235話「顔を上げた先」
翌週の土曜日。
チーム櫻井モデルは、再びモデルハウスへ集まっていた。
先週とは、配置が少し変わっている。
入口の案内表示はさらに数を減らし、来場者が最初に見る一枚へ情報を集約した。
子供用の机は、見学の動線を妨げず、受付からも目が届く場所へ置かれている。
資料の予備は受付の内側へまとめ、補充のために何度も事務室へ戻る必要もなくなった。
そして萌の手元には、チーム全員で共有するために作り直した記録用紙があった。
「櫻井先輩。記録用紙は全員分、こちらへ置いておきます」
『ありがとう、萌』
「1時間ごとに私が回収します。気づいたことがあれば、数字にならない内容でも書いてください」
「分かりました」
陸が自分の分を受け取る。
「僕も案内が終わるたびに書きます」
「終わった時間だけではなく、何を聞かれたかもお願いします」
「はい」
萌は凛と柚希にも用紙を渡した。
先週までは、自分一人で記録することに意味があると思っていた。
自分しか気づけないものを集める。
誰よりも正確な数字を作る。
それが、自分の価値になると思っていた。
だが樹里から、誰が担当しても続けられる形にするよう言われた。
最初は、自分の仕事を取り上げられたように感じた。
実際に全員へ用紙を配ってみても、その感覚は消えていない。
自分が作ったものへ、別の人間が文字を書き込む。
癖の違う字。
自分なら使わない言葉。
数字の書き方すら揃っていない。
見ているだけで、直したくなる。
『萌』
陽菜が呼ぶ。
『嫌そうな顔してるよ』
「していません」
『してるって』
「記入方法が人によって違うと思っただけです」
『同じ出来事でも、見る人が違えば書き方も変わるでしょ』
「比較しにくくなります」
『じゃあ、あとで比べやすい形を考えよう。でも、今はそのままでいいよ』
「なぜですか?」
『萌一人じゃ見つけられないものが、書いてあるかもしれないから』
萌は配り終えた用紙を見る。
樹里からも同じようなことを言われた。
良い方法を見つけたなら、自分だけのものにするな。
陽菜もまた、萌一人の記録を求めていない。
「……分かりました」
『じゃあ、始めようか』
開場直後から、来場者は途切れなかった。
前の週より多い。
入口に立つ凛が、家族の人数と歩く速度を見ながら案内する。
「受付がお済みの方から、こちらへどうぞ。先に室内をご覧になりたい方は、右側からお入りいただけます」
全員を同じ場所へ並ばせない。
目的が決まっている来場者と、まだ何を見るか迷っている来場者を分ける。
入口で人の流れが止まることは、ほとんどなくなっていた。
柚希は子供用の机へ案内しながら、必ず親にも確認する。
「お子さんはこちらで遊べます。一緒に見学される場合は、塗り絵を持って回っても大丈夫です」
子供を預かることが目的ではない。
家族が、自分たちに合った見学方法を選べるようにする。
先週の失敗から、柚希が考えた方法だった。
陸の前には、30代ほどの夫婦が立っていた。
「まず、値段を知りたいんです」
「承知しました。土地は決まっていますか?」
「まだです」
「希望されている地域はありますか?」
陸は、用意した案内の順番にこだわらなかった。
夫婦が知りたいことから尋ね、その答えに合わせて資料を変える。
説明を終えた夫婦は、土地情報の相談席へ移った。
『良かったよ』
近くを通った陽菜が、小さな声で言う。
「ありがとうございます」
『でも、まだ次のお客さん来てるよ』
「はい」
陸はすぐに入口へ視線を戻した。
以前なら、陽菜に褒められたことだけで頭がいっぱいになっていた。
今は、次の来場者を見ようとしている。
午前11時を過ぎた頃。
陸のもとへ、年配の夫婦がやってきた。
「時間がなくて、15分くらいしか見られないんですが」
「分かりました。短い案内に切り替えます」
陸は即座に答えた。
指示を待たず、自分で決める。
それが正しいと思った。
「こちらがリビングです。続いて水回りをご案内します」
必要だと思う場所だけを選び、足早に説明していく。
夫婦は陸の後ろをついて歩いた。
だが、次第に返事が減っていく。
「こちらの収納は、限られた空間を有効に――」
「あの」
夫が陸の説明を遮った。
「平屋の相談ができると聞いたんですが」
「平屋ですか?」
「私たち、階段のない家を考えているんです」
陸の足が止まる。
目の前にあるモデルハウスを短時間で案内することばかり考え、夫婦が何を見に来たのかを聞いていなかった。
「申し訳ありません。先に確認するべきでした」
「時間もないので、今日はもう」
妻が時計を見る。
陸は焦った。
このまま帰らせたくない。
「すぐに平屋の資料をお持ちします。少々お待ちください」
返事を待たず、資料を探しに向かおうとする。
『陸』
陽菜が呼び止めた。
陸の足が止まる。
陽菜は夫婦へ頭を下げた。
『申し訳ありません。平屋をご希望でしたら、資料をお渡しするだけではなく、専門の担当から改めてご説明させてください』
「今日は時間がないんです」
『はい。ですから、お名前を書いて長くお待たせすることはしません。ご都合の良い時間に、こちらから連絡してもよろしいですか?』
夫婦が顔を見合わせる。
「電話なら、平日の夕方がいいです」
『ありがとうございます。連絡先だけ、こちらへお願いします』
陽菜は小さな用紙を差し出した。
夫婦は連絡先と希望時間を書き、モデルハウスを出ていった。
陸は頭を下げた。
「すみませんでした」
『判断したことは悪くないよ』
「でも、失敗しました」
『時間がないって聞いて、短く案内しようと思ったんでしょ』
「はい」
『その前に、何を見たいのか聞けたら良かったね』
「僕は、自分で決めることばかり考えていました」
『自分で決めるのと、勝手に決めつけるのは違うからね』
「……はい」
『でも、前みたいにあたしの顔を見て待ってたわけじゃない』
陽菜は陸の肩を軽く叩いた。
『自分で動いたから、自分の失敗が分かった。次は聞いてから決めよう』
「はい」
陸は夫婦が出ていった扉を見る。
自分で判断する。
それは、相手の気持ちを想像だけで決めることではない。
何を求めているかを聞き、その答えを受け取ったうえで動くことだった。
昼を過ぎると、相談席の前に待つ人が増え始めた。
室内見学を終えた来場者を、現地の営業担当へ引き継ぐ。
その流れ自体は決めていた。
しかし、見学を終える人数に、営業担当の手が追いついていない。
萌のタイマーが鳴る。
顔を上げる。
相談席の前には2組が待っている。
まだ許容できる人数だった。
萌は記録用紙へ数字を書き込む。
5分後。
再び顔を上げる。
先ほど待っていた2組のうち、1組がいなくなっていた。
営業担当と話している様子はない。
そのまま帰ったらしい。
萌は記録へ印をつける。
さらに次の確認。
別の家族が、相談席の前で立っている。
父親が時計を見る。
母親が出口へ視線を向ける。
子供は退屈そうに身体を揺らしていた。
待ち時間は、まだ4分だった。
数字だけを見れば、決して長くはない。
だが、家族は相談を受けずに出口へ向かい始めた。
「遠藤さん」
萌が声をかける。
「今、出口へ向かっているご家族に、感想を聞いてもらえますか」
「分かりました」
凛が家族へ近づく。
「本日はありがとうございました。何か分かりにくい点はありませんでしたか?」
「いえ、家は良かったんですけど」
母親が相談席を見る。
「このあと、どれくらい待つのか分からなかったので」
「申し訳ありません」
「子供も飽きてきたので、今日は帰ります」
凛は無理に引き止めなかった。
「後日、相談をご希望でしたら、お電話でも対応できます」
「それなら、お願いできますか?」
凛が受付へ案内する。
その様子を見ながら、萌は記録用紙を確認した。
前の週にも、室内見学を終えたあと、そのまま帰った家族がいる。
待ち時間だけを比べても、共通点は見つからなかった。
3分で帰った者もいれば、10分待った者もいる。
違うのは時間ではない。
待つ理由と、いつまで待てばいいのかを伝えられていなかった。
「櫻井先輩」
『どうしたの?』
「見学後の引き継ぎに問題があります」
萌は記録用紙を陽菜へ見せた。
「待ち時間が長いから帰るのではありません。どれくらい待つか分からない人が、相談へ進まずに帰っています」
『なるほど』
「受付で待ち時間を伝えるべきです。それから、すぐに案内できない場合は、連絡先だけ残せるようにした方がいいと思います」
『さっき陸のお客さんに使ったみたいな用紙?』
「はい。ただし、毎回その場で作っていたら時間がかかります」
萌は周囲を見る。
凛が来場者の動きを見ている。
柚希は子供を連れた家族と話している。
陸は短い案内を始める前に、今度は相手の希望を聞いていた。
「相談を希望する内容と、連絡可能な時間だけを選べる用紙を用意します。受付で渡せば、営業担当へも引き継ぎやすくなります」
『作れる?』
「今日の分は手書きになります」
『それでいいよ』
「形式を揃えるのは、会社へ戻ってからになります」
『今困ってる人に間に合う方が大事』
「……はい」
萌は白紙の用紙を取り出した。
相談内容。
希望する連絡方法。
連絡可能な時間。
必要な項目を絞り、手書きで枠を作っていく。
その途中で、陸が覗き込んだ。
「川原さん。土地の希望地域もあった方がいいと思います」
「項目を増やすと、記入に時間がかかる」
「選択式なら、すぐに書けます」
萌は少し考え、希望地域の欄を追加した。
「山本。これを5枚、複写してください」
「分かりました」
陸が用紙を持って走り出す。
「走らなくていい!」
「すみません!」
萌の声に、柚希が笑う。
凛も口元を緩めていた。
陽菜は何も言わず、4人の動きを見ている。
萌が問題を見つけた。
陸が足りない項目を加えた。
凛が帰ろうとする家族から理由を聞いた。
柚希が、待つことに飽きた子供の相手をしている。
陽菜が一人で作った答えではない。
4人が別々に見ていたものが、一つの方法へ繋がっていた。
午後から、見学を終えた来場者へ待ち時間を伝えるようにした。
待てない場合は、連絡用紙へ記入してもらう。
帰ることを止めるのではない。
帰ったあとも、関係が切れない形を作る。
夕方までに、7組が用紙を残した。
営業終了後。
萌は全員分の記録を机へ広げた。
字も、書き方も揃っていない。
それでも、自分一人で書いていた前の週より、情報は多かった。
「早川さん。この『子供が靴を履きたがらなかった』というのは、どういう意味ですか」
「帰りたくなかったみたい。ご両親は困っていたけど、家を気に入ってくれたんだと思う」
「数字にはできませんね」
「ごめん。書かない方が良かった?」
「いえ」
萌は、その一文を別の用紙へ書き写した。
「必要だと思います」
柚希が嬉しそうに笑う。
凛の記録には、入口で立ち止まった人が最初に見た方向が書かれている。
陸の記録には、案内の途中で受けた質問が残されていた。
自分では書けなかったものばかりだった。
『萌』
陽菜が尋ねる。
『共有してみて、どうだった?』
「書き方が揃っていないので、集計には時間がかかります」
『うん』
「抜けている時間もあります」
『うん』
「ですが」
萌は4人分の用紙を見る。
「私一人で記録していたときより、見えるものは増えました」
『そっか』
「次回までに、記入する人が迷わない形式へ直します」
『お願い』
片づけを終え、5人がモデルハウスを出る。
外には、神崎優子が立っていた。
「お疲れさま、陽菜」
『優子。待っててくれたの?』
「違う。今から帰るところ」
『わざわざこっち側から?』
「駐車場が同じ方向なの」
『はいはい』
優子の視線が、陽菜の後ろにいる4人へ向く。
先週までは、誰かが困るたびに陽菜が走っていた。
今日は違った。
一つの問題へ、4人が別々の方向から手を伸ばしていた。
「少しはチームらしくなったみたいね」
『少しだけ?』
「まだ、少し」
『そっちはどうだった?』
「来場者数は、あなたたちより少ない」
『じゃあ、あたしたちの勝ち?』
「相談予約は、うちの方が多い」
陽菜の笑顔が止まる。
優子は小さく笑った。
「人を集めるだけなら、お祭りと同じよ」
『分かってる』
「集めた人を、次へ繋げられるかが営業でしょ」
『今日は7組繋げたよ』
「うちは12組」
『……次は勝つ』
「やってみれば」
優子はそれだけ言い、歩き出した。
数歩進んだところで足を止める。
「でも、前よりは退屈しなくなった」
振り返らないまま告げる。
「次は、もう少し本気で見てあげる」
『最初から本気で来なよ』
優子は片手だけを上げ、そのまま駐車場へ向かった。
陽菜は、その背中を見送る。
負けている。
来場者の数ではない。
その先へ繋げた結果で、まだ届いていない。
『よし』
陽菜が4人を振り返る。
『次は、12組を超えるよ』
「はい」
4人の返事が重なる。
完成には、まだ遠い。
それでも、陽菜一人の声へ従った返事ではなかった。
自分たちで見つけた課題を、自分たちで越えようとする声だった。




