227話「見えているもの」
週が明けても、チーム櫻井モデルの仕事だけが続くわけではない。
平日は通常業務をこなし、その合間に週末の結果を分析し、次の準備を進める。
陽菜の机には、朝から複数の書類が積まれていた。
顧客へ提出する資料。
モデルハウスの来場記録。
次の週末までに修正する案内表示。
2月の大抽選会に向けた企画書。
どれも後回しにはできない。
陽菜はパソコンの画面を見ながら、左手でパンの袋を開けた。
「陽菜さん。またパンですか?」
隣を通った中井が足を止める。
『今日は2個あるよ』
「数の問題ではありません」
『野菜ジュースもある』
「飲んでいませんよね」
『今から飲むところ』
陽菜は机の端に置いていた野菜ジュースへ手を伸ばした。
だが、その前に内線電話が鳴る。
『はい、営業部の櫻井です』
受話器を取った陽菜の手が、野菜ジュースから離れた。
中井は何も言わず、その様子を見つめていた。
午前の通常業務が一段落すると、陽菜は陸を会議室へ呼んだ。
机の上には、陸が作った3分間の案内資料が置かれている。
『昨日、最初のお客さんにこれ使わなかったよね』
「はい」
『なんで?』
「聞きたいことが、資料の順番と違うと思ったからです」
『自分で判断した?』
「……はい」
陸は、叱られる可能性も考えていた。
時間をかけて作った資料を、自分の判断で使わなかった。
決められた方法を守らなかったとも言える。
陽菜は資料を手に取り、最初のページを眺めた。
『良かったよ』
「え?」
『ちゃんとお客さんを見てた』
陽菜は資料を陸へ返した。
『これは正解が書いてある台本じゃない。困ったときに戻ってくる場所。使わなくて済むなら、それでいいの』
「でも、午後は持ち場を離れてしまいました」
『そっちは失敗』
「はい」
『困ってる人に気づけたのは良かった。でも、自分が動いたあとに何が残るかまでは見えてなかった』
「……はい」
『次は、そこまで考えよう』
「分かりました」
『陸』
「はい」
『昨日より、ちゃんと営業らしくなってたよ』
陸は目を見開いた。
それから、照れを隠すように頭を下げる。
「ありがとうございます」
『戻っていいよ』
「失礼します」
会議室を出た陸を、柚希が待っていた。
「どうだった?」
「褒めてもらいました」
「良かったね、陸くん」
「でも、午後のことは失敗だって言われました」
「それもちゃんと見てくれてたんだね」
「はい」
陸は、少し嬉しそうに自分の席へ戻っていった。
その様子を、萌は離れた場所から見ていた。
陸が陽菜から何を言われたのか、声までは聞こえない。
だが、その表情を見れば、認められたことは分かった。
萌は自分の机に置いてある来場記録へ目を落とす。
前日の夜までかけて修正した報告書だった。
来場者数や滞在時間だけではない。
現地社員が資料を補充した回数。
入口の案内が止まった時間。
子供用の机を移動させる前後で、家族連れの滞在時間がどう変わったか。
数字として記録できない出来事には、状況を文章で書き加えている。
朝一番に樹里の机へ置いた。
だが、樹里は高槻興産との打ち合わせで会社を出たまま、まだ戻ってきていない。
昼を過ぎても、報告書は机の上に置かれたままだった。
夕方近くになり、樹里が営業部へ戻ってきた。
片手には高槻興産の資料が詰まった鞄を持っている。
黒澤へ短く報告を済ませると、自分の席へ向かった。
萌の報告書に気づく。
樹里は鞄を置き、その場で最初のページを開いた。
萌はパソコンへ向かったまま、文字を打つふりをしていた。
視界の端では、樹里がページをめくっている。
1枚。
2枚。
記録の隅々まで目を通していることは分かった。
それでも、萌は振り返らなかった。
『川原さん』
「はい」
呼ばれて、ようやく席を立つ。
樹里は開いた報告書を机に置いた。
『この資料を補充するための移動回数は、誰が記録したんですか』
「私です」
『事前に記録項目へ入っていませんでしたね』
「現地で必要だと思い、追加しました」
『なぜ必要だと思ったんですか』
「補充のたびに入口の案内が止まっていたからです。1回の時間は短いですが、繰り返せば来場者の流れに影響します」
『そのあと、どうしましたか』
「資料の保管場所を変えました」
『結果は』
「午後からは移動がなくなりました。案内が中断した回数も減っています」
『そうですか』
樹里は報告書へ視線を戻した。
『見やすくなりました』
その一言に、萌の胸がわずかに動く。
「ありがとうございます」
『次からは、変更前と変更後の数値を同じ欄に並べてください。その方が、効果を比較しやすいです』
「はい」
『この形式は、他の人も使えるように共有してください』
「私が続けて記録するのでは駄目でしょうか」
樹里が顔を上げる。
『駄目ではありません』
「それなら――」
『ですが、川原さんが休んだら、この記録も止まるんですか』
萌は言葉を失った。
『良い方法を見つけたなら、自分だけのものにしないでください。誰が担当しても続けられる形にして、初めてチームの成果になります』
「……はい」
『修正できたら、もう一度見せてください』
「分かりました」
話は、それで終わった。
頑張った。
良く気づいた。
陸が陽菜からもらったような言葉は、最後までなかった。
萌は報告書を受け取り、自分の席へ戻る。
見やすくなった。
確かに、樹里はそう言った。
それが評価だということも分かっている。
昨日の出来事について細かく質問したのも、報告書をきちんと読んだからだ。
それでも、何かが足りなかった。
(私のことを、見てくれているのかな)
樹里が見ているのは、報告書だけではないのか。
そこに書かれた数字や結果だけを見て、自分自身には関心がないのではないか。
疑いが、一度生まれる。
すると、樹里の言葉の少なさまで、その証拠に見えてしまう。
萌は報告書を開き、黙って修正を始めた。
昼休み。
中井は社員食堂の隅で、神谷と佐藤の前に座っていた。
「相談があるんです」
「珍しいですね」
佐藤が箸を止める。
「陽菜さんのことです」
「それなら、もっと珍しくないですね」
「佐藤さん、真面目に聞いてください」
「真面目ですよ」
神谷は黙って中井の話を待っている。
中井は少し考えてから、口を開いた。
「最近、陽菜さんがほとんど食事を取っていないんです」
「忙しそうですからね」
「昨日も、夕食を食べずに寝ようとしていました。家へ行って食事を作りましたけど、このままモデルハウスの仕事が忙しくなったら、同じことを繰り返すと思います」
「それで?」
神谷が尋ねる。
「僕の部屋から会社へ通ってもらった方がいいんじゃないかと思っています」
佐藤が目を瞬かせた。
「それって、同棲ですよね」
「そうなります」
「なら、そう言えばいいじゃないですか」
「簡単に言わないでください」
「一緒に暮らしたくないんですか?」
中井はすぐに答えられなかった。
「……暮らしたいです」
「じゃあ、何を悩んでるんですか」
「陽菜さんが生活できていないから、僕が管理するみたいに聞こえないかと思って」
佐藤が腕を組む。
「中井さんは、陽菜さんを管理したいんですか?」
「違います」
「なら、大丈夫だと思いますけど」
「そんな単純な話では――」
「単純にしないと、伝わらないこともありますよ」
中井は佐藤を見る。
佐藤は美園との関係を通して、以前より自分の意見を言うようになっていた。
「支えたいんですよね」
「はい」
「一緒に暮らしたいんですよね」
「……はい」
「両方言えばいいんじゃないですか」
中井は黙り込む。
神谷が口を開いた。
「ただし、順番は間違えない方がいい」
「順番ですか?」
「支えるために同棲する、と言えば、櫻井さんは自分が負担になっていると感じるかもしれない」
中井の表情がわずかに強張った。
「生活を立て直してあげる、という言い方も駄目だ。対等ではなくなる」
「では、どう話せばいいでしょうか」
「それを俺に聞いている時点で、まだ言葉が足りていないんじゃないか」
神谷は穏やかに答えた。
「自分が何をしてあげられるかではなく、櫻井さんとどんな生活をしたいのかを考えた方がいい」
中井は視線を落とした。
朝、一緒に目を覚ます。
食事を作る。
仕事から帰ってきた陽菜の話を聞く。
疲れているときは、何も話さず隣にいる。
自分が世話をする場面だけではない。
陽菜がくだらない冗談を言い、自分が困らされる時間も浮かんでくる。
「僕は……陽菜さんのそばで暮らしたいです」
「なら、それを言えばいい」
神谷が答える。
佐藤も頷いた。
「食事の話は、そのあとでいいと思います」
「ありがとうございます」
「ただ、中井さん」
「何ですか?」
「陽菜さんと毎日一緒に暮らすって、相当な覚悟が必要だと思いますよ」
「どういう意味ですか」
「色々です」
「具体的に言ってください」
「僕の口からは言えません」
佐藤が目を逸らす。
中井は不安そうに神谷を見る。
「神谷さんは、どう思いますか」
「俺に聞かれても困る」
「お二人とも何を知っているんですか」
「何も知りません」
神谷は淡々と答え、佐藤は笑いを堪えていた。
その日の終業後。
陽菜は自分の机に残り、案内表示の修正を続けていた。
陸はすでに帰宅している。
萌も、報告書を修正して樹里へ提出したあと、先に会社を出た。
中井は鞄を持って立ち上がる。
「陽菜さん」
『ん?』
「まだ帰りませんか?」
『これだけ終わらせたら帰るよ』
「昨日も同じことを言っていました」
『昨日は昨日。今日は今日』
「今日は、夕食を食べますか?」
『食べるって』
「何を食べますか?」
『まだ決めてない』
「一緒に食べませんか」
陽菜が顔を上げる。
『今日は中井くんの家?』
「はい」
『じゃあ、泊まってもいい?』
「もちろんです」
『着替え、取りに帰らないと』
「僕が一緒に行きます」
『やった。荷物持ち』
「そのくらいは持ちます」
陽菜は笑い、パソコンの画面へ戻った。
『あと10分だけ待って』
「分かりました」
中井は自分の席へ座り直す。
10分後。
陽菜はまだ同じ画面へ向かっていた。
「陽菜さん。10分経ちました」
『あと5分』
「帰ります」
『横暴』
「終わらない仕事は、明日やりましょう」
『明日も仕事があるんだけど』
「だから、今日は帰るんです」
中井が陽菜の机の上にある資料を閉じる。
陽菜は不満そうに中井を見上げた。
だが、その手を止めようとはしなかった。
『最近、中井くん強くなったね』
「誰のせいだと思っているんですか」
『あたしのおかげ?』
「そういうことにしておきます」
陽菜は椅子から立ち上がり、鞄を持った。
『じゃあ帰ろうか』
「はい」
会社を出ると、冷たい風が2人の間を抜けた。
陽菜は首を竦め、中井の腕へ自分の腕を絡ませる。
『寒い』
「手袋は?」
『忘れた』
「マフラーは?」
『持ってない』
「コートのボタンくらい閉めてください」
『中井くんがいるから平気』
「僕は防寒具ではありません」
『あったかいよ』
陽菜がさらに身体を寄せる。
中井は困ったように笑った。
こんな時間が、毎日続けばいいと思う。
陽菜の世話をするためだけではない。
自分も、この人が帰ってくる場所になりたい。
「陽菜さん」
『なに?』
「今度の休み、少し時間をもらえますか」
『デート?』
「大事な話があります」
陽菜が立ち止まった。
『別れ話?』
「どうしてそうなるんですか」
『大事な話って言われたら、ちょっと怖いじゃん』
「違います。これから先の話です」
陽菜は中井の顔を覗き込む。
その表情から冗談ではないと分かると、絡めていた腕へ少しだけ力を込めた。
『分かった』
「ありがとうございます」
『でも、今教えてくれてもいいよ?』
「きちんと考えてから話したいんです」
『真面目だねえ』
「陽菜さんのことですから」
『じゃあ、待ってる』
2人は再び歩き始めた。
中井の部屋へ向かう道を、寄り添いながら進んでいく。
まだ同じ家へ帰っているわけではない。
けれど中井の中では、その先にある暮らしが、少しずつ現実のものへ変わり始めていた。




