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239話「一室」

「ダブルルーム、1室……ですか」


 神谷は、確認するように繰り返した。


「はい。誠に申し訳ございません」


 ホテルの従業員は、もう一度深く頭を下げた。


「当初ご予約いただいていたのは、禁煙のシングルルーム2室で間違いございません。しかし、配管設備の故障により、片方のお部屋をご利用いただけなくなりました」


 従業員が差し出した宿泊確認書には、確かにシングル2室と記載されている。


 彩花の手配に、間違いはなかった。


「近隣のホテルに、空きはありませんか」


「当館から近い宿泊施設には、すでに確認しております。本日は企業向けの催事が重なっており、岐阜駅周辺はほぼ満室です」


「少し離れた場所でも構いません」


「大垣方面でしたら、1室のみ空きが確認できております。ただ、ここからですと車で50分ほど掛かります」


 神谷が腕時計を見る。


 現在の時刻は、午後8時を過ぎている。


 これから1人だけ別のホテルへ移動すれば、到着は午後9時を回る。


 明日は早朝から17社を訪問する予定だ。


 森山との待ち合わせも、このホテルの前になっている。


「そちらのホテルを押さえてください」


 神谷が言った。


「私が移動します」


『待ってください』


 樹里が止めた。


「ですが、このままでは」


『移動に往復で2時間近く掛かります。明日の予定に支障が出ます』


「それでも、同じ部屋というわけにはいきません」


『なぜですか』


「なぜって……」


 神谷は言葉に詰まった。


 樹里は本気で聞いている。


 仕事への影響と、男女が同じ部屋へ泊まること。


 その2つを秤に掛け、前者を優先している顔だった。


「日高さんが気にしなくても、私が気にします」


『では、神谷さんは移動して、睡眠時間を削る方がいいと考えているんですか』


「そういうわけではありませんが」


『明日は朝から17社を回ります。今日の疲れを残せば、判断にも影響します』


「なら、私はネットカフェを探します。この近くにもあるでしょうから」


『余計に休めません』


「しかし」


『神谷さん』


 樹里の声が、少しだけ強くなった。


『私を同行に選んだのは、仕事上必要だと判断したからですよね』


「はい」


『私も、今回の仕事に神谷さんが必要だと考えています』


 樹里は、神谷の目を真っ直ぐに見た。


『明日のために、きちんと休んでください』


「……同じ部屋で、ですか」


『他に選択肢がありません』


「あります。私が別の場所へ行くという選択肢が」


『それでは仕事に影響が出ると言っています』


 樹里は一歩も引かなかった。


 神谷は困ったように額へ手を当てる。


「日高さんは、本当に分かって言っていますか」


『何がですか』


「私も男です」


『知っています』


「それだけですか」


『神谷さんが、私の嫌がることをする人ではないことも知っています』


 神谷は何も言えなくなった。


 疑われていない。


 警戒されていない。


 それは信頼されているということだ。


 嬉しいはずなのに、今だけは、その信頼が神谷を苦しめた。


「……私を信用しすぎです」


『信用できない人と、2人で出張には来ません』


 樹里はそう答えると、フロントの従業員へ顔を向けた。


『その部屋を見せていただくことはできますか』


「もちろんでございます」


『確認して、問題がなければ利用します』


「日高さん」


『最終的には、2人で決めます。ただし、移動する場合は私も一緒です』


「なぜ日高さんまで」


『別行動になれば、明朝の合流に余計な手間が掛かります』


「そういう問題ですか」


『そういう問題です』


 神谷は、小さく息を吐いた。


 樹里に言い負かされたというより、最初から勝てる話ではなかった。


 ホテル側の案内で、2人は部屋を確認した。


 シングルルームよりも広い室内。


 壁際にはソファと小さなテーブルがあり、仕事の資料を広げる程度の余裕はある。


 問題は、その中央だった。


 大きなベッドが、1つ。


 2人で眠るには十分な幅がある。


 だからこそ、逃げ場がない。


 神谷は入り口に立ったまま、ベッドを見つめた。


「……やはり、私は別の場所を探します」


『まだ言うんですか』


「ソファで寝るという手もあります」


 神谷がソファを見る。


 腰掛けるには十分だが、大人の男が横になるには明らかに短い。


『明日、首を痛めた神谷さんを連れて17社回るつもりはありません』


「床で寝ます」


『風邪を引きます』


「では、日高さんがベッドを使ってください。私は何とかします」


『神谷さん』


 樹里は呆れたように神谷を見る。


『ベッドは、この大きさです』


「見れば分かります」


『間に距離を取れば、2人で眠れます』


「私は、その話をしているんです」


『なら、決まりです』


 樹里は従業員へ向き直った。


『こちらを使わせていただきます』


「かしこまりました。この度は、本当に申し訳ございません。宿泊料金につきましては、当初のご予約より減額し――」


『料金のことは、会社の総務担当者へ説明してください』


「承知いたしました。設備故障に関する証明書も、併せてお渡しいたします」


 神谷はまだ納得しきれていない顔をしていた。


 それでも、樹里が決めた以上、フロントで押し問答を続けるわけにはいかない。


 部屋へ荷物を置いたあと、神谷は彩花へ電話を掛けた。


「森下さん、遅い時間に申し訳ありません。ホテルの件で、報告があります」


 樹里は隣で、神谷の説明を聞いていた。


 シングルルームは、間違いなく2室予約されていたこと。


 ホテルの設備故障で、片方が使えなくなったこと。


 近隣には空室がなく、離れた地域へ移動すると明日の業務に支障が出ること。


 そのすべてを聞き終えたあと、電話の向こうで彩花が黙った。


「……ホテル側の手違いではなく、今日発生した設備故障なんですね」


「はい。証明書も発行していただけるそうです」


「日高はそこにいますか」


「います」


「代わってください」


 神谷が携帯電話を樹里へ渡す。


『彩花』


「本当に、その部屋でいいの?」


『問題ない』


「日高が気を遣っているなら、私から別の宿を探す。最悪、タクシー代も会社へ掛け合うから」


『気を遣ってない。私がここに泊まると決めた』


「……神谷さんも納得してる?」


 樹里が神谷を見る。


 神谷は、何とも言えない表情で視線を逸らした。


『今、納得させてるところだ』


「それ、納得してないでしょ」


『明日の仕事を優先した結果だ。心配するな』


「そういうところは、昔から変わらないわね」


『何がだ』


「決めたら人の話を聞かないところ」


『彩花に言われたくない』


「私はきちんとシングルを2部屋取ったからね」


『分かってる。予約確認書にも書いてある』


「ならいい。ホテルから連絡が来たら、私が処理しておく」


『悪いな』


「仕事だって言ってるでしょ」


『そうだったな』


「……何かあったら、時間を気にせず連絡して」


『分かった』


 通話が終わる。


 樹里は携帯電話を神谷へ返した。


「森下さんは、何と?」


『自分が手配したのは2部屋だと、念を押されました』


「当然です。森下さんに落ち度はありませんから」


『分かっています』


 神谷は携帯電話を机へ置き、改めて部屋を見回した。


 荷物は2人分。


 椅子も、宿泊用の備品も2人分が用意されている。


 それなのに、ベッドだけは1つだった。


「日高さん」


『はい』


「もう一度だけ聞きます。本当に、よろしいんですか」


『何度聞いても、答えは変わりません』


「……分かりました」


 神谷はようやく諦めた。


「では、絶対にご迷惑はお掛けしません」


『そこまで構えられると、こちらが落ち着きません』


「無理です。落ち着ける状況ではありません」


『そうですか』


 樹里は平然と返し、自分の荷物を整理し始めた。


 明日の資料をテーブルへ置き、充電器を取り出す。


 普段と変わらない様子だった。


 神谷だけが、ベッドの存在を意識している。


「先に、シャワーをお借りしてもよろしいですか」


『どうぞ』


「日高さんは、その間に資料を確認しますか」


『今日はもう終わりです』


「ですが、明日の――」


『質問事項は森山さんの確認まで終わっています。神谷さんも休んでください』


「……はい」


 神谷は着替えを持ち、浴室へ入った。


 扉が閉まる。


 シャワーの音が聞こえ始めると、樹里はベッドへ目を向けた。


 先ほどまでは仕事の都合だけを考えていた。


 神谷なら問題ない。


 同じ部屋でも、同じベッドでも、何かをしてくることはない。


 その確信は変わらない。


 しかし、2人きりになった部屋で改めて見ると、さすがに意識しないわけにはいかなかった。


(大きいとはいえ、1つか)


 樹里は小さく息を吐く。


 それでも、今さら考えを変えるつもりはなかった。


 やがて浴室の扉が開き、部屋着に着替えた神谷が出てきた。


「お先に失礼しました」


『はい』


「私は少し、外へ出てきます」


『どこへ行くんですか』


「自動販売機です。飲み物を買ってきます」


『冷蔵庫にもありますよ』


「少し歩きたいので」


 神谷はそう言い残し、部屋を出ていった。


 廊下へ出た瞬間、大きく息を吐く。


 シャワーを浴びても、気持ちはまったく落ち着かなかった。


 同じ部屋。


 同じベッド。


 そして相手は、自分が長い間想い続けている女性だった。


 自動販売機の前に立ち、神谷は水を選ぼうとした。


 だが、指はその隣に並ぶ缶ビールのボタンを押していた。


 落ちてきた缶を手に取り、その場で開ける。


 一口。


 二口。


 普段より速いペースで喉へ流し込んだ。


「……何をしているんだ、私は」


 飲んだからといって、状況が変わるわけではない。


 むしろ、余計なことをしないためには、酒など飲まない方がいい。


 そう分かっていながら、神谷は缶を空にした。


 部屋へ戻ると、樹里が着替えを持って浴室へ入るところだった。


『戻ったんですね』


「はい」


 樹里の目が、神谷の手にある空き缶へ向く。


『飲んだんですか』


「1本だけです」


『珍しいですね』


「少し、喉が渇いたので」


『水では駄目だったんですか』


「……駄目でした」


 樹里は僅かに首を傾げた。


 それ以上は聞かず、浴室へ入っていく。


 扉が閉まった。


 間もなく、シャワーの音が聞こえ始める。


 神谷はソファへ腰を下ろした。


 正面には、1つしかないベッド。


 背後からは、樹里が浴びているシャワーの音。


 缶ビール1本程度では、何の助けにもならなかった。


 神谷は両手で顔を覆う。


「……眠れるわけがない」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

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