237話「予定表」
翌朝。
営業部のホワイトボードに、黒澤が新しい予定を書き加えた。
神谷――岐阜出張。
その隣に、日高――同行。
黒い文字が2人の名前を並べていた。
「今日の午後に出る。向こうで1泊して、明日は朝から協力会社を回ってもらう」
黒澤はペンに蓋をし、神谷へ顔を向けた。
「17社全部だ。時間は限られているが、雑に回るな。話を聞く相手が増えるほど、食い違いも出てくる」
「承知しました」
「日高さん」
『はい』
「神谷が前を見すぎたら、横を見てやってくれ」
樹里は隣に立つ神谷を一度見た。
『分かりました』
「神谷も、全部を自分で拾おうとするな。日高さんを連れていくと決めたのは、お前だ。任せるところは任せろ」
「はい」
神谷の返事に迷いはなかった。
しかし、樹里はその横顔を見ていた。
神谷は人へ任せることを覚え始めている。
それでも、自分の責任だと感じた瞬間には、またすべてを抱え込もうとするかもしれない。
高槻興産から与えられた3日間で、それを嫌というほど見せられた。
(今度は、倒れさせない)
そう思ったが、樹里は口にはしなかった。
言葉にすれば、神谷は大丈夫だと答える。
ならば隣で見ていればいい。
「森山さんから17社分の資料は届いているな」
「はい。昨晩、共有を受けました」
「緒方さんにも現地との連絡を続けてもらう。何かあればすぐに回せ。高槻社長への報告は、帰ってきてから2人でまとめろ」
「承知しました」
黒澤は神谷から樹里へ視線を移した。
「急な出張だ。準備が間に合わないものがあれば言ってくれ」
『問題ありません』
「日高さんなら、そう言うと思った」
黒澤は僅かに笑い、再びホワイトボードを見た。
「なら、頼んだ」
その場が解散すると、樹里と神谷はそれぞれの席へ戻った。
神谷はすぐにノートパソコンを開き、資料の確認を始める。
樹里も17社の一覧を机に広げた。
会社名。
担当する工事。
現在の進捗。
必要な人員。
抱えている問題。
前夜に一度目を通していた情報を、頭の中へ入れ直していく。
正面から、川原萌がその様子を見ていた。
樹里の机には、高槻興産に関する資料が積み重なっている。
一方、自分の机には、チーム櫻井モデルの来場記録。
教育担当である樹里は、今日も会社を空ける。
今朝も自分へ掛けられた言葉はなかった。
萌は視線を落とし、手元の表を開いた。
分かっている。
遊びに行くわけではない。
高槻興産の案件が、会社にとってどれほど大きいものなのかも知っている。
それでも、胸の内には小さなものが残った。
(私の仕事は、見なくても大丈夫だと思われているのかな)
そう考えた自分が幼く思えて、萌は唇を結んだ。
樹里はその視線に気づいていた。
声を掛けようとして、手元の資料へ目を戻す。
中途半端な言葉を渡すくらいなら、帰ってからきちんと見る。
樹里はそう考えた。
しかし、その判断が萌へ伝わることはなかった。
昼前、総務部から彩花がやってきた。
手には2人分の乗車券と、薄い封筒を持っている。
「神谷さん。日高。出張の手配が終わったから、確認して」
「ありがとうございます」
神谷が受け取り、樹里も隣から書類を覗き込む。
往路と復路の乗車券。
ホテルの所在地。
予約番号。
宿泊者の欄には、神谷と樹里の名前が並んでいる。
その下には、はっきりと記載されていた。
禁煙シングル、2室。
神谷は内容を一通り確認した。
「問題ありません」
「日高も見て。あとから聞いてないとは言わせないから」
『見てる。問題ない』
「ならいい」
彩花は事務的に答えた。
樹里が予約確認書を封筒へ戻しながら、彩花を見る。
『急だったのに、悪かったな』
「これが私の仕事。礼を言われるようなことじゃない」
『そうか』
「何、その顔」
『別に』
「言いたいことがあるなら言えば?」
『総務部でも、相変わらず細かいと思っただけだ』
「当然でしょ。営業の尻拭いをする側が大雑把でどうするのよ」
彩花はそう言い返すと、神谷へ向き直った。
「現地で予定が変わった場合は連絡してください。宿泊の延長が必要になったときも、勝手に取らずに一度総務を通してください」
「分かりました」
「日高がいるから大丈夫だとは思いますけど、無理な移動はしないでください」
『神谷さんへの注意じゃないのか』
「2人に言ってるの。日高も大概だから」
『否定はしない』
「しなさいよ」
彩花は呆れたように息を吐いた。
それでも、立ち去る前にもう一度2人分の書類へ目を向ける。
不備がないことを確かめてから、営業部を出ていった。
昼休み。
神谷が社員食堂へ入ると、陽菜がすぐに手を上げた。
『神谷さーん。こっち空いてますよ』
「ありがとうございます」
神谷が近づく。
その後ろから、樹里も盆を持って歩いてきた。
陽菜の目が、2人を順番に捉えた。
そして、口元がゆっくりと上がる。
『日高先輩と神谷さん、今日からお泊まりなんですよね』
『岐阜出張です』
『同じじゃないですか』
『まったく違います』
「仕事ですから」
神谷まで真面目に答えたことで、陽菜の笑みが深くなった。
『分かってますって。でも、会社を出たら2人きりでしょ? 夜ご飯とかどうするんですか』
「到着時間次第ですが、翌日の打ち合わせをする予定です」
『うわあ。色気がない』
『櫻井さん』
『はいはい。仕事のお邪魔はしません』
陽菜は口では引きながら、少しも反省していない顔をしていた。
隣で中井が困ったように笑う。
「陽菜さん、出張へ行く前からあまり困らせたら駄目ですよ」
『あたしは応援してるだけだよ』
「何をですか」
『仕事も、それ以外も』
「それ以外?」
『中井くんは知らなくていいの』
何も知らない中井が首を傾げる。
神谷は咳払いをし、樹里は無言で箸を取った。
陽菜は樹里の横顔を覗き込む。
『日高先輩』
『何ですか』
『顔、ちょっと怖いですよ』
『誰のせいだと思っているんですか』
『高槻社長?』
『あなたです』
陽菜が声を上げて笑った。
その笑いにつられ、中井も僅かに頬を緩める。
神谷は困惑しながらも、向かいに座る樹里を見た。
樹里は不機嫌そうに昼食を口へ運んでいる。
それでも、本気で怒っているわけではない。
神谷には、今ではそれくらいの違いが分かるようになっていた。
午後。
出発の時間が近づくと、神谷は必要な資料を鞄へ収めた。
樹里も席を立ち、上着を手に取る。
『川原さん』
名前を呼ばれ、萌が顔を上げた。
「はい」
『本日の集計は、共有フォルダへ入れておいてください。岐阜でも確認します』
「分かりました」
『帰社後、報告を聞かせてください』
それだけ告げ、樹里は鞄を持った。
萌は小さく頭を下げる。
「いってらっしゃい」
『行ってきます』
樹里は神谷と並び、営業部を出ていった。
声を掛けてもらえた。
岐阜でも見ると言われた。
それなのに、萌の胸に残ったものは消えなかった。
結果を送れば、見てもらえる。
報告をすれば、聞いてもらえる。
けれど、自分が何を考え、どこで迷っているのかまで、樹里は知ろうとしているのだろうか。
萌は再び画面へ向き直った。
その少し離れた場所で、先輩社員が萌の横顔を見ていた。
今は、まだ声を掛けない。
ただ、見落とさないようにしていた。
一方、廊下を歩く神谷は、隣の樹里へ尋ねる。
「日高さん。荷物はそれだけですか」
『1泊ですから』
「そうですか。忘れ物はありませんか」
『神谷さんこそ、17社の資料はすべて入っていますか』
「確認しました」
『なら、問題ありません』
「はい」
エレベーターの扉が開く。
2人は並んで乗り込んだ。
閉じていく扉の向こうに、ホワイトボードが見える。
神谷。
日高。
並んだ2人の名前は、ただの出張予定にすぎない。
この時点では、彩花が手配した2つの部屋も、翌日の訪問先も、すべて予定どおりに用意されていた。
予定が崩れることを、まだ誰も知らなかった。




