232話「追い打ち」
6年前。
日高樹里、20歳。
誰かと走ることに、興味はなかった。
決まった集合場所もなければ、帰りを待つ人間もいない。
走りたいときにバイクへ跨り、飽きたら帰る。
夜の幹線道路を流れる風だけで、樹里には十分だった。
その夜も、樹里は一人だった。
信号で停まると、CB1100の低い排気音が、深夜の街へ静かに響く。
青へ変わる。
樹里がアクセルを開こうとしたとき、左手の路地から鈍い音が聞こえた。
何か硬いものが壁へ当たる音。
続いて、男の短い呻き声。
樹里は前へ進まず、左へ曲がった。
助けようと思ったわけではない。
警察を呼ぶつもりでもなかった。
ただ、その音には、もう終わっているはずのものが続いているような響きがあった。
路地の奥には、3人の男が倒れていた。
1人は壁に背を預け、口元を押さえている。
もう1人は地面に横たわったまま、起き上がれずにいた。
残った男は両手を前へ出し、震える声を漏らしている。
「待て。もう分かったから」
その男の前に、1人の女が立っていた。
18歳ほどに見える。
薄いジャケットに、丈の短いスカート。
長い髪は乱れ、頬には誰かに殴られた跡が残っている。
だが、怯えているのは女ではなかった。
赤く腫れた拳を握り、倒れた男へもう一度近づいていく。
呼吸は荒い。
唇は、笑っていた。
勝ったことに安堵している顔ではない。
まだ終わらせたくない人間の顔だった。
樹里はバイクを停め、エンジンを切った。
ヘルメットを外す。
女は、その音にすら振り返らなかった。
倒れている男の胸元を掴み、無理やり上体を起こす。
『そこまでにしろ』
女の腕が止まった。
ゆっくりと振り返る。
樹里を見た目に浮かんだのは警戒ではない。
自分の時間を邪魔されたことへの、露骨な苛立ちだった。
『誰だよ、あんた』
『離せ』
『こいつらが先に仕掛けてきたんだよ』
『聞いていない』
『3人で囲んできたんだ。返して何が悪い』
『もう返しただろ』
女の眉が吊り上がる。
『足りねえんだよ』
『勝ったなら終われ』
『終わるかどうかは、あたしが決める』
女は樹里から視線を外し、掴んでいた男へ拳を振り上げた。
その手首を、樹里が掴む。
拳は男の顔へ届かなかった。
『離せ』
『やめろ』
『命令すんな』
女が腕を振る。
樹里の手は外れない。
力任せに引いても、捻っても、掴まれた位置がほとんど動かなかった。
女の表情から、苛立ちが一瞬だけ消える。
代わりに、目の奥へ別の熱が生まれた。
『あんた、強いな』
『関係ない』
『あるだろ』
女は掴まれていない方の拳を、樹里の腹へ向けた。
迷いのない一撃だった。
樹里は半歩だけ身体をずらす。
拳が空を切る。
その腕を取り、女の身体を反転させる。
背後へ回り、両腕の動きを封じた。
女の膝が地面へ落ちる。
『くそっ、離せ!』
女は肩を揺らし、身体ごと樹里を振りほどこうとする。
足を踏もうとする。
頭を後ろへ振る。
どれも当たらない。
樹里は女の腕を壊せる位置にいた。
少し力を加えれば、肩を外すこともできる。
女にも、それが分かった。
それでも樹里は痛みを与えなかった。
暴れる身体を押さえ、動きを止めているだけだった。
『なんで殴らねえんだよ』
女が吐き捨てる。
『必要がない』
『あたしは、あんたを殴ろうとしたんだぞ』
『当たっていない』
『馬鹿にしてんのか』
『事実だ』
樹里の声には、怒りも嘲りもなかった。
力の差を誇るような響きすらない。
ただ起きたことを、そのまま口にしている。
それが、女には何より腹立たしかった。
『放せ。もうやらねえから』
『信用できない』
『じゃあ、いつまでこうしてるつもりだよ』
『あいつらが消えるまでだ』
女が顔を上げる。
先ほどまで倒れていた男たちが、互いに肩を貸しながら路地の出口へ逃げていく。
追おうとしても、樹里の腕からは抜け出せない。
『待て!』
「もう関わりたくねえよ!」
男たちは振り返らずに消えた。
足音が遠ざかる。
路地に残ったのは、樹里と女の2人だけだった。
樹里は拘束を解く。
自由になった女は、地面へ片手をつきながら立ち上がった。
肩を回す。
痛みは残っていない。
樹里は本当に、止めただけだった。
『これで終わりだ。帰れ』
樹里は女へ背中を向ける。
『勝手に終わらせんな』
女が駆け出した。
振り向きざまに顔を狙う。
先ほどより速く、距離も短い。
それでも樹里は避けなかった。
掌で拳を受け止める。
乾いた音が、狭い路地へ響いた。
女が押し込もうとしても、樹里の腕は動かない。
拳を包まれたまま、身体だけが前へ傾いていく。
『まだやるのか』
『……むかつくんだよ』
『何がだ』
『あたしより強いくせに、あたしを殴らないところが』
樹里は女の拳を放した。
『殴る必要がない』
『その言い方も、むかつく』
『そうか』
『そうか、じゃねえよ』
女はもう一度構えようとする。
だが、拳が完全には上がらなかった。
恐怖ではない。
自分が何度向かっても、この女は同じように止めるのだと理解してしまった。
殴り返しもせず。
怒鳴りもせず。
痛みを与えて従わせることもなく。
それでも、自分では絶対に動かせない。
『その手で殴り続ければ、いつか人を殺す』
樹里が言った。
『別にいいよ』
『良くない』
『あんたに何が分かる』
『分からない』
『だったら口出すな』
『分からなくても、止めることはできる』
女の目が、樹里を睨む。
『止められたくないなら、自分で止まれ』
それだけを残し、樹里はバイクのもとへ戻った。
ヘルメットを被る。
キーを回すと、エンジンの音が路地の壁を震わせた。
『待てよ』
女が追いかける。
樹里は振り返らない。
『名前くらい言えよ』
返事はなかった。
『あたしは櫻井陽菜だ! 覚えとけ!』
エンジン音が大きくなる。
樹里はそのまま路地を抜け、幹線道路へ戻った。
『本当にむかつく女』
陽菜は赤くなった拳を握る。
殴られたわけでもない。
怪我をさせられたわけでもない。
それなのに、今まで負けたどんな喧嘩よりも、強く敗北を感じていた。
何度向かっても届かなかった。
それ以上に、自分の拳を最後まで拳で返してこなかったことが許せなかった。
力があるなら振るえばいい。
勝てるなら勝ちを見せつければいい。
陽菜は、それ以外の強さを知らなかった。
だからこそ、忘れられなかった。
あの女は、自分を止めた。
倒さず、傷つけず、それでも完全に止めた。
追いかけて、次は必ず一発入れる。
あの澄ました顔を歪ませる。
陽菜はそう決めた。
そのとき自分が追い始めたものが、仕返しだけではないことには、まだ気づいていなかった。
幹線道路を走る樹里の手には、先ほど掴んだ細い手首の感触が残っていた。
一人で走る夜が好きだった。
誰かと関われば、面倒なものが増える。
名前を覚える必要も、次に会う理由もない。
それでも、信号で停まったとき。
樹里の耳には、エンジン音に紛れて、あの女の声が残っていた。
櫻井陽菜。
覚えるつもりのなかった名前を、樹里は一度で覚えていた。




