233話「下に入る」
樹里と陽菜が出会った夜から、数日が経った。
街外れの空き地に、複数のヘッドライトが並んでいた。
そこは樹里が走り疲れたとき、時折バイクを停める場所だった。
誰かと待ち合わせるためではない。
缶コーヒーを飲み、冷えた風に身体を晒してから、また一人で走り出す。
今夜もそのつもりだった。
だが、空き地には先客がいた。
何台ものバイク。
揃いの印をつけた女たち。
その先頭に、中村美園が立っている。
19歳。
長い髪を後ろでまとめ、壁へ背を預けていた。
その近くには、SR400が停められている。
周囲の者たちは、美園を総長と呼んでいた。
だが、美園自身がその名を口にしたことは一度もない。
青蝶連合という名前も、美園が考えたものではなかった。
美園の強さに憧れた者。
喧嘩の場で助けられた者。
誰にも頭を下げず、一人で歩く姿を追いかけた者。
そうした人間が勝手に集まり、自分たちへ名前をつけ、美園を先頭に置いた。
美園は追い払わなかった。
ついてくるなら、好きにすればいい。
ただ、それだけだった。
暴走すれば止めた。
危険な場所からは連れ帰った。
誰かが傷つけば、黙って手当てをした。
それを繰り返すうちに、美園の意思とは関係なく、青蝶連合は一つの集団になっていた。
「総長。日高が来ました」
仲間の一人が声を上げる。
樹里のCB1100が空き地へ入り、並んでいたヘッドライトが一斉にそちらを照らした。
樹里はバイクを停め、ヘルメットを外す。
周囲を見回しもしなかった。
美園だけを見る。
『またお前か』
『待ってたよ、日高』
『何の用だ』
『何度も言ってるだろ。私と走らないか』
『断ったはずだ』
『気が変わってるかもしれない』
『変わっていない』
樹里は短く答え、バイクへ戻ろうとする。
美園がその前へ立った。
『うちへ来いとは言わない』
『同じことだ』
『私の横で走れって言ってるんだ』
『誰かの横も、誰かの下も変わらない』
『私の下に置くつもりはないよ』
『人の集まりに入れば、そこには順番ができる』
美園は後ろに並ぶ者たちを見る。
全員が、美園の返事を待っていた。
何をするにも、美園が先に動く。
走り出すのも、止まるのも、喧嘩を始めるのも、終わらせるのも。
美園が命令したわけではない。
それでも、彼女たちは美園の背中を見ていなければ動けなくなっていた。
『日高は、誰の下にも入らないんだね』
『入る理由がない』
『一人の方が楽だから?』
『一人なら、誰かに合わせる必要がない』
『寂しくないの?』
『必要のない質問だ』
美園が笑う。
拒絶されるのは、これが初めてではない。
そのたびに腹が立つ。
同時に、以前よりも樹里を欲しくなる。
美園の名前を聞けば、大抵の人間は態度を変えた。
青蝶連合の総長。
そう呼ばれている人間へ近づこうとする者もいれば、怯えて距離を取る者もいる。
樹里だけは、最初から何も変わらなかった。
美園の肩書きにも、後ろにいる人数にも興味を示さない。
目の前にいる美園一人だけを見て、必要がなければ切り捨てる。
「総長が、そこまで言ってるんだぞ」
後ろにいた一人が前へ出た。
「何度も断りやがって。少しは自分の立場を――」
美園が片手を上げる。
それだけで声が止まった。
『私が話してる。下がってな』
「でも」
『聞こえなかった?』
美園は振り返らない。
声を荒らげたわけでもない。
それでも、前へ出た者は一歩下がった。
樹里が美園を見る。
『口では横と言いながら、全員を下に置いている』
美園の目が細くなる。
『私が置いたんじゃない』
『同じことだ』
『違うよ。この子たちが勝手に私の後ろへ並んだんだ』
『それを許している』
『追い払う理由もなかったからね』
『なら、私を誘う理由は何だ』
美園はすぐには答えなかった。
樹里を青蝶連合へ入れれば、もっと強くなる。
誰にも負けない集団になる。
そう考えているつもりだった。
だが、樹里から問い返されて、ようやく気づく。
美園が欲しかったのは、樹里の力ではない。
自分の後ろへ並ばない人間だった。
総長と呼ばない人間。
美園の言葉を待たず、自分の道を選べる人間。
そんな相手と、同じ方向へ走ってみたかった。
空き地の入口から、甲高い排気音が響いた。
全員が振り返る。
陽菜のGS400が、勢いよく空き地へ入ってきた。
バイクを停めた陽菜が、ヘルメットを脱ぐ。
片手には鉄パイプを持っていた。
『見つけた』
陽菜は周囲にいる者たちへ目もくれず、樹里だけを睨んだ。
『この前の借りを返しに来た』
『借りなどない』
『あたしにはあるんだよ』
陽菜は鉄パイプを肩へ乗せ、樹里へ向かって歩く。
『今日は止めただけじゃ帰さねえからな』
『帰れ』
『その言い方、やっぱりむかつく』
陽菜が鉄パイプを振り上げる。
樹里へ向けて踏み込んだ瞬間、美園が2人の間へ入った。
振り下ろされた鉄パイプを、肩で受ける。
鈍い音が響いた。
陽菜の動きが止まる。
『……何してんだよ』
美園は表情を変えなかった。
鉄パイプの当たった肩を一度回す。
『今は私が話してる』
『知らねえよ。あたしはそいつに用があるんだ』
『仕返し?』
『そうだよ』
『その割には、楽しそうな顔してるね』
『は?』
『本当に嫌いな相手を見つけた顔じゃない』
美園は鉄パイプを片手で掴んだ。
陽菜が引こうとしても、動かない。
『離せ』
『あの女に勝ちたいの? それとも、もう一度止めてもらいたいの?』
『ふざけんな』
陽菜が鉄パイプを手放し、美園へ拳を向ける。
美園はそれを避けなかった。
陽菜の手首を掴み、身体の向きを変える。
次の瞬間には、陽菜の腕が背中へ回されていた。
『痛っ……離せ!』
『勢いはあるけど、真っ直ぐすぎる』
『説教すんな!』
『日高に届かなかったのも、それが理由だね』
陽菜の動きが止まる。
『お前、あいつの何なんだよ』
『今から決めるところ』
美園は陽菜の腕を放した。
陽菜が距離を取り、警戒しながら美園を見る。
樹里は2人のやり取りを、黙って見ていた。
美園が樹里へ向き直る。
『日高。最後にもう一度だけ聞く』
『何度聞いても答えは同じだ』
『そうみたいだね』
美園は小さく笑った。
『なら、聞き方を変える』
後ろにいた青蝶連合の者たちが、美園を見る。
美園は自分を総長と呼ぶ人間たちではなく、樹里だけを見ていた。
『あんたが私の横へ来ないなら、私があんたの下へ入る』
空き地から音が消えた。
「総長……?」
誰かが声を漏らす。
美園は振り返らない。
樹里の返事を待つ。
『私について来られるなら、好きにしろ』
歓迎の言葉ではなかった。
必要としているとも、仲間になれとも言わない。
それでも美園には、その答えで十分だった。
『その方が面白そうだ』
美園が笑う。
「待ってください」
青蝶連合の一人が、今度は止まらず前へ出た。
「総長がいなくなったら、私たちはどうすればいいんですか」
その声には、怒りよりも不安があった。
美園は、ようやく後ろを振り返った。
並んでいる顔を、一人ずつ見る。
『私は一度も、自分を青蝶連合の総長だと名乗ったことはないよ』
「でも、私たちは総長についてきたんです」
『それは、お前たちが決めたことだ』
「だったら、これからも――」
『今度は、私を見ずに決めな』
言葉を遮られ、全員が黙る。
『私はお前たちを集めてない。青蝶連合って名前をつけたのも、私じゃない』
美園の声は冷たくなかった。
突き放すためではなく、初めて一人ずつを正面から見るための言葉だった。
『ついてくるのを止めなかったのは、私だ。だから、私の背中だけ見ていればいいと思わせた責任はある』
「それなら――」
『でも、お前たちは私の部下じゃない。私の持ち物でもないよ』
美園は、そこで一度言葉を止めた。
『青蝶を残したいなら、自分たちで残せばいい。終わらせたいなら、終わらせてもいい。誰か一人が先頭に立ってもいいし、それぞれ別の道へ行ってもいい』
「そんなこと、急に言われても」
『私が行くからって、お前たちまで終わる必要はない』
美園は静かに言った。
『誰かの背中だけ見て走ってたら、自分の道はいつまで経っても見えないよ』
言葉を返す者はいなかった。
美園は彼女たちを捨てたのではない。
初めて、自分を追うこと以外の道を渡した。
受け取れるかどうかは、彼女たちが決めることだった。
樹里が尋ねる。
『全員連れてくるつもりか』
『連れていかない』
『いいのか』
『この子たちは私の部下じゃない。勝手についてきたんだ』
美園は樹里へ向き直る。
『だから、ここから先も自分で決めてもらう』
『そうか』
樹里はそれ以上聞かなかった。
『ちょっと待てよ』
陽菜が鉄パイプを拾い上げる。
『勝手に2人で話を進めんな。あたしはまだ、こいつに一発も返してねえんだよ』
『なら、お前も来ればいい』
美園が言う。
『は?』
『日高に興味があるんだろ』
『仕返しだって言ってんだろ』
『仕返しだけなら、居場所を探してまで来ないよ』
『あたしは――』
『次は勝つんでしょ?』
陽菜は口を閉じた。
美園の言葉を否定できない。
樹里はヘルメットを被り、CB1100へ跨った。
『私は誘っていない』
『でも、ついてくるなとも言わない』
美園が笑う。
『好きにしろ』
樹里は、それだけを返した。
エンジンがかかる。
陽菜は不満そうに舌打ちしながら、鉄パイプをGS400へ固定した。
『次は絶対に一発入れるからな』
『まずは、あの背中についていけたらね』
『あたしを馬鹿にすんな』
美園もSR400へ跨る。
樹里のCB1100が、最初に空き地を出た。
少し遅れて、美園が続く。
陽菜もGS400のアクセルを開いた。
白線の向こうへ、3台の排気音が重なっていく。
まだ総長はいない。
副総長もいない。
Rose girlsという名前もない。
それでも3人は、初めて同じ方向へ走っていた。
空き地には、青蝶連合の者たちが残されている。
美園を追う者はいなかった。
追えなかったのではない。
美園が初めて、自分たちで選べと言ったからだ。
やがて、一人がバイクのエンジンを切った。
別の一人も続く。
誰の号令もない静けさの中で、彼女たちは初めて美園の背中ではなく、隣にいる者の顔を見た。
青蝶連合をどうするのか。
その答えは、美園が決めるものではなくなっていた。
幹線道路では、樹里が一定の速度で走っている。
美園は少し距離を空け、その後ろについた。
陽菜のGS400が、美園の横へ並ぶ。
『おい。あんた、名前は?』
『中村美園』
『あたしは櫻井陽菜』
『陽菜か。覚えたよ』
『呼び捨てにすんな』
『自分から名乗っておいて、面倒な子だね』
『お前に言われたくない』
美園は小さく笑った。
陽菜が、前を走る樹里へ顎を向ける。
『あいつは?』
『日高樹里』
陽菜は、その名を口の中で一度だけ繰り返した。
『日高樹里』
前を走る樹里は振り返らない。
それでも、後ろから聞こえた自分の名前は届いていた。
誰ともつるまず、一人で走ることを好んでいた夜。
その背後に、2つの排気音が加わった。
追い払おうと思えば、できた。
速度を上げ、置き去りにすることもできた。
樹里は、どちらもしなかった。
3台は距離を変えながら、同じ夜の中を走っていく。
それが、美園が初めて自分の意思で誰かについていった夜だった。
そして陽菜が、仕返しという言葉を使いながら、樹里の背中を追い始めた夜だった。




