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246話「少し早い日」

高槻社長から与えられた期限の最終日。


 神谷と樹里は、再び高槻興産を訪れていた。


 応接室の机には、修正した工程表と費用計画が並んでいる。


「12営業日」


 高槻は工程表を見ながら言った。


「結局、縮めなかったか」


「はい」


 神谷は正面から答えた。


「再度検討しましたが、これ以上の短縮は安全面に影響すると判断しました」


「俺に、12日必要だと証明しろと言った意味は分かっているな」


「遅らせる理由を並べるのではなく、必要な期間であることを示せ、という意味だと受け取っています」


「それで?」


「安全設備の改善に4日。資格保有者の再配置に3日。資材納入の調整に5日必要です。ただし、すべての工程が終わるまで着工を待つわけではありません」


 神谷は区画ごとに色分けした工程表を示す。


「主要区画は、当初の予定どおり着工します。その後、条件の整った区画から順次加えます」


「途中で遅れが出た場合は?」


「週単位ではなく、毎日進捗を確認します。問題が出た時点で、翌日以降の人員配置を修正します」


「誰が確認する」


「現地は森山さん。各社との連絡と費用管理は緒方さん。全体工程は私が担当します」


「日高は?」


「現場ごとの安全面と、計画変更による影響を確認していただきます」


 高槻が樹里を見る。


「お前は、それでいいのか」


『はい』


「神谷に仕事を振られたから、引き受けただけじゃないだろうな」


『違います』


 樹里は安全管理計画を開いた。


『17社それぞれから、毎日の作業人数と負傷者の有無を報告していただきます』


「毎日か。面倒だと反発されるぞ」


『すでに森山さんから説明していただきました』


「全社、納得したのか」


『初めは3社から難色を示されました』


「どうした」


『報告項目を減らしました』


「減らしていいのか」


『必要な情報まで減らしてはいません。記入に時間が掛かっていた重複項目を削除しました』


「現場へ新しい書類を増やして、安全になったつもりでは意味がないからな」


『はい。作業を止めてまで書く記録ではありません』


 高槻は安全管理計画へ目を落とした。


「緒方」


「はい」


「費用は確認したか」


「確認しました。神谷さんから提示された金額と、各社から集めた見積もりに大きな差はありません」


「資格支援は?」


「今回の計画へ必要な資格だけでなく、今後の現場で使用できるものを優先しています」


「誰の判断だ」


「森山さんです。現地で不足している資格を、岐阜支社で整理していただきました」


 高槻は椅子の背へ体を預けた。


 工程表を見ている。


 神谷は答えを急かさなかった。


 樹里も黙って待つ。


「この計画なら、絶対に止まらないと言えるか」


「言えません」


 神谷の答えに、緒方が僅かに顔を向けた。


「何が起きるか、すべてを事前に予測することはできません」


「なら、これは何のための計画だ」


「問題が起きたとき、誰か一人へ負担を集めずに立て直すための計画です」


 高槻の目が、神谷を捉える。


「止めないと約束するのではなく、止まりそうになったときに気づき、支えられる状態を作ります」


「お前自身も、その中に入っているんだろうな」


「はい」


「また倒れれば、今度こそ外すぞ」


「承知しています」


「日高」


『はい』


「こいつが怪しいと思ったら、俺への報告より先に止めろ」


『止めます』


「本人の許可はいらん」


『そのつもりです』


「日高さん」


 神谷が困ったように樹里を見る。


『何ですか』


「少しは迷ってください」


『迷う理由がありません』


 緒方が小さく笑いを漏らす。


 高槻も、僅かに口元を緩めた。


「なら、これで進めろ」


 神谷の表情が引き締まる。


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い」


「はい」


「俺が認めたのは計画だ。結果じゃない」


 高槻は修正工程表を神谷へ返した。


「主要区画の着工は予定どおり。全体の完成は12営業日後ろへ動かす。取引先への説明は俺からする」


「よろしいのですか」


「俺が認めた計画を、下の人間だけに説明させるつもりはない」


 高槻は緒方へ顔を向ける。


「岐阜には、俺からも連絡する。森山に、最後まで付き合わせると伝えろ」


「承知しました」


「お前たちも、ここからだ」


 高槻の視線が、神谷と樹里へ戻る。


「紙を通しただけで、仕事を終えた顔をするな」


「はい」


『承知しました』


 応接室を出たあと、緒方が深く息を吐いた。


「通りましたね」


「はい」


 神谷も、ようやく僅かに笑った。


「緒方さん、見積もりの取りまとめをありがとうございました」


「私は任されたことをしただけです」


『それでも、緒方さんが各社と繋いでくださらなければ間に合いませんでした』


「日高さんまで」


 緒方は照れたように視線を逸らした。


「森山さんにも、同じことを言ってあげてください。昨夜も、かなり遅くまで確認していたようです」


「もちろんです」


 神谷はその場で携帯電話を取り出した。


 自分たちだけで通した計画ではない。


 17社の声を拾い、緒方が繋ぎ、森山が現地を動かした。


 多くの人間へ任せたからこそ、3日間で形にできた。


 神谷は森山へ電話を掛ける。


「森山さん。神谷です」


 以前なら、すべてが終わるまで後回しにしていた感謝を、今はすぐに言葉へする。


「計画が承認されました。ご協力いただき、本当にありがとうございました」


 高槻興産の計画が正式に動き始めてから、間もなく2月に入った。


 島川不動産の休憩時間。


 陽菜が、机の上に置かれた小さな卓上カレンダーを見ていた。


『もうすぐバレンタインじゃん』


 唐突な言葉に、中井の手が止まる。


「そうですね」


『中井くん、チョコ欲しい?』


「今、本人へ聞くんですか」


『欲しいか分からないのに作れないでしょ』


「作ってくださるんですか」


『欲しいなら』


「欲しいです」


『即答だ』


「聞かれたので」


 中井の顔は、すでに少し赤い。


 陽菜はそれを見て、満足そうに笑った。


『じゃあ、めちゃくちゃ甘いやつ作る』


「普通の甘さでお願いします」


『あたしの愛が重いから無理』


「会社で言わないでください」


『同棲してるの、全員知ってるじゃん』


「それとこれは別です」


 2人の会話を聞き、柚希が自分のカレンダーを見る。


「私も、零ちゃんに何か渡そうかな」


『チョコでいいんじゃない?』


「でも、女の子同士だと、どっちが渡すんだろう」


『両方渡せばいいじゃん』


「それもそうか」


『零、絶対すごい真面目に選びそう』


「分かる。チョコ1個買うのに、成分表まで見そう」


『柚希ちゃんの好きな味、全部調べるよ』


「それはちょっと恥ずかしいなあ」


 柚希はそう言いながら、嬉しそうに笑った。


 少し離れた席では、凛が携帯電話の画面を見ていた。


 青柳からLINEが届いている。


〈来月東京へ行くと話していましたが、2月最初の週末はいかがですか〉


 凛はカレンダーを確認する。


 バレンタインデーより、少し早い。


 当日に合わせて来てほしいと言えば、青柳はきっと予定を調整しようとする。


 だが、仕事の都合もある。


 離れて暮らしている2人が、毎回行事の日に会えるとは限らない。


〈大丈夫です。私も休みです〉


 送信すると、すぐに返事が届いた。


〈では、その日に伺います〉


 凛の視線が、陽菜たちの卓上カレンダーへ向く。


 少し早くてもいい。


 会える日に渡せば、それが2人にとってのバレンタインになる。


『凛ちゃん』


 陽菜に呼ばれ、凛が顔を上げる。


『今、青柳さん?』


「どうして分かるんですか」


『凛ちゃんが携帯見て、そんな柔らかい顔する相手、ほかにいないじゃん』


「そんな顔はしていません」


『してたよ。会うの?』


「2月最初の週末に、東京へ来てくださるそうです」


『バレンタイン前じゃん』


「少し早いですけど、何か渡そうかと思っています」


『手作り?』


「いえ。買います」


『即答だ』


「お菓子作りは、ほとんどしたことがありません」


『じゃあ、一緒に作ろうよ』


「陽菜さんとですか」


『あたしも中井くんに作るから』


「陽菜さんは、お菓子を作れるんですか」


『……多分』


「不安しかありません」


 凛の率直な言葉に、柚希が吹き出した。


『柚希ちゃんまで笑わないでよ』


「だって、陽菜さん、目分量で全部入れそう」


『料理は感覚でしょ』


「お菓子は分量が大事だと思います」


「僕も、できればレシピどおりに作っていただけると嬉しいです」


 中井まで加わる。


 陽菜は不満そうに3人を見回した。


『誰もあたしを信用してない』


「日頃の行いだと思います」


 凛が答える。


 その会話を聞いていた樹里が、僅かに顔を上げた。


 陽菜はすぐに気づく。


『日高先輩は、誰かにあげるんですか』


『あげません』


『まだ何も聞いてないですよ』


『聞かなくても分かります』


『神谷さん、甘いもの好きですよ』


『知っています』


 答えてから、樹里の手が止まった。


 陽菜の笑みが深くなる。


『知ってるんだ』


『以前、聞きましたから』


『じゃあ、あんこ入りのチョコとか?』


『なぜ、あんことチョコを合わせるんですか』


『2人とも好きでしょ』


『私は、渡すとは言っていません』


『考えてはいるんだ』


『仕事をしてください』


『はいはい』


 陽菜は笑いながら、自分の席へ戻った。


 樹里は書類へ視線を落とす。


 神谷へチョコレートを渡す理由などない。


 恋人ではない。


 明確な返事をしたわけでもない。


 それでも、岐阜の夜が頭をよぎった。


 自分の歩幅に合わせてくれた人へ。


 ほんの少しだけ、自分から近づく。


 それは、言葉だけで終わらせるものではないのかもしれない。


 一方、凛は仕事を終えたあと、Roseへ向かった。


 その日は、アルバイトに入る日だった。


 閉店後。


 最後のグラスを棚へ戻しながら、美園が尋ねる。


『凛ちゃん、さっきから考え事してる?』


「分かりますか」


『何度も同じグラスを拭いてたから』


 凛が手元を見る。


 確かに、すでに乾いているグラスを持ったままだった。


「青柳さんが、2月最初の週末に東京へ来ることになりました」


『よかったじゃん』


「はい。それで、少し早いですけど、バレンタインのチョコを渡そうと思っています」


『いいと思うよ』


「当日ではなくても、変ではありませんか」


『遠距離なんだから、会える日が2人の当日でいいでしょ』


「陽菜さんにも、同じことを言われそうです」


『陽菜なら、日にちを間違えたって平気で14日にもう一回渡すよ』


「ありそうです」


 凛は小さく笑った。


『手作りするの?』


「買うつもりです」


『凛ちゃんらしいね』


「気持ちが足りないでしょうか」


『そんなことないよ』


 美園はカウンターへ肘をつく。


『相手のことを考えて選んだなら、買ったものでも十分でしょ。自分が作りたいなら作ればいいし、手作りの方が喜ぶと思って無理するなら、やめた方がいい』


「そうですね」


『青柳くん、何が好きなの?』


「甘すぎるものは、あまり得意ではないと思います」


『なら、お酒の入ったものとか』


「仕事の合間には食べられませんね」


『そこまで考える?』


「名古屋へ持ち帰っていただくので」


 美園は凛を見つめたあと、笑った。


『ちゃんと恋人してるね』


「……そうでしょうか」


『うん。前は、会いたいって言うだけでも悩んでたのに』


 凛は少しだけ頬を赤くする。


「今でも、悩みます」


『それでも言えるようになったんでしょ』


「はい」


『じゃあ、今度は渡したいものを渡せばいいよ』


「分かりました」


 数日後。


 2月最初の週末。


 凛が待ち合わせ場所へ着くと、青柳はすでに立っていた。


 遠くからでも、すぐに見つけられた。


 凛が近づく。


「お待たせしました」


「いえ。私も今来たところです」


「嘘ですね」


「どうしてですか」


「青柳さんは、いつも早く来るので」


「遠藤さんも、待ち合わせの15分前です」


「私は普通です」


「私も普通です」


 2人は顔を見合わせる。


 以前なら、そこで会話が途切れていたかもしれない。


 今は、どちらからともなく笑った。


「お久しぶりです」


 青柳が言う。


「はい」


「会いたかったです」


 凛の胸が、僅かに熱くなる。


 電話越しではなく、目の前で言われる。


 その言葉は、思っていたより真っ直ぐに届いた。


「私も、会いたかったです」


「覚えていてくださったんですね」


「何をですか」


「東京へ来たら言うと、約束していたでしょう」


 電話で、青柳からもう一度聞きたいと言われた言葉。


 凛は覚えていた。


「忘れてくださってもよかったのに」


「忘れられません」


「そうですか」


「はい」


 凛は持っていた鞄から、小さな紙袋を取り出した。


「青柳さん」


「何でしょうか」


「少し早いですけど」


 両手で差し出す。


「バレンタインです」


 青柳が目を見開いた。


「私に、ですか」


「ほかに誰がいるんですか」


「いえ。すみません。嬉しくて」


 青柳は紙袋を受け取った。


 濃紺の箱に入った、甘さを抑えたチョコレート。


 名古屋へ持ち帰ることを考え、崩れにくいものを選んでいる。


「ありがとうございます。大切に食べます」


「食べ物なので、大切にしすぎないでください」


「では、毎日一つずつ食べます」


「賞味期限の範囲でお願いします」


「遠藤さん」


「はい」


「来てよかったです」


「チョコレートをもらえたからですか」


「それも嬉しいです」


 青柳は、凛を見つめる。


「ですが、遠藤さんに会えたことが一番です」


 凛は目を逸らさなかった。


 代わりに、自分から青柳の手を取る。


「今日は、まだ始まったばかりです」


「はい」


「会えなかった分、ゆっくり話したいです」


「私もです」


「それから」


 凛は少しだけ迷った。


 それでも、手を離さずに続ける。


「今夜、予約しているホテルを取り消せますか」


 青柳の表情が止まる。


「……取り消せると思います」


「では、私の部屋へ来ませんか」


「よろしいんですか」


「嫌なら、無理には言いません」


「嫌なわけがありません」


 今度は青柳が、凛の手を握り返した。


 バレンタイン当日ではない。


 特別な演出もない。


 それでも、離れて暮らす2人にとっては、会えた今日が特別だった。


 少し早いバレンタイン。


 凛はチョコレートだけでなく、自分の帰る場所へ青柳を招いた。

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