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228話「帰る場所」

1月半ばの日曜日。


 陽菜は昼前から、中井の部屋を訪れていた。


 大事な話がある。


 そう告げられてから、数日が経っている。


 別れ話ではないと否定されているものの、中井が何を話そうとしているのか、陽菜にはまだ分からなかった。


 部屋へ入ってからも、中井は普段と変わらなかった。


 昼食を作り、食後にはコーヒーを淹れる。


 いつ話が始まるのかと待っていた陽菜の方が、次第に落ち着かなくなっていた。


『中井くん』


「何ですか?」


『大事な話って、いつするの?』


「もう少し待ってください」


『なんで?』


「緊張しているので」


『中井くんが言い出したんじゃん』


「分かっています」


 中井は自分のカップを持ったまま、陽菜の向かいへ座った。


 視線を合わせたかと思えば、すぐに逸らす。


 陽菜は頬杖をつき、そんな中井の顔を眺めた。


『もしかして、すごく言いにくいこと?』


「少しだけ」


『浮気した?』


「していません」


『あたしの裸に飽きた?』


「飽きるわけがないでしょう」


 答えてから、中井の顔が赤くなる。


 陽菜は楽しそうに笑った。


『じゃあ、なんでも大丈夫だよ』


「今の2つ以外にも、大変な話はあると思います」


『でも、中井くんがちゃんと考えてくれたことなんでしょ?』


「はい」


『だったら聞く』


 陽菜は頬杖をやめ、椅子へ座り直した。


 中井もカップをテーブルへ置く。


「チーム櫻井モデルの仕事は、2月の終わり頃まで続くんですよね」


『大抽選会が終わるまでは忙しいかな。そのあとも報告とかあるけど』


「平日は通常業務をして、週末はモデルハウスへ行く」


『うん』


「最近、食事もほとんど取れていません」


『それは改善します』


「先日も同じことを聞きました」


『今度こそ本当に』


「信用できません」


『ひどい』


「陽菜さんが、自分のことを後回しにするのは分かっています」


 陽菜の笑顔が、少しだけ薄くなった。


「仕事だけではありません。周りに困っている人がいたら、すぐにそちらへ行く。誰かが笑っていないと、自分が笑わせようとする」


『そんな立派なものじゃないよ』


「僕には、そう見えています」


『でも、それと大事な話がどう繋がるの?』


 中井は一度息を整えた。


「大抽選会が終わるまで、僕の部屋から会社へ通いませんか」


 陽菜が瞬きをする。


 部屋の中が、急に静かになった。


『それって……』


「はい」


『同棲しようってこと?』


「そうです」


 中井は陽菜から目を逸らさなかった。


「毎朝ここから一緒に会社へ行って、帰れる日は一緒に帰る。食事も僕が作ります。陽菜さんが遅くなる日は、先に用意して待っています」


『洗濯は?』


「僕がします」


『掃除は?』


「一緒にしましょう」


『お風呂は?』


「順番に入ります」


『一緒じゃないの?』


「陽菜さん」


 中井の声が少しだけ困ったものになる。


 陽菜は笑った。


 だが、その笑顔は長く続かなかった。


『あたしを心配してるから?』


「心配しています」


『放っておいたら、またご飯を食べないと思ってる?』


「思っています」


『だから、一緒に住んで面倒を見ようって?』


「違います」


 中井は即座に否定した。


『でも、今の話だとそう聞こえるよ』


「すみません。伝える順番を間違えました」


 中井は膝の上で両手を握った。


「仕事が忙しいことは、きっかけです。でも、理由ではありません」


 陽菜は黙って中井を見る。


「僕は、陽菜さんと暮らしたいんです」


 今度は、迷わなかった。


「食事を作ることも、洗濯をすることも、そのための条件ではありません。僕がしたいからします」


『……うん』


「一緒に朝を迎えて、一緒に会社へ行きたいです。帰ってきた陽菜さんから、その日にあったことを聞きたい。疲れて話したくない日なら、何も聞かずにそばにいたいです」


 中井の声は、わずかに震えていた。


「陽菜さんの生活を管理したいわけではありません。僕が、陽菜さんと同じ生活の中にいたいんです」


 陽菜はテーブルの上へ視線を落とした。


 いつもなら、すぐに冗談を返せた。


 毎日抱いてくれるのか。


 寝相が悪くても我慢できるのか。


 そんな言葉を口にすれば、中井は簡単に顔を赤くする。


 だが、今は何も浮かばなかった。


『中井くん』


「はい」


『あたし、そんなにちゃんとしてないよ』


「知っています」


『まだ全部は知らないでしょ』


「これから知りたいです」


『家に帰ったら、服も脱ぎっぱなしにするし』


「今もしています」


『お化粧落とさないで寝ることもある』


「落としてください」


『寝起きも可愛くないかもしれないよ』


「何度も見ています」


『機嫌が悪いと、面倒だよ』


「それも知っています」


『お酒飲んだら、もっと面倒になる』


「知っています」


『……あたしのこと、なんでも知ってるみたいに言わないでよ』


「知っているとは思っていません」


 中井は静かに答えた。


「知らないから、一緒にいたいんです」


 陽菜は顔を上げた。


「良いところだけを見られる恋人でいたいわけではありません。陽菜さんが誰にも見せたくないと思っているところも、少しずつ見せてもらえる人になりたいです」


 陽菜の胸の奥で、何かが小さく揺れた。


 中井は、陽菜の過去を知っている。


 かつて誰かの前に立ち、誰かを守るために自分を傷つけていたことも。


 それでも今までと変わらず、陽菜を好きだと言ってくれた。


 今度は、過去だけではない。


 仕事のできる自分。


 明るく振る舞う自分。


 人を笑わせる自分。


 そのどれでもない陽菜まで知ろうとしている。


 それは、陽菜にとって少し怖いことだった。


『もし、一緒に暮らして、あたしのことが嫌になったら?』


「なりません」


『すぐ答えるじゃん』


「考える必要がありません」


『絶対なんてないよ』


「それでも、今から嫌になることを心配して、陽菜さんと暮らせる時間を諦めたくありません」


 陽菜は唇を結んだ。


 人に与えることは得意だった。


 自分から誰かの中へ入り込み、勝手に世話を焼くこともできる。


 だが、自分の生活の中へ誰かを入れることには、まだ慣れていない。


 弱いところも、だらしないところも隠せなくなる。


 自分のために食事を作り、待っている人がいる。


 帰らなければ、心配する人がいる。


 一人で生きていたときにはなかった責任まで生まれる。


『大抽選会が終わるまで?』


「まずは、そこまでと考えています」


『まずは?』


「いきなりこの先ずっとと言ったら、陽菜さんが困ると思いました」


『中井くんは、そのあとはどうしたいの?』


「できるなら、そのあとも一緒に暮らしたいです」


 陽菜はしばらく中井を見つめた。


 やがて、口元に小さな笑みが戻る。


『じゃあ、住んでみようか』


「……本当ですか?」


『うん』


「無理をしていませんか?」


『今さら確認するの?』


「大切なことなので」


『中井くんと一緒に暮らす』


 陽菜は、一つずつ確かめるように言った。


『朝起きたら中井くんがいて、仕事が終わったらここに帰ってくる。ご飯も一緒に食べる』


「はい」


『毎晩抱いてもらえる』


「陽菜さん」


『そこも大事じゃん』


「否定はしませんけど」


『顔真っ赤』


 ようやく、いつものように笑うことができた。


 中井も安心したように息を吐く。


『でも、中井くん』


「何ですか?」


『あたしの面倒を見るためじゃないからね』


「はい」


『中井くんだって疲れてるときは言って。あたしにできることがあるなら、ちゃんと頼って』


「分かりました」


『どっちかだけが支えるのは、なし』


「はい」


『それが守れないなら、一緒には住まない』


「約束します」


 陽菜は右手を差し出した。


 中井も手を伸ばし、その手を握る。


 握手のように重ねたはずの手を、陽菜はそのまま自分の方へ引いた。


 中井の身体が、テーブル越しに近づく。


『これからよろしくね、同居人さん』


「恋人ではないんですか?」


『同居人兼恋人』


「順番は恋人が先です」


『細かいなあ』


 陽菜が笑い、中井の頬へ口づける。


 離れようとした身体を、今度は中井が引き止めた。


 唇が重なる。


 短い口づけを交わしたあと、中井は立ち上がった。


「渡したいものがあります」


『もう? 同棲祝い?』


「違います」


 中井は棚の引き出しを開け、小さな鍵を取り出した。


「この部屋の予備の鍵です」


 陽菜の表情が止まる。


「正式に荷物を運ぶのはこれからですけど、先に渡しておきます」


『……いいの?』


「一緒に暮らすんですから」


 中井の手のひらに、銀色の鍵が載っている。


 陽菜はそれをすぐには受け取らなかった。


 クリスマスに中井からもらった、深い赤色のキーケースを鞄から取り出す。


 そこには、陽菜が今暮らしている部屋の鍵が一つだけ収められていた。


 中井が、以前のデートで陽菜が眺めていたことを覚えていてくれたもの。


 離れている時間にも自分のそばにいられる物を贈りたいと、選んでくれたキーケース。


 陽菜は中井の手から鍵を受け取り、金具へ取りつけた。


 一つだった鍵が、二つになった。


 自分の部屋の鍵。


 そして、中井が待っている部屋の鍵。


 陽菜はキーケースを両手で包み込んだ。


『クリスマスにもらったときは、これ一個だったのにね』


「はい」


『増えちゃった』


「嫌ですか?」


『嬉しい』


 陽菜は顔を上げた。


 その目には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいた。


 だが、泣き顔を見せるつもりはないのか、すぐに笑う。


『これで勝手に入れるね』


「陽菜さんの家でもありますから」


『じゃあ、中井くんがいない間に、部屋を全部ピンクにしてもいい?』


「相談してください」


『ベッドも買い替えようか。もっと大きいのに』


「それは必要かもしれません」


『お。乗ってきた』


「寝るためです」


『あたしも寝る話してるよ?』


「絶対に違います」


 中井の顔が再び赤くなる。


 陽菜は楽しそうに笑った。


 キーケースを閉じようとして、もう一度だけ中を確認する。


 二つの鍵が隣り合っている。


 陽菜は指先で新しい鍵へ触れた。


『次にここへ来るとき、ただいまって言ってもいい?』


「次ではなく、今日から言ってください」


『まだ住んでないじゃん』


「鍵を持っているなら、帰ってきてもいい場所です」


 陽菜の笑顔から、からかうような色が消えた。


 自分が帰ってもいい場所。


 その言葉が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。


『……ただいま、中井くん』


「おかえりなさい、陽菜さん」


 中井は、陽菜をそっと抱き寄せた。


 陽菜もその背中へ腕を回す。


 中井の胸元へ顔を預けながら、陽菜は赤いキーケースを握り締めていた。


 一つだった鍵が二つになっただけだ。


 それでも陽菜の人生には、帰る場所が一つ増えていた。

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