225話「最初の失敗」
1月最初の週末。
チーム櫻井モデルの本格稼働初日を迎えた。
島川不動産の営業部では、朝から陽菜たちが必要な資料や備品を社用車へ積み込んでいた。
案内用のパネル。
子供向けの塗り絵と色鉛筆。
来場者の動きを記録するための用紙。
そして、山本陸が作った3分間の案内資料。
下見の日に見つけた課題を、それぞれが形にして持ち寄ったものだった。
「忘れ物はありません」
凛がチェックリストの最後に印をつける。
「塗り絵も人数分あります。少し多めに入れておきました」
柚希が段ボール箱の中を確認した。
「案内資料も大丈夫です」
陸はファイルを抱えたまま、緊張した面持ちで答える。
「昨日までの来場記録も、時間帯ごとにまとめました」
萌も自分の資料を胸元に抱えていた。
陽菜は全員の顔を見回し、大きく頷く。
『よし。それじゃあ行こうか』
「櫻井さん」
背後から声をかけたのは黒澤だった。
『はい』
「初日だからって、無理に結果を出そうとするなよ」
『分かってます』
「分かってる顔には見えないな」
『失礼だなあ。あたし、これでもちゃんと計画的に――』
「全部自分でやろうとするなって言ってるんだ」
陽菜の言葉が止まった。
黒澤は、それ以上追及しなかった。
「お前は人の穴を見つけると、すぐ自分で埋めに行くからな。今日はチームで行くんだろ」
陽菜はわずかに頬を膨らませたあと、後ろにいる4人を振り返った。
『分かりました。ちゃんと任せます』
「本当か?」
『多分』
「今の返事でもう不安だよ」
黒澤の横で、彩花が書類の入った封筒を差し出した。
「現地責任者の確認印をもらったら、月曜日に総務へ回して。備品を追加する場合は、その前に連絡して」
『分かりました。ありがとう、彩花さん』
「遊びに行くんじゃないんだからね」
『分かってるって』
「あと、社用車は壊さないで」
『今日はそこまで緊張しないよ。前回ちゃんと運転できたじゃん』
「駐車に4回失敗したって聞いたけど」
『失敗じゃないよ。より安全な位置を探してただけ』
「それを一般的には失敗って言うの」
陽菜が不満そうな顔で封筒を受け取る。
その少し離れた場所では、樹里が萌を見ていた。
目が合う。
萌は、何かを言われるのを待った。
気をつけて。
頑張って。
そんな言葉を、ほんの少しだけ期待した。
『川原さん』
「はい」
『記録は、数字だけで終わらせないでください』
「……はい」
『行ってらっしゃい』
それだけだった。
萌は小さく頭を下げ、陽菜たちの後を追った。
欲しかった言葉とは違う。
何を求められているのかも、まだ完全には分からなかった。
ただ、胸の中には引っかかるものが残った。
モデルハウスへ到着すると、陽菜たちはすぐに準備を始めた。
入口には凛が考えた案内表示を置き、受付の一角には柚希が子供用の小さな机を設ける。
陸は案内資料を何度も読み返し、萌は時計と記録用紙を交互に確認していた。
『みんな、準備できた?』
「はい」
「大丈夫です」
返事は揃っていた。
陽菜は入口へ向き直る。
『じゃあ、始めよう』
開場から30分。
最初の異変に気づいたのは、凛だった。
「陽菜さん。入口のパネルですが、少し多すぎるかもしれません」
『え?』
下見で分かりにくいと感じた箇所へ、案内表示を追加した。
だが実際に並べてみると、文字の多いパネルが視線を奪い合っていた。
来場者が必要な案内を探すため、入口で立ち止まっている。
その後ろに別の家族が重なり、小さな渋滞が生まれていた。
『ほんとだ。減らそう』
「私が位置を変えます」
『お願い、凛ちゃん』
凛はすぐにパネルを2枚下げ、残した案内の向きを変えた。
その頃、柚希が用意した子供用の机には、3人の子供が集まっていた。
「好きな色を使っていいからね」
柚希が優しく声をかける。
子供を連れていた夫婦は安心した様子で、営業担当者の説明を聞いている。
準備は成功したように見えた。
しかし、そのうちの1人が色鉛筆を持ったまま走り出した。
「あっ、待って」
柚希が立ち上がる。
別の子供もそれを追いかけ、見学者の通路へ飛び出した。
陽菜が素早く間へ入り、しゃがみ込む。
『こっちで遊ぼうか。向こうは人がいっぱいだから危ないよ』
子供の手を引き、机まで連れ戻す。
「すみません、陽菜さん」
『大丈夫。机の場所、少し奥に移そう』
「はい」
陽菜は机を運ぶために手をかけた。
そのとき、別の来場者から声をかけられる。
「すみません。土地について聞きたいんですが」
『はい。少々お待ちください』
さらに反対側では、陸が夫婦へ説明を始めていた。
「こちらのモデルハウスは、家事動線を重視した設計になっています。玄関からキッチンまでの移動を短くしており――」
覚えてきた内容を、丁寧に口にする。
言葉が詰まることもない。
声の大きさにも問題はなかった。
だが、夫婦の視線は資料ではなく、何度も価格表へ向いていた。
「それで、予算についてなんですけど」
「はい。まずは室内をご案内します。この先に収納がありまして――」
陸は、用意した順番を崩せなかった。
夫婦の表情から、少しずつ興味が薄れていく。
それに気づいた陸は、離れた場所にいる陽菜を見た。
陽菜は土地について尋ねてきた来場者へ応対しながら、子供用の机も移そうとしていた。
目が合わない。
指示は来ない。
陸の声が、わずかに小さくなった。
その様子を萌は記録していた。
午前10時42分。
案内開始。
午前10時46分。
来場者から予算について質問。
午前10時48分。
案内継続。
正確に書き込んでいく。
しかし、顔を上げない萌の横では、受付を担当する現地社員の前に3組の来場者が並んでいた。
「川原さん」
凛が声をかける。
萌は記録用紙から目を離さない。
「川原さん」
「はい」
「あちらを手伝ってもらえますか」
萌が顔を上げる。
そこで初めて、受付に列ができていることに気づいた。
「でも、私は記録を――」
「今は、受付を先にした方がいいと思います」
「私の担当は、来場記録です」
凛は一瞬だけ言葉を止めた。
その間にも、新たな家族が入口へ近づいてくる。
陽菜がそれを見つけた。
『萌、受付お願い! 凛ちゃんは入口!』
「はい」
萌は記録用紙を置き、急いで受付へ向かった。
陽菜は土地についての質問に答え、子供用の机を移動させ、陸の説明を引き継ぎ、新たな来場者へ挨拶をする。
誰かが困るたびに、陽菜が現れる。
誰かの手が止まるたびに、陽菜が動く。
午前中が終わる頃には、入口も受付も落ち着いていた。
だが、陽菜だけが昼食を取れていなかった。
『よし。午後もこの調子で――』
「陽菜」
聞き覚えのある声に、陽菜が振り返る。
神崎優子が腕を組み、少し離れた場所からこちらを見ていた。
『優子。偵察?』
「そんな暇じゃない」
『じゃあ、あたしに会いに来た?』
「違う」
優子の返事は早かった。
その視線が、陽菜の持っている案内資料へ落ちる。
「昼は?」
『あとで食べるよ』
「その“あと”は、いつ来るの」
『落ち着いたら』
「落ち着かせるのが、あなたの役目じゃないの?」
陽菜の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
優子はモデルハウスの中へ視線を向ける。
「結果は悪くない。前より入りやすくなってるし、子供連れも長く滞在してる」
『素直に褒めてくれていいんだよ』
「でも、今のままなら櫻井モデルじゃなくて、櫻井陽菜の一人営業ね」
『……どういう意味?』
「全員があなたの指示を待ってる。あなたも、それを待たせないように全部拾ってる」
優子が陽菜を見る。
「あなたが倒れたら、その瞬間に全部止まるじゃない」
言い返そうとして、陽菜は口を閉じた。
今日だけで、何度自分が名前を呼ばれただろう。
何度、自分が誰かの代わりに動いただろう。
そして、自分がいなければ判断できなかった場面が、いくつあっただろう。
「チームを作ったんじゃなかったの?」
優子はそれだけを残し、自分の持ち場へ戻っていった。
『……ほんと、嫌なところ見てるなあ』
陽菜は小さく呟く。
午後の営業を終えたあと、5人は誰もいなくなったモデルハウスに残った。
机を囲み、それぞれの記録を広げる。
『今日は、うまくいかなかったね』
陽菜が最初に言った。
4人が顔を上げる。
『来場者数は悪くない。滞在時間も少し延びた。でも、準備したものが全部そのまま使えたわけじゃない』
「案内表示は、数を減らした方が流れが良くなりました」
凛が答える。
「子供用の机も、最初の場所では通路に近すぎました」
柚希が続いた。
「僕は、相手が聞きたいことより、自分が用意した説明を優先してしまいました」
陸は悔しそうに資料を見つめている。
「私は記録に集中しすぎて、受付の列に気づけませんでした」
萌も認めた。
陽菜は、4人の言葉を黙って聞いた。
『あたしも失敗した』
「陽菜さんが、ですか?」
柚希が驚いたように尋ねる。
『うん。みんなが困ったら、全部あたしが入ればいいと思ってた』
陽菜は午前中の記録を見る。
『でも、それじゃあチームにした意味がないよね』
萌が陽菜を見る。
『明日は、あたしが全部指示するのをやめる』
「でも、判断を間違えたら……」
陸の声には、不安があった。
『間違えていいよ』
「いいんですか?」
『今日だって、いっぱい間違えたじゃん。あたしも含めて』
陽菜は笑った。
『間違えたら直せばいい。でも、何もしないまま指示だけ待つのはなし』
陸はしばらく黙ったあと、ゆっくり頷いた。
『萌は記録を続けて。でも、5分に一度は顔を上げて』
「5分に一度、ですか」
『数字の向こうにいる人を見るの』
萌の脳裏に、朝の樹里の言葉が蘇る。
数字だけで終わらせないでください。
陽菜と樹里が事前に話していたわけではない。
それでも、同じことを求められている気がした。
「分かりました」
『凛ちゃんは、気づいたことがあったらあたしを待たずに変えて。柚希ちゃんも、子供だけじゃなくて、お父さんとお母さんの表情まで見て』
「はい」
「分かりました」
陽菜は最後に陸を見る。
『陸。明日は3分にこだわらなくていい』
「でも、それでは作った意味が――」
『3分で聞きたい人には3分。値段だけ知りたい人には、最初に値段。ゆっくり見たい人には、黙ってついていく』
「相手によって変えるんですか」
『そう。答えはあたしじゃなくて、お客さんの顔に書いてあるから』
陸は、自分で作った資料を閉じた。
「やってみます」
『うん』
反省点は多かった。
成功したとは、まだ言えない。
けれど初めて、自分たちの失敗を自分たちの言葉で見つけた。
陽菜は机の上に置かれた記録を見回す。
『じゃあ、明日もう一回やろう』
誰からともなく、4人が頷いた。
完成したチームなど、そこにはいなかった。
だからこそ、まだ変わることができる。
最初の失敗は、5人が初めて共有した成果になった。




