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238話「17社」

新幹線が東京駅を離れてから、神谷は一度も窓の外を見なかった。


 膝の上にはノートパソコン。


 座席のテーブルには、印刷した工程表と17社分の資料が並んでいる。


 神谷は画面と書類を何度も見比べ、現地で確認すべき項目を整理していた。


 通路を挟んだ隣の席で、樹里も資料を読んでいる。


 ページをめくる速度は、神谷よりも速い。


「日高さん」


『はい』


「到着後、まず高槻興産の岐阜支社へ向かいます。そこで森山さんと合流し、明日の訪問順を最終確認します」


『承知しました』


「今日中に時間が取れれば、支社の近くにある2社へ挨拶へ伺いたいと考えています」


『先方への連絡は』


「緒方さんが進めてくださっています。到着時刻が確定したら、改めて連絡を入れていただく予定です」


『分かりました』


 樹里は資料へ視線を戻した。


 神谷はその横顔を見てから、僅かに背もたれへ体を預ける。


「何か、気になる点はありますか」


『明日の移動経路です』


「移動経路?」


『この順番では、午後に渋滞へ巻き込まれる可能性があります。午前と午後で地域を分けた方がいいかもしれません』


 樹里が工程表の一点を指した。


『特に、この3社です。資料上は同じ市内になっていますが、事業所の場所は離れています』


「本当ですね」


『昼休憩をどこで取るかによっても変わります。森山さんに、現地の道路事情を確認した方がいいと思います』


「分かりました。到着後に聞いてみます」


 神谷はすぐに工程表へ書き込んだ。


 樹里はそれを見ながら、ふと口を開く。


『神谷さん』


「はい」


『あまり詰め込みすぎないでください』


 神谷のペンが止まった。


『17社すべてを回ることは必要です。ただ、足を運ぶこと自体が目的ではありません』


「分かっています」


『なら、いいです』


 樹里はそれ以上言わなかった。


 神谷も再び資料へ目を落とす。


 しかし、先ほどまでより僅かにゆっくりとページをめくり始めた。


 かつてなら、樹里の言葉を心配されたものとして受け取っていたかもしれない。


 今は違う。


 これは隣で仕事をする人間からの、必要な指摘だった。


 名古屋駅で在来線へ乗り換え、2人が岐阜へ着いたのは午後を少し回った頃だった。


 駅を出ると、東京よりも冷たい風が頬を撫でた。


 神谷が時計を見る。


「予定どおりです」


『はい』


「このまま支社へ向かいましょう」


 2人はタクシーへ乗り、高槻興産の岐阜支社へ向かった。


 支社の会議室では、森山がすでに資料を広げて待っていた。


「お待ちしておりました。遠いところ、ありがとうございます」


「こちらこそ、急なお願いに対応していただき、ありがとうございます」


 神谷が頭を下げ、樹里も続く。


『本日はよろしくお願いいたします』


「よろしくお願いします。緒方から、かなり細かく確認が入っています。明日の車も手配済みです」


 森山は壁へ貼った岐阜県内の地図を示した。


 赤い印が、各地に打たれている。


「今回、確認していただく協力会社は17社です。業種も規模も違います。現場に入っている人数だけ聞いて回っても、正確なところは分からないと思います」


「現場ごとの人員配置と、来月以降に動かせる人数を分けて確認します」


「助かります。こちらとしても、東京から人を寄越して終わりという話にはしたくありません」


 森山の声には、緊張が混じっていた。


 高槻社長から直接指示が下りている以上、岐阜支社にとっても失敗できない仕事だった。


 神谷は席に着き、資料を取り出す。


「まず、17社の現在の担当範囲から確認させてください」


「はい」


 森山が一覧を開く。


 神谷も同じ資料を探した。


 しかし、手が止まった。


「……日高さん」


『はい』


「17社をまとめた一覧を、持っていますか」


 樹里は自分のファイルを確認する。


『こちらにはありません』


「申し訳ありません。確かに印刷したはずなのですが」


 神谷は鞄の中を調べた。


 工程表。


 各社の個別資料。


 高槻興産から受け取った全体計画。


 必要な書類は揃っている。


 だが、訪問先を一枚にまとめた一覧だけが見当たらなかった。


 直前まで更新していたため、古い資料と差し替える際に机へ置いたままにしたらしい。


「すぐに緒方さんへ連絡して、データを送っていただきます」


『待ってください』


 樹里が止めた。


 森山の前に置かれた白紙を一枚取り、ペンを走らせる。


 神谷と森山が、その手元を見る。


 樹里は迷わなかった。


 会社名を書き、その隣に担当工事を記していく。


 1社目。


 2社目。


 途中で資料を確かめることもなく、文字は続いた。


 やがて17社分の名前が、白紙の上へ並ぶ。


『順番は、昨日共有された一覧に合わせています。担当範囲は、本日更新された部分だけ後ほど確認してください』


 樹里は書き終えた紙を、神谷の前へ置いた。


 森山が目を見開く。


「全部、覚えていたんですか」


『一度、目を通しましたから』


「一度で?」


『正確には、昨晩と今朝と移動中です』


「それを一度とは言わないと思いますけど……」


 森山は一覧と樹里の書いた紙を見比べた。


「会社名はすべて合っています。担当範囲も、ほとんど間違いありません」


 神谷は何も言わず、17社の名前を見つめていた。


 驚きはある。


 同時に、悔しさもあった。


 自分が準備した資料を、自分が忘れた。


 その失敗を、樹里が何事もなかったように補った。


『神谷さん』


「はい」


『連絡は必要です。最新版の一覧を、緒方さんに送っていただきましょう』


「……そうですね」


『今は、打ち合わせを続けてください』


「分かりました」


 神谷はすぐに気持ちを切り替えた。


 ミスを悔やむのは、仕事を終えてからでいい。


「森山さん、お時間を取らせました。続けましょう」


「はい」


 打ち合わせが再開される。


 樹里の記憶だけに頼ることはせず、緒方から届いた最新版と照合する。


 その結果、担当範囲が更新されていたのは2社。


 訪問順も、樹里が新幹線の中で指摘したとおり、一部を入れ替えることになった。


「午前中に西側の6社を回ります」


 森山が地図へ線を引く。


「昼前にここまで来られれば、そのまま北へ抜けられます。午後は東側へ移動して、残りの11社です」


「1社当たりに使える時間が短すぎませんか」


 神谷が尋ねた。


「移動を含めると、余裕はないです」


『先に質問事項を送っておくのはどうでしょうか』


 樹里が言った。


『回答を用意していただければ、現地では資料だけでは分からない部分へ時間を使えます』


「ただ、今から17社へ送って、明日の朝までにとなると……」


「先方への送付は、こちらで行います」


 神谷が引き取った。


「質問項目は私と日高さんで作成します。森山さんには、内容を確認していただければ結構です」


「しかし、今日はこのあと2社へ行く予定では」


「移動中に骨組みを作ります。訪問後、ホテルで仕上げます」


 神谷の言葉に、樹里が視線を向けた。


『神谷さん』


「無理をするつもりはありません」


 先回りするように答え、神谷は続けた。


「日高さんと分担します。それなら、夕食までには終わります」


 樹里は数秒、神谷を見つめた。


『分かりました。質問事項の分類は私が行います。神谷さんは、各社で必ず確認する共通項目をまとめてください』


「お願いします」


 自分がすべてやるとは言わなかった。


 樹里へ任せ、明確に役割を分けた。


 その判断に、樹里は何も付け加えなかった。


 ただ、僅かに表情を和らげた。


 打ち合わせを終えた2人は、森山とともに支社近くの協力会社を2社訪れた。


 最初の会社では、人員数と書面上の数字が合っていなかった。


 退職者の補充が間に合っておらず、来月から予定されていた増員も難しいという。


 2社目では人数こそ足りていたが、熟練者に負担が偏っていた。


 数字だけを見れば、計画は進められる。


 しかし、その数字を支えている人間には、すでに無理が出始めていた。


 帰りの車内で、神谷が口を開く。


「高槻社長が、資料だけで判断しなかった理由が分かりました」


『はい』


「17社すべて、同じ問題ではない。それなのに、人員不足という一つの言葉でまとめようとしていました」


『だから、自分の目で見ろと言ったのでしょうね』


「厳しい方です」


『それだけではありません』


 樹里は窓の外を流れる街を見ながら答えた。


『現場の人間が壊れてからでは、利益も信用も残りません。高槻社長は、それを知っているのだと思います』


「はい。私も、そう思います」


 ホテルへ向かう途中、2人は質問事項を分担してまとめた。


 神谷が共通項目を作り、樹里が会社ごとの差異を加える。


 言葉は多くない。


 それでも、片方が考えたことを、もう片方が自然に補っていく。


 ホテルへ到着する頃には、森山へ確認を依頼できるところまで仕上がっていた。


「予定より早く終わりましたね」


『2人で分けましたから』


「日高さんを同行に選んで、正解でした」


 神谷は仕事のこととして、真っ直ぐに言った。


 樹里も、その意味を疑わなかった。


『まだ始まったばかりです』


「そうですね」


『明日、17社を回り終えてから言ってください』


「では、明日の帰りにもう一度言います」


 樹里は答えず、ホテルの自動扉をくぐった。


 しかし、その口元には僅かな笑みがあった。


 神谷がフロントで会社名を告げる。


「島川不動産の神谷です。神谷と日高、2名で予約しています」


「お待ちしておりました」


 従業員が端末を確認し、予約票を取り出した。


「禁煙のシングルルームを2室で承っております」


「はい」


 彩花から渡された確認書と同じ内容だった。


 従業員は一度、手元の画面へ視線を落とした。


 その表情が、僅かに曇る。


「……大変申し訳ございません」


 神谷の眉が動いた。


「どうかしましたか」


 従業員は立ち上がり、深く頭を下げた。


「実は本日の午後、客室階の一部で配管設備の故障が発生しまして……お客様にご用意していたお部屋のうち、1室が使用できない状態になっております」


「代わりの部屋はありませんか」


「それが、本日は近隣で企業向けの催事がございまして、当館はすでに満室となっております」


 従業員は言いづらそうに続けた。


「現在ご用意できるお部屋が、直前にキャンセルの出たダブルルーム1室のみでして」


 神谷の動きが止まる。


 樹里も、黙ったまま従業員を見た。


 彩花が手配したのは、間違いなく2部屋だった。


 予約の不備ではない。


 誰かが、余計な気を利かせたわけでもない。


 ただ、予定にはなかった故障が起きた。


 その結果、2人の前に残された部屋は、1つだけだった。

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