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245話「それぞれの夜」

高槻社長から与えられた、3日間。


 修正すべき項目は多かった。


 17社の人員配置。


 資格保有者の数。


 安全設備の改善に必要な期間と費用。


 区画ごとの着工日。


 工期を12営業日延ばす根拠。


 以前の神谷なら、それらすべてを自分の机へ集めていた。


 誰かへ頼むより、自分で確認した方が早い。


 責任を負うのは自分なのだから、自分が把握していなければならない。


 その考えが、神谷を一度倒れさせた。


「緒方さん」


「はい」


「安全設備の改善費用について、各社から見積もりを集めていただけますか」


「私がまとめてよろしいんですか」


「お願いします。届いたものを私が確認します」


「承知しました」


「森山さんには、資格保有者の再確認をお願いします。現在別の現場へ入っている方を、今回の人数へ含めないように伝えてください」


「分かりました」


 緒方が自分の席へ戻る。


 神谷は次の資料を手に取った。


 すべてを手放したわけではない。


 どこへ何を任せたのかを把握し、届いた情報を一つの計画へまとめる。


 自分で作業するのではなく、全体を動かす。


 それが今回、神谷へ求められている役割だった。


『神谷さん』


 樹里が修正工程表を持ってくる。


『第2段階の着工日を変更しました』


「資材の納入が間に合いませんでしたか」


『はい。現状では、作業開始から2日目に不足します』


「先に別の区画を進めることはできますか」


『可能です。ただし、その場合は人員の移動が必要になります』


「移動による負担は?」


『森山さんへ確認中です』


「分かりました。回答が来たら、一緒に見ましょう」


『はい』


 樹里はすぐに自分の席へ戻らず、神谷の机を見る。


 以前のように、すべての資料が積み上がってはいない。


『神谷さん』


「何でしょうか」


『今回は、きちんと任せていますね』


「日高さんに、また怒鳴られたくありませんから」


『私が怒るからですか』


「それだけではありません」


 神谷は樹里を見る。


「私が倒れれば、困る人がいると分かりました」


 その中に自分も含まれている。


 神谷がそう伝えようとしていることに、樹里は気づいた。


『忘れないでください』


「はい」


『3日間、倒れずに終わらせます』


「もちろんです」


 返事に迷いはなかった。


 少し離れた席では、チーム櫻井モデルの改善案について、陽菜たちが話していた。


『萌。次は判断役、何人で回す?』


「常時1人です。ただし、交代する5分前に、次の担当者と一緒に会場を確認します」


『引き継ぎ時間を作るんだ』


「はい。山本くんから、交代した直後に状況を把握するまで時間が掛かると言われました」


 陽菜が陸を見る。


『陸、ちゃんと言えたじゃん』


「見えたことを報告する役なので」


『前なら、自分で何とかしようとしてたでしょ』


「それで失敗したので、もうやりません」


『成長したねえ』


「頭を撫でようとしないでください」


『いいじゃん、ちょっとくらい』


「嫌です」


 陸が椅子ごと僅かに後ろへ下がる。


 陽菜が手を伸ばし、陸がさらに逃げる。


「櫻井さん、話が進みません」


 萌に止められ、陽菜は渋々手を戻した。


『萌、最近あたしに厳しくない?』


「判断役なので」


『今は会議中だよ』


「会議でも、進行を止めているのは櫻井さんです」


 陽菜の正面から、返す言葉が消えた。


 陸が下を向いて笑いを堪える。


 周囲の社員たちも、聞こえていないふりをしながら肩を揺らしていた。


 神谷が時計を見る。


 定時を少し過ぎている。


「櫻井さん」


『はい?』


「今日の作業は、そこまでにしませんか」


『もう少しだけやります』


「中井が待っていますよ」


 陽菜が時計を見る。


 以前なら、そのまま作業を続けていただろう。


 自分が帰らなくても、困るのは自分だけだと思っていた。


 今は違う。


『……今日は終わりにしよっか』


 陽菜が資料を閉じる。


『萌、陸。続きは明日ね』


「はい」


「分かりました」


 陽菜は自分の机へ戻り、慌ただしく帰る準備を始めた。


 神谷が僅かに笑う。


『何ですか』


「何も言っていません」


『顔に出てますよ』


「櫻井さんも、きちんと帰れるようになったと思っただけです」


『同棲ってすごいですね。帰らないと怒られるんで』


「中井は怒らないと思いますが」


『だから余計に帰らないと駄目なんですよ』


 陽菜は鞄を持ち、中井の席へ向かった。


『中井くん、帰ろ』


「もう終わったんですか」


『何、その驚いた顔』


「今日は遅くなると思っていました」


『帰っちゃ駄目?』


「いえ。嬉しいです」


 中井はすぐに書類を片づけた。


 陽菜はその横で待ちながら、神谷へ向かって得意そうに笑う。


『ほら。あたしが帰ると喜ぶ人がいるんです』


「知っています」


「陽菜さん、恥ずかしいので大きな声で言わないでください」


『中井くん、まだそれ恥ずかしいの?』


「恥ずかしいです」


『かわいいねえ』


「会社でからかわないでください」


『家ならいい?』


「そういう意味ではありません」


 中井の顔が赤くなる。


 陽菜は楽しそうに笑いながら、隣に並んだ。


『じゃ、お先に失礼しまーす』


「お先に失礼します」


 2人は同じ方向へ帰っていった。


 中井の部屋へ着くと、食卓には作り置きの料理が並んでいた。


 陽菜が冷蔵庫を開き、目を丸くする。


『これ、中井くんが作ったの?』


「日曜日に少しだけ作っておきました」


『あたしが帰ってこない前提みたい』


「帰りが遅くなっても、何か食べられるようにと思っただけです」


『怒ってないの?』


「何にですか」


『一緒に住み始めたのに、あたし、仕事のことばっかりだから』


 中井は電子レンジへ皿を入れ、時間を設定した。


「寂しくないとは言いません」


『うん』


「でも、陽菜さんが頑張っていることを止めたくもありません」


 電子レンジが動き始める。


 中井は陽菜へ向き直った。


「ただ、帰ってきてほしいとは思っています」


 陽菜は少しだけ黙った。


 それから、中井の背中へ両腕を回す。


『ただいま』


「はい。おかえりなさい」


『毎日言ってるけど、まだ好き』


「僕もです」


『ご飯より先にキスする?』


「料理が温まるまでなら」


『そこは、時間を決めなくてもいいじゃん』


 陽菜は笑い、中井の頬へ口づけた。


 同じ頃。


 Roseでは、最後の客を送り出した美園が、カウンターのグラスを片づけていた。


「美園さん。ほかに何かありますか」


 佐藤が袖をまくり、洗い終えたグラスを布巾で拭いている。


『佐藤くんはお客さんなんだけど』


「もう閉店しました」


『閉店したら店員になるの?』


「美園さんを早く帰せるなら、なります」


『私の店なのに』


 美園は呆れたように笑う。


 佐藤が拭いたグラスを、棚へ戻そうとする。


『あ、それは上じゃなくて下』


「こちらですか」


『うん。背の高いグラスは上。普段使うものは下』


「分かりました」


『随分、慣れてきたね』


「何度も来ていますから」


『そのうち、私がいなくても店を開けそう』


「それは困ります」


『どうして?』


「美園さんがいないなら、来る理由がありません」


 佐藤は、何でもないことのように答えた。


 美園の手が、一瞬だけ止まる。


『そういうこと、普通の顔で言うようになったね』


「本当のことなので」


『前は、すぐ真っ赤になってたのに』


「今でも恥ずかしいです」


『顔に出なくなっただけ?』


「少しは、慣れました」


 美園は佐藤へ歩み寄る。


 顔を近づけると、佐藤の耳が僅かに赤くなった。


『全然慣れてないじゃん』


「……近いです」


『嫌?』


「嫌ではありません」


『じゃあ、このまま』


 美園は佐藤の胸へ額を預けた。


 派手な言葉も、からかうような笑顔もない。


 店の灯りを落としたあとの静かな時間だけが流れる。


 佐藤は持っていた布巾をカウンターへ置き、美園の背中へ腕を回した。


「今日は、何時に寝られそうですか」


『佐藤くんが手伝ってくれたから、いつもより早く寝られそう』


「よかったです」


『でも、もう少しこのままでいて』


「はい」


 誰かに頼ることを苦手としていた美園が、自分からそう言った。


 佐藤は余計なことを言わず、抱きしめる腕へ少しだけ力を込めた。


 凛の部屋では、携帯電話の画面に青柳の名前が表示されていた。


「今日は、もう仕事は終わったんですか」


「はい。今、部屋へ戻ったところです」


 電話の向こうから、青柳の声が聞こえる。


 名古屋へ移ってから、2人は毎日のように連絡を取っていた。


 長く話す日もあれば、声を聞くだけで終わる日もある。


「夕食は食べましたか」


「これからです。遠藤さんは?」


「私は、Roseで賄いをいただきました」


「今日はアルバイトだったんですね」


「はい。美園さんに、随分慣れたと言っていただきました」


「それは見てみたいです」


「何をですか」


「Roseで働いている遠藤さんを」


 凛はベッドの端へ腰掛けた。


「東京へ来れば見られます」


「簡単に言いますね」


「来るつもりはないんですか」


 口にしてから、自分の言葉が少し強かったことに気づく。


「すみません。責めたいわけでは」


「来月、行こうと思っています」


 凛の言葉が止まる。


「まだ日程は決めていません。遠藤さんの予定を聞いてからと思っていました」


「……先に言ってください」


「驚かせようと思いまして」


「今、驚きました」


「迷惑ではありませんか」


「迷惑なら、来ないんですか」


「遠藤さんが嫌なら、行きません」


「嫌とは言っていません」


 凛は膝の上に置いた手を握る。


「会いたいです」


 電話の向こうが静かになる。


「青柳さん?」


「すみません。もう一度言っていただけますか」


「言いません」


「聞こえなかったわけではありません。ただ、もう一度聞きたいです」


「では、東京へ来たときに言います」


「必ず聞きます」


「覚えていたらです」


「忘れません」


 凛は困ったように笑った。


 離れている時間は、まだ寂しい。


 それでも、次に会う約束が一つ増えるだけで、その距離は少し短く感じられた。


 ガソリンスタンドでは、勤務を終えた零が事務所から出てきた。


 店の外には、柚希が立っている。


「柚希さん。どうしてここに?」


「零ちゃんの仕事が終わるの、待ってた」


「連絡してくれたらよかったのに」


「驚かせたかったから」


「寒くないっすか」


「寒い」


「だったら、中で待っていてください」


「零ちゃんが出てきたから、もういいの」


 柚希は笑い、持っていた紙袋を零へ差し出した。


「これ、肉まん。零ちゃんの分も買ってきた」


「ありがとうございます」


「冷める前に食べよう」


 2人は店の脇にあるベンチへ座った。


 零が紙袋から肉まんを取り出す。


「柚希さん」


「何?」


「こういうの、恋人っぽいっすね」


 柚希の手が止まる。


「恋人でしょ」


「そうなんですけど、まだ自分、時々分からなくなるんです」


「何が?」


「どこまでしていいのか」


 零は肉まんを見たまま答えた。


「手を繋ぎたいと思っても、嫌じゃないか考えます。会いたいと言いたくても、重くないか考えます」


「それ、女の子同士だから?」


「それもあります」


 柚希は自分の肉まんを紙袋へ戻した。


 そして、ベンチの上に置かれていた零の手へ、自分の手を重ねる。


「嫌だったら言うよ」


「はい」


「重かったら、それも言う」


「はい」


「だから、零ちゃんも言って」


「何をですか」


「会いたいとか、手を繋ぎたいとか」


 零は重なった手を見る。


「今、繋いでもいいっすか」


「もう繋いでるじゃん」


「柚希さんからなので」


「細かいなあ」


 柚希は一度手を離した。


「はい。今度は零ちゃんから」


 零は僅かに笑い、自分から柚希の手を握った。


 指を絡めるような繋ぎ方ではない。


 ただ、掌を重ねる。


 それでも零にとっては、自分から踏み出した大切な一歩だった。


 島川不動産には、樹里と神谷が残っていた。


 緒方から届いた見積もりを確認し、森山からの回答を工程表へ反映する。


 時計は午後9時を回っている。


「今日は、ここまでにしましょう」


 神谷がパソコンを閉じた。


『まだ、2社分の確認が残っています』


「明日の朝、行います」


『期限は明日です』


「明日の午後です。午前中に確認しても間に合います」


『神谷さんにしては、珍しいですね』


「帰ると決めることも、今回の仕事だと思っています」


 神谷は立ち上がり、樹里の机へ置かれた資料を閉じた。


『勝手に閉じないでください』


「日高さんも帰ってください」


『私は倒れていません』


「倒れてからでは遅いと、日高さんに教えられました」


 樹里は閉じられた資料を見る。


 反論しようとして、やめた。


『分かりました』


「送ります」


『電車で帰れます』


「知っています」


『では、なぜですか』


「送りたいからです」


 樹里が神谷を見る。


「嫌なら、無理には言いません」


 神谷は待った。


 答えを急かさない。


 岐阜の夜と同じだった。


『……お願いします』


「はい」


 2人は並んで会社を出た。


 冬の夜風は冷たい。


 神谷は途中の自動販売機で足を止め、温かい缶コーヒーを2本買った。


 1本を樹里へ差し出す。


『ありがとうございます』


「岐阜では、私だけビールを飲みましたから」


『まだ気にしているんですか』


「少しだけ」


『何もしていないでしょう』


「だからです」


『意味が分かりません』


「分からなくていいです」


 樹里は缶コーヒーを両手で包む。


 温かさが、冷えた指へ伝わってくる。


 神谷は隣にいる。


 近づきすぎることもなく、離れすぎることもない。


 今夜もまた、樹里の歩幅に合わせて歩いている。


『神谷さん』


「はい」


『今日は、ここまでにして正解だったと思います』


「仕事のことですか」


『それ以外に何がありますか』


「いえ。ありがとうございます」


 神谷が笑う。


 樹里も僅かに口元を緩めた。


 誰かのために、仕事を終える。


 誰かが待っている場所へ帰る。


 離れた場所にいる人の声を聞く。


 会いたいと伝える。


 自分から手を繋ぐ。


 同じ道を、少しだけ近い距離で歩く。


 それぞれの夜に、違う形の愛があった。


 どれも派手ではない。


 それでも、明日へ帰る理由には十分だった。

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