240話「歩幅」
浴室の中で、樹里は目を閉じたままシャワーを浴びていた。
温かい湯が、髪から肩を伝って落ちていく。
出張用の鞄には、普段自宅で着ているタンクトップと短いハーフパンツが入っている。
ホテルは、シングルルームを2室取ってあると聞いていた。
自分以外の誰かに見られることなど、想定していなかった。
(この格好で出るのか)
着替えを持って浴室へ入ってから、初めて気づいた。
替えのシャツはある。
しかし、それは明日の仕事で着るものだった。
今夜だけのために袖を通し、皺をつけるわけにはいかない。
上着を羽織ることも考えたが、それでは寝苦しい。
(仕方ない)
神谷なら、妙なことはしない。
それは分かっている。
だから同じ部屋へ泊まることを選んだ。
明日の仕事への影響を避けるため。
理由は、それだけのはずだった。
それでも、樹里の頭には、先ほどの神谷の姿が残っている。
自分だけ離れたホテルへ移動すると言った。
ネットカフェで夜を明かすとも言った。
樹里が同室でいいと何度伝えても、神谷は最後まで自分の都合を優先しなかった。
(どうして、そこまでする)
神谷は自分を好きだと言った。
一度ではない。
その想いが冗談ではないことも、すでに分かっている。
だが、神谷は答えを求めなかった。
いつまで待てばいいとも聞かない。
樹里が過去について語ろうとしなくても、無理に踏み込んではこなかった。
抱きしめられた夜も。
キスをされた夜も。
神谷は、その先へ進もうとはしなかった。
樹里が拒まなかったからといって、それを許可だと都合よく受け取ることもしなかった。
(私が黙っている限り、この人はずっと待つつもりなのか)
その考えが浮かび、樹里はシャワーを止めた。
待たせている自覚はある。
神谷の気持ちを知りながら、樹里は明確な答えを出していない。
それでも神谷は、以前と変わらず隣にいる。
仕事では一人の社員として扱い、困っていれば手を差し伸べ、樹里が距離を取れば、それ以上は近づかない。
(この人は、苦しくないのか)
聞いたところで、何と答えるかは想像できる。
それでも今夜は、確かめてみたいと思った。
樹里は体を拭き、持ってきた部屋着へ着替えた。
誰かに見せるために選んだものではない。
神谷を意識して用意したものでもない。
いつも自宅で眠るときと、ほとんど変わらない格好だった。
そう自分へ言い聞かせてから、浴室の扉へ手を掛けた。
扉を開ける。
神谷はソファへ腰掛けたまま、携帯電話の画面を見ていた。
樹里が出てきたことに気づき、反射的に顔を上げる。
そして、動きを止めた。
樹里は黒いタンクトップに、短いハーフパンツという姿だった。
濡れた髪をタオルで拭きながら、素足で部屋へ入ってくる。
仕事中の隙のないスーツ姿とは違う。
細い肩も、長い脚も、ほとんど隠されていなかった。
神谷の視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
気づいた瞬間、すぐに顔を背けた。
「……申し訳ありません」
樹里の手が止まる。
『何がですか』
「いえ。その……見てしまって」
『誰かに見られると思って用意した部屋着ではありません。シングルを2部屋取ってあると聞いていましたから』
「そうですよね」
『ただ、他に寝られる服がありませんでした』
「明日のシャツを使っていただいても」
『明日着る服を、今から皺だらけにするんですか』
「では、私が何か買ってきます」
『必要ありません』
「しかし」
『見られて困る格好なら、浴室から出てきません』
「そういう問題ではありません」
『では、どういう問題ですか』
「説明させないでください」
神谷は顔を背けたまま答えた。
樹里は神谷を見つめたあと、自分の服装へ目を落とす。
普段と変わらない部屋着。
それでも、神谷がこれほど困っている理由は分かる。
分からないふりをしているだけだった。
『神谷さん』
「はい」
『もう見ても大丈夫です』
「その言い方は、余計に困ります」
『面倒な人ですね』
「誰のせいだと思っているんですか」
言ってから、神谷は口を閉じた。
樹里が僅かに目を見開いている。
「……すみません」
『謝るくらいなら、言わなければいいでしょう』
「おっしゃるとおりです」
樹里は髪を拭きながら、神谷の隣へ歩いた。
ソファには、まだ十分な空間がある。
しかし樹里は、神谷から僅かに距離を空けただけの場所へ腰を下ろした。
肩が触れるほどではない。
それでも、少し動けば触れてしまう。
神谷の背筋が伸びた。
「日高さん」
『何ですか』
「向こうにも座れます」
『知っています』
「では、なぜここに」
『話をしたいからです』
「この距離でなくても、話はできます」
『そうですか』
樹里は移動しなかった。
濡れた髪から、シャンプーの香りが漂う。
神谷は正面を向いたまま、両手を膝の上で組んだ。
明日の17社。
質問事項。
移動経路。
仕事のことを考えようとする。
しかし、何を思い浮かべても、すぐ隣にいる樹里の気配に掻き消された。
『神谷さん』
「はい」
『どうして、そこまで待てるんですか』
神谷が樹里を見る。
『ホテルを移ると言ったことだけではありません』
樹里は前を向いたまま続けた。
『神谷さんは、いつもそうです。私が何も答えなくても、急かさない。踏み込もうともしない』
「日高さんが、望んでいませんから」
『苦しくありませんか』
「苦しくないと言えば、嘘になります」
神谷は少しも迷わず答えた。
「ですが、日高さんを苦しませてまで、私が楽になりたいとは思いません」
樹里の指先が、僅かに動いた。
「日高さんには、日高さんの時間があります。私の気持ちを理由に、その時間を早めるつもりはありません」
『いつまで掛かるかも、分からないのに』
「はい」
『私が、何も返さないかもしれません』
「それでも、私が決めたことです」
神谷の表情に、強がりはなかった。
樹里は横にいる神谷を見つめる。
もう、疑う余地など残っていない。
それでも、言葉にして聞きたかった。
『私のことを、本当に好きなんですか』
唐突な問いではなかった。
シャワーを浴びながら、何度も自分の中で繰り返していた疑問だった。
今まで神谷が見せてきたものを、もう一度その口から確かめるための問いだった。
「本気です」
神谷は、真っ直ぐに答えた。
「今さら疑われると、少し困ります」
『疑っているわけではありません』
「では、なぜ聞いたんですか」
『神谷さんが、何も求めないからです』
樹里は膝の上で手を組んだ。
『私が答えを出さなくても、急かさない。近づけと言わない。待っているとも、ほとんど言わない』
「待つと決めたのは、私ですから」
『私が立ち止まっている間もですか』
「日高さんが、進んでいないとは思っていません」
樹里が神谷を見る。
「以前の日高さんなら、同じ部屋へ泊まること自体を許さなかったでしょう」
『仕事に必要だからです』
「それだけでも、十分です」
『同じベッドで眠るのもですか』
「それは今でも、できることなら避けたいです」
『嫌なんですか』
「逆です」
神谷の答えは早かった。
樹里は目を逸らす。
神谷も、それ以上は言わなかった。
短い沈黙が流れる。
窓の外には、岐阜の夜景が広がっている。
東京よりも光は少ない。
それでも、遠くに並ぶ街灯が、黒い窓へ細い線を描いていた。
『私は、人と同じ速さで歩けません』
樹里が静かに言った。
『自分でも分かっています。何かを決めるまでに時間が掛かる。決めても、すぐには動けない』
「はい」
『否定しないんですね』
「否定するところではありませんから」
『普通は、もう少し気を遣うものではないですか』
「日高さんに嘘をついても、すぐに分かるでしょう」
『そうですね』
樹里の口元が、僅かに緩んだ。
『神谷さんは、ずっと私の歩幅に合わせてくれました』
神谷は黙って聞いていた。
『私が立ち止まれば、先へ行かずに待っていた。追いつけとも言わなかった』
「勝手に待っていただけです」
『それでも、ありがとうございます』
神谷の表情が変わった。
樹里が礼を言うこと自体は、珍しくない。
だが、今の言葉は仕事に対するものではなかった。
『これからは』
樹里は、そこで一度言葉を止めた。
何を言おうとしているのか、自分の中でも確かめるように息を吸う。
『私も、少しは神谷さんの歩幅に合わせます』
「……少し、ですか」
『いきなり全部は無理です』
「はい」
『それでも、止まったままではいません』
神谷は樹里を見つめた。
樹里は視線を逸らさなかった。
何かを約束したわけではない。
付き合うとも、同じ未来を選ぶとも言っていない。
それでも、神谷にとっては十分すぎる言葉だった。
「ありがとうございます」
『礼を言うのは、まだ早いです』
「それでも、嬉しいです」
『そうですか』
「日高さん」
『はい』
「私は、あなたが好きです」
何度も伝えてきた言葉。
それでも今夜は、樹里の耳へ届く重さが違った。
「仕事をしている日高さんも、誰かのために怒る日高さんも、自分のことだけは後回しにする日高さんも」
神谷は静かに続けた。
「全部、好きです」
樹里の頬が、目に見えて赤くなる。
『……分かりました』
「まだあります」
『もう十分です』
「ですが」
『明日は早いです』
「はい」
『17社、回るんですよね』
「はい」
『なら、もう寝てください』
樹里は立ち上がろうとした。
そのとき、神谷の口から言葉が漏れた。
「樹里さん」
樹里の動きが止まる。
神谷自身も、自分が何と呼んだのか気づいた。
「……すみません。今のは」
『バカ……』
小さな声だった。
怒ってはいない。
樹里は神谷を見ないまま、ベッドへ向かった。
『明日起きられなくても、知りませんから』
「起きます」
『遅れたら置いていきます』
「必ず起きます」
『なら、早く寝てください』
樹里はベッドの片側へ入り、神谷へ背を向けた。
布団を肩まで引き上げる。
耳まで赤くなっていることは、神谷の位置からは見えなかった。
神谷はしばらくソファに座ったままだった。
同じベッドで眠る覚悟など、まだできていない。
それでも、いつまでもそこにいれば、樹里へ余計な気を遣わせる。
「失礼します」
『寝るだけなのに、何に対して断っているんですか』
「私にも分かりません」
神谷は照明を落とし、ベッドの反対側へ入った。
中央には、人がもう1人眠れそうなほどの距離を空ける。
仰向けになり、天井を見る。
すぐ隣に、樹里がいる。
手を伸ばせば届く。
抱きしめることも、振り返らせることもできる。
唇を重ねたいという気持ちも、なかったわけではない。
だが、神谷は動かなかった。
樹里が、自分から一歩を踏み出してくれた。
その一歩より先へ、勝手に進んではいけない。
どれほど時間が掛かってもいい。
今までと同じように、樹里が歩ける速さで進めばいい。
しばらくして、隣から小さな寝息が聞こえ始めた。
神谷は僅かに顔を向ける。
暗闇の中、樹里の背中だけが見えた。
布団の外へ、片方の手が出ている。
神谷は迷った。
やがて、ゆっくりと自分の手を伸ばす。
抱きしめる代わりに。
キスをする代わりに。
樹里の指先へ、自分の指をそっと重ねた。
樹里は握り返さなかった。
それでも、手を退けることもしなかった。
眠っているのか。
起きているのか。
神谷には分からない。
ただ、触れた指先から伝わる温度だけが、そこにあった。
追い越さない。
引っ張らない。
どちらかだけが、相手に合わせ続けるのでもない。
いつか同じ速さで歩けるように。
今夜、樹里が縮めてくれた僅かな距離を、神谷は静かに受け取った。




