226話「指示を待たない」
チーム櫻井モデル、本格稼働2日目。
前日の反省を受け、モデルハウスの入口は大きく様変わりしていた。
案内表示は必要なものだけに絞り、子供用の机は見学者の動線から少し離れた場所へ移した。
受付に置いていた予備の資料も、誰でもすぐ補充できる位置へまとめている。
小さな変更ばかりだった。
だが、開場を迎えると、その違いはすぐに表れた。
「昨日より、入口で立ち止まる人が減っています」
凛が来場者の流れを見ながら言った。
『うん。ちゃんと中まで入ってきてくれてるね』
陽菜は頷きながら、入口付近へ向かおうとした。
だが、途中で足を止める。
入口は凛の担当だ。
問題が起きているわけでもない。
それでも近くへ行きたくなる自分を抑え、陽菜は元の位置へ戻った。
『任せるって、立ってるだけでも難しいんだね』
「まだ始まって10分ですよ」
柚希が笑う。
『もう3回くらい手を出しそうになった』
「我慢してください」
『頑張る』
柚希は笑顔のまま、子供を連れた家族へ歩み寄った。
昨日とは違い、最初から親にも声をかける。
「お子さんがこちらで遊んでいる間に、ご夫婦でゆっくり見ていただけます。途中で一緒に回りたくなったら、いつでも呼んでください」
「ありがとうございます」
母親が安心したように笑い、父親と一緒に営業担当者の説明を聞き始めた。
子供だけを見るのではない。
その子供を連れてきた家族全体を見る。
柚希も、昨日の失敗を自分なりに変えていた。
一方、陸の前には若い夫婦が立っていた。
「この家、実際にはどれくらいの予算で建てられるんですか?」
昨日と同じ質問だった。
陸は手に持っていた案内資料へ目を落とす。
最初のページには、玄関から順番に説明するための文章が書かれていた。
陸はそれを閉じた。
「建物だけの価格と、土地を含めた総額で大きく変わります。よければ、先にご予算と希望されている地域を聞かせてもらえますか」
夫婦の表情が変わった。
「実は、土地もまだ決まっていなくて」
「でしたら、室内をご案内する前に、こちらで土地の資料も一緒に見ましょう」
陸は価格表のある席へ2人を案内する。
離れた場所にいた陽菜が、その様子に気づいた。
陸は陽菜を見なかった。
指示を求めることもなく、夫婦の希望を聞き始めている。
陽菜の口元が緩んだ。
『やるじゃん、陸』
声には出さない。
今、褒めるために割って入れば、結局は陽菜の顔色を確認するようになってしまう。
陽菜は何も言わず、別の来場者へ声をかけた。
萌は首から小さなタイマーを下げていた。
5分ごとに短い電子音が鳴る。
音が鳴るたび、記録用紙から顔を上げ、モデルハウス全体を見る。
最初のうちは、それがひどくぎこちなかった。
顔を上げる。
右を見る。
左を見る。
特に問題がなければ、再び数字を書き込む。
作業として決められたから、作業として周囲を確認している。
それでも、続けるうちに少しずつ目へ入るものが増えていった。
午前11時を過ぎた頃。
電子音が鳴る。
萌が顔を上げると、現地社員の1人が受付と事務室の間を何度も往復していた。
その手には、来場者へ配る資料がある。
受付の棚へ入り切らないため、少なくなるたび事務室から補充しているらしい。
移動するたび、入口に立つ凛の後ろを横切る。
来場者とぶつかりそうになり、互いに足を止める場面もあった。
その時間は、来場記録には残らない。
待ち時間として計測できるほど長くもない。
だが、何度も繰り返されている。
萌は立ち上がった。
陽菜へ報告しようとして、その姿を探す。
陽菜は別の家族を案内していた。
昨日なら、そのまま戻ってくるのを待ったかもしれない。
萌は受付に立つ社員へ近づいた。
「すみません。この資料ですが、箱ごと受付の内側へ置くことはできますか」
「え?」
「補充の回数が多くて、入口の動線と重なっています。場所を取るようでしたら、使っていない椅子を1脚下げれば入ると思います」
現地社員は受付の内側を確認した。
「確かに、その方が楽ですね」
「移動してもよろしいですか」
「お願いします」
萌は資料箱を運び、凛と相談しながら椅子の位置を変えた。
その間にも電子音が鳴る。
だが、萌はすぐには記録用紙へ戻らなかった。
変更した場所が、新たな邪魔になっていないかを確認する。
問題がないと判断してから、ようやく席へ戻った。
その姿を、陽菜は来場者と話しながら見ていた。
昼を過ぎた頃、一時的に来場者が重なった。
陸は年配の男性へ、収納について説明していた。
その途中、玄関付近で女性が不安そうに周囲を見回していることに気づく。
男性の連れだと思っていた女性だった。
「少々お待ちください」
陸は男性へ断り、女性のもとへ向かった。
「どうされましたか」
「一緒に来た娘が見当たらなくて」
「服装は分かりますか」
「白いコートです。さっきまで一緒にいたんですが」
「僕が探します。こちらでお待ちください」
陸は近くの部屋を確認しに向かった。
判断そのものは間違っていなかった。
困っている来場者へ、自分から声をかけた。
しかし、陸が離れたことで、説明の途中だった男性がその場に残された。
さらに、その男性へ声をかけようとしていた別の家族まで、案内する人間を失ってしまう。
陽菜は反射的に動こうとした。
だが、それより先に萌が立ち上がった。
「遠藤さん、入口を少しだけお願いします」
「分かりました」
「早川さん、今いるお子さんから離れられますか」
「うん。今はご両親も一緒だから大丈夫」
「では、あちらの男性をお願いします。私は次のご家族に声をかけます」
萌は返事を待たず、新たに入ってきた家族へ向かった。
「お待たせして申し訳ありません。こちらへどうぞ」
柚希も陸が残した男性へ駆け寄る。
「申し訳ありません。続きを私がご案内します」
凛は入口と受付の間へ立ち、両方の流れを確認した。
数分後、陸が白いコートの女性を連れて戻ってきた。
「お母さん、ここにいたの」
「勝手にいなくならないでよ」
「ご心配をおかけしました」
陸は頭を下げた。
女性たちが安堵する一方で、自分が説明していた男性のそばに柚希がいることに気づく。
さらに萌が、別の家族へ応対している。
陸の顔から、安心した色が消えた。
「僕、持ち場を空けてしまいました」
戻ってきた陸へ、萌が言う。
「困っている人に声をかけたことは、間違っていないと思う」
「でも、他の人を待たせました」
「次からは、離れる前に誰かへ声をかければいい」
「……はい」
「私も、周りが見えていたわけじゃない。昨日、遠藤さんに言われたから気づけた」
萌は手元の記録用紙を見る。
「1人で全部を見るのは無理だから、見えた人が言えばいいんだと思う」
その言葉を聞き、陽菜は動きかけていた足を元の位置へ戻した。
自分が間へ入らなくても、2人は失敗について話している。
自分たちで、次の方法を見つけようとしている。
陽菜は、胸の奥に小さな寂しさを覚えた。
頼られないことが、寂しい。
それと同時に、嬉しくもあった。
チームが自分の手から離れて動き始めている。
それこそが、陽菜の望んでいたことのはずだった。
営業終了後。
5人は前日と同じ机を囲んだ。
『今日は、昨日より良かったと思う人』
陽菜が手を挙げる。
柚希と凛が続いた。
陸は迷いながら手を挙げ、萌は手元の資料を見たままだった。
『萌は?』
「来場者の滞在時間は、昨日より平均で長くなっています。受付の混雑も減りました」
『うん』
「ですが、それだけで良かったと言っていいのかは分かりません」
萌は記録用紙を陽菜へ向けた。
「数字には出ていない無駄がありました。資料を補充する回数や、人が通るたびに入口の案内が止まる時間です」
『それに気づいて、萌が変えたんだよね』
「はい」
『なら、今日は良かったって言っていいんじゃない?』
「でも、私1人で見つけたわけではありません。昨日、日高先輩と櫻井先輩に言われたから――」
『あたしは顔を上げろって言っただけ。顔を上げて何を見るかを決めたのは、萌だよ』
萌は返事をしなかった。
褒められたことは嬉しかった。
それでも、胸に浮かんだのは樹里の顔だった。
もし樹里がここにいたら、同じように認めただろうか。
それとも、まだ足りないと言うのだろうか。
『陸は、どうだった?』
「昨日よりは、相手の話を聞けました」
『うん。最初の夫婦への対応、良かったよ』
「見ていたんですか」
『見てたよ。でも、何も言わなかった』
「どうしてですか」
『陸があたしを見なかったから』
陸が目を瞬かせる。
『あたしを見たら、きっと正しいかどうか聞いたでしょ。でも今日は、お客さんを見てた。だから、邪魔しない方がいいと思った』
「……はい」
『ただ、困ってる人を見つけたとき、自分だけで何とかしようとした』
「すみません」
『謝らなくていいよ。助けに行ったことは間違ってない。ただ、助ける前に一言だけ周りに言えば、残された人も困らなかった』
「次から、そうします」
『うん。次があるなら、それでいい』
陽菜は全員を見回した。
『昨日より、あたしが呼ばれた回数は少なかった』
「数えていたんですか?」
柚希が尋ねる。
『数えてない。でも、昨日より暇だった』
「暇ではなかったと思います」
凛が真顔で指摘する。
『気持ちの話』
「それなら、少し分かります」
『あたしが暇になればなるほど、このチームは強くなるのかもね』
その言葉とは裏腹に、陽菜の前には、ほとんど手をつけていない昼食が置かれていた。
柚希がそれに気づく。
「陽菜さん。お昼、食べていないんですか」
『食べたよ』
「パンがそのまま残っています」
『半分は食べた』
「一口しか減っていません」
『細かいなあ』
陽菜は誤魔化すように笑い、残っていたパンを持ち上げた。
『帰りながら食べるから大丈夫』
「運転しながらは駄目です」
凛が即座に止める。
『じゃあ、信号で止まったときに』
「それも駄目です」
『厳しい』
笑い声が生まれた。
だが萌は、陽菜がパンを鞄へしまう姿を見ていた。
人のことは、あれほどよく見ている。
困っている相手には、誰よりも早く気づく。
それなのに、自分のことだけは平気で後回しにする。
記録用紙には書けないものが、そこにもあった。
夜。
自宅へ戻った陽菜は、ソファへ倒れ込んだ。
風呂に入らなければならない。
明日の仕事の準備もしなければならない。
そう思いながら、指一本動かしたくなかった。
テーブルの上では、持ち帰ったパンが鞄から出されないままになっている。
スマートフォンが鳴った。
中井からのLINEだった。
「帰れましたか?」
陽菜は横になったまま返信する。
『着いたよー』
「夕食は食べましたか?」
画面を見つめる。
陽菜の指が一度止まった。
『これから』
嘘ではない。
食べるつもりはある。
いつになるか分からないだけだ。
すぐに着信へ切り替わった。
『もしもし』
「陽菜さん。声が疲れています」
『気のせいだよ』
「夕食は何を食べるんですか」
『えっと……パン』
「何パンですか」
『パンはパンでしょ』
「今、家にあるものを言っていませんか」
陽菜は黙った。
中井も、しばらく何も言わなかった。
「昼も、それで済ませたんですか」
『昼は忙しくて、あんまり食べられなかった』
「今から行きます」
『いいよ。中井くんも疲れてるでしょ』
「疲れていても、食事はできます」
『あたしだってできるよ』
「では、今すぐ何か作れますか?」
『……冷蔵庫に、何かあれば』
「何がありますか」
『調味料』
「食材を聞いています」
『調味料も食材じゃん』
「違います」
電話越しの声は優しい。
それでも、譲るつもりがないことだけは伝わってきた。
『ほんとに大丈夫だよ』
「大丈夫な人は、夕食を調味料で済ませません」
陽菜は思わず笑った。
『じゃあ、お願いしようかな』
「はい。30分ほどで行きます」
『中井くん』
「何ですか?」
『ありがとう』
「着いてから聞きます」
通話が切れる。
陽菜はスマートフォンを胸元へ置き、目を閉じた。
しばらくして訪れた中井は、買ってきた食材で簡単な雑炊を作った。
陽菜はテーブルに座り、温かい湯気を眺める。
『おいしそう』
「ゆっくり食べてください」
『中井くんって、あたしのお母さんみたいだね』
「恋人です」
『知ってるよ』
陽菜は笑いながら、雑炊を口へ運んだ。
温かさが、疲れた身体へ染み込んでいく。
「明日も仕事ですよね」
『うん。平日は会社で、次の週末はまたモデルハウス』
「ずっと、この生活が続くんですか」
『大抽選会までは忙しくなるかな。でも、楽しいよ』
「楽しいなら、食べなくても平気なんですか」
『それは別の話』
「陽菜さんは、別にしていません」
陽菜は匙を止めた。
中井は責めるような顔をしていない。
ただ、本当に心配している。
「僕が毎日ここへ来ればいいのかもしれません。でも、それでは陽菜さんが休める時間を減らしてしまいます」
『じゃあ、来なくてもいいよ』
「そういう意味ではありません」
中井は陽菜の部屋を見回した。
脱ぎっぱなしの上着。
開いたままの仕事鞄。
食材の入っていない冷蔵庫。
今夜だけの問題ではない。
これから忙しくなれば、同じことが何度も起きる。
陽菜が食事を終える頃、中井は静かに口を開いた。
「陽菜さん」
『なに?』
「少し、考えていることがあります」
『怖い話?』
「陽菜さんが、ちゃんと眠って、ちゃんと食べるための話です」
『それは怖いかも』
「どうしてですか」
『生活を監視されそう』
「監視ではありません」
『じゃあ、何?』
中井はすぐには答えなかった。
まだ、今日だけで決めることではない。
自分の都合だけで持ちかけていい話でもない。
「もう少し考えてから、話します」
『変なの』
陽菜はそう言いながら、空になった器を中井へ見せた。
『ごちそうさま』
「はい」
中井は器を受け取った。
自分が近くにいれば、陽菜の働き方を変えられるとは思わない。
無理をするなと命じても、きっと聞かない。
それでも、帰ってきた場所で食事を用意し、眠るまでそばにいることならできる。
中井の中で、まだ形になっていなかった考えが、少しずつ一つの言葉へ近づいていた。




