241話「17の声」
樹里が目を覚ましたとき、部屋の中はまだ暗かった。
遮光カーテンの隙間から、細い朝の光が差し込んでいる。
すぐ隣から、規則正しい寝息が聞こえた。
樹里は顔を動かさず、視線だけを下へ向ける。
自分の指先に、神谷の手が重なっていた。
握られてはいない。
力も入っていない。
ただ、触れているだけだった。
昨夜、眠りに落ちる前から気づいていた。
神谷の指が、躊躇いながら近づいてきたことも。
触れたあと、そこから先へ進まなかったことも。
樹里は手を退けなかった。
握り返すこともできなかった。
それでも、今までなら触れられた瞬間に距離を取っていた。
(少しは、進めたのか)
樹里には分からない。
ただ、嫌ではなかった。
その事実だけは、もう否定できなかった。
樹里が静かに手を抜くと、神谷の指がシーツの上へ落ちる。
神谷は起きなかった。
昨夜はほとんど眠れなかったのかもしれない。
樹里は枕元の時計を見る。
目覚ましが鳴るまで、あと10分。
ベッドを出て、カーテンを僅かに開く。
岐阜の街には、まだ夜の色が残っていた。
今日、17社を回る。
昨日の夜を振り返っている時間はない。
樹里が洗面所で身支度を整えていると、部屋から目覚ましの音が聞こえた。
音はしばらく鳴り続けた。
止まらない。
樹里は洗面所から顔を出す。
神谷は目を閉じたままだった。
『神谷さん』
反応がない。
『神谷さん。朝です』
「……はい」
返事はしたが、起き上がらない。
樹里はベッドの横まで歩いた。
『起きてください。遅れたら置いていくと言いましたよね』
「起きています」
『目を閉じたまま言われても信用できません』
神谷がゆっくりと目を開く。
目の前に立つ樹里の姿を見て、ようやく意識が戻った。
「……おはようございます」
『おはようございます』
神谷は上体を起こし、時計を見る。
「申し訳ありません。すぐに支度します」
『森山さんとの待ち合わせまで、まだ時間はあります』
「日高さんは、もう準備を?」
『ほとんど終わっています』
「早いですね」
『神谷さんが遅いんです』
「否定できません」
神谷はベッドから出ようとして、自分の手を見た。
昨夜、その手を樹里の指先へ重ねたことを思い出す。
樹里は何も言わない。
神谷も聞けなかった。
気づいていたのか。
眠っていたのか。
確かめれば、今の僅かな距離まで消えてしまうような気がした。
「昨日は、よく眠れましたか」
『はい』
「そうですか」
『神谷さんは眠れなかったんですか』
「……眠れました」
『嘘ですね』
「少しだけ、寝つくまでに時間が掛かりました」
『やはり、ビール1本では足りなかったようですね』
「酔うために飲んだわけではありません」
『そうですか』
樹里はそれ以上追及せず、洗面所へ戻った。
神谷は、昨夜と同じように両手で顔を覆った。
ホテルを出る前、フロントの責任者が改めて2人へ頭を下げた。
「昨夜は多大なご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ございませんでした」
「設備の故障であれば、仕方ありません。証明書はいただけますか」
「こちらにご用意しております。宿泊料金の処理につきましては、すでに御社の森下様へご連絡しております」
「ありがとうございます」
神谷が書類を受け取る。
樹里も従業員へ頭を下げた。
『お世話になりました』
ホテルの外へ出ると、森山が車を止めて待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
『よろしくお願いいたします』
「予定どおり、西側の6社から回ります。質問事項への回答も、今朝までに全社から届きました」
「全社からですか」
「緒方が相当頑張ったみたいです。昨夜のうちに各社へ電話を入れてくれました」
「帰社したら、改めて礼を伝えます」
神谷と樹里は後部座席へ乗り込んだ。
車が動き始める。
神谷が17社分の回答を開き、樹里が訪問順に並べ直す。
昨夜の空気は残っていない。
少なくとも、表面上は。
1社目は、古くから高槻興産と付き合いのある設備会社だった。
小さな応接室で、年配の社長が腕を組んでいる。
「東京から来た人に、こっちの何が分かるんですか」
初めから、歓迎されてはいなかった。
「すべて分かるとは考えておりません」
神谷は反論しなかった。
「だからこそ、直接お話を伺いに来ました」
「紙に人数は書きました。それで足りるでしょう」
「現在の人数だけで判断すれば、足りているように見えます」
神谷は回答書を机へ置いた。
「ですが、こちらの5名は来月、別の現場へ入る予定になっています。この計画へ継続して配置できる人員ではありません」
社長の目が変わった。
「そこまで見ているんですか」
「今回だけ人数を揃えても、途中で現場が止まれば意味がありません」
神谷は相手の目を見て続けた。
「御社が無理に人を出し、その結果、別の仕事まで失うような計画にしたくありません」
「高槻の利益のためじゃないと?」
「利益は必要です。ただ、御社が立ち行かなくなって得られる利益は、長く続きません」
社長はすぐには答えなかった。
やがて腕を解き、机の引き出しから別の工程表を取り出す。
「本当の予定は、こっちです」
回答書には記載されていなかった、来月以降の配置が書かれていた。
「表へ出せる話じゃなかった。ですが、そこまで見るつもりなら話します」
「ありがとうございます」
会社を出たあと、森山が感心したように息を吐いた。
「よく、あの5人に気づきましたね」
「日高さんが、昨夜見つけてくださいました」
神谷が答える。
樹里は前を向いたまま口を開いた。
『回答書の勤務予定日数が、他の方より少なかっただけです』
「それに気づいても、普通は見落としますよ」
『神谷さんが確認したから、話していただけました。私が聞いても、あの方は答えなかったと思います』
「そんなことは」
『あります。誰が聞いても同じ答えが返ってくるとは限りません』
樹里は神谷を見る。
『だから、2人で来たんです』
「……はい」
2社目では、必要な資格を持つ人間が不足していた。
3社目では、人数は足りていても、資材の納入時期が計画と合っていなかった。
4社目では、書面上の問題はなかった。
しかし、樹里は応接室へ案内した社員の手に巻かれた包帯を見逃さなかった。
『作業中のお怪我ですか』
「え?」
社員が自分の手を見る。
「大したことはありません。少し切っただけです」
『同じ現場で、他に怪我をされた方はいませんか』
「……どうして、それを」
詳しく聞くと、直近の1か月で小さな負傷が続いていた。
納期を守るため、休憩時間を削って作業していたことも分かった。
報告書には記載されていない。
重大事故ではないからと、会社内だけで処理されていた。
「この状態で、人員を追加できますか」
神谷が経営者へ尋ねる。
「要求された人数は出します」
「出せるかではなく、安全に作業を続けられるかを聞いています」
神谷の声は穏やかだった。
だが、引くつもりはなかった。
「ここで無理に出していただいても、受け入れられません」
「高槻社長からの案件ですよ」
「だからこそです」
神谷は回答書を閉じた。
「事故が起きてから責任を問うのでは遅い。改善されるまで、こちらの会社へ追加の人員は求めない方向で調整します」
「しかし、それでは契約が」
「契約を切るとは申し上げていません。現在の作業環境を確認し、改善に必要な期間を計画へ組み込みます」
経営者は戸惑いながらも、最後には頷いた。
昼までに6社。
午後から11社。
事前に回答を得ていたことで、確認すべき問題へ絞って話を進められた。
それでも予定は徐々に遅れていく。
13社目を出た時点で、残された時間は僅かだった。
「次の会社は、予定を短縮しましょう」
森山が運転席から言った。
「このままでは最後の会社に間に合いません」
「短縮はしません」
神谷が答えた。
「先方には、何時まで対応いただけるか確認してください。必要であれば、帰りの新幹線を変更します」
「ですが――」
「足を運ぶことが目的ではありません。話を聞かずに名刺だけ置いても、17社を回ったことにはならないでしょう」
森山はバックミラー越しに神谷を見る。
「分かりました。確認します」
樹里は携帯電話で帰りの時刻を調べた。
『最終の新幹線へ変更しても、東京には戻れます』
「日高さん、大丈夫ですか」
『ここまで来て、最後だけ急ぐつもりはありません』
「ありがとうございます」
『礼は、17社を回り終えてからにしてください』
14社目。
15社目。
16社目。
最後の会社へ着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
そこで聞かされたのは、技術者の高齢化だった。
人数は揃っている。
経験も技術もある。
しかし、その技術を引き継ぐ若手がいない。
今回の計画だけなら進められる。
その次は分からない。
17社を回ったことで見えてきたのは、単純な人手不足ではなかった。
人数。
資格。
安全。
資材。
技術の継承。
それぞれが違う問題を抱えながら、同じ計画の中へ組み込まれようとしている。
最後の会社を出ると、森山が深く頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、1日運転していただき、ありがとうございました」
『ありがとうございました』
「正直に言います。東京から人が来ても、数字だけ見て帰ると思っていました」
森山は苦笑する。
「ですが、これなら支社からも協力できます」
「今日伺った内容は、東京へ持ち帰って整理します。ただ、こちらだけで決めることはしません」
「はい」
「計画を修正する際は、もう一度、森山さんにも確認をお願いします」
「もちろんです」
岐阜駅へ向かう車内で、神谷と樹里は今日の記録を見直した。
疲労はあった。
それでも、神谷の表情は昨日より明るい。
「17社、回り終えました」
『はい』
「では、言ってもよろしいですか」
『何をですか』
「日高さんを同行に選んで、正解でした」
昨日と同じ言葉だった。
今度は、すべてを終えたあとに告げられた。
『私もです』
「え?」
『神谷さんと来て、正解でした』
樹里は資料から顔を上げなかった。
神谷も、すぐには何も言えなかった。
『聞こえませんでしたか』
「聞こえました」
『なら、返事をしてください』
「ありがとうございます」
『それだけですか』
「今、余計なことを言うと怒られそうなので」
『よく分かっていますね』
樹里の口元が、僅かに上がる。
神谷も笑った。
新幹線の中で、2人は報告書の骨組みを作った。
神谷が17社から聞いた内容を分類し、樹里が計画への影響を書き加える。
同じ画面を見ながら、必要な言葉だけを交わす。
昨夜、重ねた手については、どちらも触れなかった。
言葉にしなくても、消えたわけではない。
神谷が樹里の歩幅を待ち。
樹里もまた、神谷の隣を歩こうとし始めている。
2人の間に生まれた僅かな変化は、仕事の中にも静かに表れていた。
東京へ戻る頃には、報告書の骨組みが完成していた。
そこに並んでいたのは、17社分の数字ではない。
17社で働く、人間の声だった。




