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250話「来てくれた人」

陽菜からのLINEが届いたとき、黒澤は第二駐車場の入口に立っていた。


 午前中だけで、用意していた駐車区画の大半が埋まっている。


 空きを探して速度を落とす車へ誘導棒を振り、入口付近で詰まらないよう順番に案内する。


 ポケットの中で震えたスマホを取り出すと、画面には短い文章が並んでいた。


〈会場、予想以上に混んでます〉


〈手を貸してください〉


 いつもの陽菜なら、最後に余計な一言か、意味もなく明るい絵文字を添える。


 今回は、それがなかった。


 黒澤はすぐに社内へ電話をかけた。


「神谷、今どこだ」


「会社です。午前中の処理が、間もなく終わります」


「終わったら中井と佐藤を連れて、展示場へ来い」


「何かありましたか」


「大抽選会が、予想より混んでる。相談も見学も回らなくなり始めてる」


「分かりました。すぐに向かいます」


「営業だけじゃ足りない。森下さんにも声を掛けてくれ。総務には俺から話しておく」


「はい」


 電話を切った黒澤は、続けて総務部へ連絡を入れた。


 その頃、営業部では神谷が中井と佐藤へ事情を説明していた。


「展示場へ応援に行く。準備してください」


「分かりました」


 中井は机の上の資料を素早くまとめる。


「僕は相談対応でいいですか」


「そのつもりです。佐藤は見学案内をお願いします」


「はい。すぐに出られます」


 神谷が総務部へ向かうと、すでに話を聞いた彩花が鞄を手にしていた。


「森下さん。黒澤部長から聞きましたか」


「今、総務部長から」


「急で申し訳ありません。展示場を手伝っていただけますか」


「いいよ」


 彩花は迷うことなく答えた。


「久々に営業部っぽいことできるの、ちょっと楽しみ」


「助かります」


「ただし、日高の補助だけは嫌だから」


「まだ何も頼んでいません」


「どうせ、あの人は全体を見ながら何でも抱えようとするでしょ。そうなってたら先に止める」


 神谷は僅かに笑った。


「お願いします」


「そこで素直に頼むんだ」


「日高さんを止められる人は、多い方がいいので」


「随分、分かってきたじゃない」


 彩花が営業部へ向かおうとすると、近くで話を聞いていた高村が立ち上がった。


「あの、私も行っていいですか」


 彩花が振り返る。


「高村さんも?」


「はい。午前中に頼まれていた仕事は終わっています。午後の分も、今日中に戻れれば間に合います」


「展示場は、かなり混んでるみたいだけど」


「だからです」


 高村の声には、以前のような怯えはなかった。


「私にも、できることがあるかもしれません」


 神谷が尋ねる。


「上司の許可は取れますか」


「今から確認します」


「分かりました。許可が出たら、一緒に行きましょう」


 数分後、5人を乗せた社用車が会社を出た。


 一方、展示場では、応援を求めたあとも来場者が増え続けていた。


「こちらで受付をお願いします。抽選券は、受付が終わってからお渡しします」


 凛は入口で一組ずつ来場目的を聞いていた。


 大抽選会だけを目当てに来た家族。


 モデルハウスを見学したい夫婦。


 資金相談まで希望する者。


 そのすべてが同じ入口から入ってくる。


「見学をご希望ですね。現在、20分ほどお待ちいただいています」


「その間に抽選へ行ってもいいですか」


「はい。ただ、見学の順番が近づいたときに分かるよう、こちらの札をお持ちください」


 凛は家族の人数を確認し、同じ色の札を渡した。


 受付で聞いた内容は、すぐに萌へ報告する。


「萌ちゃん。見学待ちが7組です。うち2組は、資金相談も希望されています」


「分かった。相談を先に案内できるか、日高さんへ確認する」


「お願いします」


 その隣では、柚希が抽選の列を動かしていた。


「次の方、どうぞ。お子さんが回しますか?」


「僕がやる!」


「じゃあ、ゆっくり1回転させてね」


 子どもが勢いよく抽選器を回す。


 中から出てきた白い玉を見て、父親が苦笑した。


「残念賞ですか」


「違います。参加してくれた人全員に差し上げる、すごくおいしいお菓子です」


「それ、残念賞じゃない?」


「私が食べたいくらいなので、当たりです」


 柚希が笑うと、子どもも嬉しそうに景品を受け取った。


 だが、一人を笑顔にしている間にも、列は伸びていく。


「柚希ちゃん。あと何人?」


 凛が声を掛ける。


「今並んでる人だけで、40人くらい」


「景品の残りは?」


「まだ大丈夫。でも、渡す場所が狭くなってきた」


「机を少し後ろへ下げようか」


「凛ちゃんの受付が狭くならない?」


「今のままだと、出口と抽選待ちの列が重なるから」


「分かった。次が途切れたら動かそう」


 2人とも、朝から自分の持ち場を離れていない。


 凛が入口で来場者を受け止め、柚希が長くなった列を止めずに繋ぐ。


 それでも、人数が足りなかった。


 陸は会場を歩き回りながら、待ち時間を記録していた。


「川原さん」


「今度は何?」


「見学待ちが25分を超えました。抽選は30分近いです」


「相談は?」


「日高先輩が3組目に入っています。櫻井さんも、見学から戻ったら相談へ入る予定です」


「そうすると、見学案内がさらに減る」


「はい」


 萌は会場図を見る。


 今いる6人だけで、できる限りの配置は組んでいる。


 誰かを別の持ち場へ移せば、その場所に穴が開く。


「応援が来るまでは、見学を短縮する」


「説明を減らしますか」


「違う。最初に希望を聞いて、見たい場所から案内する。全部を同じ順番で回らなくていい」


「遠藤さんに伝えます」


「私から伝える。山本くんは、駐車場から入口までの流れを見てきて」


「分かりました」


 萌は凛のもとへ向かった。


「凛ちゃん」


「どうしたの?」


「見学希望の方には、受付で一番見たい場所を聞いてほしい。案内する順番を変えるから」


「全部を回らないということ?」


「希望があれば全部案内する。でも、時間がない方には見たい場所を優先する」


「分かった。それなら、受付票に希望する場所を書く欄を作るね」


「お願い」


 凛はすぐに受付票の余白へ項目を加えた。


 言われた仕事をこなすだけではない。


 来場者と最初に話す自分だから分かることを、運用へ戻していく。


 萌が抽選会場を見ると、柚希が母親と話していた。


「上のお子さんが見学中なんですね」


「はい。主人と一緒に行ったんですけど、下の子が抽選をしたいって聞かなくて」


「見学の順番が来たら、こちらから連絡します。お兄ちゃんと離れないように、この札は持っていてくださいね」


 柚希は母親と幼い娘の両方へ、同じ色の札を渡した。


「ありがとうございます。人が多くて、どこへ行けばいいのか分からなくなってしまって」


「大丈夫です。分からなくなったら、私か入口にいる遠藤さんへ声を掛けてください」


 柚希は、抽選器を回したがる娘の手を取った。


「お母さんと一緒に回そうか」


 混雑の中でも、家族をただの人数として扱わない。


 その姿を見て、萌は柚希の配置を変えなかった。


 今の抽選会場には、柚希が必要だった。


 午前11時を過ぎた頃、展示場の入口に社用車が止まった。


 最初に降りた神谷が、会場全体を見渡す。


「これは、想像以上ですね」


「相談席、全部埋まってます」


 佐藤が言う。


 中井は人の流れの向こうに陽菜を見つけた。


 陽菜は夫婦を前に、住宅ローンの資料を広げている。


 一瞬だけ視線が重なる。


 陽菜が、僅かに笑った。


 中井も頷き返す。


 すぐに駆け寄ることはしなかった。


 今の陽菜が欲しいのは、恋人としての心配ではない。


 この会場を一緒に支える人間の手だった。


 黒澤が駐車場から戻ってくる。


「来たか」


「はい。どこへ入ればいいですか」


「配置を決めてるのは川原さんだ。まず川原さんのところへ行け」


「分かりました」


 5人が会場へ入ると、最初に気づいたのは陽菜だった。


『来た!』


 相談を終えた陽菜が立ち上がる。


『神谷さん、中井くん、佐藤くん。ありがとうございます』


「状況は聞きました」


 神谷が答える。


「僕たちは、どこへ入ればいいですか」


『萌に聞いて。今、配置を全部決めてるから』


「分かりました」


 陽菜は彩花を見る。


『彩花さんまで来てくれたんですか』


「人が足りないんでしょ」


『ありがとうございます』


「礼は終わってからでいい。それより、日高は?」


『見学から戻って、そのまま相談です』


「やっぱり働かせすぎじゃない」


『あたしに言われても』


「あなたも同じ顔してるから」


『どんな顔?』


「休ませると逃げそうな顔」


『それ、元気ってことじゃない?』


「違う」


 彩花は呆れたように返し、萌のもとへ向かった。


 最後に立っていた高村が、陽菜へ頭を下げる。


「あたしも恩返しがしたくて。足手まといかもしれませんが」


 陽菜の表情が変わった。


『足手まといなわけないじゃないですか』


「でも、営業の仕事はほとんど経験がなくて」


『ここには、営業だけが必要なわけじゃないです』


 陽菜は、抽選会場を見る。


 柚希が長い列を一人ずつ案内している。


『待ってる人に声を掛けたり、迷ってる人を案内したり。できることは、いっぱいあります』


「私にも、できますか」


『もちろんです』


 陽菜は笑った。


『来てくれただけで、もう助かってます』


 その言葉を聞いた高村は、小さく頷いた。


「何をすればいいか、聞いてきます」


『お願いします』


 萌の前に、応援の5人が集まった。


 自分より経験のある社員もいる。


 神谷も、彩花も、本来なら萌が指示を出す相手ではない。


 萌は一瞬だけ言葉を止めた。


 樹里が、少し離れた場所から萌を見る。


『川原さん』


「はい」


『現在の状況を一番把握しているのは、川原さんです』


 それだけだった。


 何をどう決めるべきかまでは、教えない。


 判断するのは萌だった。


「神谷さんと中井さんは、個別相談へ入ってください」


「分かりました」


「佐藤さんは、見学案内をお願いします。現在7組待ちです。受付票に希望する場所が書いてありますので、そこから優先して案内してください」


「はい」


「森下さんは、遠藤さんと受付をお願いします。来場目的と見学希望の確認、それから受付番号の管理です」


「分かった」


「高村さんは、早川さんのところへお願いします。抽選待ちの案内と、景品のお渡しを手伝ってください」


「分かりました」


 萌は一度、全員を見る。


「配置は、状況を見て変更します。気づいたことがあれば、私か山本くんへ伝えてください」


「了解です」


 神谷は余計な口を挟まず、相談席へ向かった。


 萌が年下だからでも、新人だからでもない。


 今、この場所の判断を任されているのが萌だから従う。


 彩花は受付へ向かう途中、樹里とすれ違った。


「日高」


『何だ』


「顔色悪いけど」


『問題ない』


「その返事をする人間は、大抵問題あるの」


『彩花に言われたくない』


「私なら、もっと上手く隠す」


『隠すな』


「それ、今の自分にも言いなさい」


 彩花は足を止めず、凛の隣へ入った。


「遠藤さん。受付票、見せてもらえる?」


「はい。こちらです」


「番号は、見学と相談で分けてる?」


「今は同じ番号で管理しています。ただ、両方を希望する方が増えて、順番が分かりにくくなってきました」


「なら、番号はそのままで色を分けよう。見学だけなら青、相談も希望するなら赤」


「抽選で、ご家族を繋ぐ札にも色を使っています」


「同じ色は避けた方がいいわね」


「では、受付番号の端に印をつけるのはどうでしょうか」


「それがいい。見学は丸、相談もあるなら三角」


「分かりました。私がお話を聞くので、彩花さんは番号の管理をお願いできますか」


「任せて」


 彩花が加わっても、凛は受付を譲らなかった。


 来場者の声を聞き、最初の行き先を繋ぐ。


 それは、正式なメンバーとして凛が任されている役割だった。


「こんにちは。今日は何をご覧になりたいですか」


 凛が尋ねる。


「まだ、何も決めていないんです。抽選があると聞いて、来てみただけで」


「もちろん大丈夫です。モデルハウスの中を見ることもできますが、現在は少しお待ちいただいています」


「どのくらいですか」


 凛が彩花を見る。


「今なら、約15分です」


 彩花は待ち時間を確認し、すぐに答えた。


「その間に抽選へ参加していただけます」


「じゃあ、見てみようかな」


「ありがとうございます」


 凛が受付票へ希望を書き、彩花が番号をつける。


 役割が重なったのではない。


 凛が聞くことに集中できるよう、彩花がその後ろを整えていた。


 抽選会場では、高村が柚希から景品の種類を教わっていた。


「白がこちらのお菓子、青が日用品、赤が一等です」


「残りの数は?」


「この紙に正の字で書いてます。渡したら、一つ足してください」


「分かりました」


「それから、小さい子が抽選器を回すときは、少し支えてあげてください。勢いよく回すと、台ごと動いちゃうので」


「はい」


「列の案内は私がします。高村さんは、景品をお願いしてもいいですか」


「もちろんです」


 高村が景品側へ回ったことで、柚希は待っている家族へ目を向けられるようになった。


「見学の順番が近い方、先にお声を掛けますね。番号札を見せてください」


 列の中から該当する家族を見つけ、入口の凛へ合図を送る。


 凛が頷き、見学担当へ繋いだ。


 離れた持ち場にいても、2人は互いの動きを見ていた。


 午後に近づくにつれ、会場の流れは少しずつ整い始めた。


 相談席には神谷と中井が加わった。


 見学案内は佐藤が引き受ける。


 受付では凛と彩花。


 抽選会場では柚希と高村。


 陸は全体を歩き、待ち時間と人の偏りを萌へ伝える。


 樹里は萌の判断を支え、必要な場所にだけ手を入れる。


 そして陽菜は、目の前の来場者と向き合っていた。


『お待たせしました』


「すみません。こんなに混んでいるとは思わなくて」


『あたしたちも思ってませんでした』


 陽菜が正直に答えると、夫婦が笑った。


『でも、待ってくれてありがとうございます。その分、来てよかったって思ってもらえるように案内します』


 少し離れた相談席から、中井がその声を聞いていた。


 心配が消えたわけではない。


 それでも、今は陽菜一人へ仕事が集中していない。


 陽菜が助けを求め、来た者たちへ役割を渡している。


 中井は目の前の相談者へ向き直った。


「お待たせしました。今日は、どのようなことをお考えですか」


 昼を過ぎた頃、萌が陽菜のもとへ来た。


「櫻井さん。休憩に入ってください」


『まだ大丈夫』


「聞いていません」


『あと一組だけ』


「その一組を終えたら、次の一組が来ます」


『でも』


「中井さんと神谷さんがいます。日高さんも、次の見学から戻ったら休憩です」


 陽菜が樹里を見る。


 樹里も、こちらを見ていた。


『櫻井さん。休んでください』


『日高先輩もですよ』


『川原さんから、すでに言われました』


『じゃあ、一緒に』


『別々です。二人同時に抜けてどうするんですか』


『確かに』


「5分以内に休憩室へ行ってください」


 萌が言う。


『萌、強くなったね』


「行ってください」


『はい』


 陽菜は笑いながらも、今度は逆らわなかった。


 自分が抜けても、会場は動いている。


 凛が入口を繋ぎ、柚希が列を動かす。


 萌が決め、陸が変化を見つける。


 樹里が、判断を支えている。


 そこへ、頼んで来てもらった者たちの手が加わった。


 休憩室の椅子へ座った陽菜は、大きく息を吐いた。


『助けてって言ってよかった』


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


 しかし、休めたのは僅かな時間だった。


 会場へ戻ろうとした陽菜の耳に、別棟から慌ただしい声が届いた。


「神崎さん。端末が動きません」


「再起動は?」


「しました。でも、同じ画面から進まなくて」


 優子のチームが使っている受付端末の前に、数人の社員が集まっていた。


 その後ろには、相談を待つ来場者がいる。


 優子は画面を確認し、すぐに本部へ連絡を入れた。


 萌も、その異変に気づいた。


「山本くん。こちらの状況は?」


「応援が来てから、待ち時間は短くなっています」


「私が少し抜けても回る?」


「今なら大丈夫です」


 萌は、止まりかけている優子のチームを見る。


 今日は競うために来た。


 相談予約の数では、まだ負けている。


 相手の受付が止まれば、その差を縮められるかもしれない。


 それでも、萌の足はすでに優子の方へ向いていた。


「神崎さん」


 優子が振り返る。


「何?」


「手伝えることは、ありますか」


 優子は一瞬、何も答えなかった。


 その間にも、端末の前で列は伸び始めていた。

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