236話「岐阜」
6年前。
誰かに合わせるくらいなら、一人で走った方がいい。
樹里は、そう思っていた。
誰かの横も、誰かの下も同じだと言い切った。
それでも美園と陽菜が後ろへついた夜から、樹里は一人で走る道だけを選ばなくなった。
そして現在。
樹里は神谷と並び、高槻興産の会議室に座っている。
机の上には、北側区画の図面と工程表が広げられていた。
案件は、いよいよ大詰めへ近づいている。
高槻社長は腕を組み、神谷の報告を聞いていた。
「居住者への事前案内は、今週中に完了します。搬入時間については、通勤と通学の時間帯を避けるよう、ゼネコン側と再調整しました」
「朝の搬入をずらした分、どこへ影響が出る」
「北側区画の基礎工程です。ただし、午後の作業人員を増やすことで、全体の日程には影響を出さない計画です」
「人を増やして、本当に動けるのか」
「現場へ入る業者の車両台数も確認しました。搬入口を分ければ可能です」
「分けた先で、居住者の動線と重ならないのか」
神谷は図面を開き、該当箇所を示した。
「こちらを作業車両専用とします。居住者には、反対側の出入口を使用していただきます」
高槻は図面を見る。
すぐには何も言わない。
神谷も、言葉を足さなかった。
高槻社長は、機嫌で相手を試しているわけではない。
答えを待つ沈黙へ耐えられず、余計な言葉を重ねる人間を信用しないだけだ。
分からないことを誤魔化す人間。
責任を他人へ押しつける人間。
相手の顔色を見て、先ほどまでの意見を簡単に変える人間。
高槻が嫌うのは、そういう仕事だった。
「日高」
高槻が樹里へ目を向ける。
「お前はどう見る」
『分離する方法自体に問題はないと思います』
「それだけか」
『ただし、図面上では十分でも、実際には誘導員が不足します』
樹里は北側の出入口を指す。
『朝の搬入を午後へ動かしたことで、業者の出入りが同じ時間へ集中しています。この場所に一人配置しただけでは、車両と居住者の両方を見ることはできません』
「何人必要だ」
『最低でも2人です。車両側と居住者側へ分けるべきです』
「人件費が増えるぞ」
『事故が起きた場合の損失よりは少ないです』
高槻は樹里を見た。
樹里も視線を逸らさない。
神谷は口を挟まず、そのやり取りを見守っている。
「神谷」
「はい」
「日高の案を入れた場合、どこを削る」
「誘導員の増員費用は、仮設案内板の一部を現場で共用することで吸収できます」
「すぐ出るんだな」
「日高さんから、誘導員の不足については事前に指摘を受けていました」
神谷は、自分一人の考えであるかのように話さなかった。
樹里の気づきを受け取り、自分の計画へ組み込んだことを、そのまま伝える。
高槻は鼻から短く息を吐き、椅子へ深く座り直した。
「なら、それで進めろ」
「承知しました」
『ありがとうございます』
会議の端では、緒方が議事録を取っていた。
以前のような私的な空気はない。
神谷が話した内容と、高槻の決定を正確に分けて記録している。
「誘導員の追加については、私から総務と現場管理へ共有します。共用する案内板の一覧は、今日中に島川不動産へ送ります」
「お願いします」
神谷が答える。
緒方は頷き、すぐに手元の資料へ戻った。
向かい側には森山が座っている。
北側区画の現場を預かる人間として、以前より図面へ書き込む内容が増えていた。
「一つ、現場から報告があります」
森山が別の資料を開く。
「今回入る業者のうち、複数社が岐阜のゼネコンを経由しています。東京側で工程を決めても、岐阜本社の承認がなければ人員を動かせません」
「承認はいつ出る」
高槻が聞く。
「書類だけなら来週中です。ただ、北側区画は既存の契約と違う部分が多いので、一度直接説明に来てほしいと言われています」
「オンラインでは駄目なのか」
「先方が、最終判断は顔を見てからと言っています」
「古い会社だな」
「それでも、あそこを通さなければ17社が動きません」
高槻の表情が変わる。
「17社か」
「はい。各社の作業開始日も、岐阜本社の回答待ちです」
高槻は、机の上にある工程表へ視線を落とした。
一社ずつ個別に交渉するより、元になるゼネコンの承認を取った方が早い。
だが、判断が遅れれば、これまで調整してきた全工程が止まる。
「神谷」
「はい」
「お前が岐阜へ行け」
神谷の背筋が伸びる。
「承知しました」
「日帰りでは無理だ。現場を見て、本社へ入れ。先方の担当者が捕まるのは午後になる。泊まりになると思っておけ」
「はい」
「東京で作った数字を説明するだけなら、お前を行かせる必要はない」
高槻は神谷をまっすぐ見る。
「向こうの現場を見て、東京の工程が本当に通るか、お前が判断してこい」
「分かりました」
「俺の名前で押し切ろうとするなよ」
「はい」
「相手が納得しないなら、理由を聞け。こちらが間違っているなら直せ。向こうが間違っているなら、根拠を持って崩せ」
「必ず、承認を取ってきます」
「必ずなんて言葉は、取ってきてから使え」
神谷は一瞬だけ黙った。
「……承認を取るために、必要なことを全て確認してきます」
「それでいい」
高槻の声は厳しい。
だが、神谷を失敗させるために岐阜へ送るのではない。
この案件の窓口として、神谷なら現地を見て判断できると考えている。
だからこそ、他の人間ではなく神谷を指名した。
緒方が手帳を開く。
「先方へ候補日を確認します。来週の水曜日と木曜日であれば、現場責任者と本社担当者の両方が対応できるそうです」
「神谷、空けられるか」
「確認します」
神谷が予定表を開く。
樹里も隣から日程を見る。
「水曜日の午前に東京を出れば、午後から現場へ入れます。翌日の午前中に本社で打ち合わせを行い、夕方には戻れると思います」
森山が現地の工程表を示す。
「現場を見るなら、水曜日の15時までには入ってください。それ以降は一部の作業が終わって、実際の搬入状況を確認できません」
「では、午前の早い時間に出発します」
「岐阜側の担当者名と、17社の一覧は僕から送ります」
「お願いします」
神谷と森山の間で、必要な確認が進んでいく。
以前、森山が樹里へ向けていた私的な関心は、表には出ていなかった。
樹里も、森山個人を意識することなく、現場担当者として話を聞いている。
「日高さん」
森山が樹里を見る。
「以前指摘してもらった居住者動線ですが、現場写真も追加して送ります。岐阜側へ説明する際に、使えると思います」
『ありがとうございます。神谷さんと確認します』
樹里は、窓口が神谷であることを言葉の中へ自然に置いた。
森山もその意味を理解し、神谷へ向き直る。
「今日中に送ります」
「お願いします」
高槻は、そこで資料を閉じた。
「岐阜の件が終われば、残っている大きな調整はほぼ片づく」
神谷と樹里を見る。
「ここまで来て、最後に雑な仕事をするなよ」
「はい」
『承知しました』
「結果を持ってこい」
会議は終わった。
廊下へ出ると、緒方が2人を追いかけてくる。
「神谷さん」
「はい」
「岐阜側の連絡先です。先方は電話での確認を好むので、最初の連絡だけはメールではなく、こちらへお願いします」
「ありがとうございます」
「宿泊先は、島川不動産で手配されますか?」
「その予定です」
「来週は岐阜市内で催事があるため、空室が少ないそうです。早めに予約した方がいいと思います」
「分かりました。戻り次第、手配します」
緒方は樹里にも頭を下げる。
「日高さんも、ありがとうございました」
『こちらこそ、ありがとうございます』
緒方は余計な言葉を加えず、会議室へ戻っていった。
神谷と樹里も高槻興産を出る。
駐車場へ向かう間、神谷は岐阜出張の予定を頭の中で組み立てていた。
出発時間。
現地までの移動。
ゼネコンとの打ち合わせ。
17社の作業内容。
一泊分の宿泊先。
隣を歩く樹里は、何も言わない。
「岐阜ですね」
神谷が口を開く。
『そうですね』
「泊まりになるそうです。会社へのお土産も、何か考えておきます」
『お土産は、現地で時間が余ればで結構です』
「そうですね。まずは仕事を優先します」
『それから』
樹里が足を止める。
神谷も振り返った。
『私も同行します』
「えっ?」
神谷の声が、思ったより大きくなる。
樹里は表情を変えない。
『北側区画の居住者動線は、私が確認してきました。17社の工程も、神谷さん一人ですべて確認するより、役割を分けた方が確実です』
「それは、そうですが」
『黒澤部長には、私から申請します』
「日高さんの予定は大丈夫なんですか?」
『調整できます』
「チーム櫻井モデルの方は?」
『私は現地の担当ではありません。川原さんの教育についても、出張中の引き継ぎを行えば問題ありません』
神谷は返事を忘れたように、樹里を見つめていた。
『神谷さんが、嫌とおっしゃるなら残りますが』
「嫌なはずがありません」
神谷は即座に答えた。
その速さに、自分でも一瞬驚く。
「ぜひ、お願いします」
『分かりました』
「ただ」
『何ですか』
「日高さんが同行してくださるなら、心強いです」
『仕事ですから』
「はい。仕事としてです」
神谷は頷く。
それでも、声に混じった喜びまでは隠せていなかった。
樹里は何も指摘せず、社用車の助手席へ乗る。
神谷は運転席へ座り、エンジンをかけた。
6年前。
誰かに合わせる必要がないから、一人の方が楽だと言った。
今も、樹里は自分の足で立っている。
神谷に頼るために岐阜へ行くわけではない。
神谷を支えるだけのためでもない。
同じ仕事を背負う者として、自分も必要だと判断した。
一人でもできることと、一人でやるべきことは違う。
それを知った樹里は、自分の意思で神谷の隣を選んだ。
社用車が、高槻興産の駐車場を出る。
岐阜への一泊出張は、すでに2人の予定へ変わっていた。




