244話「判断する場所」
翌日の午後。
陽菜は、チーム櫻井モデルのメンバーを小会議室へ集めた。
机の中央には、萌が作り直した次回運用案が置かれている。
陽菜は資料を手に取ったが、説明を始めようとはしなかった。
『じゃあ萌、お願い』
突然名前を呼ばれ、萌が顔を上げる。
「私が説明するんですか」
『萌が考えたんでしょ?』
「そうですけど」
『なら、萌の口から聞きたい』
陽菜は笑いながら、自分が立っていた場所を空けた。
『間違っても誰も食べないから。ほら、前』
萌は一度、樹里を見た。
樹里は何も言わず、僅かに頷く。
自分で作った案なら、自分の言葉で伝える。
昨日、樹里へ資料を差し出したときと同じだった。
萌は資料を持ち、ホワイトボードの前へ立った。
「前回の運用では、来場者の待ち時間だけを記録していました」
緊張はある。
それでも、声は震えていなかった。
「ですが、待ち時間が同じでも、残ってくださる方と途中で帰る方がいました」
萌はホワイトボードへ、3つの項目を書く。
見学。
具体的な相談。
情報収集。
「受付の時点で、来場された目的をこの3つに分けます」
陸が資料を見る。
「最初から、案内の仕方を変えるってことですか」
「うん。見学だけを希望する方へ、初めから長い説明をすると負担になる。でも、具体的な相談をしたい方に自由見学だけを案内したら、機会を逃す」
萌は次のページを開いた。
「それから、待っている人数に応じて、案内担当を移動させます」
『誰が決めるの?』
陽菜が尋ねた。
昨日、樹里から指摘された部分だった。
「判断役を置きます」
萌は迷わず答える。
「30分ごとに交代します。判断役は接客を担当せず、受付、案内、相談席の人数を見ます」
『接客しないの?』
「はい。判断役まで接客に入ると、全体を見られなくなるので」
『人手、足りなくならない?』
「来場者が少ない時間は、資料整理と記録を兼任します。ただし、担当を持ったまま別の場所へ移動することはしません」
陽菜が口元を上げる。
『いいじゃん』
「まだあります」
萌はホワイトボードへ数字を書き加えた。
「受付で3組以上待った場合は、見学担当から1名を移動。相談待ちが2組になった場合は、経験者を優先して相談席へ移します」
「経験者って、櫻井さんと日高さんですか」
陸が尋ねる。
「基本はそう。でも、2人だけに集中させない」
萌は陸を見る。
「山本くんには、判断役の補助をお願いしたい」
「俺が?」
「山本くんは、前回から周りをよく見ていたから」
「でも、俺は来場された方が何を求めているか、勝手に決めて失敗しました」
「だから、今度は決めなくていい」
萌は答えた。
「見えたことを、判断役へ伝えてほしい。受付に何組いる。相談が長引いている。案内担当が戻ってこない。そういうことを、できるだけ早く」
「俺が見て、川原さんが決める?」
「私だけじゃない。判断役になった人が決める」
「分かりました。やります」
陸は、自分の資料へ役割を書き込んだ。
樹里が手を挙げる。
『一つ、いいですか』
「はい」
『来場目的は、途中で変わることがあります』
「見学だけの予定だった方が、相談したくなるということですか」
『はい。その変化を、誰が判断役へ伝えますか』
萌は少し考えた。
「案内担当です」
『どの段階で』
「相談が必要だと感じた時点で、一度判断役へ報告します」
『その間、お客様を待たせませんか』
「……待たせます」
萌はすぐには答えを作らなかった。
資料へ目を落とし、考える。
「案内担当が、その場で相談予約を登録できるようにします」
『登録する方法は』
「共通の端末を用意します。難しければ、受付へ戻らなくても使える簡単な記入票を持たせます」
樹里は僅かに頷いた。
『それなら対応できると思います』
「ありがとうございます」
『ただし、実際に動かしてみなければ分かりません。変更が必要になったら、川原さんが判断してください』
「私が、ですか」
『川原さんが作った運用です』
「……はい」
樹里は答えを教えなかった。
任せたまま、必要な不足だけを示した。
萌も、もうそれを放置されているとは受け取らなかった。
陽菜が両手を叩く。
『よし。じゃあ次の週末、これでやってみよう』
「いきなり全部変えて、大丈夫でしょうか」
『大丈夫じゃなかったら戻せばいいじゃん』
萌が陽菜を見る。
『失敗しない方法を考えてたら、始められないよ。お客さんを困らせる前に気づいて直せれば、それでいい』
「はい」
『ただし』
陽菜の声から、僅かに笑いが消える。
『危ないと思ったら、遠慮しないで止める。自分だけで何とかしようとしない。そこは全員、絶対ね』
樹里が、一瞬だけ陽菜を見る。
神谷が倒れたとき、樹里が怒鳴った場には全員がいた。
陽菜も。
萌も。
陸も。
誰かが一人ですべてを抱えた先に何があるのか、この場にいる者は知っていた。
「分かりました」
萌と陸が答える。
陽菜は再び笑った。
『じゃあ、萌が判断して、陸が目を増やす。あたしたちは、それに従う』
「櫻井さんもですか」
『当たり前じゃん。判断役が萌なら、あたしも勝手に動かない』
「本当にできますか」
『ちょっと。どういう意味?』
「櫻井さんは、困っている人を見るとすぐに走っていくので」
『ちゃんと相談するよ』
「動く前にお願いします」
『萌、あたしにだけ厳しくない?』
「櫻井さんが、一番勝手に動きそうだからです」
陸が笑いを堪える。
陽菜は不満そうに頬を膨らませた。
樹里は資料へ視線を落としながら、口元を僅かに緩めていた。
週末。
モデルハウスの公開開始前から、萌は会場内を歩いていた。
受付。
見学経路。
相談席。
記入票の場所。
判断役が立つ位置から、すべてが見えるかを確認する。
「川原さん」
陸が近づいてくる。
「相談席の一番奥、受付から見えにくいです」
「どのくらい?」
「人が座ると、使用中か分かりません」
萌は実際に受付の位置へ立った。
確かに、奥の席だけが壁の陰へ隠れる。
「教えてくれてありがとう。使用中の札を置こう」
「色を変えますか」
「空席が白。使用中が赤。それなら遠くからでも分かる」
「用意してきます」
陸が走り出そうとする。
「山本くん」
呼び止められ、陸が振り返った。
「始まる前だから走らなくて大丈夫」
「……はい」
陸は歩いて備品置き場へ向かった。
その様子を見ていた陽菜が、萌の隣へ立つ。
『陸、ちゃんと見えてるね』
「はい。私が気づかなかったところです」
『萌も、ちゃんと拾えてる』
「前なら、自分で気づけなかったことが悔しかったと思います」
『今は?』
「教えてもらえてよかったと思います」
『いいね』
陽菜は萌の背中を軽く叩いた。
『じゃあ判断役、今日はよろしく』
「はい」
開場直後は、来場者もまばらだった。
受付で目的を確認し、それぞれに合わせて案内する。
見学を希望した客には、必要以上に営業を掛けない。
具体的な相談を望む客には、早い段階で相談席を案内する。
運用は順調に見えた。
午前11時を過ぎた頃、一気に来場者が増えた。
受付に3組。
見学中が5組。
相談席はすべて埋まっている。
「川原さん」
陸が萌のところへ来た。
「受付に4組です。見学担当は全員、案内に入っています」
「相談は?」
「2組が終わりそうです。でも、奥の席は住宅ローンの話に入ったので、まだ時間が掛かります」
「櫻井さんは?」
「2階で案内中です。さっきのお客様、見学から具体的な相談に変わっています」
萌は一瞬で状況を整理する。
「日高さんを、次の相談へ移動。受付の1組は、私が最初の説明をする」
「判断役を離れるんですか」
「受付にいる4組の目的を聞くまで。山本くん、その間、ここで人数を見て」
「俺が判断するんですか」
「動かす必要があったら、私を呼んで。勝手に決めなくていい」
「分かりました」
萌は受付へ向かった。
待っていた客へ頭を下げ、一組ずつ目的を確認する。
見学のみが2組。
相談希望が1組。
残りの1組は、小さな子どもを連れた夫婦だった。
「長く待つのは難しいですよね」
「子どもが飽きてしまうので、少し見るだけで帰ろうかと」
「すぐにご案内できる場所から回ります。途中で出られる経路もご説明します」
萌が案内図を取り出したとき、陸が少し離れた場所から手を挙げた。
相談席が一つ空いたという合図だった。
萌は頷き、相談希望の客を先に移す。
自分だけで処理しない。
見えた情報を受け取り、順番を決める。
その判断に、以前のような迷いはなかった。
陽菜が2階から戻ってくる。
『萌、今どこ入ればいい?』
「受付のご家族をお願いします。短い経路で、子ども部屋を先に見せてください」
『了解』
陽菜は理由を聞き返さず、親子の前へ向かった。
『お待たせしました。今日はお子さんが主役のコースで回りましょうか』
緊張していた子どもの顔が、僅かに明るくなる。
陽菜はすぐに目線を合わせ、笑いながら2階を指した。
判断したのは萌。
変化へ気づいたのは陸。
目の前の客を笑顔にしたのは陽菜だった。
誰か一人が、すべてを担っているわけではない。
昼過ぎ。
混雑が落ち着いたところで、萌は一度運用を止めた。
「変更します」
全員を集め、記録用紙を見せる。
「30分交代では短すぎました。引き継ぎに時間が掛かっています」
『どうする?』
「次からは1時間交代にします。ただし、混雑が始まったら途中でも代わります」
『了解』
『分かりました』
陽菜と樹里が答える。
陸が記録を指した。
「もう一ついいですか」
「何?」
「来場目的を3つに分けていますけど、見学と情報収集の違いが受付で分かりにくいです」
「確かに、答える方も迷っていたね」
「2つを一緒にしてもいいと思います」
萌は少し考える。
「分ける必要がなかったかもしれない。見学と相談の2つにしよう」
「はい」
自分で作った案へ固執しない。
違うと思えば、その場で変える。
それもまた、判断だった。
公開終了後。
相談予約の件数が集計された。
チーム櫻井モデルは、11件。
前回の7件から、大きく伸びている。
陽菜が萌と陸の肩を同時に抱いた。
『すごいじゃん、2人とも!』
「櫻井さん、近いです」
「俺、ほとんど報告してただけです」
『その報告がなかったら、萌も決められなかったでしょ』
少し離れた場所から、神崎優子が歩いてきた。
「嬉しそうね、陽菜」
『優子。そっちは?』
「13件」
『うわ。負けた』
「そうね。数字では、まだ私たちの方が上」
優子はそう言いながら、萌と陸を見る。
「でも、前回とは別のチームみたいだった」
萌が姿勢を正す。
「ありがとうございます」
「褒めたわけじゃないわ」
『優子、昔から素直じゃないんだから』
「陽菜に言われたくない。それに昔って、知り合ったのはこの間よ」
『あたしは素直だよ』
「自分で言うところが信用できないの」
優子は呆れたように息を吐いた。
それから、受付に置かれた記録用紙を見る。
「途中で運用を変えたでしょう」
「はい」
「最初の案を守るより、客を見たということね」
萌は頷く。
「決めたとおりに動くことが、目的ではないので」
優子の目が僅かに変わった。
「それを、誰に教わったの?」
萌は樹里を見る。
樹里は少し離れた場所で、撤収する資料をまとめている。
「足りないところは、日高さんに教えていただきました」
萌は答えた。
「でも、今日は私が決めました」
「そう」
優子の口元が、ほんの僅かに上がる。
「なら、次はもっと近くなるかもしれないわね」
『次は抜くよ』
「あなたに言ってない」
『チーム櫻井モデルのリーダー、あたしなんだけど』
「今日、一番指示に従っていたのは陽菜だったでしょう」
『見てたの?』
「隣でやっていれば、嫌でも見えるわ」
優子は背を向けた。
「大抽選会では、今日みたいにはいかないから」
『望むところ』
陽菜の答えを背中で受け、優子は自分のチームへ戻っていった。
勝ったわけではない。
まだ2件の差がある。
それでも、優子は初めてチーム櫻井モデルのやり方を認めた。
萌は11件と記された集計表を見る。
樹里に答えを教えてもらった結果ではない。
陸が見つけたものを受け取り、自分で決めた。
失敗した運用を、自分で変えた。
『川原さん』
樹里が呼ぶ。
「はい」
『今日の記録を、月曜日に見せてください』
「分かりました」
『判断を変えた理由も、残しておいてください』
「もう書いてあります」
萌の返事に、樹里の目が僅かに和らぐ。
『そうですか』
「日高さん」
『何ですか』
「次は、13件を超えます」
樹里は一度、優子のチームへ目を向けた。
そして、萌へ戻す。
『そのために、何が必要か考えてください』
「はい」
褒めてはくれない。
簡単に大丈夫だとも言わない。
それでも今は、その言葉の意味が少しだけ分かった。
樹里は、萌の先を見ている。
だから萌も、そこで立ち止まらなかった。




