224話「仕事始め」
1月4日の朝。
島川不動産の営業部には、仕事始め特有の落ち着かない空気が流れていた。
年末に片づけたはずの机へ、休暇中に届いた書類が再び積まれていく。
社員同士で新年の挨拶を交わし、取引先へ電話をかける。
止まっていた会社が、少しずつ元の速度を取り戻していた。
黒澤が営業部の前へ立つ。
「明けましておめでとう。今年もよろしく」
社員たちが揃って頭を下げる。
「今日から通常業務だ。高槻興産の案件は、年始からまた本格的に動く。モデルハウスの応援も、今週末から始まる」
黒澤は全員の顔を見渡した。
「年末年始で頭が鈍ってるやつは、今日中に戻せ。いきなり走って転ぶなよ」
『黒澤部長は、戻りましたか?』
陽菜が尋ねる。
「櫻井さん。仕事始め早々、俺を試すな」
『心配しただけです』
「その顔で言っても信用できない」
営業部に小さな笑いが起きる。
「まずは、去年から持ち越した仕事を確認しろ。今年も無事に終わらせるぞ」
短い朝礼が終わり、それぞれが自分の席へ戻った。
陽菜もパソコンを立ち上げようとして、斜め前にいる中井を見る。
その手が止まった。
『中井くん』
「はい」
『立って』
「どうしてですか?」
『いいから』
中井は不思議そうにしながら立ち上がった。
陽菜は、その胸元を見る。
深い紺色のネクタイ。
細い赤色の線が入り、冬のスーツによく馴染んでいる。
クリスマスに陽菜が贈ったものだった。
『似合ってる』
「ありがとうございます」
『みんな見て。中井くんのネクタイ、あたしが選んだの』
陽菜の声に、周囲の視線が一斉に中井へ集まる。
「陽菜さん。わざわざ発表しなくてもいいです」
『なんで? 似合ってるじゃん』
「嬉しいですが、恥ずかしいです」
『じゃあ、もっと恥ずかしくしてあげよっか』
「何を言うつもりですか」
『クリスマスの夜に――』
「陽菜さん」
中井が、珍しく強い声で遮った。
陽菜は口元を上げる。
『何を想像したの?』
「何も想像していません」
『顔、真っ赤だよ』
「櫻井さん。朝から中井を困らせるな」
黒澤が書類から顔を上げる。
『愛情表現です』
「勤務時間外にやれ」
『はーい』
陽菜は満足そうに自分の席へ座った。
中井も顔を赤くしたまま椅子へ戻る。
その様子を見ていた佐藤が、笑いを堪えながら自分の上着を脱いだ。
新しいコートだった。
落ち着いた色と形だが、生地には一目でわかるほどの上質さがある。
近くを通った柚希が、そのコートを見る。
「佐藤さん、コート新しくしたんですか?」
「はい。クリスマスに頂きました」
『誰から?』
離れた場所にいたはずの陽菜が、すぐに反応する。
「聞こえていたんですか」
『誰から?』
「……美園さんです」
陽菜の目が輝く。
『美園さんからBURBERRYのコートをもらって、温泉旅行に行って、年末年始も一緒にいた佐藤くん』
「どうして全部知っているんですか?」
『美園さんから聞いた』
「どこまでですか?」
『どこまで聞かれたら困るの?』
「そういう聞き方をしないでください」
『佐藤くん、休み前より顔が緩くなってない?』
「そんなことはありません」
『緩いよ。締まりがない』
「美園さんにも同じことを言われました」
『本人が言うなら確定だね』
佐藤は反論を諦め、コートをハンガーへかけた。
陽菜は楽しそうに笑いながら、今度は凛を見る。
『凛ちゃん』
「何ですか」
『名古屋、どうだった?』
「以前お話しした通りです」
『初めてのお泊まり』
「そこまでは話していません」
『今、教えてくれたじゃん』
凛の手が止まる。
『しかも、その反応だと何かあったね』
「何も答えません」
『凛ちゃん、首まで赤いよ』
「暖房が効いているからです」
『青柳さんのせいじゃなくて?』
「陽菜さん」
凛が静かに名前を呼ぶ。
声は穏やかだったが、それ以上続ければ本気で怒ると伝わってくる。
『仕事しよっか』
「最初から、そうしてください」
陽菜は素直にパソコンへ向き直った。
その視界の端で、柚希が零から贈られたマフラーを丁寧に畳み、自分の椅子へ置いている。
柚希の表情も、休暇前より少しだけ柔らかく見えた。
それぞれのクリスマスと年末年始は終わった。
だが、そこで受け取ったものは、仕事の日常にも残っている。
樹里は自分の机へ座り、高槻興産の資料を開いた。
手に取ったのは、神谷から贈られた淡い桃色のボールペンだった。
書類へ日付を書き込もうとしたところで、少し離れた席にいる神谷が目に入る。
神谷の胸ポケットには、樹里が贈った黒色のボールペンが差されていた。
神谷も、樹里の手元に気づく。
同じ形をした2本のペン。
視線が重なった瞬間、クリスマスの夜に声を上げて笑ったことが、同時に蘇った。
神谷の口元が僅かに緩む。
樹里も、ほんの少しだけ目元を柔らかくした。
それだけで、2人は仕事へ戻る。
周囲から見れば、それぞれが新しいペンを使っているだけだった。
同じ物を選び、互いの名前を刻んだことは、2人だけが知っている。
午前中は、新年の挨拶と通常業務の確認で過ぎていった。
昼を過ぎた頃、陽菜のもとへ黒澤から声がかかる。
「櫻井さん。チーム櫻井モデルを集めて、会議室へ来てくれ」
『企画書、駄目でした?』
「それを今から話す」
『顔で教えてくださいよ』
「俺の顔を読んで仕事ができるなら、書類はいらないな」
『わかりました。ちゃんと聞きます』
陽菜は柚希、凛、萌、陸へ声をかけた。
5人で会議室へ入ると、机の上には年末に提出した企画書が置かれている。
黒澤の隣には、総務部へ異動した彩花が座っていた。
『彩花さんもいるんですか?』
「申請された備品と印刷物の確認で呼ばれたの」
『ああ。そっか。今は総務だもんね』
「まだ慣れない?」
『ちょっとだけ』
「私はもう慣れた」
『早いなあ』
「いつまでも営業部のつもりでいる方がおかしいでしょう」
彩花はそう言いながら、陽菜たちの前へ資料を配った。
「結論から言うと、企画は承認されたわ」
柚希の表情が明るくなる。
「全部ですか?」
「全部ではない。予算と安全面で、いくつか修正は入ってる」
彩花が企画書の該当箇所を示す。
「子供向けの場所は、住宅販売部が持っている備品を使う。新しい物を購入する場合は、事前に総務へ申請。案内表示と簡易資料は、内容を住宅販売部に確認してもらってから印刷する」
『彩花さんが印刷してくれるの?』
「総務部が手配するの」
『同じじゃん』
「違う。私個人に頼まないで」
『でも、困ったら彩花さんに聞けばいいんでしょ?』
「正式な手順を踏んで」
『助けてはくれるんだ』
「仕事だから」
彩花は素っ気なく答えた。
だが、必要な申請書にはすでに付箋が貼られ、記入する場所まで示されている。
営業部にいた頃と、彩花の仕事は変わった。
それでも、必要なところへ手を伸ばす姿勢は変わっていない。
「最初の稼働は、今週末だ」
黒澤が話を戻す。
「初日は5人全員で入れ。その後は現場の状況を見ながら、通常業務と両立できるよう交代制にする」
「休日出勤の扱いは、どうなりますか?」
萌が尋ねる。
「振替休日を取ってもらう。勤務が偏らないよう、櫻井さんと俺で確認する」
『あたしは最初のうち、毎週入ります』
「それも含めて調整しろ。リーダーだからって、休まなくていいわけじゃないぞ」
『わかってます』
「本当か?」
『たぶん』
「今、信用できなくなったぞ」
陽菜は笑って誤魔化した。
黒澤が企画書を開く。
「2月には大規模な抽選会がある。それまでに、現場の動きを作れ。最初から結果が出るとは思ってない」
『出したら褒めてください』
「出してから言え」
『約束ですよ』
「話を聞け」
黒澤は呆れながらも、声には期待が含まれていた。
「初日の目標は、来場者数を増やすことじゃない。年末に見つけた問題へ、考えた対策が本当に使えるのか確かめることだ」
『はい』
「駄目なら変えろ。自分たちの案に意地を張るな」
陽菜は、4人の顔を見る。
『みんなも聞いたね。失敗してもいいって』
「そこまで言ってない」
『でも、失敗したら変えろって』
「失敗する前から安心するな」
『大丈夫です。失敗する気はないので』
「どっちなんだ」
『失敗は怖がらない。でも、成功させるつもりでやる』
陽菜の声から、ふざけた色が消える。
『そのために、この5人がいるんです』
黒澤は陽菜を見たあと、短く頷いた。
「なら、任せる」
『はい』
会議が終わると、5人はそのまま会議室へ残った。
陽菜が、ホワイトボードへ初日の配置を書く。
柚希は受付と、子供連れの来場者への対応。
凛は入口付近に立ち、案内表示や人の流れを確認する。
陸は、住宅の特徴を短くまとめた案内を使い、来場者へ最初の説明を行う。
萌は受付と案内の間に立ち、待ち時間や社員の動きを記録する。
「担当を固定しないと言っていませんでしたか?」
萌が尋ねる。
『固定はしないよ。これは最初に立つ場所』
「途中で替わるんですか?」
『うん。全員、ほかの仕事も経験する』
「それでしたら、記録する人がいなくなる時間ができます」
『だから、記録の方法を全員で共有する』
陽菜は萌を見る。
『萌だけに任せたら、萌が見てる間しか数字が残らないでしょ』
「私が1日記録した方が、正確だと思います」
『正確だろうね』
陽菜は否定しなかった。
『でも、萌がずっと用紙を見てたら、お客さんも、ほかのみんなも見られない』
「……はい」
『数字を残すことが目的じゃないよ。何が起きたかを知って、次に変えるために残すの』
萌は、自分の資料へ目を落とす。
「わかりました。誰でも記録できる形に直します」
『お願い』
陽菜は次に陸を見る。
『陸の案内も、原稿を丸暗記しなくていいからね』
「でも、内容を間違えたら困ります」
『間違えちゃいけないところは覚える。でも、お客さん全員に同じ話をする必要はないでしょ』
「相手によって、変えるんですか?」
『うん。何を知りたい人なのか、自分で見て考えて』
「できるでしょうか」
『それを確かめるのが初日』
陸は不安そうにしながらも、頷いた。
「やってみます」
役割の確認を終え、4人が会議室を出ていく。
陽菜はホワイトボードに残った予定を、スマートフォンで撮影していた。
そこへ中井が顔を出す。
「陽菜さん。終わりましたか?」
『今終わったところ』
「今夜、食事に行きませんか?」
『ごめん。今日は帰ったら、住宅販売部からもらった資料を読みたい』
「食事はどうするんですか?」
『帰りに何か買う』
「何を買うか、決めていますか?」
『そのとき考えるよ』
中井は、ホワイトボードに書かれた予定を見る。
平日の通常業務。
高槻興産へ関わる社内の動き。
モデルハウスの準備。
最初の週末には、朝から夕方まで現地へ入る。
「忙しくなりますね」
『最初だけだよ。流れができれば、みんなに任せられる』
「陽菜さんは、きちんと休めますか?」
『休むよ』
「本当に?」
『黒澤部長にも同じこと聞かれた』
「心配される答え方をしたんですね」
『たぶんって言っただけ』
「僕も心配になりました」
陽菜は笑い、鞄から深い赤色のキーケースを取り出す。
『大丈夫。家には帰るから』
「帰るだけでは、休んだことになりません」
『細かいなあ』
「陽菜さんが細かく考えないので、僕が考えています」
『中井くん、あたしのお母さんみたい』
「恋人です」
すぐに返ってきた言葉に、陽菜は僅かに目を丸くする。
『そっか』
「はい」
『じゃあ、心配してて』
「心配させないでほしいんですが」
『それは難しいかも』
陽菜は、赤いキーケースを鞄へ戻した。
中井は、それ以上何も言わなかった。
だが、予定で埋まり始めたホワイトボードと、何でもないように笑う陽菜の横顔を、静かに見つめていた。
仕事始めの日。
贈られたネクタイも、コートも、ペンも、それぞれの日常へ入った。
そしてチーム櫻井モデルもまた、企画書の中から現実の仕事へ動き始める。
最初の週末。
陽菜たち5人は、初めて自分たちの名前を背負って現場へ立つ。




