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230話「同じ家から」

中井の部屋へ到着した頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 車から荷物を運び終え、中井が最後の段ボール箱を床へ置く。


「これで全部ですね」


『うん。ありがとう』


「疲れていませんか?」


『大丈夫。ほとんど総長と美園さんが詰めてくれたから』


「日高さんを総長と呼ぶのは、やはり少し不思議ですね」


『中井くんも呼んでいいよ』


「呼びません」


『意外と頑固だよね』


「僕にとっては、会社の先輩ですから」


 陽菜は笑いながら、鞄の中から赤いキーケースを取り出した。


 鍵を使えば、自分で扉を開けることもできた。


 それでも今日は、中井が先に入り、陽菜を迎え入れてくれた。


 玄関には、陽菜のために用意された新しいスリッパが置かれている。


 洗面所には、以前から使っていた歯ブラシとは別に、新しい歯ブラシとコップが並んでいた。


『これ、買ってくれたの?』


「はい。必要になると思ったので」


『前の歯ブラシ、まだ使えるよ』


「あれは泊まりに来たとき用です」


『何が違うの?』


「気持ちです」


『中井くん、たまに変なところ細かいよね』


「今日からは、泊まりに来るわけではありませんから」


 陽菜は新しい歯ブラシへ手を伸ばす。


 色は赤だった。


 隣には、中井の青い歯ブラシが置かれている。


『色まで分けたんだ』


「分かりやすい方がいいかと思って」


『間違えて中井くんの使っても、あたしは気にしないけど』


「僕が気にします」


『キスはするのに?』


「それとこれは別です」


『同じじゃない?』


「違います」


 中井の顔が少し赤くなる。


 陽菜は楽しそうに笑い、洗面所を出た。


 リビングでは、陽菜が持ってきた荷物が部屋の一角を占領している。


 これまで何度も泊まりに来た。


 着替えを置いて帰ったこともある。


 それでも、自分の生活そのものを持ち込んだことはなかった。


『どこに入れればいい?』


「クローゼットの右側を空けました」


『全部?』


「はい」


『中井くんの服は?』


「左側へまとめました」


『狭くない?』


「僕は服が少ないので大丈夫です」


 陽菜がクローゼットを開ける。


 右半分には何も掛かっていない。


 引き出しの中も、陽菜が使えるように空けられていた。


『本当に空っぽ』


「陽菜さんの服が多いと思ったので」


『そんなに持ってきてないよ』


「鞄が2つあります」


『美園さんと総長に減らされたの』


「減らして、それなんですか?」


『女は色々必要なの』


「そういうものなんですね」


 陽菜は最初の鞄を開いた。


 上に入っていた仕事用のブラウスを取り出す。


 その下から、黒いワンピースが現れた。


 さらに、その下から布の面積が極端に少ない下着が落ちる。


 中井の動きが止まった。


『あ』


「……必要なものだけを持ってきたんですよね」


『うん』


「これは必要なんですか?」


『必要だよ』


「仕事には使いませんよね」


『仕事以外で使うの』


 陽菜が下着を拾い、中井の目の前で広げる。


『着てほしい?』


「今、聞かないでください」


『顔見れば分かるけど』


「片づけましょう」


『はーい』


 中井は陽菜から下着を受け取り、慌てたように鞄へ戻した。


『なんで戻すの?』


「下着を入れる場所を決めていません」


『中井くんの下着の隣でいいじゃん』


「分けます」


『仲良くさせてあげようよ』


「服同士は仲良くしません」


 荷ほどきは、予定より長くかかった。


 陽菜が服を出すたびに中井をからかい、そのたびに作業が止まる。


 それでも少しずつ、空いていた場所が陽菜の物で埋まっていく。


 クローゼットに陽菜のスーツが並ぶ。


 洗面台に化粧品が置かれる。


 玄関には、陽菜のパンプスが中井の革靴と並んだ。


 部屋そのものは変わっていない。


 だが、そこに暮らしている人間が1人増えたことは、どこを見ても分かるようになっていた。


 荷ほどきを終え、中井が立ち上がる。


「夕食を作ります」


『あたしも手伝う』


「疲れているなら休んでいてください」


『どっちかだけが支えるのはなしって約束したでしょ』


「覚えていたんですね」


『失礼だなあ』


「では、野菜を切ってもらえますか?」


『任せて』


「包丁は使えますか?」


『料理できないと思ってる?』


「できるんですか?」


『少しは』


 陽菜は台所へ立った。


 中井が用意した玉ねぎを、まな板の上へ置く。


 包丁を入れる。


 大きさの揃っていない玉ねぎが、まな板の上に並んでいく。


「陽菜さん」


『なに?』


「もう少し小さくできますか」


『食べたら一緒だよ』


「火の通り方が変わります」


『細かいなあ』


「貸してください」


『やだ。あたしがやる』


 陽菜は中井の手を避け、再び包丁を動かした。


 上手とは言えない。


 それでも、これまでのように全てを中井へ任せようとはしなかった。


 中井も途中から何も言わず、陽菜が切り終えるのを待った。


 2人で作った夕食を、同じテーブルで食べる。


 陽菜が切った玉ねぎは、大きなものだけ少し硬かった。


『あたしの玉ねぎ、自己主張強いね』


「食べ応えがあります」


『物は言いようだなあ』


「おいしいですよ」


『中井くんが作ったからでしょ』


「一緒に作りました」


 陽菜は少しだけ笑った。


 誰かが用意してくれた食事を食べるのではない。


 自分も、ここで暮らす人間として食卓を作った。


 それだけのことが、どこかくすぐったかった。


 食後、陽菜は食器を洗った。


 中井は隣で、明日の朝食の準備をしている。


『ねえ、中井くん』


「何ですか?」


『あたし、ちゃんと役に立ってる?』


「何の話ですか?」


『この家で』


 中井は手を止めた。


「役に立たないと、ここにいてはいけないんですか?」


『そういうわけじゃないけど』


「僕は家事を手伝ってくれる人が欲しくて、一緒に暮らそうと言ったわけではありません」


『分かってるよ』


「陽菜さんがいるだけで、僕は嬉しいです」


『……そういうこと、普通の顔で言うようになったね』


「陽菜さんが言わせるんです」


『前はすぐ赤くなってたのに』


「今も恥ずかしいです」


『もっと恥ずかしくしてあげようか』


「明日は仕事です」


『夜は長いよ』


「早く寝てください」


『一緒に?』


「一緒にです」


 陽菜は笑い、洗い終えた皿を中井へ渡した。


 すべての片づけを終えると、陽菜は玄関へ戻った。


 赤いキーケースを手に取る。


 2つの鍵を見比べたあと、中井の部屋の鍵を使って、一度だけ扉を開ける。


 外へは出ない。


 そのまま、もう一度扉を閉めた。


「どうしましたか?」


『練習』


「何のですか?」


『帰ってくる練習』


 中井が陽菜の隣へ立つ。


 陽菜は鍵をかけ、ゆっくりと中井を振り返った。


『ただいま』


「おかえりなさい、陽菜さん」


 今度は練習ではなかった。


 中井は陽菜の頬へ手を添え、静かに唇を重ねた。


 翌朝。


 中井は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


 胸元に重みがある。


 陽菜が中井の身体へ半分乗り上げ、片腕を腹の上へ回して眠っていた。


 昨夜は、それぞれの明日に支障が出ない程度で眠るつもりだった。


 だが、陽菜が素直に従うはずもなかった。


 中井は身体の疲れを感じながら、隣で眠る陽菜を見る。


 長い髪が顔へかかっている。


 化粧を落とした寝顔は、会社で見せるものより幼く見えた。


「陽菜さん。朝ですよ」


『……あと5分』


「起きてください」


『中井くん、会社に休むって言って』


「言いません」


『同棲初日休暇』


「ありません」


『作ろうよ』


「僕たちにそんな権限はありません」


 中井が身体を起こそうとすると、陽菜の腕に力が入った。


『動かないで。寒い』


「暖房をつけます」


『中井くんの方があったかい』


「朝食を作れません」


『作らなくていいよ』


「食べる約束です」


『昨日食べたじゃん』


「今日の分は別です」


 中井は陽菜の腕を外し、ベッドから抜け出した。


 陽菜は布団の中で不満そうな声を上げる。


 それでも、台所から朝食の匂いが漂い始めると、ゆっくり身体を起こした。


 中井が用意した朝食を2人で食べる。


 家を出る時刻も同じだった。


 玄関には2人分の仕事靴が並んでいる。


 陽菜は深い赤色のキーケースを鞄へ入れ、中井と並んで部屋を出た。


『一緒に出勤するの、変な感じ』


「嫌ですか?」


『全然』


 陽菜は中井の腕へ自分の腕を絡ませた。


『毎朝これができるんだ』


「会社の近くでは離れてくださいね」


『なんで?』


「恥ずかしいからです」


『嫌だ』


「陽菜さん」


『みんなに見せつけようよ』


「やめてください」


 会社へ着いても、陽菜は中井との距離を取らなかった。


 2人が並んで営業部へ入る。


「おはようございます」


『おはよー』


 柚希が最初に2人を見る。


「陽菜さんと中井さん、一緒に来たんですか?」


『うん。今日から毎日一緒』


「毎日?」


 凛も顔を上げた。


「どういうことですか?」


 中井の表情に、嫌な予感が浮かぶ。


「陽菜さん」


『あたし、昨日から中井くんと一緒に住み始めましたー』


「陽菜さん!」


 陽菜の声が、営業部全体へ響いた。


 一瞬の静寂。


 そのあと、複数の声が一斉に上がった。


「同棲ですか?」


 柚希が目を輝かせる。


『そうだよ』


「いつ決めたんですか?」


『この前』


「中井さんから言ったんですか?」


『うん。あたしと一緒に暮らしたいって』


「そこまで言わなくていいでしょう!」


 中井の顔が一気に赤くなる。


 陸は驚いた顔で中井を見ていた。


「中井さん、すごいですね」


「山本、今は何も言わないでくれ」


「はい」


 萌も、パソコンの向こうから陽菜を見る。


「櫻井先輩、おめでとうございます」


『ありがとう、萌』


 佐藤は中井の肩へ手を置いた。


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「昨日は眠れましたか?」


「佐藤さん」


「普通に聞いただけですよ」


『あんまり寝てないよ』


「陽菜さん!」


『中井くん、朝ちょっと疲れてたもんね』


「言わなくていいです!」


 陽菜は恥ずかしがるどころか、楽しそうに中井を見ている。


 中井だけが、逃げ場を探すように周囲を見回していた。


「朝から何の騒ぎだ」


 黒澤が部長席から声をかける。


『黒澤部長。あたし、中井くんと同棲を始めました』


「そうか」


『反応薄くないですか?』


「勤務時間中に聞かされる話じゃないからな」


『でも、おめでたいですよ』


「仕事に支障を出すなよ」


『出しません』


「中井もだぞ」


「はい」


『なんで中井くんだけ心配そうに見るんですか』


「理由は自分で考えろ」


 黒澤はそれだけ言い、書類へ視線を戻した。


 神谷は困ったように笑っている。


 樹里は自分の席から、陽菜を見た。


 昨夜まで陽菜の部屋にあった荷物が、今は中井の部屋にある。


 それでも、会社で笑っている陽菜は何も変わっていなかった。


 目が合う。


 陽菜が笑顔のまま樹里へ近づいた。


『日高先輩』


『何ですか、櫻井さん』


『無事、初出勤できました』


『そうですか』


『朝ご飯も食べました』


『それは良かったです』


『昨日は寂しくて眠れませんでした?』


『そんなわけないでしょう』


『本当に?』


『仕事をしてください』


『はーい』


 陽菜は笑いながら自分の席へ戻っていった。


 昼休み。


 陽菜が鞄から弁当箱を取り出す。


「それ、中井さんが作ったんですか?」


 柚希が尋ねる。


『2人で作った』


「陽菜さんも?」


『あたし、おかず詰めたよ』


「作ってはいないんですね」


『詰めるのも料理の一部でしょ』


 弁当箱には、形の整ったおかずが綺麗に並べられている。


 隅には、陽菜が詰めたらしい少し歪な卵焼きが入っていた。


 陽菜はそれを口へ運び、満足そうに頷く。


『おいしい』


 昨日までなら、パンを片手に資料を読んでいた時間だった。


 今日は弁当箱を開き、席に座って食事をしている。


 中井は少し離れた場所から、その姿を見ていた。


 陽菜がきちんと食べている。


 それだけで、同棲を提案した意味があったと思えた。


 食事を終えた陽菜は、すぐに大抽選会の企画書を開いた。


「もう仕事するんですか?」


 柚希が尋ねる。


『休憩時間はまだあるからね』


「休憩してください」


『ちゃんとご飯食べたじゃん』


「食べたら働いていい時間ではありません」


『柚希ちゃんまで中井くんみたいになってきた』


「陽菜さんが心配させるからです」


 陽菜は笑いながら、企画書へ書き込みを始めた。


 生活が整えば、仕事を控えるようになるわけではない。


 食事を取った分だけ、さらに先へ進もうとする。


 中井が空けた余白へ、陽菜は新しい仕事を詰め込んでいく。


 支えることで、陽菜は立ち止まれる。


 同時に、支えがあるからこそ、今まで以上に走れてしまう。


 中井は、その両方を見ていた。


 陽菜と一緒に暮らすということは、食事を作るだけでは足りない。


 どこまで背中を押し、どこで止めるべきなのか。


 正解は、まだ分からない。


 それでも今朝、2人は同じ家の扉を閉め、同じ場所へ出勤した。


 そして今夜は、同じ場所へ帰る。


 中井はそれだけを、静かに嬉しいと思っていた。

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