247話「普通の週末」
翌朝。
凛が目を覚ますと、隣には青柳がいた。
閉じたカーテンの向こうから、淡い朝の光が差し込んでいる。
離れて暮らすようになってから、電話越しに声を聞きながら眠ることはあった。
だが、目を開けたときに同じ部屋にいるのは、名古屋へ泊まった夜以来だった。
青柳は、まだ眠っている。
凛は起こさないようにベッドを出ようとした。
そのとき、手首を優しく掴まれる。
「どこへ行くんですか」
「起きていたんですか」
「遠藤さんが動いたので、起きました」
「朝食を作ろうと思っただけです」
「もう少し、このままでは駄目ですか」
青柳の目は、まだ完全には開いていない。
普段の隙のない姿とは違う。
凛は僅かに笑った。
「お腹は空いていませんか」
「空いています」
「では、起きてください」
「それでも、もう少しだけ」
青柳は凛の手を離さない。
会えなかった時間を埋めるように、指を絡めている。
「青柳さん」
「はい」
「今日の夜には、名古屋へ戻るんですよね」
「はい」
「なら、私ももう少し、このままがいいです」
凛はベッドへ戻った。
青柳の隣へ横になり、その胸元へ僅かに近づく。
大きなことは何も起きない。
ただ、同じ朝を迎える。
それだけで、離れていた距離が少しだけ埋まっていった。
その週末。
チーム櫻井モデルは、大抽選会前、最後となる通常公開を迎えた。
次の週末には、広告を見た多くの来場者が集まる。
今日の目的は、相談予約の件数だけではない。
改善した運用が、実際に機能するか。
大抽選会の混雑に耐えられるか。
それを確かめるための、最後の機会だった。
開場前、萌が全員へ役割表を配る。
「判断役は、1時間交代です。交代の5分前から、次の担当者と一緒に会場を確認してください」
『了解』
陽菜が最初に答える。
「受付で待っている方が3組になった場合は、見学担当から1名を移します。相談希望が2組以上待っている場合は、経験者を相談席へお願いします」
『私と櫻井さんですね』
樹里が確認する。
「はい。ただし、お2人が接客中の場合は、待ち時間を正確に伝えます。無理に途中で切り上げる必要はありません」
『分かりました』
「山本くんは、前回と同じく会場全体の確認をお願い」
「はい」
「ただ見るだけじゃなくて、担当者の疲労も見てほしい」
「疲労ですか」
「混雑すると、休憩を忘れる人がいるから」
萌の視線が陽菜へ向く。
『なんであたしを見るの?』
「一番忘れそうだからです」
『忘れないよ』
『櫻井さんは忘れます』
樹里が即座に言った。
『日高先輩まで』
『前回も昼食を後回しにしようとしたでしょう』
『あれは混んでたから』
「だからです」
萌が引かなかった。
「今日は、判断役が休憩の順番も決めます。櫻井さんも従ってください」
『はい……』
陽菜が渋々答える。
陸は役割表へ一項目を書き加えた。
「体調が悪そうな人がいたら、本人に聞いてから川原さんへ報告します」
「うん。勝手に決めず、先に本人へ確認して」
「分かりました」
以前の陸なら、自分がそう感じたという理由だけで相手を休ませようとしたかもしれない。
今は、見えたものと自分の判断を分けようとしている。
樹里は2人のやり取りを聞きながら、資料を閉じた。
『川原さん』
「はい」
『今日は、私から運用について指示を出しません』
萌の表情が僅かに硬くなる。
『ただし、必要なら呼んでください』
「私が判断を間違えたときは?」
『その結果を見てから、一緒に考えます』
「先に止めなくていいんですか」
『危険がある場合や、お客様へ大きな不利益が出る場合は止めます。それ以外は、川原さんが決めてください』
任せる。
だが、放置はしない。
樹里は、その違いを言葉にして萌へ渡した。
「分かりました」
萌は役割表を持ち、会場の中央へ立った。
午前中は、大きな混乱もなく進んだ。
来場者の目的を受付で確認し、見学と相談へ分ける。
判断役が会場全体を見ながら、必要な場所へ人を移す。
前回の修正も機能していた。
午後1時を過ぎた頃、来場者が急に増えた。
受付に4組。
見学中が7組。
相談席はすべて埋まっている。
さらに、次の相談を待つ客が2組いた。
「川原さん」
陸が萌のもとへ来る。
「相談席の1組が、まだ時間掛かりそうです。ご夫婦で意見が分かれています」
「担当は?」
「櫻井さんです」
「受付は?」
「日高さんが入りました。でも、見学担当が1人足りません」
萌は会場を見渡した。
陽菜を相談席から動かすことはできない。
樹里を受付から外せば、入口が止まる。
「私が見学へ入る」
「判断役はどうしますか」
「山本くん、できる?」
陸が一瞬、言葉に詰まる。
「俺が決めるんですか」
「1人で全部決めなくていい。迷ったら私を呼んで」
「でも、川原さんも接客中になります」
「櫻井さんか日高さんへ聞いて。それでも間に合わないなら、一番被害の少ない方法を選んで」
「被害の少ない方法?」
「待ち時間が伸びるのか、案内が薄くなるのか。どちらも避けられないなら、何を優先するか決める」
陸は会場を見る。
自分にできるのかという不安は残っている。
それでも、逃げなかった。
「やります」
「お願い」
萌は見学を待っていた家族のもとへ向かった。
陸が判断役の位置に立つ。
人の動きが、今までとは違って見えた。
客だけではない。
受付で説明を続ける樹里。
相談席から離れられない陽菜。
資料を補充する社員。
全員が、別の場所を見て動いている。
その中で、陸だけが全体を見なければならない。
受付から、新しい来場者が入ってくる。
相談席は空かない。
見学担当も戻らない。
(どうする)
以前なら、自分で案内へ入っていただろう。
だが、自分まで持ち場を離れれば、全体を見る人間がいなくなる。
陸は受付へ向かった。
「日高さん」
『はい』
「新しく来られた方は、見学ですか。相談ですか」
『見学です。時間にも余裕があるそうです』
「では、待ち時間を説明していただいてもいいですか。見学担当が戻るまで、資料を見ながら待っていただきます」
『分かりました』
陸は勝手に客の希望を決めなかった。
樹里が確認した情報を受け取り、待ってもらえる相手だと判断した。
次に、会場奥へ目を向ける。
資料を補充していた社員の動きが、朝より遅い。
陸は近づく。
「体調、大丈夫ですか」
「少し疲れただけ。問題ないよ」
「次の休憩まで、あとどのくらいですか」
「30分くらいかな」
「一度、川原さんに相談します。休憩を早められるか確認してもいいですか」
「そこまでしなくても」
「次の週末は、今日より混みます。今のうちに休憩の回し方も試したいので」
体調が悪いと決めつけない。
だが、見なかったことにもしない。
陸は萌が接客を終えるのを待ち、状況を報告した。
「10分早めて休憩へ入ってもらおう。代わりは私が入る」
「川原さんは、さっき接客から戻ったばかりです」
「私は大丈夫」
「確認してもいいですか」
「何を?」
「本当に大丈夫ですか」
萌は陸を見る。
客やほかの社員だけではない。
陸は、判断する萌のことも見ていた。
「……5分休んでから入る」
「はい」
その直後、相談を終えた陽菜が戻ってきた。
『次、あたしどこ?』
「休憩です」
『まだ大丈夫だよ』
「予定より20分遅れています」
『でも、今抜けたら』
「山本くん。櫻井さんの様子は?」
「朝から水分もほとんど取っていません」
『陸、告げ口した!』
「見えたことを報告しました」
『言い方が優等生になってる』
「櫻井さん、休憩してください」
「萌まで」
『櫻井さん』
受付から、樹里が呼ぶ。
『休んでください』
『……はい』
陽菜は不満そうにしながらも、休憩スペースへ向かった。
その背中を見送り、萌が陸へ言う。
「山本くん。判断、合ってたよ」
「川原さんに確認する前に、日高さんが決めましたけど」
「それでも、報告がなければ分からなかった」
「はい」
「次もお願い」
「分かりました」
午後の混雑を乗り越え、通常公開は終了した。
相談予約は、14件。
前回の11件を上回った。
神崎優子の側は、15件。
差は、僅か1件だった。
『あと1件かあ』
陽菜が集計表を見ながら唇を尖らせる。
「前回より、差は縮まりました」
萌が答える。
『でも、負けは負けだよ』
「はい」
『悔しい?』
「悔しいです」
『あたしも』
陽菜は集計表を机へ置いた。
そこへ優子がやってくる。
「随分、近づいてきたわね」
『優子、声がちょっと怖いよ』
「怖がっているようには見えないけど」
『次は勝つから』
「次は大抽選会よ」
優子は会場を見渡した。
「今日と同じつもりでいたら、入口から動けなくなる」
「分かっています」
答えたのは、萌だった。
優子が萌を見る。
「今日の人数でも、判断役が接客へ入ったでしょう」
「はい」
「次は、判断役が抜ける余裕もないと思う」
「判断役を2人にします」
萌はすぐに答えた。
「1人が全体を見て、もう1人が受付と相談席を繋ぎます」
「人手は?」
「今週中に見直します」
「簡単に増やせるとは思わないことね」
『優子』
陽菜が口を挟む。
『もしかして、助言してくれてる?』
「違うわ」
『じゃあ、なんでそんなに教えてくれるの?』
「失敗して、客に迷惑を掛けられたら困るからよ」
『優しいなあ』
「陽菜、本当に黙って」
優子は不機嫌そうに背を向ける。
しかし、去る前に一度だけ立ち止まった。
「今日の動きは、悪くなかった」
それだけを残し、自分のチームへ戻っていく。
陽菜が嬉しそうに萌と陸を見る。
『褒められたじゃん』
「悪くなかった、ですけど」
「神崎さんにしては、褒めていると思います」
陸の言葉に、萌も小さく頷いた。
片づけを終え、全員が外へ出る。
冷たい風の中、陽菜は陸と萌の間へ入り、2人の肩を抱いた。
『来週、絶対成功させようね』
「近いです」
「重いです」
『2人とも反応が冷たい』
「櫻井さん、今日も休憩を拒否しましたよね」
「次は、もっと厳しく休ませます」
『なんで大抽選会前に結束して、あたしを管理しようとしてるの?』
「倒れられたら困るからです」
萌が答える。
「チーム櫻井モデルは、櫻井さんの名前がついています。でも、櫻井さん一人のチームではありません」
陽菜の笑顔が、僅かに止まる。
それは以前、陽菜自身が周囲へ伝えようとしていたことだった。
今は萌の口から、自分へ返されている。
『……うん』
陽菜は2人の肩を抱く腕から力を抜いた。
『次は、ちゃんと言うこと聞く』
「約束ですよ」
『約束』
大抽選会まで、あと1週間。
この日は、最後の普通の週末だった。
次に同じ場所へ立つときは、今日とは比べものにならない数の客が訪れる。
誰か一人では支えきれない一日。
だからこそ、今のチーム櫻井モデルには意味があった。
週が明ければ、バレンタインデーが来る。
それぞれが大切な人へ、自分なりの気持ちを渡す。
その短い日常を挟んだ先に、チームのすべてを試される週末が待っていた。




