248話「渡す理由」
バレンタイン前日の夜。
Roseの閉店後、美園はカウンターの中から呆れた顔で陽菜を見ていた。
陽菜の前には、溶けたチョコレートの入ったボウル。
その周りには、細かなチョコレートの欠片と、何に使ったのか分からないスプーンが散らばっている。
『陽菜』
『何?』
『どうして、溶かすだけでこんなに汚せるの?』
『あたしにも分かんない』
『火、強くしすぎ』
『早く溶けると思って』
『焦げるよ』
『チョコって焦げるの?』
『そこからなの?』
美園は深く息を吐き、陽菜からボウルを取り上げた。
火を止め、湯煎に使っていた鍋を確認する。
『これ、もう一回やり直した方がいいね』
『嘘。結構いい感じじゃない?』
『食べてみる?』
陽菜はスプーンの先についたチョコレートを舐める。
数秒後、何とも言えない顔になった。
『……苦い』
『焦げたからね』
『大人の味ってことにできない?』
『中井くんへ渡すんでしょ』
『うん』
『なら、ちゃんと作りな』
『はーい』
陽菜は新しいチョコレートを取り出した。
普段なら、失敗したものでも笑って押しつけていたかもしれない。
だが、今日はもう一度やり直す。
中井が喜ぶものを渡したかった。
『陽菜が、手作りねえ』
『何。その顔』
『変わったなと思って』
『昔から作ろうと思えば作れたよ』
『今、焦がしたばっかりだけど』
『美園さん、細かい』
陽菜は唇を尖らせながら、今度は美園に言われたとおりに湯煎を始めた。
『中井くん、甘すぎるものは苦手じゃなかった?』
『うん。だから砂糖少なめ』
『チョコレートに、さらに砂糖を入れようとしてたの?』
『愛情を足そうと思って』
『砂糖を愛情って呼ばないで』
『じゃあ、何入れたら愛情になる?』
『余計なものを入れないことじゃない?』
『美園さん、恋愛の話になると急に深いこと言うね』
『チョコの話だよ』
陽菜は笑いながら、溶けていくチョコレートを混ぜる。
先ほどよりも、表面は滑らかだった。
美園は隣で見守りながら、失敗しそうになったときだけ手を出す。
すべてを代わりに作ることはしなかった。
完成したのは、不揃いな小さなハート型のチョコレートだった。
形が僅かに欠けたものもある。
表面が均一ではないものもある。
それでも、陽菜は一つずつ自分で型へ流し込んだ。
『いいじゃん。かわいい』
『初めてなら、十分じゃない?』
『中井くん、泣くかな』
『泣くところまで求めるの?』
『せっかくなら』
『普通に渡しな』
『美園さんは、佐藤くんに何あげるの?』
『まだ決めてない』
答えた美園の視線が、一瞬だけカウンターの下へ向く。
陽菜は見逃さなかった。
『そこに隠してるでしょ』
『見ないで』
『あるんじゃん』
『陽菜』
『はいはい。見ません』
陽菜は完成した箱を両手で持つ。
『美園さん、ありがとう』
『どういたしまして』
『これで明日は、中井くんを喜ばせられる』
『チョコを渡すだけで終わりなよ』
『それは無理』
『聞かなかったことにする』
翌朝。
中井が朝食を用意していると、寝室から出てきた陽菜が小さな箱を差し出した。
『中井くん。はい』
「何ですか」
『見れば分かるでしょ。バレンタイン』
中井は、箱と陽菜の顔を交互に見る。
「僕に、ですか」
『ほかに誰へ渡すの』
「いえ。ただ、朝にいただけると思っていなかったので」
『会社で渡したら、みんなに見られるじゃん』
「陽菜さんは、そういうことを気にしないと思っていました」
『あたしは気にしないよ』
「では、なぜ家で?」
『中井くんは恥ずかしがるでしょ』
陽菜は得意そうに笑った。
『あたし、優しいから』
「ありがとうございます」
中井は箱を受け取った。
包装は僅かに曲がっている。
端の部分には、何度か貼り直したらしいテープの跡もあった。
「もしかして、陽菜さんが作ってくださったんですか」
『美園さんにも手伝ってもらったけど、ほとんどあたし』
「昨日、帰りが遅かったのはそのためですか」
『うん』
「ありがとうございます。本当に嬉しいです」
『まだ食べてないじゃん』
「作ろうと思ってくださったことが、嬉しいんです」
『味はどうでもいいってこと?』
「そういう意味ではありません」
『じゃあ、食べて』
「今ですか」
『感想聞きたい』
中井は箱を開けた。
不揃いなハート型のチョコレートが並んでいる。
一つを手に取り、口へ入れる。
陽菜が顔を覗き込んだ。
『どう?』
「美味しいです」
『本当に?』
「はい」
『焦げてない?』
「少しだけ、香ばしい気はします」
『やっぱり焦げてるじゃん』
「ですが、美味しいです」
『気を遣わなくていいよ』
「気を遣っていません」
中井はもう一つ手に取った。
「今までいただいたチョコレートの中で、一番嬉しいです」
『それ、元カノからもらったやつも含めて?』
「比較する必要がありますか」
『あたしが一番か知りたい』
「一番です」
『即答だ』
「陽菜さんが聞いたんでしょう」
陽菜は満足そうに笑う。
中井の頬へ口づけてから、椅子へ腰を下ろした。
『残りは、夜に一緒に食べよ』
「はい」
『お返しも、夜にゆっくりでいいからね』
「まだホワイトデーではありません」
『そういうお返しじゃないよ』
「……朝からやめてください」
中井の顔が赤くなる。
陽菜は声を上げて笑った。
島川不動産では、朝から小さな紙袋が飛び交っていた。
部署の女性社員が、日頃の礼として配るもの。
同僚同士で交換するもの。
机の上に、いつの間にか置かれているもの。
その中で柚希は、持ってきた箱を鞄から出したり戻したりしていた。
『柚希ちゃん、朝から何やってるの?』
「零ちゃんに渡すタイミング考えてる」
『今日会うんでしょ?』
「仕事が終わってから」
『じゃあ、そのときでいいじゃん』
「それは分かってるけど、なんか緊張するの」
『付き合ってるんだから、普通に渡せばいいよ』
「陽菜さんは、もう渡したの?」
『朝、家で』
「中井くん、どんな顔してた?」
『泣かなかった』
「泣かせるつもりだったの?」
『美味しいって言ってたから、まあ合格』
陽菜は柚希の持つ箱を見る。
『柚希ちゃんは買ったんだ』
「うん。零ちゃん、甘すぎるもの苦手だから」
『よく知ってるねえ』
「付き合ってるから」
柚希は照れながらも、はっきりと答えた。
その近くで、凛の携帯電話が震える。
名古屋にいる青柳から、LINEが届いていた。
〈今日まで一つ残しておきました〉
続けて送られてきた写真には、凛が渡した箱と、その中に残った最後の一粒が写っている。
〈美味しくいただきます。改めて、ありがとうございました〉
凛は小さく笑い、返事を送った。
〈こちらこそ、受け取ってくださってありがとうございました〉
少し迷ってから、もう一文加える。
〈来年は、当日に一緒に食べられたら嬉しいです〉
送信した直後、頬が熱くなる。
消そうとしたときには、既読がついていた。
〈私も同じことを考えていました〉
離れていても、気持ちは同じ日に届いている。
凛は画面を閉じ、胸元へそっと携帯電話を当てた。
昼休み。
陽菜は樹里の机へ近づいた。
『日高先輩』
『何ですか』
『渡しました?』
『何をですか』
『チョコ』
『渡すとは言っていません』
『でも、持ってきてるじゃん』
樹里の手が止まる。
机の下、鞄の中には小さな紙袋が入っている。
『なぜ分かるんですか』
『朝、いつもより鞄を丁寧に置いてたから』
『それだけで決めつけないでください』
『図星なんだ』
『櫻井さん』
『はいはい。あたし、何も見てませーん』
陽菜は笑いながら離れていく。
樹里は鞄へ一度目を向けた。
朝から、渡す機会はいくらでもあった。
神谷とは仕事の話もしている。
それでも、ほかの社員がいる前で渡すことはできなかった。
義理だと言えばいい。
仕事を助けてもらっている礼だと説明すればいい。
しかし、自分がそれだけの理由で選んだものではないことを、樹里自身が分かっていた。
定時を過ぎる。
社員が一人ずつ帰り始めた。
神谷は、高槻興産から届いた報告に目を通している。
樹里は鞄から紙袋を取り出した。
そのまま、神谷の席へ向かう。
『神谷さん』
「はい」
神谷が顔を上げる。
樹里は紙袋を差し出した。
『これを』
「……私に、ですか」
『ほかに誰がいるんですか』
今朝の陽菜と、同じ答えだった。
ただし、樹里の顔には余裕がない。
神谷は立ち上がり、両手で紙袋を受け取った。
「開けてもよろしいですか」
『今ですか』
「駄目でしょうか」
『駄目ではありません』
箱の中には、老舗の和菓子店が作った羊羹ショコラが入っていた。
神谷は商品名を見て、僅かに笑う。
「小豆ですね」
『はい』
「日高さんも、お好きなものですよね」
『自分が美味しいと思えないものを、渡す気にはなれなかったので』
「私と同じですね」
以前、互いに好きなものを尋ね、同じようにあんこと答えた。
その記憶を、樹里も残していた。
「ありがとうございます」
『大袈裟にしないでください』
「大切にいただきます」
『食べ物なので、早めに食べてください』
「はい」
神谷は、これが義理なのかとは聞かなかった。
どんな意味で渡したのか、答えを求めることもしない。
ただ、樹里が自分のために選び、渡してくれた。
その一歩を、静かに受け取った。
「日高さん」
『はい』
「とても嬉しいです」
樹里は一度、神谷の顔を見る。
すぐに視線を逸らした。
『……そうですか』
それだけを残し、自分の席へ戻っていった。
夜。
柚希がガソリンスタンドを訪れると、仕事を終えた零が事務所から出てきた。
「柚希さん。お待たせしました」
「お疲れ様、零ちゃん」
柚希が鞄から箱を取り出そうとする。
その瞬間、零も持っていた紙袋を前へ出した。
2人の動きが、同時に止まる。
「え?」
「……あ」
柚希が零の紙袋を見る。
「零ちゃんも?」
「はい。自分からも、あります」
「どっちから渡す?」
「柚希さんからでお願いします」
「なんで?」
「自分、今ちょっと緊張してるんで」
「私も緊張してるよ」
2人は顔を見合わせる。
やがて、柚希が笑った。
「じゃあ、せーので渡そう」
「分かりました」
「せーの」
同時に箱を差し出す。
「零ちゃん、いつもありがとう」
「柚希さん。これ、自分からっす」
互いの手に、互いの箱が渡る。
柚希はすぐに包装を見る。
「私が好きな店のだ」
「前に、ショーケースを見ていたので」
「覚えてたの?」
「はい。でも、甘すぎるものは苦手だと言っていたので、カカオの多いものにしました」
「零ちゃん、やっぱり真面目に調べたでしょ」
「駄目でしたか」
「ううん。嬉しい」
零も、柚希から渡された箱を開く。
中には、酒の風味を使った小さなチョコレートが並んでいた。
「零ちゃん、こういう方が好きかなと思って」
「好きっす」
「まだ食べてないじゃん」
「柚希さんが選んでくれたなら、好きです」
「そういうこと、言えるようになったね」
「今の、変でしたか」
「変じゃない。もう一回言って」
「恥ずかしいので嫌です」
柚希は笑い、零の腕へ自分の腕を絡めた。
「じゃあ、帰って一緒に食べよう」
「はい」
零は、以前よりも自然に柚希の隣を歩き始めた。
Roseでは、佐藤がいつもより早い時間に来店していた。
カウンターには、ほかの客もいる。
美園は全員へ、小さな包みを配った。
『いつもありがとう。店からのバレンタイン』
「ママからもらえるなんて、来てよかったよ」
『義理だから期待しないでね』
客たちが笑う。
佐藤の前にも、同じ包みが置かれた。
「ありがとうございます」
『佐藤くんも、いつも来てくれるから』
「はい」
佐藤は笑って受け取った。
だが、ほかの客と同じものだったことに、僅かに肩を落としている。
美園は気づいていたが、何も言わなかった。
閉店後。
客を送り出し、佐藤が帰ろうと立ち上がる。
「それでは、今日は帰ります」
『待って』
美園がカウンターの下から、細長い箱を取り出した。
『これは、佐藤くんに』
「先ほど、いただきました」
『あれは店のお客さん全員に』
「では、これは?」
『言わせたいの?』
佐藤は美園を見る。
「できれば」
美園は僅かに目を細めた。
『好きな人に渡すもの』
佐藤の表情が、目に見えて明るくなる。
「ありがとうございます」
『そんなに顔を変えないでよ』
「すみません。嬉しくて」
『さっき、分かりやすく落ち込んでたもんね』
「気づいていたんですか」
『当然でしょ。何年この仕事してると思ってるの』
「少し、期待していました」
『知ってる』
佐藤は箱を大切そうに両手で持つ。
「開けてもいいですか」
『家に帰ってから』
「なぜですか」
『カードも入ってるから』
「カード?」
『目の前で読まれるの、恥ずかしいの』
「美園さんでも、恥ずかしいことがあるんですね」
『返して』
「嫌です」
佐藤は箱を胸元へ引き寄せる。
美園は笑い、カウンター越しに佐藤のネクタイを引いた。
『じゃあ、チョコより先にこっち』
佐藤の唇へ、短く口づける。
『好きだよ、佐藤くん』
「僕も、美園さんが好きです」
『それなら、帰ってちゃんとカード読んでね』
「何度でも読みます」
『1回でいいよ』
笑い合う2人だけの時間が、閉店後のRoseに流れていた。
その夜。
陽菜と中井は、朝に残していたチョコレートを2人で食べた。
形の崩れたものを陽菜が取り、中井には綺麗なものを渡す。
「陽菜さんも、綺麗な方を食べてください」
『作った人の特権。失敗したやつはあたしが食べるの』
「味は同じです」
『じゃあ交換する?』
「はい」
中井は自分のチョコレートを陽菜へ差し出し、陽菜の持っていた欠けたものを受け取った。
『中井くん、本当にそういうところだよね』
「どういうところですか」
『あたしが好きなところ』
陽菜はチョコレートを口に入れ、そのまま中井へ顔を寄せた。
唇が重なる。
甘さが、2人の間で溶けていく。
短い口づけで終わるはずだった。
だが、陽菜は中井の首へ腕を回し、離れなかった。
『お返し、まだもらってない』
「ホワイトデーまで待ってください」
『待てない』
「陽菜さん」
『あたし、今日は頑張ったんだよ』
「チョコレートを作ってくださったことは、本当に嬉しいです」
『それだけ?』
「それだけではありません」
中井は陽菜の頬へ触れた。
「陽菜さんが帰ってきてくれたことも、2人で食べられたことも嬉しいです」
『じゃあ、もっと喜んで』
陽菜は中井の手を取り、寝室へ向かった。
ベッドへ腰を下ろし、中井を見上げる。
ふざけた笑顔は、もうなかった。
『中井くん』
「はい」
『今日は、あたしからお願いしたい』
中井は陽菜の前へ立つ。
その唇へ、もう一度口づけた。
触れ合うたびに、陽菜は中井の背中へ腕を回す。
これまでの陽菜は、中井から与えられる愛情を受け止めることが多かった。
今夜は違う。
自分から触れたい。
自分から求めたい。
それほどまでに、この人を愛している。
中井の手が、枕元へ向かう。
置いてあるコンドームへ伸びた手を、陽菜が止めた。
『今日は、つけなくていいよ』
中井が陽菜を見る。
「今日も、ですか」
『うん』
「前に話したことから、気持ちは変わっていませんか」
『変わってないよ』
陽菜は迷わず答えた。
『中井くんは?』
「僕も変わっていません」
『なら、もう確認終わり』
「大事なことなので、毎回でも確認します」
『相変わらず真面目だねえ』
「陽菜さんの体に関わることですから」
『分かってる』
以前、2人はすでに話し合っていた。
避妊しなければ、妊娠する可能性があること。
もし命が宿ったときは、どちらか一人へ背負わせず、2人で向き合うこと。
今夜の気分だけで決めたことではない。
だから中井は確認し、陽菜もその問いを面倒だとは切り捨てなかった。
『中井くん』
「はい」
『抱いて』
中井は枕元へ伸ばしていた手を戻した。
陽菜の頬へ触れ、静かに口づける。
「途中で嫌になったら、言ってください」
『うん』
「少しでも痛かったら、それも」
『分かったから』
陽菜は中井の首へ両腕を回した。
『早く、あたしのことだけ見て』
「見ています」
『もっと』
陽菜が求め、中井が応える。
何度も体を重ねてきた。
それでも、同じ夜は一度もない。
今夜の陽菜は、愛されることを待ってはいなかった。
自分から中井を求め、自分の愛情を返そうとしている。
『中井くん』
「はい」
『最後も、そのままでいいから』
中井は、陽菜の目を見つめた。
「分かりました」
短い確認だけで、互いの意思は十分に伝わった。
やがて中井は、避妊をしないまま、陽菜の中で果てた。
すべてが終わったあとも、中井は陽菜から離れなかった。
腕の中へ抱きしめ、乱れた髪を整える。
「体調は、大丈夫ですか」
『大丈夫』
「本当に?」
『心配しすぎ』
「心配します」
『じゃあ、ずっと抱いてて』
「はい」
陽菜は中井の胸へ頬を寄せた。
今夜だけの特別な選択ではない。
2人が以前から話し合い、互いの意思を確かめながら重ねてきた選択だった。
妊娠するかどうかは、まだ分からない。
すぐに何かが変わるとも限らない。
それでも、いつか命が宿ったとき。
それは突然降ってきた出来事ではなく、2人が未来の可能性を受け入れてきた時間の先に訪れる。
『中井くん』
「はい」
『チョコ、美味しかった?』
「今、それを聞くんですか」
『大事でしょ』
「美味しかったです」
『来年は焦がさないようにする』
「来年も、作ってくださるんですか」
『中井くんがいい子にしてたらね』
「努力します」
『何それ』
陽菜は小さく笑い、中井の胸へさらに身を寄せた。
バレンタインの夜。
贈ったのは、チョコレートだけではなかった。
それぞれが、それぞれの方法で。
隣にいる人と歩きたいという気持ちを、形にして渡した。




