鍵を手のひらへ載せた。


 中井は、その鍵を見る。


「持っていてください」


『でも、もう住まないよ』


「会いに来るでしょう」


『来るけど』


「そのたびに、玄関の前で待たせたくありません」


『勝手に入っていいの?』


「陽菜さんなら」


『女連れ込めないね』


「連れ込みません」


『分かんないじゃん』


「陽菜さん以外は必要ありません」


『真顔でそういうこと言うよね』


「本当のことですから」


 陽菜は僅かに照れたように笑い、鍵を鞄へ戻した。


『じゃあ、持ってる』


「はい」


 中井は陽菜の荷物を車へ運んだ。


 自分の部屋へ戻った陽菜は、久しぶりに窓を開けた。


 冷えた空気が、閉め切られていた室内へ流れ込む。


『ただいま』


 誰もいない部屋へ声を掛ける。


 返事はない。


 それが以前なら、当たり前だった。


 鞄を置く。


 着替える。


 冷蔵庫を開ける。


 ほとんど何も入っていない。


『……静か』


 陽菜はスマホを取り出し、中井へLINEを送った。


〈着いたよ〉


 すぐに返事が届く。


〈僕も、今帰りました〉


〈部屋、広くなった?〉


 少しの間が空いた。


〈広くなりすぎました〉


 陽菜は画面を見つめる。


 笑おうとしたのに、胸の奥が僅かに痛んだ。


〈あたしの部屋も広い〉


〈元から同じ広さでは?〉


〈そういう意味じゃないの〉


〈分かっています〉


 短いやり取りが途切れる。


 陽菜はベッドへ横になった。


 隣には、誰もいない。


 眠る前に聞こえていた中井の声もない。


 触れれば届いた体温もない。


 仕事が落ち着けば、一人の生活へ戻れる。


 そう思っていた。


 戻ったはずだった。


 それなのに、そこはもう、自分の帰りたかった場所ではなくなっていた。


 同じ頃。


 中井も、一人になった部屋に立っていた。


 洗面所に残された、自分の歯ブラシ。


 半分空いたクローゼット。


 陽菜がいつも座っていた場所。


 数か月前まで、これが普通だった。


 陽菜のいない生活へ戻っただけ。


 そう言い聞かせても、部屋は以前と同じには見えなかった。


 陽菜が来る前の部屋ではない。


 陽菜がいなくなった部屋だった。


 中井は、テーブルの引き出しを開けた。


 奥には、小さな箱が隠してある。


 まだ渡すと決めたわけではない。


 時期も、言葉も考え切れていない。


 ただ、陽菜と過ごす未来を思いながら選んだものだった。


 中井は箱へ触れ、静かに引き出しを閉じた。


 一緒に暮らしたい。


 期間を決めずに。


 仕事が忙しいからでも、生活を支えるためだけでもなく。


 陽菜と二人で帰る場所を作りたい。


 離れて初めて、その願いははっきりとした形を持ち始めていた。

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