↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
222/329

222話「朝の礼」

12月27日の朝。


 障子の向こうから差し込む淡い光で、佐藤はゆっくりと目を覚ました。


 枕元の時計を見る。


 朝食の時間までは、まだ余裕がある。


 隣へ目を向けると、美園の姿がなかった。


「美園さん……?」


『起きた?』


 声は、布団の中から聞こえた。


 腰の辺りに、柔らかな熱がある。


 佐藤が掛け布団を僅かに持ち上げると、美園が悪びれた様子もなく顔を覗かせた。


「何をしているんですか」


『まだ何もしてないよ』


「まだ?」


『起こそうと思って』


「普通に起こしてください」


『普通に起こしたら、つまらないでしょう』


 美園は布団の中から抜け出し、佐藤の隣へ身体を起こした。


 浴衣は着ている。


 だが帯は緩み、胸元が大きく開いていた。


 昨夜の余韻を隠そうとはしていない。


『身体、大丈夫?』


「美園さんこそ、大丈夫ですか?」


『私は平気』


「昨日は、その……かなり無理をさせた気がします」


『無理なら止めてるよ』


「本当に?」


『うん。佐藤くんは、ちゃんと何度も私の顔を見てた』


 美園は佐藤の頬へ触れた。


『激しかったけど、乱暴じゃなかったよ』


「それなら、よかったです」


『だから』


 美園の指が、佐藤の胸元から腹部へゆっくりと下がっていく。


『昨日、たくさん愛してくれたお礼』


「お礼?」


『してもいい?』


 佐藤は、美園が何をしようとしているのかを理解した。


 顔だけでなく、耳まで赤くなる。


「朝からですか?」


『朝だからだよ』


「もうすぐ朝食の時間です」


『まだ時間あるでしょう』


 美園は口元を緩める。


『嫌なら、やめるけど』


 佐藤は答えに迷った。


 断りたいわけではない。


 むしろ、その逆だった。


 美園の後頭部へ手を伸ばし、髪へそっと触れる。


「嫌ではありません」


『じゃあ、決まり』


 美園は再び布団の中へ潜った。


 佐藤の浴衣をゆっくりと開く。


 昨夜とは違う。


 急ぐことも、激しく求めることもない。


 佐藤が眠気から完全に覚めていることを確かめながら、唇で触れていく。


 柔らかな熱に包まれ、佐藤の呼吸が次第に乱れた。


「美園さん……」


 名前を呼ぶ声に、美園は顔を上げない。


 佐藤の指が、布団の上から美園の肩へ触れる。


 止めるための力ではない。


 もっと近くに感じようとする手だった。


 美園はその意味を受け取り、昨夜とは異なるゆっくりとした動きで佐藤を求める。


 佐藤は何度も美園の名を呼んだ。


 やがて身体を強張らせ、美園の口の中で達する。


 美園はそれを受け止めてから、ようやく布団の中から顔を出した。


 佐藤の隣へ戻り、何事もなかったように口元を指で拭う。


「……本当に、全部」


『お礼だからね』


「そういう問題でしょうか」


『気持ちよかった?』


 佐藤はすぐに答えられなかった。


 美園が顔を覗き込む。


『どうなの?』


「……よかったです」


『素直でよろしい』


 美園は満足そうに笑った。


 佐藤はその身体を抱き寄せる。


 昨夜のような激しさではない。


 美園の後頭部を支え、胸元へ包み込むような抱擁だった。


『苦しいよ』


「少しだけ、このままでいてください」


『仕方ないなあ』


 そう言いながら、美園も佐藤の背中へ腕を回した。


 誰かに何かを与えることには慣れている。


 客が求めている言葉を選ぶことも、相手が喜ぶ距離へ自分を置くこともできる。


 だが今朝の美園は、佐藤を喜ばせるためだけに動いたのではなかった。


 昨夜受け取った愛情を、自分も返したいと思った。


 その気持ちを、照れ隠しの冗談だけで終わらせなかった。


『佐藤くん』


「はい」


『昨日のこと、後悔してない?』


「するはずがありません」


『私の昔のことも?』


「はい」


『少しくらい悩んでもいいんだよ』


「驚きはしました」


 佐藤は、美園の髪を撫でる。


「でも、日高さんと櫻井さんを見る目が少し変わりました」


『怖くなった?』


「会社で、絶対に怒らせないようにします」


『そこ?』


「大切なことです」


 美園が、佐藤の胸元で笑う。


「ただ、納得しました」


『何が?』


「あの3人の間に、僕たちには簡単に入れないものがあることです」


 美園の笑みが、僅かに静かになる。


「少し寂しいと思っていたこともあります」


『佐藤くんが?』


「はい。美園さんの中には、僕が知らない場所があるんだと思っていました」


『実際にあったよ』


「でも、話してもらえました」


 佐藤は、美園の目を見る。


「全部わかったとは思っていません。それでも、知らないまま立っていた昨日までとは違います」


『3人の間に入りたい?』


「入りたいとは思いません」


 佐藤の返事に、美園が目を瞬かせる。


「日高さんと櫻井さんの場所を、僕が奪う必要はありませんから」


『じゃあ、佐藤くんはどこにいるの』


「別の場所で、美園さんのそばにいます」


 美園はしばらく佐藤を見つめていた。


『欲張りだね』


「そうですか?」


『私の中に、自分だけの場所が欲しいってことでしょう』


「……はい」


『もうあるよ』


 美園は佐藤の胸へ頬を戻した。


『あなたにしか預けてない場所、ちゃんとある』


 佐藤の腕に、ゆっくりと力が加わった。


 朝食は、山の見える部屋で取った。


 昨夜の夕食ほど華やかではない。


 焼き魚や卵焼き、味噌汁の並ぶ穏やかな朝食だった。


 美園は何事もなかったように箸を動かしている。


 向かいに座る佐藤だけが、時折その口元を見ては視線を逸らしていた。


『さっきから、どこ見てるの』


「見ていません」


『私の口、見てたでしょう』


「見ていません」


『嘘が下手だね』


「朝食に集中してください」


『佐藤くんこそ』


 美園は味噌汁の椀を持ちながら、楽しそうに笑っている。


 その顔を見て、佐藤も諦めたように笑った。


 朝食を終えると、2人は出発前にもう一度、客室の露天風呂へ入った。


 入浴する時間は、昨日より短い。


 美園は再び佐藤の前へ座り、その胸へ背中を預けた。


 湯の中で、佐藤の腕が美園の腹部へ回る。


 視界には、黒と赤の薔薇がある。


 その下に刻まれた、Rose girlsの文字。


 佐藤は、もう意味を尋ねなかった。


 知ったからといって、過去のすべてを理解したわけではない。


 簡単にわかったと言う方が、美園の歩いてきた時間に失礼だと思った。


 ただ、そこにあるものとして受け入れる。


 美園は、佐藤の視線に気づいていた。


『もう一度、聞きたいことはないの?』


「あります」


『あるんだ』


「ですが、今すぐ全部を聞こうとは思いません」


『どうして?』


「話したいと思ったときに、美園さんから聞きたいです」


『私が、ずっと話さなかったら?』


「待ちます」


『気が長いね』


「美園さんといるためなら」


 美園は湯の中で身体をずらし、佐藤の膝へ頭を預けた。


 見上げると、佐藤と目が合う。


『本当に、ずるい男』


「昨日も言われました」


『自覚して』


「どこを直せばいいのかわかりません」


『直さなくていいよ』


 佐藤の手が、美園の濡れた髪を撫でる。


 背中の薔薇について、それ以上の言葉は交わさなかった。


 何も聞かない時間もまた、佐藤が出した答えだった。


 チェックアウトの前。


 佐藤は、昨日美園から贈られたコートを着ていた。


 汚してはいけないと、一度は袋へ戻そうとした。


 だが、美園に言われた。


『着るために贈ったんだから、今日から着なさい』


 佐藤は言われた通り、袖を通した。


 大きさは驚くほど合っている。


 色も形も、普段のスーツに馴染んでいた。


『似合ってる』


「ありがとうございます」


『少しは、できる営業マンに見えるよ』


「少しですか?」


『中身はこれからでしょう』


「頑張ります」


『その言葉、昨日も聞いた』


「何度でも言います」


 美園は佐藤の襟へ手を伸ばし、僅かな乱れを直した。


『うん。格好いいよ』


 佐藤の顔が赤くなる。


「不意打ちはやめてください」


『褒めただけなのに』


「美園さんに言われると、心の準備が必要です」


『面倒だね』


「美園さんのせいです」


 美園は満足そうに笑った。


 帰りの車内では、往路ほど会話は多くなかった。


 話すことがないわけではない。


 同じ部屋で過ごし、同じ朝を迎えたあとには、言葉がなくても気まずくならなかった。


 美園は助手席へ身体を預け、時折眠そうに目を閉じている。


「眠っていても大丈夫ですよ」


『佐藤くんに全部運転させて、隣で寝るのも悪いかなって』


「昨日まで働いていたんですから、休んでください」


『じゃあ、少しだけ』


「着いたら起こします」


『お願い』


 美園は目を閉じた。


 眠りへ落ちる前に、左手をセンターコンソールの上へ置く。


 佐藤は前を見たまま、信号で車が止まったときにその手を握った。


 美園は目を開けなかった。


 ただ、指だけを絡めた。


 午後。


 車はRoseの前へ到着した。


 佐藤が荷物を下ろし、美園へ渡す。


「年末年始、空いている日があれば連絡してください」


『連絡したら?』


「飛んできます」


『大げさだね』


「本気です」


 美園は、入口に貼られた臨時休業の紙を見る。


『大晦日と元旦は、休もうかな』


「本当ですか?」


『うん』


 これまでは、年末年始でも店を開けることがあった。


 1人で過ごす客が来る。


 美園自身にも、店を閉めてまで過ごしたい相手はいなかった。


 だが、今年は違う。


『休めたらじゃなくて、休む』


 美園は佐藤を見る。


『一緒にいよう』


 佐藤の顔が、隠しようもなく明るくなる。


「はい」


『本当にわかりやすいね』


「嬉しいので」


『何したいか、考えておいて』


「美園さんと一緒なら、何でもいいです」


『それが一番困る答えなんだよ』


「では、考えます」


『うん。期待してる』


 美園は短く手を振り、Roseの鍵を開けた。


 店内には、まだクリスマスの飾りが残っている。


 美園が中へ入ると、佐藤も入口の前までついてきた。


『まだ何かある?』


「いえ」


『帰りたくない?』


「少しだけ」


『私も』


 美園は素直に答えた。


 佐藤の目が僅かに見開かれる。


『でも、片づけないといけないから』


「手伝いましょうか?」


『今日は帰りなさい。昨日からずっと一緒だったでしょう』


「はい」


『またすぐ会えるよ』


「大晦日に」


『その前でもいいけどね』


 佐藤は嬉しそうに頷いた。


「連絡します」


『待ってる』


 佐藤は一度頭を下げ、車へ戻っていった。


 美園は、その姿が見えなくなるまで入口に立っていた。


 店内へ戻り、荷物をカウンターへ置く。


 CHANELの箱。


 昨夜ほどいた浴衣の帯。


 朝、抱きしめられた腕の感触。


 佐藤へ話した、Rose girlsの名前。


 どれも急いで振り払う必要はなかった。


 美園は壁のカレンダーへ近づく。


 12月31日と、1月1日。


 ペンを手に取り、2つの日付へ線を引く。


 その横へ、店休と書き込んだ。


 客のためではない。


 店のためでもない。


 自分が佐藤と一緒にいるために、休むと決めた。


 それは、ほかの誰かにとっては小さなことかもしれない。


 だが、与える側に立つことへ慣れすぎた美園にとっては、自分の時間を誰かへ預ける大きな選択だった。


『……一緒にいよう、か』


 自分が口にした言葉を思い出す。


 照れくささはある。


 それでも、取り消したいとは思わなかった。


 美園は店内の明かりをつける。


 背中にある過去は、昨日までと変わらない。


 変わったのは、それを知っている人が1人増えたこと。


 そして、美園のこれからを待つ人ができたことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。