252話「今日の勝ち」
最後に訪れた家族は、抽選を終えたあと、モデルハウスの中へ入った。
父親と母親。
そして、抽選で当たった菓子の袋を大切そうに抱えた、幼い娘。
『どこから見たい?』
陽菜が尋ねると、娘は少し考えてから階段を指差した。
「上」
『じゃあ、2階から行こっか』
「陽菜さん」
後ろに立っていた萌が、小さな声で呼ぶ。
「先に、ご両親の希望を確認してください」
『あっ、そうだった』
陽菜は慌てて両親へ向き直る。
『すみません。あたし、娘さんの言うことしか聞いてませんでした』
「いえ。私たちも、2階からで大丈夫です」
母親が笑う。
「この子の部屋にできる場所を、最初に見たいので」
『じゃあ、みんなで行きましょう』
陽菜が先頭に立つ。
萌は受付票を持ち、家族の後ろへ続いた。
陸は抽選器を元の位置へ戻したあと、見学経路に荷物が残っていないか確認している。
凛は受付を閉じずに残し、途中で家族から新たな希望が出た場合に備える。
柚希は高村と一緒に抽選会場を整えながら、娘へ手を振った。
「お家、楽しんできてね」
「うん!」
2階の子ども部屋へ入ると、娘は窓際まで駆けていった。
「ここ、私の部屋?」
『そうなったらいいね』
「おもちゃ、いっぱい置いてもいい?」
『好きなだけ置いちゃえ』
「陽菜さん」
萌が再び呼ぶ。
『分かってるよ。置ける量は、お父さんとお母さんに相談ね』
「全部は困るなあ」
父親が笑った。
閉場時刻を過ぎた会場に、家族の笑い声が響く。
疲れ切っているはずなのに、陽菜の声は明るかった。
だが、最後まで一人で背負っているわけではない。
陽菜が家族との距離を縮める。
萌が希望を記録する。
陸が、その先に必要になるものを整える。
途中で母親が収納について尋ねると、萌は受付票へ内容を書き加えた。
「次にご相談いただくとき、今日の内容を担当者へ引き継ぎます」
「そこまで残してもらえるんですか」
「はい。同じことを最初からお話しいただかなくて済むようにします」
「それなら、相談してみようかな」
父親と母親が顔を見合わせる。
まだ、家を買うと決めたわけではない。
具体的な時期も定まっていない。
それでも見学を終えたあと、母親は受付で足を止めた。
「今度、資金のことも相談できますか」
『もちろんです』
「今日みたいに遅い時間にならないよう、予約して来ます」
萌が相談可能な日時を提示する。
夫婦は予定を確認し、翌週の予約を入れた。
「今日は、もう終わりだったのにありがとうございました」
『こちらこそ、来てくれてありがとうございました』
陽菜が深く頭を下げる。
凛も受付の前で頭を下げ、柚希は娘へ菓子の袋を落とさないよう声を掛けた。
家族が駐車場へ向かう。
途中で娘が振り返り、陽菜たちへ大きく手を振った。
『ばいばーい!』
陽菜も両手を振り返す。
その隣では、凛と柚希も手を振っていた。
車が見えなくなってから、陽菜はゆっくりと腕を下ろした。
『終わったあ……』
全身から力が抜ける。
その場へしゃがみ込みそうになった陽菜の腕を、中井が支えた。
「陽菜さん。大丈夫ですか」
『大丈夫。ちょっと力が抜けただけ』
「休憩室へ行きましょう」
『まだ片づけがある』
「片づけは逃げません」
『あたしが逃げたい』
「では、なおさら休んでください」
『中井くん、最近あたしの扱いが上手くなったね』
「陽菜さんが、無理をしすぎるからです」
『今日はちゃんと助けを呼んだじゃん』
「はい。だから、それ以上の無理をしないでください」
『分かりました』
陽菜は抵抗せず、中井に支えられながら休憩室へ向かった。
以前なら、最後の片づけまで自分が残ろうとした。
今は、自分が離れても仕事が止まらないと分かっている。
会場では、萌が撤収の指示を出していた。
「共通受付の用紙は、案内先ごとに分けてください。見学したモデルハウスと、相談先が違う場合もあります。両方確認をお願いします」
「受付番号は、こちらへ並べればいい?」
凛が尋ねる。
「うん。凛ちゃんが聞き取った来場目的も、受付票に残っているよね」
「全部書いてあるよ。途中で希望が変わった方には、横へ追記してあります」
「ありがとう。集計のときに確認する」
「抽選券はどうする?」
柚希が使用済みの券を持ってくる。
「使用済みと未使用を分けて、残数を数えてください」
「高村さん。私が使用済みを数えるので、残った景品をお願いしてもいいですか?」
「分かりました」
応援に来た者へ指示を出しながらも、凛と柚希は最後まで自分の持ち場を片づける。
「森下さん。受付用紙の枚数を確認していただけますか」
「もう始めてる」
彩花は机の上に用紙を並べていた。
「受付番号が一つ飛んでるけど、取消?」
「はい。お子さんが体調を崩されて、見学前に帰られました」
凛が答える。
「備考にも書いてあります」
「なら大丈夫。数字は合う」
「ありがとうございます」
「山本くんは、会場内を一周してください。案内板と、個人情報の書かれた紙が残っていないか確認をお願いします」
「はい」
陸は入口から順に会場を回った。
受付。
待機場所。
相談席。
2棟のモデルハウス。
最後には駐車場まで足を運ぶ。
そこで、風に飛ばされかけていた小さな紙を見つけた。
今日の来場者が記入した受付票だった。
陸は拾い上げ、すぐに萌のもとへ戻る。
「川原さん。駐車場に落ちていました」
「個人情報が書いてある」
「はい。周囲も確認しましたが、これ以外にはありませんでした」
「見つけてくれてありがとう」
萌は受付票を所定の箱へ入れた。
「最後に、全員でもう一度確認しよう」
「分かりました」
片づけを終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
残された仕事は、集計だった。
両チームの担当者が、共通受付で使用した用紙を一枚ずつ確認する。
来場者数。
見学件数。
相談件数。
次回予約。
途中から受付を一つにしたため、用紙を単純に数えるだけでは結果を出せない。
どちらのモデルハウスを見学したのか。
どちらの担当者と話したのか。
最後に、どちらへ相談予約を入れたのか。
そのすべてを照合し、数字を積み上げていく。
最初に確定したのは、全体の来場者数だった。
338名。
当初の予測を、大きく上回っている。
「よく事故もなく終わったな」
黒澤が集計表を見ながら言った。
「駐車場での大きな苦情もありませんでした」
彩花が報告する。
「待ち時間についての意見は7件です。すべて、受付で説明したあとのものです」
「待ち時間を理由に帰った人は?」
「4組です。そのうち3組は、連絡先を残してくださいました。後日対応できます」
「分かった」
続いて、見学件数が確定する。
どちらか一方だけを見た者。
両方を見比べた者。
抽選だけのつもりで来たにもかかわらず、家族でモデルハウスへ入った者もいた。
最後まで残ったのは、相談予約の件数だった。
集計担当者が、最後の用紙へ印をつける。
「神崎チーム、31件です」
優子は無言のまま、数字を確認した。
「チーム櫻井モデルは……32件です」
僅か1件。
それでも、初めて優子のチームを上回った。
『勝った……』
陽菜が、小さく呟く。
いつものように飛び跳ねることはしなかった。
集計表を見つめ、数字を何度も確認している。
喜びより先に、一日分の記憶が押し寄せていた。
朝から一緒にいた5人。
途中で駆けつけてくれた者たち。
そして、最後まで待ってくれた来場者。
「1件差ね」
優子が言った。
『うん』
「共通受付へ変えてからも、最終的にこちらを選んだ人は31件。あなたたちは32件だった」
『でも、途中から一緒に回したじゃん』
「それでも結果は結果よ」
優子は陽菜を見る。
「今日は、あなたたちの勝ち」
陽菜は、すぐに答えられなかった。
ずっと超えようとしてきた相手から、初めて認められた。
その言葉は、想像していたよりも重かった。
『ありがとう』
「随分、素直ね」
『勝ったからね』
「そこは言うのね」
『すっごく嬉しいもん』
陽菜は笑う。
『でも、優子たちがいなかったら、今日は回せなかった』
「負けた相手を慰めているの?」
『違うよ』
陽菜は首を横に振る。
『勝ったことと、助けてもらったことは別でしょ』
「こちらも、自分たちのために動いただけよ」
『それでも、一緒に受付をやってくれた』
優子は何も答えなかった。
『萌を受け入れてくれたのも、ありがとう』
「端末が止まったから借りただけ」
『はいはい』
「何よ」
『優子って、そういうことにしないとお礼を受け取れないんだなって』
「本当に腹が立つわね」
『でも、今日の優子、格好よかったよ』
「今すぐ結果を取り消してもいいのよ」
『それは困る』
陽菜は笑いながら手を差し出した。
優子はその手を見る。
すぐには握らない。
「次は負けない」
『あたしたちも』
「今度は助けないから」
『困ってたら、あたしたちは助けるよ』
「そういうところが腹立つの」
『優子も、結局助けてくれたじゃん』
「今日は必要だっただけ」
『うん。今日は、それでいいよ』
優子はようやく、陽菜の手を握った。
勝敗はついた。
だが、どちらかが下になったわけではない。
互いの方法を知り、優れたところを認め、それでも次は勝ちたいと思える。
競争は終わらない。
ただ、相手を見る目だけが変わっていた。
優子は手を離すと、萌へ顔を向けた。
「約束どおり、今日使った記録方法を見せて」
「はい。神崎さんの受付方法も見せていただけますか」
「後日、データにして送るわ」
「ありがとうございます」
「それから」
優子は少しだけ間を置いた。
「今日の判断、よかったと思う」
萌の目が僅かに開く。
「端末が止まったときも、共通受付へ変えたときも。確認を待たずに、必要な方を選んだ」
「ありがとうございます」
「次は、こちらに不利な提案なら断るから」
「そのときは、納得していただけるように説明します」
「言うようになったわね」
「神崎さんからも、学びましたから」
「私のせいにしないで」
優子は僅かに口元を緩め、自分のチームのもとへ戻っていった。
撤収と集計を終え、応援に来た者たちが帰る準備を始める。
黒澤が時計を確認した。
「今日の残りは、会社へ戻ってからでいい。片づけが終わった人から帰れ」
『待ってください』
陽菜が声を上げる。
全員の足が止まった。
陽菜は、神谷、中井、佐藤、彩花、高村、そして黒澤の前へ立つ。
『今日は、急に呼んだのに来てくれて、本当にありがとうございました』
深く、頭を下げる。
『皆さんが来てくれなかったら、絶対に途中で止まってました』
「役に立てたならよかったです」
神谷が答える。
「俺たちも、いい経験になりました」
佐藤が続いた。
「次は、もう少し早く呼んでください」
中井は陽菜を見る。
「陽菜さんが倒れてからでは遅いので」
『今日は倒れてないじゃん』
「倒れそうにはなっていました」
『それは終わって、気が抜けただけ』
「同じです」
『違います』
「明日は、しっかり休んでください」
『中井くん、お母さんみたい』
「心配しているんです」
『分かってるよ。ありがとう』
陽菜の声が僅かに柔らかくなる。
彩花は集計表の入った鞄を持ち上げた。
「私は久しぶりに営業ができて楽しかったから、気にしなくていい」
『彩花さん、すごかったです』
「何が?」
『受付に入った瞬間、ずっとそこにいた人みたいになってた』
「元々、営業部にいたんだから当然でしょ」
『また来てください』
「忙しくなければね」
『絶対呼びます』
「人の話、聞いてた?」
陽菜は笑い、高村へ向き直る。
『高村さんも、本当にありがとうございました』
「私は、景品を渡したり、子どもと話したりしただけです」
『その“だけ”が必要だったんです』
陽菜は、はっきりと答えた。
『待ってる人が不安にならなかったのは、高村さんがいてくれたからです』
「足手まといには、なりませんでしたか」
『なるわけないじゃないですか』
高村の言葉を、陽菜はすぐに否定する。
『恩返しって言ってくれましたけど、またあたしが助けてもらいました』
「それなら、まだ返しきれていませんね」
『これ以上返されたら、あたし、一生追いつけないですよ』
「それなら、お互い様でいいんじゃないですか」
『そっか』
陽菜は笑った。
『じゃあ、また困ったときは助けてください』
「はい。櫻井さんも」
『もちろんです』
最後に、陽菜は黒澤を見る。
『黒澤部長も、ありがとうございました』
「俺は部長として必要なことをしただけだ」
『駐車場で、ずっと寒かったでしょ』
「お前たちも同じだ」
『じゃあ、みんなで頑張ったってことで』
「最初からそう言ってる」
『言ってました?』
「もう帰れ」
『はーい』
応援に来た者たちを見送り、会場に残ったのは、正式メンバーの6人だった。
陽菜。
樹里。
凛。
柚希。
萌。
陸。
すべてが終わった途端、誰も言葉を発しなくなる。
疲労。
安堵。
勝ったという実感。
それぞれが、今日一日の出来事をまだ整理できずにいた。
「櫻井さん」
萌が先に口を開いた。
「今日の反省ですが」
『待って』
「何ですか」
『今日は、もうやらない』
「ですが、忘れないうちに整理した方が」
『忘れないよ』
陽菜は、5人の顔を順番に見る。
樹里。
凛。
柚希。
萌。
陸。
今日は、全員が朝から走り続けた。
ここで形だけの言葉を並べるのではなく、きちんと考えてから伝えたいことがある。
『来週、会議室取るから』
「来週ですか」
『うん。ちゃんと時間を作って、今日のこと話そう』
「結果は、今出ています」
『数字の話だけじゃないの』
陽菜は笑った。
『反省も成長も感謝も来週! 今は帰ろう』
「全部、来週へ回すんですか」
『今日はもう、頭動かないもん』
「櫻井さんらしいですね」
凛が笑う。
「私も、今日は帰る方に賛成です」
「私も。もう足が痛い」
柚希は椅子へ座り込みそうになりながら答えた。
「私は、今でも大丈夫です」
萌だけが納得しきれない様子を見せる。
『萌』
「はい」
『ちゃんと話すから』
陽菜の目は、ふざけていなかった。
『萌が今日何をしたかも、陸が何を見つけたかも。日高先輩が何を支えて、凛ちゃんと柚希ちゃんが何を繋いだかも』
5人を見回す。
『あたし、ちゃんと見てたから』
萌は、少しだけ目を伏せた。
「分かりました」
『じゃあ帰ろう』
「会議室の予約は、忘れないでください」
『月曜日に萌が言って』
「自分で覚えていてください」
『厳しいなあ』
「櫻井さん」
『分かった、分かったって』
陽菜が入口へ向かう。
その後ろを、5人が歩き始めた。
大抽選会は終わった。
勝敗も、すでに決まっている。
だが、このチームが何を成し遂げたのか。
それぞれが、どれほど変わったのか。
その答えだけは、まだ言葉になっていなかった。
陽菜は、それを来週まで預かることにした。




