223話「それぞれの一年」
12月31日の夜。
Roseのシャッターは、いつもより早い時間から閉じられていた。
入口には、年末年始の休業を知らせる紙が貼られている。
12月31日、1月1日。
美園が、自分のために休むと決めた2日間だった。
店内には客の姿がない。
カウンターの上に並んでいるのも、酒やつまみではなかった。
2人分の年越しそば。
小さな重箱。
佐藤が買ってきた料理。
美園はカウンターの中から、その並びを眺めている。
『量、多くない?』
「足りないよりはいいと思いまして」
『佐藤くん、私をどれだけ食べる女だと思ってるの』
「僕も食べます」
『この量を?』
「……明日の分にもできます」
『最初からそう言いなさい』
佐藤は、いつも客が座る側ではなく、カウンターの中にいた。
美園に言われ、皿を並べている。
慣れない場所で何度も美園の動線を塞ぎ、そのたびに腰を掴まれて横へ退かされた。
「美園さん。ここは、どこに置けばいいですか?」
『そこ』
「どこですか?」
『佐藤くんの右』
「こちらですか?」
『それは私の右』
「すみません」
『もう。代わって』
美園が佐藤の横へ入り、皿を受け取る。
狭いカウンターの中で、肩と肩が触れた。
普段、この場所は美園だけのものだった。
客の好みを読み、店全体を見渡し、誰にも背中を預けずに立つ場所。
今夜は、そこへ佐藤を入れている。
「邪魔でしたか?」
『邪魔』
「やっぱり」
『でも、いていいよ』
佐藤が美園を見る。
『何?』
「いえ。嬉しかったので」
『簡単に喜ぶね』
「美園さんの中へ入れてもらえた気がします」
『言い方』
「店のカウンターの話です」
『わかってるよ』
美園は笑い、佐藤の頬を指先で軽くつついた。
『私も、ちょっと嬉しい』
その言葉を聞き、佐藤の顔がまた緩む。
『その顔のまま年を越すつもり?』
「駄目ですか?」
『締まりがないよ』
「美園さんと一緒にいられるので、仕方ありません」
『本当に言うようになったね』
テレビから、年末の賑やかな声が流れている。
誰もいないRoseで、2人は並んで年越しそばを食べた。
店を開けていれば、今頃は誰かのグラスを満たしていただろう。
美園は、その時間を佐藤へ渡した。
渡したことを、後悔していなかった。
同じ頃。
中井の部屋では、陽菜が床へ座っていた。
テーブルには、食べ終えたそばの器と菓子が並んでいる。
陽菜の鞄からは、深い赤色のキーケースが覗いていた。
「陽菜さん。眠いですか?」
『全然』
「先ほどから、目を閉じています」
『瞑想してるだけ』
「年が変わる前に寝そうですね」
『寝ないよ。中井くんと年越すんだから』
「無理をしなくても、来年は来ます」
『当たり前じゃん。来なかったら困るよ』
陽菜は欠伸を噛み殺し、中井の肩へ頭を預けた。
『去年の今頃は、中井くんとこんなことしてるなんて思わなかった』
「僕もです」
『あたしのこと、まだ好きじゃなかった?』
「気になってはいました」
『ほんと?』
「はい」
『その頃から舎弟になりたそうな顔してた?』
「していません」
『今は?』
「恋人でいたいです」
『そっか』
陽菜は嬉しそうに、中井の腕へ自分の腕を絡める。
『じゃあ、来年もよろしくね』
「まだ年は明けていません」
『予約』
「それなら、こちらこそお願いします」
年越しを知らせる番組の音が大きくなる。
画面の隅に表示された時計が、零時へ近づいていく。
陽菜は眠気を忘れたように身体を起こした。
『あと10秒』
「はい」
『9、8、7――』
「数えるのが早くないですか?」
『細かいこと気にしないで。4、3、2、1』
陽菜が数え終えた瞬間、テレビの中で新しい年を告げる鐘が鳴った。
『あけましておめでとう、中井くん』
「明けましておめでとうございます。陽菜さん」
『今年も、いっぱいあたしを好きでいてね』
「去年よりも、ですか?」
『うん』
「努力しなくても、そうなると思います」
『相変わらず恥ずかしいこと真顔で言うね』
「陽菜さんに言われたくありません」
『今年最初にそれ言われた』
陽菜は笑い、中井の頬へ口づけた。
その頃、凛は自宅で、スマートフォンの画面を見ていた。
画面の向こうにいるのは、名古屋の部屋にいる青柳だった。
「明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
凛の机には、青柳から贈られたストームグラスが置かれている。
ガラスの中には、白い結晶が細かく広がっていた。
画面の向こうでも、青柳が同じ形のガラスを持ち上げる。
「こちらは、こんな形です」
「名古屋の方が、結晶が大きいですね」
「気温の違いでしょうか」
「正確な天気予報には使えないと、青柳さんが言っていました」
「そうでした」
「でも、こうして話す理由にはなります」
「贈ってよかったです」
離れた街で、同じ物を見る。
同じ形ではないことも、2人にとっては会話になる。
「次に会う日まで、あと何日ですか?」
凛が尋ねる。
「数えていますか?」
「はい」
「僕もです」
「でしたら、同じですね」
凛の表情が、柔らかくなる。
「今年は、昨年よりも会いに行きます」
「僕も、東京へ行きます」
「約束ですよ」
「はい。約束します」
柚希と零は、小さな神社の参道にいた。
零の首には、柚希から贈られたものではなく、普段使っている防寒具が巻かれている。
その代わり、手には新しいグローブを着けていた。
柚希は、零から贈られたマフラーへ口元を埋めている。
「零ちゃん。グローブ、使ってくれてる」
「使わないともったいないって、柚希さんが言ったので」
「似合ってるよ」
「ありがとうございます」
参拝を終えた人々が、2人の横を通り過ぎていく。
零は一度周囲を見た。
それから、自分から柚希の手を握る。
「今年も、一緒にいてくれますか」
「今年だけ?」
零が目を瞬かせる。
「……来年も、その先も」
「うん。私も一緒にいたい」
柚希は、繋がれた手を握り返した。
誰かに見られることより、零が手を離すことの方が嫌だった。
零も、もう周囲へ視線を向けなかった。
Roseでも、中井の部屋でも、凛の自宅でもない場所。
樹里は、自分の部屋で新しい年を迎えていた。
テーブルには、温かい茶と、小さな和菓子がある。
仕事の資料は開いていない。
黒澤に、休むところまで仕事だと言われたからではない。
高槻興産の資料へ手を伸ばしかけたとき、神谷から贈られた淡い桃色のボールペンが目に入った。
その瞬間、クリスマスの夜に2人で大笑いしたことを思い出し、仕事を始める気が失せた。
日付が変わる。
ほぼ同時に、3人だけのLINEが動いた。
最初に送ったのは陽菜だった。
『あけおめー。今年もよろしく!』
続いて、美園から届く。
『明けましておめでとう。今年もよろしくね』
樹里も短く返す。
『明けましておめでとう。今年もよろしく』
すぐに陽菜から返信が来た。
『総長、絶対1人でしょ』
樹里の眉が動く。
『年が変わって最初に聞くことがそれか』
『私は佐藤くんと一緒だよ』
美園まで加わる。
『美園まで報告しなくていい』
『総長も神谷さんを誘えばよかったのに』
『余計なことを言うな』
『照れてる』
『照れてない』
『総長、顔見えないのにわかりやすいね』
樹里は返信をやめようとした。
その直後、陽菜から写真が送られてくる。
中井の肩へ頭を預け、楽しそうに笑っている陽菜。
続いて美園からも、Roseのカウンターの中で皿を持つ佐藤の写真が届いた。
『佐藤くん、私の場所で働いてくれてる』
『美園さん、それ絶対邪魔になってるでしょ』
『邪魔だよ』
『ひどいです』
佐藤が美園のスマートフォンを借りて打ったらしい。
樹里は画面を見つめたまま、小さく笑った。
4年前。
3人は、それぞれ別の場所にいた。
互いがどこで何をしているのかも知らなかった。
今は違う。
同じ場所で新しい年を迎えてはいない。
それでも、離れているとは思わなかった。
『2人とも、相手に迷惑をかけるなよ』
樹里が送る。
陽菜から、すぐに返事が来る。
『はーい。今年も大好きだよ、総長』
美園も続いた。
『私も。今年もよろしく、総長』
樹里の指が、一度止まる。
少し迷ったあと、短く返した。
『私もだ』
送信した直後、陽菜から大量の絵文字が送られてくる。
『うるさい』
『照れ隠し』
『寝ろ』
『総長もね』
樹里はスマートフォンを伏せた。
静かだった部屋に、2人の声が残っているような気がした。
その直後、もう一度スマートフォンが震える。
今度は、神谷からの個別のLINEだった。
「明けましておめでとうございます。昨年は、本当にありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします」
樹里は、しばらくその文章を見つめた。
仕事の挨拶としても通る内容だった。
だが、その下にもう1つ、短い言葉が続いていた。
「日高さんと、今年も多くの時間を過ごせたら嬉しいです」
樹里は、桃色のボールペンへ視線を向ける。
返事を打っては消す。
短すぎれば仕事の挨拶になる。
長く書けば、何を伝えたいのかわからなくなる。
結局、飾らずに返した。
『明けましておめでとうございます。こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。私も、神谷さんと仕事ができることを嬉しく思っています』
送ってから、少しだけ考える。
これでは、仕事の話にしか見えない。
もう一度、文字を打った。
『仕事以外でも』
その一文だけを送る。
既読は、すぐについた。
だが、神谷から返事が届くまでには少し時間がかかった。
「ありがとうございます。今年最初に、とても嬉しい言葉をいただきました」
樹里は、スマートフォンを伏せようとする。
さらに、もう1件届いた。
「明日、もしご予定がなければ、初詣へご一緒しませんか」
樹里は画面を見つめた。
断る理由を考える。
人が多い。
寒い。
年明けから高槻興産の仕事がある。
いくつも浮かんだ。
だが、どれも送る理由にはならなかった。
『混雑する時間は避けてください』
それだけ返す。
「はい。ありがとうございます」
神谷は、樹里が承諾したと正しく受け取った。
元旦の朝。
駅前の大きな神社には、すでに長い列ができていた。
最初に訪れたのは、陽菜と中井だった。
陽菜は中井と並び、手水を済ませる。
賽銭を入れ、手を合わせた。
願ったのは、仕事の成功だけではない。
中井と一緒にいる未来。
その隣で、自分が誰かに愛されることから逃げないこと。
目を開けると、中井はまだ手を合わせていた。
祈りを終えた中井の袖を、陽菜が引く。
『お願い事、した?』
「しました」
『何?』
「まだ内緒です」
『じゃあ、あたしも内緒』
「同じことを聞こうと思っていました」
『言わないよ』
「なら、僕も言いません」
『頑固になったね』
「陽菜さんに鍛えられました」
『最近、みんなそれ言う』
陽菜は笑い、中井の腕へ自分の腕を絡めた。
少し遅い時間に、美園と佐藤も同じ神社を訪れた。
美園は店の服ではない。
普段よりも柔らかな冬服を着て、佐藤の隣を歩いている。
『初詣なんて、何年ぶりだろう』
「来られてよかったです」
『うん。今年は来てよかった』
参拝を終え、2人で甘酒を買う。
混雑の中で佐藤が肩を寄せると、美園は離れなかった。
誰かに見られることも、Roseの客に出会うことも、今は気にしない。
普通の冬の日に、恋人と並んで歩いている。
それ自体が、美園にとって新しい年の始まりだった。
樹里が鳥居の前へ立ったのは、それよりもあとだった。
隣には神谷がいる。
「無理にとは言わないつもりでした。来てくださって、ありがとうございます」
『来ただけです』
「はい」
『願い事は教えません』
「まだ聞いていません」
『神谷さんは、聞きそうなので』
「では、僕の願いだけお伝えしてもいいですか?」
『聞きません』
「まだ内容を言っていません」
『聞けば、私も言わなければならなくなります』
「言わなくて構いません」
『それでも聞きません』
神谷は困ったように笑う。
2人は並んで列へ入り、短い祈りを捧げた。
参拝を終えると、神谷が甘酒を2つ買って戻ってくる。
「どうぞ」
『ありがとうございます』
樹里は素直に受け取った。
冷えた指先へ、紙のカップから熱が伝わる。
「仕事始めから、高槻興産の打ち合わせがありますね」
『元旦から仕事の話をするんですか』
「日高さんなら、その方が楽かと思いまして」
『……否定はしません』
神谷は樹里の歩幅に合わせ、参道の端を歩く。
近づきすぎない。
だが、以前より遠くもない。
人の流れの向こうで、陽菜が樹里の姿に気づいた。
その隣にいる神谷も見える。
中井が、陽菜の視線を追う。
「日高さんですね」
『うん』
「声をかけますか?」
陽菜は少し考え、首を横に振った。
『今日はやめとく』
「いいんですか?」
『総長には、総長の新年があるから』
以前の陽菜なら、迷わず駆け寄っていたかもしれない。
樹里を見つければ、その隣へ立とうとした。
離れてしまうことが、怖かったからだ。
今は、追いかけなくても繋がっていると知っている。
『あとでLINEする』
「そうですか」
『写真を要求しよっかな』
「嫌がると思います」
『嫌がる総長を見るのが楽しいんじゃん』
中井は苦笑する。
陽菜は樹里を追わず、中井と並んで石段を下りていった。
少し離れた場所で、樹里が一度だけ振り返る。
人混みの中に、陽菜の後ろ姿が見えた。
隣には中井がいる。
樹里も、声をかけなかった。
その代わり、陽菜から届いていた新年の写真を思い出す。
3人は、同じ場所に立っていない。
それぞれの隣には、以前はいなかった人がいる。
それでも、誰かを選ぶことで、3人の間から何かが失われたわけではない。
大切な人が増えただけだった。
「日高さん?」
少し先で、神谷が樹里を待っている。
『今行きます』
樹里は前を向き、神谷の隣へ戻った。
新しい年が始まる。
Rose girlsとしてではない。
誰かの総長や副総長としてだけでもない。
それぞれが自分の名前で歩く一年が、静かに始まっていた。




