229話「持っていくもの」
その日の夜。
陽菜はRoseのカウンターで、美園が作った水割りを眺めていた。
樹里は隣の席に座り、無言でグラスへ口をつけている。
閉店後の店内には、3人しかいない。
『それで?』
美園がカウンターの内側から尋ねる。
『話があるって言ったのは陽菜でしょ』
『うん』
『いつまでグラス見てるの?』
『ちょっと言い方を考えてる』
『お前がそんなことをするなんて珍しいな』
樹里が言う。
『総長まで』
『違うのか?』
『違わないけどさ』
陽菜は水割りを一口飲んだ。
美園と樹里が待っている。
こんなとき、2人は急かさない。
だから余計に、陽菜は言い出すタイミングを失っていた。
『中井くんとさ』
『うん』
『一緒に住むことになった』
美園が目を瞬かせる。
樹里はグラスを持ったまま、陽菜を見た。
『同棲するってこと?』
『うん』
『いつから?』
『今度の週末から』
『急だね』
『あたしもそう思う』
美園がカウンターへ両手をついた。
『どっちが言い出したの?』
『中井くん』
『へえ』
美園の口元が緩む。
『やるじゃん、佐久間くん』
『中井くんだよ』
『そうだった』
『絶対わざとでしょ』
『少しだけ』
美園が笑う。
樹里はまだ表情を変えていなかった。
『中井さんの部屋へ行くのか』
『うん。大抽選会が終わるまでは、向こうから会社に通う』
『そのあとは?』
『まだ決めてない』
『家賃や生活費の話はしたのか?』
『そこは、これから』
『通勤時間は』
『今より少し短くなる』
『必要な家具は』
『中井くんの部屋に一通りあるって』
『陽菜』
『なに?』
『話し合うことは、先に話しておけ』
『分かってるよ』
樹里の口調は普段と変わらない。
祝福しているのか、反対しているのかも分からない。
陽菜はグラスを指先で回した。
『総長は、嫌?』
『何がだ』
『あたしが中井くんと住むこと』
『私が決めることではない』
『そうじゃなくて』
陽菜は樹里を見る。
『嫌かどうかを聞いてるの』
樹里はすぐには答えなかった。
美園も口を挟まず、2人を見ている。
『嫌ではない』
『本当に?』
『中井さんが相手なら、心配もしていない』
『じゃあ、良かった』
陽菜は笑った。
だが、どこか安心しきれていない笑いだった。
樹里はそれに気づいていた。
『寂しくないわけではない』
陽菜の指が止まる。
美園も、わずかに目を見開いた。
『ただ、お前が私たちから離れていくとは思っていない』
樹里は陽菜をまっすぐ見る。
『帰る場所が一つ増えるだけだ』
『……うん』
『そうだろ』
『うん』
陽菜はもう一度頷いた。
今度の笑顔には、迷いがなかった。
『美園さんは?』
『寂しいよ』
『即答』
『だって、今までなら夜中に陽菜を呼び出しても、すぐ来てくれたじゃん』
『中井くんの家からでも行くよ』
『それをやったら佐久間くんに怒られるよ』
『中井くんだって』
『わざとだよ』
『さっきより悪質』
美園は楽しそうに笑い、水割りを作り直した。
『でも、良かったね』
『うん』
『あの頃の陽菜が、誰かと暮らす未来なんて想像できなかった』
『あたしも』
『ちゃんと幸せにしてもらいなよ』
『あたしも中井くんを幸せにするよ』
『そうだね』
美園は優しく頷いた。
『陽菜なら、きっとできる』
陽菜は照れを隠すように水割りを飲んだ。
『それでさ』
『まだあるの?』
『引っ越し、手伝って』
『嫌』
美園が即答した。
『なんで!』
『絶対、何も準備してないでしょ』
『まだ週末まで時間あるじゃん』
『何日あると思ってるの?』
『5日』
『ほら、何も考えてない』
『総長』
『断る』
『まだ頼んでないよ』
『頼む顔をしている』
『2人とも冷たくない?』
『分かった』
美園がため息をついた。
『明日の仕事帰り、3人で陽菜の部屋に行こう』
『美園さん大好き』
『私は?』
『総長も来るよね』
『……仕方ない』
『総長も大好き』
『黙れ』
翌日の終業後。
3人は陽菜の部屋へ集まった。
玄関を開けた瞬間、樹里が動きを止める。
床には脱いだ靴が並び、椅子の背には複数の上着が掛かっている。
テーブルの上には仕事の資料と化粧品が混在していた。
『引っ越す前に、掃除が必要じゃない?』
美園が部屋を見回す。
『ちょっと忙しかったから』
『少し前からこうだっただろ』
樹里が床に落ちていた雑誌を拾う。
『総長、勝手に見ないでよ』
『見える場所に置いてある』
『それはあたしの部屋だから』
『私たちを呼んだのはお前だ』
陽菜は言い返せず、寝室から大きな鞄を持ってきた。
『とりあえず服を入れよう』
『どれを持っていくの?』
『全部』
『大抽選会までの予定なんでしょ』
『女は服が多いの』
『下着は?』
『全部』
『化粧品は?』
『全部』
『靴は?』
『全部』
美園が樹里を見る。
『この子、引っ越しの意味を分かってないよ』
『恐らくな』
『だって、何が必要になるか分からないじゃん』
『必要になったら取りに戻ればいいだろ』
樹里が言う。
陽菜は手にしていた服を止めた。
『戻ってきてもいいの?』
『お前の部屋だ』
『そうだけど』
『大抽選会が終わるまでは、ここも借りたままにするんだろ』
『うん』
『なら、必要なものだけ持っていけ。ここを空にする必要はない』
樹里は床へ空の鞄を広げた。
『仕事着を5日分。普段着を2日分。下着は1週間分あればいい』
『旅行みたい』
『最初はそれでいい。足りないものが分かってから増やせ』
『総長って、こういうの慣れてるの?』
『お前よりは考えられる』
『あたしだって考えてるよ』
『全部持っていこうとしていただろ』
『勢いも大事じゃん』
美園はクローゼットを開け、中に並ぶ服を見た。
『陽菜、これは?』
取り出したのは、背中が大きく開いた黒いワンピースだった。
『持ってく』
『仕事には着ていけないよ』
『中井くんに見せるの』
『じゃあ、これは?』
次に取り出したのは、布の面積が極端に少ない下着だった。
『持ってく』
『必要?』
『絶対必要』
『仕事着より先に入れたよ、この子』
『生活に潤いは大事でしょ』
『中井さんが仕事へ来られなくなるようなことはするな』
樹里が言う。
『そこは加減するって』
『信用できない』
『総長まで中井くんの味方するじゃん』
『社会人として当然の話をしている』
3人で言い合いながら、クローゼットの中から必要な服を選んでいく。
美園が奥へ掛かっていたコートを横へ寄せた。
その手が止まる。
現れたのは、鮮やかなピンク色だった。
長い丈。
袖と裾へ刻まれた刺繍。
背中には、今も褪せることなく残っているRose girlsの文字。
陽菜が副総長だった頃に着ていた、ピンクの特攻服だった。
派手な色も、刺繍も、今の陽菜と並べても不思議なほど似合う。
けれど、そこに染み込んでいる時間だけは、会社で笑う今の陽菜とは違っていた。
美園は特攻服へ触れないまま、その場に立っていた。
樹里も顔を上げる。
部屋の空気が、少しだけ変わった。
『まだ、ここに掛けてたんだ』
美園が静かに言う。
『うん』
『見えないところにしまってると思ってた』
『なんで?』
『陽菜は、昔のものを残さない方だと思ってたから』
『捨てようとは思ったよ』
陽菜はピンクの特攻服の前へ立った。
指先で袖に触れる。
『何回か、もういらないかなって思った』
樹里は何も言わなかった。
陽菜の手が、背中の刺繍をなぞる。
『でも、捨てたら、あの頃のあたしまでいなくなる気がした』
特攻服を着て、樹里の後ろを走っていた。
副総長として誰かを守り、同時に数え切れないほど誰かを傷つけた。
正しかったことばかりではない。
誇れないこともある。
それでも、その時間を生きた陽菜がいたから、今の自分がいる。
『中井くんのところへ、持っていく?』
美園が尋ねる。
陽菜はしばらく考えたあと、首を横に振った。
『今は置いてく』
『過去を知られてるから、隠す必要はないだろ』
樹里が言う。
『隠すためじゃないよ』
陽菜は特攻服を見上げた。
『今回は、中井くんの部屋にお邪魔する感じだから』
『一緒に暮らすんでしょ』
『うん。でも、あそこは中井くんが先に暮らしてた部屋じゃん』
陽菜は、わずかに笑う。
『いつか2人で、ちゃんとあたしたちの家を決めたら、そのとき持っていく』
美園が陽菜を見る。
『これも?』
『うん』
『中井くんとの新しい家に?』
『だって、これもあたしだから』
陽菜の声に、迷いはなかった。
『中井くんには、今のあたしだけを好きでいてもらうんじゃない。昔のあたしも、これからのあたしも、全部一緒に持っていってもらう』
樹里が、わずかに目を細める。
『なら、ここへ置いておけ』
『うん』
『お前が持っていく場所を決めるまでは、なくさないようにしておけ』
『総長が見張ってくれる?』
『なぜ私が』
『大事なものだから』
『自分で見張れ』
『冷たいなあ』
そう言いながらも、陽菜は嬉しそうに笑った。
美園はピンクの特攻服の肩を整え、ずらしたコートを元の位置へ戻す。
ただし、完全には隠さなかった。
クローゼットを開けば、鮮やかなピンク色が少しだけ見えるように残した。
陽菜はそのまま、奥にある小さな箱を取り出した。
古びた箱だった。
蓋を開けると、中には数枚の写真が入っている。
特攻服を着た樹里。
その隣で笑っている陽菜。
少し離れた場所から2人を見ている美園。
Rose girlsだった頃の、3人の写真。
今よりずっと若く、何も恐れていないような顔をしている。
写真の下には、傷のついた小さなバイク用のキーホルダーも入っていた。
『こっちも置いてく?』
美園が尋ねる。
『うん』
『見られたくないからではないんだろ』
『中井くんは、もう知ってるよ』
陽菜は箱の蓋を閉じた。
『持っていかなくても、なくならないから』
箱をクローゼットの奥へ戻す。
『それに、ここにも帰ってくるし』
美園は小さく笑った。
『そうだね』
樹里は何も言わず、再び服を畳み始めた。
それから1時間ほどかけて、2つの鞄と1つの段ボール箱が完成した。
『こんなに少なくて大丈夫かな』
『十分だ』
『何か忘れてる気がする』
『忘れていたら、また取りに来ればいいよ』
美園が言う。
『私たちもいるし』
『うん』
インターホンが鳴った。
陽菜が玄関へ向かい、扉を開ける。
「お待たせしました」
中井が立っていた。
陽菜の荷物を運ぶため、仕事帰りに車で迎えに来たのだ。
『ちょうど終わったよ』
「ありがとうございます。荷物はどちらですか?」
『中』
中井が部屋へ入る。
樹里と美園の姿に、深く頭を下げた。
「日高さん、美園さん。手伝っていただいて、ありがとうございます」
『荷物をまとめただけだよ』
美園が答える。
『ほとんど私と総長でやったけど』
「総長?」
中井が聞き返す。
美園の動きが止まる。
陽菜も目を瞬かせた。
中井は、すでに陽菜の過去を知っている。
それでも、美園が樹里を総長と呼ぶところを聞くのは初めてだった。
『今のは忘れて』
美園が言う。
「分かりました」
『今度から中井くんも総長って呼ぶ?』
「呼びません」
『即答』
「僕にとっては日高さんです」
『それでいい』
樹里が短く答えた。
中井は床に置かれた段ボール箱を持ち上げる。
その横から、樹里が大きな鞄を手に取った。
「僕が持ちます」
『下まで運びます』
「でも」
『量がありますから』
「ありがとうございます」
樹里は鞄を持ったまま、玄関へ向かった。
外へ出る直前、中井を振り返る。
『中井さん』
「はい」
『陽菜に、きちんと食事をさせてください』
『なんでみんな、あたしが一人じゃご飯も食べられないみたいに言うの?』
『食べていなかっただろ』
『忙しかっただけ』
『これからもっと忙しくなるんだろ』
『そうだけど』
美園が陽菜の肩へ腕を回す。
『お願いね、佐久間くん』
「中井です」
『ごめん。最近覚えたんだけど、つい』
「絶対わざとですよね」
『半分くらい』
美園が笑う。
中井も困ったように笑いながら、もう一度頭を下げた。
「陽菜さんのことは、任せてください」
『あたしは荷物じゃないよ』
「分かっています」
『今の言い方、ちょっと嬉しそうだった』
「嬉しいですから」
『そっか』
陽菜は照れもせず、中井の腕へ自分の腕を絡ませた。
樹里と美園が、その姿を見る。
かつては、3人だけでなければ帰れなかった。
誰かが欠ければ、残された2人も前へ進めなかった。
今は違う。
3人の間にあるものは、何も失われていない。
そのままの形で、それぞれの隣に新しい人が立っている。
『じゃあ、行ってくるね』
陽菜が言った。
『行ってらっしゃい』
美園が答える。
樹里は陽菜を見つめ、小さく頷いた。
『行ってこい』
『うん』
陽菜は笑った。
中井と並び、荷物を持って階段を下りていく。
美園は、その背中が見えなくなるまで玄関の前に立っていた。
『寂しい?』
樹里が尋ねる。
『少しね』
『私もだ』
『総長、最近ちゃんと言うようになったね』
『何がだ』
『そういうこと』
樹里は答えず、陽菜の部屋へ戻った。
美園もその後を追う。
室内には、まだ陽菜の物がたくさん残っている。
生活の跡も、3人の過去も、何一つ消えてはいなかった。
美園は、開いたままのクローゼットへ近づく。
奥にはRose girlsの写真が収められた箱がある。
その手前では、ピンクの特攻服が静かに掛けられていた。
過去を置き去りにしたのではない。
いつか持っていく場所が決まるまで、大切に残しているだけだ。
美園は特攻服を見つめたあと、クローゼットの扉を閉じる。
『帰ろうか、総長』
『ああ』
2人は照明を消し、陽菜の部屋を出た。
そこは空になった部屋ではない。
陽菜がいつでも戻ってこられる、もう一つの帰る場所だった。




