242話「見てほしい」
翌朝。
神谷と樹里は、始業前から黒澤の席の前に立っていた。
机の上には、岐阜でまとめた報告書が置かれている。
「それで、17社を見た結論は?」
黒澤は前置きを挟まずに尋ねた。
「現在の計画を、そのまま進めることは難しいと判断しました」
神谷が答える。
「単純な人員不足だけではありません。資格保有者の不足、資材の納入時期、安全管理、技術継承。それぞれの会社が異なる問題を抱えています」
「人数だけ揃えても駄目か」
「はい。一時的に集めることはできます。ただ、それでは他の現場に負担を移すだけです」
黒澤は報告書を開いた。
「日高さんは?」
『神谷さんと同じ意見です』
「問題がある会社を外せば済む話じゃないのか」
『外した分の仕事を、別の会社が引き受けることになります。その会社に余力がなければ、同じことの繰り返しです』
「なら、どうする」
樹里は報告書の後半を開いた。
『17社を、現状のまま一律に扱わないことです』
「一律に扱わない?」
『すぐに人員を動かせる会社。条件を整えれば増員できる会社。安全面の改善が済むまで追加の配置を見送る会社。この3つに分けました』
黒澤は分類された一覧へ目を通す。
神谷が続ける。
「工程も組み直します。すべてを同時に始めるのではなく、着手できる場所から段階的に進めます」
「高槻社長が、それを受け入れると思うか?」
「分かりません」
神谷は正直に答えた。
「当初の計画より、全体の完了は遅くなります」
「それを承知で出すんだな」
「はい」
「理由は?」
「早く始めることより、最後まで止めないことを優先すべきだからです」
黒澤は椅子の背へ体を預けた。
神谷の顔を見たあと、樹里へ視線を移す。
「日高さんも、それでいいんだな」
『はい』
「高槻社長に突き返されたら?」
『もう一度説明します』
「それでも駄目なら?」
『納得していただけるまで、計画を作り直します』
「無理にでも期限を守れと言われたら?」
『無理な理由を、曖昧にせず伝えます』
樹里の答えに、迷いはなかった。
黒澤は小さく息を吐く。
「2人で同じ答えを持って帰ってきたなら、俺から言うことはない」
報告書を閉じ、神谷へ返す。
「高槻社長に時間を取ってもらえ。お前の口から説明しろ」
「承知しました」
「日高さん」
『はい』
「神谷が詰まったら助けてやってくれ」
『そのつもりです』
「逆も同じだ。2人で作った計画なら、2人で通せ」
「はい」
『承知しました』
報告を終え、2人は黒澤の席を離れた。
神谷が小さく息を吐く。
『緊張していたんですか』
「少しだけです」
『そうは見えませんでした』
「日高さんが隣にいましたから」
樹里の足が一瞬だけ止まりかける。
神谷はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻った。
昨夜の続きを求めることもない。
今朝、ベッドの上で重ねた手について確かめることもしない。
神谷はもう、仕事の顔をしていた。
樹里も自席へ向かう。
その途中、陽菜と目が合った。
陽菜は神谷を見て、次に樹里を見る。
口元が、僅かに上がった。
『櫻井さん』
『まだ何も言ってませんけど』
『顔に出ています』
『出張、どうでした?』
『仕事は予定どおり終わりました』
『仕事は、ねえ』
『何が言いたいんですか』
『別に。日高先輩と神谷さん、出張前より息が合ってるなあと思っただけです』
『17社を一緒に回りましたから』
『ふうん』
『その顔をやめてください』
『どの顔ですか?』
陽菜は何も知らない。
ホテルで起きたことも。
同じベッドで眠ったことも。
神谷が樹里の手に触れたことも。
それでも、何かを嗅ぎ取っている。
樹里は陽菜から目を逸らし、自分の席へ戻った。
『仕事をしてください』
『してますよー』
陽菜の楽しそうな声が、背中から追いかけてきた。
午前中、彩花が営業部へやってきた。
神谷の席へ寄り、宿泊証明書を受け取る。
「ホテルからも連絡が来ました。料金の減額と、設備故障の記録は確認しています」
「ご対応いただき、ありがとうございます」
「2人とも、体調に問題はありませんか」
「はい。業務への影響もありませんでした」
彩花は次に樹里を見る。
「日高も?」
『問題ない』
「ならいい」
『彩花』
「何?」
『本当に、2部屋取ってくれてたんだな』
「疑ってたの?」
『疑ってない。確認しただけだ』
「予約確認書に書いてあったでしょ」
『見た』
「だったら聞かないで」
彩花は不機嫌そうに書類を封筒へ入れる。
「ホテルには再発防止を求めておく。出張中の予定変更は、安全管理にも関わるから」
『分かった』
「……何もなかったなら、それでいい」
彩花は余計な詮索をしなかった。
樹里も説明しない。
彩花は書類を持ち、総務部へ戻っていった。
午後。
高槻興産の報告書を仕上げた樹里は、ようやくチーム櫻井モデルの共有フォルダを開いた。
岐阜へ出る前に、萌へ入力を頼んでいた記録。
そこには、来場者数や待ち時間だけでなく、受付で止まった質問、案内途中で離脱した客の傾向、担当者ごとの対応時間まで整理されていた。
さらに、新しい資料が追加されている。
次回運用案。
萌が独自に作成したものだった。
樹里は開こうとした。
そのとき、神谷から呼ばれる。
「日高さん。高槻社長との打ち合わせですが、明日の午後で調整できました」
『分かりました。すぐに確認します』
樹里は運用案を閉じ、高槻興産の資料へ戻った。
その様子を、萌は正面の席から見ていた。
自分の資料が一度開かれたことには気づいている。
だが、読まれる前に閉じられたことにも気づいていた。
仕方がない。
明日は高槻社長への説明がある。
こちらより優先すべき仕事だ。
頭では、何度もそう繰り返している。
それでも、胸の奥には別の言葉が浮かぶ。
(また、あとなんだ)
樹里に任された仕事をこなす。
記録を残す。
改善案も作る。
だが、正しいのかどうかを聞く相手がいない。
間違えているなら直したい。
足りないなら学びたい。
それなのに、樹里はいつも自分の先にある仕事を見ている。
「川原さん」
声を掛けられ、萌が顔を上げた。
中井が、少し離れたところに立っている。
「少し休憩しない? ずっと画面を見ているよ」
「大丈夫です」
「大丈夫な人の顔には見えないけど」
中井の言い方は穏やかだった。
決めつけるのではなく、断る余地を残している。
萌は迷ったあと、席を立った。
休憩スペースへ向かう途中、陸が2人に気づいた。
「中井さん。休憩ですか」
「うん。山本も行く?」
「俺は、あとで行きます」
陸はそう答えてから、自分の机に置いていた未開封の缶コーヒーを萌へ差し出した。
「川原さん、これどうぞ」
「どうして?」
「さっき買ったんですけど、間違えて甘い方を押したので」
萌は缶の表示を見る。
自分が普段飲んでいる銘柄だった。
「山本くん、これ、よく飲んでるよね」
「……今日は、いらない気分になりました」
嘘が下手だった。
萌が朝からほとんど席を立っていないことを、陸は見ていたのだろう。
「ありがとう」
「はい」
陸はそれ以上何も聞かず、自分の仕事へ戻った。
休憩スペースで、萌は缶コーヒーを両手に持った。
中井は向かいへ座る。
「何か困っていることがある?」
「仕事は、進んでいます」
「仕事以外?」
「そういうわけでもありません」
「じゃあ、日高さんのことかな」
萌が顔を上げた。
「どうして分かったんですか」
「川原さんが、何度も日高さんの方を見ていたから」
中井は、樹里を悪く言うことも、萌を窘めることもしなかった。
「話したいことがあるなら、話した方がいいと思うよ」
「忙しそうです」
「うん。今はかなり忙しいね」
「高槻興産の方が大事です。分かっています」
「川原さんの仕事が大事ではないという意味にはならないよ」
萌の指に、僅かに力が入った。
「日高さんが、私の資料を開いたんです。でも、すぐに閉じました」
「それで、見てもらえていないと思った?」
「……はい」
「それは、川原さんが悪いわけじゃないよ」
萌は意外そうに中井を見る。
「見ているつもりでも、言葉にしなければ相手には伝わらない。そこは、日高さんの側にも足りないところがあると思う」
「中井さんでも、日高さんにそう思うことがあるんですか」
「あるよ。日高さんは、何も言わなくても自分で進める人だから、他の人も同じように進めると思ってしまうところがある」
中井は少しだけ笑った。
「でも、見てほしいと伝えることは、甘えることじゃない」
「見てくださいと、自分から言うんですか」
「うん。川原さんが考えて作ったものなんだろう?」
「そうです」
「なら、机の上で待たせなくていいと思う。今すぐでなくても、いつなら時間をもらえるか聞いてみたらいいよ」
「邪魔にはなりませんか」
「日高さんが無理なら、無理な時間を伝えるよ。川原さんが先に諦める必要はない」
萌は手の中の缶を見る。
樹里が気づいてくれるのを、ずっと待っていた。
教育担当なら、自分を見てくれるはずだと思っていた。
だが、待つだけでは伝わらない。
自分が何を考え、どこまで作ったのか。
それを見てほしいなら、自分から差し出さなければならない。
「ありがとうございます」
「僕は何もしてないよ」
「聞いてもらえました」
「それならよかった」
休憩を終え、萌は席へ戻った。
樹里は神谷と、高槻社長へ提出する資料を確認している。
今、声を掛けるべきではない。
だが、諦める必要もない。
萌は次回運用案を印刷した。
内容をもう一度確認し、クリアファイルへ入れる。
終業時刻を過ぎた頃、神谷との打ち合わせが終わった。
樹里が席へ戻ってくる。
「日高さん」
萌は立ち上がった。
樹里が顔を向ける。
『はい』
「見ていただきたいものがあります」
萌はクリアファイルを両手で差し出した。
「チーム櫻井モデルの次回運用案です」
『共有フォルダにあった資料ですね』
「はい」
『今日は確認できなくて、すみません』
「謝っていただきたいわけではありません」
萌は樹里の目を見た。
逃げずに、自分の言葉を続ける。
「いつなら、時間をいただけますか」
樹里の目が、僅かに変わった。
言われるまで待つのではない。
遠慮して引き下がるのでもない。
萌は自分で作ったものを、自分の意思で差し出している。
『明日の高槻社長との打ち合わせが終わったあとなら、時間を取れます』
「何時頃になりますか」
『戻るのは、午後4時頃になると思います』
「では、午後4時半からお願いします」
『分かりました』
樹里はクリアファイルを受け取った。
『それまでに、一度読んでおきます』
「お願いします」
萌は頭を下げ、自分の席へ戻った。
樹里は受け取った資料へ目を落とす。
声を掛けられるまで、萌の迷いに気づかなかった。
資料を作っていることは知っていた。
仕事を進めていることも見ていた。
だが、それだけだった。
見ていることと、向き合うことは違う。
樹里は、ようやくその違いに気づいた。
クリアファイルの表紙には、萌の字で書かれている。
次回運用案。
その下に、もう一行。
大抽選会へ向けた改善提案。
樹里は自分の机へ座り、資料の最初のページを開いた。
今度は、閉じなかった。




