220話「離れた街で」
12月25日の夕方。
仕事納めを終えた凛は、そのまま東京駅へ向かった。
普段の通勤鞄とは別に、1泊分の荷物を入れた鞄を持っている。
これから新幹線に乗り、青柳のいる名古屋へ向かう。
ホームへ入る前に、凛は青柳へLINEを送った。
「予定通り、19時12分に名古屋へ着きます」
間を置かず、返信が届く。
「わかりました。気をつけて来てください。改札で待っています」
短いやり取りだった。
それでも、凛は画面に表示された「待っています」という言葉を、少し長く見つめていた。
青柳が名古屋へ異動してから、何度もLINEを交わした。
電話で声も聞いた。
離れていても、関係が途切れたわけではない。
それでも、画面越しに交わす言葉と、実際に会えることは違う。
発車時刻を知らせる案内が流れる。
凛はスマートフォンを鞄へしまい、新幹線へ乗り込んだ。
東京の景色が、車窓の向こうへ流れていく。
鞄の中には、青柳へ贈る革製の名刺入れが入っている。
以前会ったとき、青柳が使っていた名刺入れの角が破れていることに気づいた。
青柳自身は気にする様子もなく、そのまま使い続けていた。
使い慣れた形から大きく変わらないもの。
仕事の場で目立ちすぎず、長く持てるもの。
凛は革の質や縫い目まで確認し、ようやく1つを選んだ。
喜んでくれるだろうか。
それとも、余計なところまで見られていたと困るだろうか。
考え始めると、急に不安になる。
陽菜なら、こんなときでも迷わず渡すのだろう。
そんなことを考え、凛は小さく息を吐いた。
新幹線が名古屋駅へ到着する。
乗客の流れに続いて改札へ向かうと、その先に青柳が立っていた。
凛を見つけた瞬間、青柳の表情が柔らかくなる。
「遠藤さん」
「青柳さん」
名前を呼び合う。
それだけで、名古屋まで来たことを実感した。
「お疲れさまでした。荷物、持ちます」
「これくらいなら大丈夫です」
「ですが」
「私の荷物ですから」
「そう言うと思いました」
青柳は苦笑し、無理に鞄を取ろうとはしなかった。
凛は青柳の手を見る。
指先が、僅かに赤くなっていた。
「青柳さん。いつからここにいたんですか?」
「少し前です」
「どのくらいですか?」
「……1時間ほど」
凛が目を見開く。
「私が到着時刻を伝えた意味がありません」
「待たせるよりはいいと思いまして」
「限度があります」
「すみません」
「外は寒かったでしょう」
「駅の中なので、大丈夫です」
「手が赤くなっています」
青柳は、自分の手へ視線を落とした。
「途中で外へ出たので」
「どうしてですか?」
「落ち着かなかったので、少し歩いていました」
「緊張していたんですか?」
「はい」
青柳は、隠すことなく認めた。
「遠藤さんが名古屋まで来てくださると思うと、家で待っていられませんでした」
凛は、それ以上叱れなくなった。
「次からは、到着時刻に合わせて来てください」
「次も来ていただけるんですか?」
凛は一瞬、言葉を止める。
「……青柳さんが、会いたいと思ってくださるなら」
「思います」
即答だった。
「何度でも来ていただきたいです。僕も東京へ行きます」
「では、次の約束もできますね」
「はい」
2人は並んで歩き始めた。
駅の外には、名古屋の街を彩る光が広がっている。
同じクリスマスでも、東京とは少し違って見えた。
夕食は、青柳が予約していた店で取った。
名古屋らしい料理が並ぶ店だったが、観光客向けの賑やかさより、2人で静かに話せることを優先して選ばれていた。
「名古屋での仕事は、どうですか?」
凛が尋ねる。
「忙しいですが、やりたかった仕事ができています」
「楽しいですか?」
「はい」
青柳の返事に迷いはなかった。
名古屋への栄転は、青柳が以前から望んでいたものだ。
その夢を諦めてほしいとは、凛も思っていない。
「遠藤さんは、どうですか?」
「私ですか?」
「東京で、何か変わったことはありませんでしたか?」
「陽菜さんが、新しいチームのリーダーになりました」
「櫻井さんが?」
「モデルハウスの応援をするチームです。私も参加します」
「遠藤さんも、新しい仕事が始まるんですね」
「はい。年明けから本格的に動きます」
「お互い、忙しくなりそうですね」
「そうですね」
凛は、箸を一度置いた。
「でも、忙しいことを理由に会わなくなるのは嫌です」
青柳の目が、僅かに大きくなる。
凛は自分から視線を逸らさなかった。
「次に会う日を、先に決めたいです」
「僕も、そうしたいと思っていました」
「なら、今日決めましょう」
「はい」
会いたいと伝えることは、わがままではない。
相手の夢を応援することと、自分の寂しさを隠すことは違う。
それを、凛は少しずつ理解し始めていた。
食事を終えたあと、2人は青柳の部屋へ向かった。
名古屋で暮らし始めてから、それほど日が経っていない。
室内には必要な家具が揃っているが、飾りは少なく、青柳らしい整然とした部屋だった。
棚の隅には、まだ開けられていない段ボールが1つだけ残っている。
「片づいていますね」
「遠藤さんが来るので、昨日まで掃除していました」
「普段は散らかっているんですか?」
「そこまでではありません。ただ、人を招ける状態ではありませんでした」
「無理をさせましたか?」
「違います。掃除をする理由ができて助かりました」
青柳が暖房をつける。
小さなテーブルには、2人分の飲み物とクリスマスケーキが用意されていた。
「まだ食べるんですか?」
「小さいものにしました」
「そういう問題でしょうか」
「クリスマスなので」
普段は真面目な青柳が、少しだけ強引に理由を押し通す。
凛は小さく笑った。
「では、いただきます」
ケーキを食べ終えたあと、凛は鞄から包みを取り出した。
「青柳さん」
「はい」
「クリスマスプレゼントです」
青柳は驚いたように凛を見る。
「僕にですか?」
「ほかに誰がいるんですか」
「開けてもいいですか?」
「はい」
包装を解き、中から革製の名刺入れを取り出す。
青柳の手が止まった。
「名刺入れ……」
「以前使っていたものと、大きさや形が近いものを選びました」
「どうして、その形を?」
「今のものに慣れていると思ったので」
「破れていることに、気づいていたんですか?」
「はい。角の部分が少し」
青柳は、鞄から現在使っている名刺入れを取り出した。
凛の言った通り、角の革が破れ、縫い目も僅かにほつれている。
「自分でも、そろそろ替えなければと思っていました」
「気に入っているなら、無理に替えなくても構いません」
「使います」
青柳はすぐに答えた。
「大切な人に選んでもらったものを、使わない理由はありません」
凛の頬が僅かに赤くなる。
「仕事で使うものですから、あまりそういう顔をしないでください」
「どういう顔ですか?」
「嬉しそうな顔です」
「嬉しいので」
「そうですか」
凛は視線を逸らした。
青柳は古い名刺入れから名刺を移し、新しいものへ丁寧に収めていく。
最後の1枚まで移し終え、革の表面を指で撫でた。
「ありがとうございます。明日から使います」
「明日は休みではないんですか?」
「休みでした」
「年明けからにしてください」
「はい」
今度は、青柳が2つの包みを凛の前へ置いた。
「僕からもあります」
「2つですか?」
「片方は、おまけのようなものです」
大きな包みの中には、雫のような形をしたガラスの置物が入っていた。
内部には透明な液体と、白い結晶が浮かんでいる。
「綺麗ですね」
「ストームグラスというものです。気温などで、中の結晶が変化します」
「天気を予測するものですか?」
「正確な予報には使えないそうです。ただ、毎日違う表情になると聞きました」
凛は、ガラスの中に浮かぶ結晶を見つめる。
「どうして、これを?」
「離れていると、同じ景色を見ることが難しいので」
青柳は少し照れながら続ける。
「その日の結晶を見せ合えば、離れていても同じものについて話せると思いました」
「東京と名古屋では、違う形になるかもしれません」
「それも見てみたいです」
「青柳さんも買ったんですか?」
「同じものを、自分用にも買いました」
凛の表情が柔らかくなる。
「では、毎日写真を送ります」
「僕も送ります」
もう1つの包みには、優しい香りのボディクリームが入っていた。
「こちらは?」
「店で香りを試して、遠藤さんに似合うと思いました」
「女性への贈り物を選ぶのに、慣れているんですか?」
「まったく慣れていません」
「迷いませんでしたか?」
「1時間ほど店にいました」
「待ち合わせと同じですね」
「今日は、時間の使い方を何度も注意されますね」
「心配しているんです」
「わかっています」
青柳は、凛の手元にあるボディクリームを見る。
「香りが気に入らなければ、無理に使わないでください」
「今、使ってもいいですか?」
「もちろんです」
凛は少量を手の甲へ伸ばした。
強く主張するものではない。
近づいたときにだけ気づくような、柔らかな香りだった。
「好きな香りです」
「よかったです」
凛は、自分の手を青柳へ差し出す。
「確認しますか?」
「いいんですか?」
「そのために、今使ったんです」
青柳が凛の手を取り、ゆっくりと顔を近づける。
香りを確かめただけのはずだった。
だが、青柳はすぐには手を離さなかった。
凛も引こうとしない。
静かな部屋の中で、互いの呼吸だけが近くなる。
「遠藤さん」
「はい」
「今日、泊まっていただく場所ですが」
青柳が、僅かに視線を逸らす。
「ベッドは遠藤さんが使ってください。僕はソファで寝ます」
凛は、部屋へ入ったときから気づいていた。
ソファのそばには、畳まれた毛布が置かれている。
青柳は、最初から同じベッドで眠ることを当然とは考えていなかった。
「青柳さん」
「はい」
「私は、青柳さんと一緒にいたくて、名古屋まで来ました」
「わかっています」
「本当に、わかっていますか?」
青柳が凛を見る。
「同じ部屋へ泊まる意味も、考えてきました」
「ですが、遠藤さんが無理をする必要はありません」
「無理ではありません」
凛の声は静かだった。
それでも、迷いはなかった。
「怖くないわけではありません」
初めて誰かへ、これほど深く身体を預ける。
緊張しないはずがない。
「でも、青柳さんに触れてほしいです」
青柳の喉が、小さく動く。
「僕も、遠藤さんに触れたいです」
「では、ソファで寝る必要はありません」
「……はい」
青柳は凛の頬へ手を添えた。
すぐに唇を重ねることはしない。
凛が逃げないことを確かめるように、その目を見つめる。
「キスをしてもいいですか?」
「以前もしました」
「今日は、その先まで進むかもしれません」
「わかっています」
「途中で嫌になったら、すぐに言ってください」
「青柳さん」
「はい」
「余裕があるように見えます」
青柳が一瞬、黙る。
やがて観念したように息を吐いた。
「そう見えるようにしています」
「本当は?」
「かなり緊張しています」
凛が僅かに目を見開く。
「僕も初めてではありませんが、大切な人と初めて過ごす夜には変わりません。失敗したくないと思っています」
「失敗してはいけないんですか?」
「遠藤さんを傷つけたくありません」
「でしたら、2人で気をつけましょう」
「2人で、ですか」
「青柳さんだけが正解を知っているわけではないでしょう?」
「はい」
「私も、嫌なら嫌と言います。止めてほしければ、止めてほしいと言います」
凛は青柳の胸元へ手を添えた。
「だから、青柳さんも1人で全部背負わないでください」
青柳の表情から、僅かに緊張が抜ける。
「遠藤さんには、敵いませんね」
「勝ち負けではありません」
「そうでした」
2人は、小さく笑った。
その笑みが消える前に、青柳が凛へ唇を重ねる。
最初は、確かめるだけの口づけだった。
凛が青柳の服を掴むと、少しずつ深くなっていく。
寝室へ移り、互いの服へ手をかける。
凛は肌を見られる恥ずかしさに身体を強張らせた。
青柳は急かさず、何度も凛の表情を確認する。
「綺麗です」
「今は、あまり見ないでください」
「すみません」
「目を閉じる必要はありません」
「どうすればいいんですか」
「少しだけ、待ってください」
「はい」
青柳は言われた通りに待った。
凛は呼吸を整え、自分から青柳の腕へ触れる。
「もう大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
青柳は避妊具を身につけ、もう一度凛へ確認する。
凛が頷くまで、先へは進まなかった。
初めて受け入れた感触に、凛の身体が強張る。
「痛いですか?」
「少し……」
「止めます」
青柳が動きを止めようとする。
凛は、その肩へ腕を回した。
「待ってください」
「ですが」
「止めるかどうかは、私にも決めさせてください」
凛は青柳の胸元へ頬を寄せる。
「もう少し、このままでいてください」
「わかりました」
青柳は動かず、凛の背中をゆっくりと撫でた。
急ぐ必要はない。
離れていた時間を一晩で埋める必要もない。
凛の呼吸が落ち着き、自分から頷く。
それを確認してから、2人はゆっくりと身体を重ねた。
痛みが完全に消えたわけではない。
それでも、触れられることへの不安は、少しずつ温もりへ変わっていった。
青柳の余裕がなくなるたび、凛は自分だけが緊張しているのではないと知った。
凛が苦しそうにすれば、青柳はすぐに動きを止める。
完璧ではなかった。
だからこそ、どちらか一方に任せた夜でもなかった。
言葉を交わし、表情を確かめ、2人で初めての距離を進んでいく。
すべてを終えたあと、凛は青柳の腕の中にいた。
「身体は、大丈夫ですか?」
「はい」
「痛みは?」
「少しだけです」
「すみません」
「謝らないでください」
凛は、青柳の胸元へ頬を寄せる。
「私が望んだことです」
「後悔していませんか?」
「していません」
青柳の腕へ力が加わる。
抱きしめられると、柔らかな香りが僅かに広がった。
先ほど手へ塗ったボディクリームの香りだった。
「青柳さん」
「はい」
「離れてから、寂しいと思うことが増えました」
「僕もです」
「でも、今日会ったら、もっと寂しくなりました」
「どうしてですか?」
「この温かさを、思い出してしまうので」
青柳は、凛の髪を撫でる。
「次に会う日を決めましょう」
「今ですか?」
「今です。東京と名古屋へ戻ってからでは、仕事を理由に先延ばしにしてしまうかもしれません」
「そうですね」
「次は、僕が東京へ行きます」
「約束してください」
「約束します」
凛は安心したように目を閉じた。
枕元には、2人で見たストームグラスが置かれている。
ガラスの中の結晶は、静かに形を変えていた。
明日、東京へ戻れば、また離れた生活が始まる。
それでも今度は、次に会う日がある。
同じ形のガラスを見て、違う街の天気を伝え合うこともできる。
離れていることは、終わりではない。
会いたいと言葉にし、会うために互いが動けばいい。
凛は青柳の腕の中で、初めて名古屋の夜を迎えた。




