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243話「遅らせる覚悟」

翌日の午後。


 神谷と樹里は、高槻興産の応接室にいた。


 向かいには、高槻社長。


 その隣には、緒方が座っている。


 机の上には、岐阜で聞き取った17社分の記録と、修正した工程案が置かれていた。


「それで」


 高槻は報告書へ手を置いた。


「岐阜まで行って、お前たちは何を見てきた」


 神谷は姿勢を正す。


「現在の計画を、予定どおり進めることは難しいと判断しました」


「できないという報告をするために、わざわざ岐阜まで行ったのか」


「いいえ」


 神谷は引かなかった。


「最後まで止めずに進める方法を、見つけるためです」


 高槻の目が僅かに細くなる。


「言ってみろ」


「17社を、一律に扱うことをやめます」


 神谷は修正工程表を開いた。


「すぐに人員を動かせる会社。条件を整えれば増員できる会社。作業環境の改善を優先すべき会社。この3つに分類しました」


「つまり、全社一斉に動かさないと?」


「はい。3段階に分けて着手します」


 神谷は最初の工程を指した。


「第1段階では、人員と資格保有者の両方を確保できる6社を中心に進めます。第2段階では、資材の納入と別現場の終了を待って5社を加えます」


「残りは?」


「安全管理に問題のあった会社と、熟練者へ負担が偏っている会社です。改善状況を確認してから配置します」


「俺が求めた工期には間に合うのか」


「当初の完了予定から、最長で12営業日遅れます」


 室内が静かになった。


 緒方が神谷を見る。


 高槻は表情を変えなかった。


「遅れると分かっていて、それを俺に出したのか」


「はい」


「随分と度胸があるな」


「遅れを隠したまま始める方が、無責任だと考えました」


「契約への影響は?」


「着手可能な区画は、当初の予定どおり進めます。全体を遅らせるのではなく、完成時期を区画ごとに分けます」


 神谷は別の資料を高槻へ差し出した。


「運用開始に必要な主要区画を先行させれば、事業開始日への影響は抑えられます」


 高槻は資料を手に取った。


「金額は?」


「一時的な増員を行わない分、人件費は抑えられます。ただし、安全設備の改善と、資格取得の支援費用が必要です」


「それを、うちが負担しろと?」


「一部は、こちらの計画費へ組み込ませていただきたいと考えています」


「なぜ俺が、協力会社の教育費まで出さなければならない」


 神谷は一度、息を吸った。


「今回の案件だけを終わらせるのであれば、必要ありません」


「なら、外せ」


「ですが、高槻興産は今回限りで事業を終える会社ではありません」


 高槻の指が、資料の上で止まる。


「技術を持つ人間がいなくなれば、次の計画で同じ問題が起きます。人が育つまで待つのではなく、今から育てる仕組みを作るべきです」


「随分、先の話をする」


「高槻社長から、現場を自分の目で見ろと言われました」


 神谷は、高槻の目を真っ直ぐに見た。


「見た以上、今回だけ数字を合わせて終わる提案はできません」


 高槻は答えない。


 次に、樹里へ顔を向けた。


「日高」


『はい』


「お前も、この計画でいいと思ってるのか」


『はい』


「神谷に合わせているだけじゃないだろうな」


『違います』


 樹里は迷わず答えた。


『私も、この計画が最善だと考えています』


「12営業日遅れるのにか」


『怪我人が出れば、12日では済みません』


 樹里は安全管理に関する報告書を開いた。


『この会社では、直近1か月で複数の負傷者が出ています。どれも軽傷として処理されていますが、休憩時間を削った作業が常態化していました』


「人を出せと言えば、出すんじゃないのか」


『出すと思います』


「なら、使えばいい」


『使いません』


 樹里の声は静かだった。


 それでも、言葉には明確な拒絶があった。


『無理をしてでも人数を揃えると分かっている会社へ、こちらから人を出せとは言えません』


「断れば、契約を失うかもしれないぞ」


『それでもです』


「島川不動産に損失が出てもか」


『事故が起きれば、御社にも島川不動産にも、それ以上の損失が出ます』


「随分とはっきり言うな」


『曖昧に伝えて、誤解される方が困ります』


 高槻は樹里を見つめた。


 樹里も目を逸らさない。


 緒方は口を挟まず、2人の間に流れる緊張を見守っていた。


 やがて、高槻が報告書を閉じる。


「森山は、何と言っていた」


「岐阜支社として、この計画へ協力すると言ってくださいました」


「本音か?」


「初めは、東京から来た人間に何が分かるのかと思っていたそうです」


 神谷は正直に答えた。


「ですが、最後には、これなら支社からも協力できると言っていただきました」


「緒方」


「はい」


「17社へ送った質問事項は、お前が回したのか」


「神谷さんと日高さんがまとめたものを、私から各社へ送りました。回答が遅れていた会社には、森山さんと分担して連絡しています」


「何時まで掛かった」


「午後11時頃です」


「遅いな」


「申し訳ありません」


「謝れとは言ってない」


 高槻は緒方から神谷へ視線を戻した。


「誰か一人が作った計画には見えない」


「はい。森山さんと緒方さんの協力がなければ、ここまでまとめられませんでした」


「日高が17社を覚えていたとも聞いた」


 樹里が緒方を見る。


 緒方は僅かに笑った。


「森山さんから連絡がありました」


『一覧を忘れたのは、神谷さんです』


「日高さん」


 神谷が困ったように樹里を見る。


『事実です』


「お前のミスを日高が拾い、現地との連絡を緒方が繋いで、森山が17社を動かした」


 高槻は、もう一度工程案を開いた。


「それで持ってきたのが、俺の要求より12日遅い計画か」


「はい」


「気に入らんな」


 神谷の表情が僅かに硬くなる。


 しかし、高槻は工程案を突き返さなかった。


「遅れることがじゃない」


 高槻が言った。


「こんなものを、最初から俺に出せなかったことがだ」


 神谷が目を見開く。


「紙の上だけで人を動かせば、どこかが壊れる。だから岐阜へ行かせた」


 高槻は安全管理の報告書を指で叩いた。


「現場を見て、それでも俺の顔色を窺って同じ計画を持ってくるなら、お前たちを外すつもりだった」


 緒方の肩から、僅かに力が抜けた。


「工期が遅れる理由は分かった。だが、遅らせるだけでは認めない」


「はい」


「先行区画は、当初の予定どおり動かせ。安全設備の改善期間も、資格支援の費用も、全部数字にしろ」


「承知しました」


「12日を10日に縮めろとは言わん。だが、12日必要だと証明しろ」


「必ず、根拠を揃えます」


「日高」


『はい』


「神谷がまた全部抱え込んだら止めろ」


『止めます』


「神谷」


「はい」


「止められたら、意地を張るな」


「……承知しました」


「緒方と森山も使え。誰か一人が倒れて止まる計画を、成功とは呼ばない」


 神谷は、その言葉を黙って受け止めた。


 自分が倒れた日のことを、高槻は忘れていない。


 責めるのではなく、同じことを繰り返すなと言っている。


「ありがとうございます」


「礼は終わってから言え」


 高槻は工程案を手元へ残した。


「修正版は3日後だ」


「はい」


「今度は、倒れずに持ってこい」


 応接室を出たところで、緒方が大きく息を吐いた。


「駄目かと思いました」


「私もです」


 神谷も苦笑する。


『神谷さんでも、そう思うんですね』


「思います。日高さんは思わなかったんですか」


『断られても、作り直すだけだと思っていました』


「日高さんらしいですね」


「でも、通りましたね」


 緒方は2人を見た。


「神谷さんが説明して、日高さんが譲らなかったからです」


「緒方さんと森山さんのお力があったからです」


『まだ通ったわけではありません。3日後に、根拠を示す必要があります』


「そうでした」


 緒方が笑う。


「では、もう一度お願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 島川不動産へ戻ったのは、午後4時を少し過ぎた頃だった。


 神谷はそのまま黒澤への報告へ向かう。


 樹里は自分の席へ鞄を置き、時計を見た。


 午後4時20分。


 机の上には、萌から受け取ったクリアファイルが置かれている。


 移動中に一度読んでいた。


 来場者の目的を受付で分類する。


 案内担当を固定せず、混雑状況に応じて動かす。


 待ち時間だけでなく、客が離脱した理由を記録する。


 数字を集めるだけではない。


 次に何を変えるべきかまで考えられている。


 午後4時半。


 萌が樹里の席へ来た。


「日高さん。お時間、よろしいですか」


『はい。会議室へ行きましょう』


 2人は小さな会議室へ移動した。


 向かい合って座り、樹里が資料を開く。


『すべて読みました』


「ありがとうございます」


『最初に確認します。この案は、川原さんが一人で作ったんですか』


「記録は、みなさんが入力したものです。そこから先は、私が考えました」


『櫻井さんには相談しましたか』


「していません」


『なぜですか』


「先に聞いたら、櫻井さんの答えになってしまうと思ったからです」


 樹里は萌を見る。


「自分の判断で、どこまで作れるのか試したかったんです」


『そうですか』


 樹里は最初のページへ戻った。


『この案を採用します』


 萌の目が僅かに開く。


「全部ですか」


『いいえ』


 樹里は一つの項目を指した。


『受付で来場目的を分類する案は使えます。離脱理由を残すことにも賛成です』


 次のページへ進む。


『ただし、案内担当を混雑に応じて自由に動かす方法には問題があります』


「なぜですか」


『誰が移動を判断するんですか』


「手が空いた人が、自分で判断します」


『全員が別々に判断すれば、同じ場所へ人が集まります。逆に、誰も動かない場所も出ます』


「それは……」


『人を動かす判断役が必要です』


「櫻井さんですか」


『櫻井さん一人に持たせれば、前回と同じです』


 萌は資料へ目を落とした。


 自分では、柔軟に動ける案だと思っていた。


 しかし、現場で誰が決めるのかまでは考えられていない。


『川原さん』


「はい」


『落ち込むところではありません』


「でも、足りませんでした」


『最初から足りているなら、私が見る必要はありません』


 萌が顔を上げる。


『判断役を一人に固定せず、時間帯で交代させる方法を考えてください。判断の基準も必要です』


「基準……」


『何人待っていたら動かすのか。どの担当を優先するのか。引き継ぐ情報は何か。それが決まれば、誰でも判断できます』


 萌はすぐにメモを取る。


「次回までに作ります」


『いつまでにできますか』


「明日の午前中です」


『急がなくていいです』


「いえ。午前中に作ります。午後に櫻井さんと山本くんにも見てもらいます」


 樹里は、萌の顔を見た。


 言われたことを持ち帰るだけではない。


 誰へ見せ、どう直すかまで自分で決めている。


『分かりました』


「日高さん」


『はい』


「私のことを、見ていないのだと思っていました」


 樹里の手が止まる。


 萌は視線を逸らさなかった。


「高槻興産の仕事が大事なのは分かっています。でも、日高さんが何を考えているのか、私には分かりませんでした」


 樹里はすぐに答えなかった。


 忙しかったから。


 萌なら進められると思っていたから。


 どちらも、理由にはなる。


 だが、萌へ何も伝えなかったことの理由にはならない。


『すみません』


 萌が僅かに目を見開く。


『見ているつもりでした』


 樹里は正直に言った。


『記録を残していることも、改善案を作っていることも知っていました。ですが、声を掛けませんでした』


「はい」


『見ているだけで人が育つなら、教育担当はいりません』


 樹里は萌の資料へ目を落とす。


『私の落ち度です』


「そこまで言ってほしいわけでは……」


『言うべきことです』


 樹里は顔を上げた。


『ただし、川原さんにも一つだけ言います』


「はい」


『今日のように、見てほしいものがあるなら持ってきてください。不満があるなら、それも言ってください』


「不満を言ってもいいんですか」


『言われなければ、私は気づけないことがあります』


「日高さんでも?」


『私だからです』


 萌は、僅かに息を呑んだ。


『川原さんが何を考えているか、言葉にしなければ分かりません。私も同じです』


「……はい」


『これからは、私も伝えます』


「私も、待っているだけにはしません」


『お願いします』


 面談を終え、2人は会議室を出た。


 陽菜が、少し離れた席から萌を見る。


『萌、どうだった?』


「直すところがありました」


『そっか』


「でも、案は採用してもらえました」


『おお。やったじゃん』


 萌は小さく笑った。


「明日の午後、みなさんにも見てほしいものがあります」


『いいよ。今度は萌が仕切る?』


「そのつもりです」


『楽しみにしてる』


 陽菜は、樹里へ何も聞かなかった。


 萌へ樹里の意図を説明することもしない。


 今はまだ、その必要がないと思った。


 萌は自分の足で樹里の前へ立ち、自分の言葉で確かめた。


 樹里もまた、逃げずに答えた。


 いつか萌が、樹里の沈黙に込められていたものを知る日は来る。


 だが、それは今ではない。


 今必要なのは、答えを教えることではなく、自分で判断し、進むための場所だった。


 萌は自席へ戻ると、新しい資料を開いた。


 判断役。


 交代時間。


 移動基準。


 引き継ぐ情報。


 書き込む手に、もう迷いはなかった。

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