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231話「聞かないでください」

平日の夜。


 Roseの扉が開き、陽菜が明るい声とともに入ってきた。


『ただいまー』


『おかえり』


 カウンターの内側にいた美園が、いつものように答える。


 店内に客の姿はない。


 最後の客が帰ったあとらしく、凛がテーブルのグラスを片づけていた。


「陽菜さん、お疲れさまです」


『凛ちゃんもお疲れさま』


 陽菜はコートを脱ぎ、カウンター席へ腰を下ろした。


 美園が慣れた手つきで水割りを作る。


『今日は中井くん、一緒じゃないの?』


『まだ会社。あたしだけ先に帰ってきた』


『帰ってきたって、ここに?』


『うん。Roseもあたしの帰る場所だから』


『中井くんが聞いたら、どんな顔するかな』


『大丈夫。ちゃんとあとで中井くんの家にも帰るよ』


『もう自分の家みたいに言ってるね』


『あたしの鍵もあるからね』


 陽菜は鞄から深い赤色のキーケースを取り出した。


 二つの鍵を、美園へ見せるように揺らす。


『見て。増えた』


『良かったね』


『うん』


 陽菜は満足そうにキーケースを鞄へ戻した。


 その様子を見ていた凛も、柔らかく笑っている。


「今朝は驚きました」


『同棲のこと?』


「はい。営業部へ入ってきて、いきなり発表するとは思いませんでした」


『早くみんなに教えたかったから』


「中井さん、顔が真っ赤でしたね」


『凛ちゃんもちゃんと見てた?』


「見ていました。あんなに慌てている中井さんは、初めて見ました」


『可愛かったでしょ』


「陽菜さんが、色々と言いすぎたからだと思います」


『一緒に住み始めたことしか言ってないよ』


「昨夜はあまり眠っていないとも言っていました」


『本当のことじゃん』


「中井さんが気の毒でした」


『凛ちゃん、中井くんの味方するの?』


「人前で言われたら、誰でも恥ずかしいと思います」


『へえ』


 陽菜の目が、わずかに細くなる。


 凛は、その視線の変化に気づかなかった。


「でも、おめでとうございます」


『ありがとう』


「陽菜さん、嬉しそうでした」


『うん。嬉しいよ』


 陽菜は照れることなく答えた。


 そのあとで、グラスを拭く凛の横顔をじっと見つめる。


「……どうかしましたか?」


『凛ちゃん』


「はい」


『ちょっと変わったね』


 凛の手が止まる。


「何がですか?」


『前より、雰囲気が柔らかくなった』


「そうでしょうか」


『なったよ。美園さんも思わない?』


『そうだね』


 美園はカウンターの中で頷いた。


『名古屋から帰ってきてから、少し変わったかも』


「そんなに変わっていません」


『変わったって』


「気のせいです」


 凛は再びグラスを拭き始める。


 だが、先ほどより手の動きがわずかに速くなっていた。


 陽菜はそれを見逃さない。


『ねえ、凛ちゃん』


「何ですか?」


『青柳くんとは、どこまでしたの?』


 凛の手から、グラスが滑りかけた。


 慌てて両手で受け止める。


「いきなり何を聞くんですか!」


『壊さないでよ。美園さんのグラス』


「陽菜さんのせいです!」


『あたし、質問しただけじゃん』


「人に聞く質問ではありません」


『なんで?』


「なんでって……」


『付き合ってるんでしょ? 名古屋に泊まったんでしょ?』


「泊まりましたけど、それとこれは別です」


『別なんだ』


「……別だとは言っていません」


 答えてから、凛は自分の失言に気づいた。


 陽菜の目が輝く。


『したんだ』


「知りません」


『今、自分で言ったじゃん』


「言っていません」


『凛ちゃん、初めてだった?』


「陽菜さん!」


 凛の顔が一気に赤くなった。


 耳まで染まっている。


 その反応だけで、陽菜には十分だった。


『初めてだったんだ』


「聞かないでください」


『痛かった?』


「答えません」


『青柳くん、優しかった?』


「答えません」


『ちゃんと避妊した?』


「本当にやめてください!」


 凛は持っていた布巾をカウンターへ置いた。


 逃げるように厨房へ向かおうとする。


『凛ちゃん』


「もう何も答えません」


『嫌じゃなかった?』


 陽菜の声から、からかう調子が消えた。


 凛の足が止まる。


 美園も何も言わず、凛の返事を待っていた。


「……嫌ではありませんでした」


『無理してない?』


「していません」


『本当に?』


「はい」


 凛は陽菜へ向き直った。


「青柳さんは、何度も待ってくれました。私が緊張していることも、分かっていました」


『うん』


「私が自分で決めるまで、何もしませんでした」


 凛の表情から、恥ずかしさが少しずつ薄れていく。


「怖くなかったと言えば、嘘になります。でも、嫌ではありませんでした」


『そっか』


「私が、青柳さんともっと近くなりたいと思ったんです」


 陽菜はしばらく凛を見つめたあと、優しく笑った。


『じゃあ、良かった』


「……はい」


『それで、何回したの?』


「どうして戻るんですか!」


 再び凛の顔が真っ赤になる。


 美園が吹き出した。


『陽菜、いい加減にしなよ』


『美園さんも気になるでしょ?』


『気になるけど、本人が話したくないなら聞かないよ』


「気にはなるんですね」


『少しね』


「美園さんまで……」


 凛は両手で顔を覆った。


『でも、凛ちゃん』


 美園が静かに声をかける。


『遠距離だからって、会った日に全部を埋めようとしなくていいからね』


 凛が手を下ろす。


『離れてる時間が長いと、会えた日に何もかも伝えたくなる。でも、急がなくても大丈夫だよ』


「はい」


『青柳くんが待てる人なら、凛ちゃんも待たせていい』


「……分かりました」


『次に会う予定は決めたの?』


「まだ、日にちまでは」


『早く決めた方がいいよ』


 陽菜が口を挟む。


『次に会える日が分かってるだけで、寂しいの少し減るから』


 凛は陽菜を見る。


『あたし、中井くんと会えない日が続いたとき、次の約束があるだけで全然違ったよ』


「陽菜さんでも、寂しくなるんですか?」


『なるよ』


「意外です」


『あたしを何だと思ってるの?』


「一人でも平気な人だと思っていました」


 陽菜は、水割りのグラスへ視線を落とした。


『平気なふりは得意だよ』


 凛は何も言わなかった。


『でも、平気なのと、寂しくないのは別じゃん』


「……そうですね」


『だから、会いたいってちゃんと言った方がいいよ。青柳くん、きっと喜ぶから』


「はい」


『それで次に会ったら、今度は何回――』


「言いません」


『まだ最後まで聞いてないよ』


「聞かなくても分かります」


『凛ちゃん、あたしのこと分かってきたね』


「分かりたくありませんでした」


 陽菜が笑う。


 美園も呆れた顔をしながら、口元を緩めていた。


 凛は顔を赤くしたまま、グラスを拭く作業へ戻る。


 恥ずかしくはある。


 それでも、以前のように自分の気持ちそのものを隠そうとはしていなかった。


 青柳と過ごした夜は、誰かに言えない失敗ではない。


 自分で選び、大切な人と一歩進んだ時間だった。


『それにしても』


 美園が、陽菜の水割りへ氷を足す。


『陽菜が同棲か』


『まだ言う?』


『だって、本当に意外だったから』


『そんなに?』


『昔の陽菜なら、自分の部屋に誰かを入れることすら嫌がったでしょ』


『そうだっけ』


『私でも勝手に入ったら怒られたよ』


『美園さんは本当に勝手に入るからじゃん』


 美園が笑う。


『この前、荷物をまとめたときに見つけたピンクの特攻服』


『うん』


『本当に置いてきたんだね』


 凛の手が、わずかに止まった。


 美園の背中に刻まれている薔薇。


 Rose girlsという名前。


 その過去について、凛はすでに聞いている。


 けれど、3人がどのように出会い、どうして同じ薔薇を背負うようになったのかまでは知らない。


『今はね』


 陽菜が答える。


『いつか、中井くんと2人の家を決めたら持っていくよ』


『中井くんの部屋には持っていけない?』


『持っていけるよ。でも、あそこは元々中井くんの家だから』


 陽菜はグラスの中で溶けていく氷を見る。


『あの特攻服を持っていくなら、あたしも自分の家だって思えるところがいい』


『過去ごと持っていくんだ』


『うん』


『捨てようとは思わない?』


『思ったことはあるよ』


 陽菜は笑った。


 軽い笑いではなかった。


『でも、あれを着てた頃のあたしがいなかったら、総長にも美園さんにも会えてないから』


 美園の手が止まる。


『あたし、総長と初めて会った日に、すごく腹が立ったんだよね』


『どうして?』


『あたしより強いくせに、あたしを殴らなかったから』


 凛は、静かに陽菜の話を聞いている。


『何度殴ろうとしても、全部止められた。それなのに、総長は一度も殴り返してこなかった』


『樹里らしいね』


『当時は、それが一番むかついた』


 陽菜は懐かしそうに目を細める。


『でも、忘れられなかったんだ』


 6年前。


 樹里は20歳。


 陽菜は、まだ18歳だった。


 3人が同じ薔薇を背負うよりも前。


 総長も、副総長も、Rose girlsという名前さえ存在しなかった夜。


 すべては、細い路地で聞こえた一つの音から始まった。

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