219話「これから先も」
12月25日。
島川不動産は、今年最後の営業日を迎えていた。
朝から営業部では、通常業務と並行して机や書棚の整理が進められている。
不要になった資料を処分し、年明けに必要な書類を分類する。
普段より落ち着かない空気の中で、黒澤が全員へ声をかけた。
「今年の仕事は、今日で終わりだ。だからって、気を抜いて何か残すなよ。年明け早々、去年の自分に腹を立てることになるからな」
「部長は、毎年そうなるんですか?」
佐藤が尋ねる。
「佐藤。年内最後に余計な仕事を増やされたいか」
「すみません。何も言っていません」
『言ってたじゃん』
陽菜が笑う。
「櫻井さんも笑ってる場合じゃないぞ。チーム櫻井モデルの企画書、住宅販売部へ提出したか?」
『午前中に出しました』
「修正が来ても、今日は定時で切り上げろ。続きは年明けだ」
『いいんですか?』
「休むところまで仕事だ。高槻の件も同じだからな。神谷、日高さん」
「はい」
『承知しました』
神谷と樹里が揃って返事をする。
黒澤は営業部全体を見渡した。
「今年もいろいろあったが、全員よくやった。最後まで無事に終わらせよう」
その言葉を区切りとして、それぞれが仕事へ戻った。
陽菜は自分の席へ座りながら、斜め前にいる中井を見る。
中井はいつも通り真面目にパソコンへ向かっている。
だが、陽菜と目が合った瞬間、僅かに表情を緩めた。
『中井くん』
「はい」
『今日、楽しみにしてる?』
「もちろんです」
『どのくらい?』
「今すぐ帰りたいくらいです」
予想以上に素直な返事が来た。
陽菜は少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑う。
『中井くんも、言うようになったね』
「陽菜さんに、わかりにくいと言われたくないので」
『あたしが育てたみたいに言わないでよ』
「言っていません」
2人の会話を聞いていた佐藤が、神谷へ小さく囁く。
「今日ずっと、あんな感じなんですかね」
「放っておきましょう」
『聞こえてるよ』
陽菜の声が飛び、佐藤は慌てて自分のパソコンへ向き直った。
昼を過ぎると、少しずつ仕事が片づいていった。
チーム櫻井モデルの企画書も、年明けに最終調整を行うことになった。
高槻興産の案件は、神谷と樹里が必要な資料を共有し、休み明けの予定まで確認している。
夕方。
黒澤が終業を告げると、営業部のあちこちから安堵の息が漏れた。
「年明けは1月4日からだ。体調を崩すなよ。以上。今年もお疲れさま」
全員が挨拶を交わし、帰り支度を始める。
凛は普段より少し大きな鞄を持っていた。
今夜、そのまま名古屋へ向かうためだ。
『凛ちゃん』
陽菜が背後から声をかける。
「はい」
『忘れ物ない?』
「何度も確認しました」
『名刺入れは?』
「入っています」
『着替えは?』
「あります」
『可愛い下着は?』
「陽菜さん」
凛の声が低くなる。
『大事なことじゃん』
「会社です」
『青柳さん、楽しみにしてると思うよ』
「何をですか」
『凛ちゃんに会えること』
陽菜が何食わぬ顔で答える。
凛は一度言葉を失い、それから小さく息を吐いた。
「それなら、私も楽しみにしています」
『おっ』
「何ですか」
『凛ちゃんも言うようになったなあって』
「陽菜さんに鍛えられました」
『あたし、人を育てる才能あるかも』
「調子に乗らないでください」
凛は僅かに笑い、鞄を持ち直した。
「それでは、お先に失礼します。皆さん、よいお年を」
凛が営業部を出ていく。
その背中を見送りながら、陽菜は満足そうに頷いた。
『凛ちゃん、今夜帰ってこないんだ』
「櫻井さん」
中井が、陽菜のそばへ来る。
『何?』
「遠藤さんのことを言っている場合ではないと思います」
『あたしたちも帰らないってこと?』
「そういう意味では……」
中井の顔が赤くなる。
陽菜は楽しそうに、その腕を軽く叩いた。
『冗談。行こっか』
「はい」
陽菜と中井が先に営業部を出ていく。
少し遅れて、神谷と樹里も帰り支度を始めた。
同じクリスマスの夜。
それぞれが、大切な相手のもとへ向かっていった。
陽菜と中井は、駅近くのレストランで食事をした。
高級すぎず、それでも普段より少しだけ特別な店だった。
食事の途中でも、陽菜は仕事の話をしている。
チーム櫻井モデルで出た意見。
年明けから試したいこと。
現地で出会った神崎優子という女性。
中井は口を挟まず、楽しそうに話す陽菜の言葉を聞いていた。
『あたしばっかり話してない?』
「話していますね」
『やっぱり?』
「でも、楽しそうなので」
『中井くんは、退屈じゃないの?』
「していません。陽菜さんが何を考えているのか、聞けるのは嬉しいです」
『ほんと、あたしのこと好きだね』
「はい」
『そこは少しくらい照れなよ』
「事実なので」
陽菜は一瞬だけ黙り、グラスへ口をつけた。
からかったつもりが、自分の方が照れている。
中井は、そんな陽菜を見て小さく笑った。
食事を終えると、2人はプレゼントを交換した。
陽菜が先に、細長い箱を中井へ差し出す。
『はい。メリークリスマス』
「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
『いいよ』
中井が包みを開く。
中に入っていたのは、深い紺色のネクタイだった。
落ち着いた色の中に、細い赤色の線が入っている。
「綺麗ですね」
『中井くんの冬のスーツに合うと思って』
「覚えていてくれたんですか?」
『彼女だからね』
陽菜は得意そうに笑う。
『今度、会社に着けてきて』
「次の出勤日に着けます」
『毎日でもいいよ』
「傷んでしまいます」
『じゃあ、大事な日に』
「はい。大切に使います」
中井はネクタイを箱へ戻し、今度は自分の紙袋を陽菜へ渡した。
「僕からも、メリークリスマスです」
『ありがとう。開けるね』
陽菜が包装を解く。
箱の中に収まっていたのは、深い赤色の革製キーケースだった。
陽菜の手が止まる。
『これ……』
「気に入りませんでしたか?」
『違う。前に、あたしが見てたやつじゃん』
「覚えていました」
『よく見てるねえ。さすが、あたしのこと好きすぎる男』
「それだけではないです」
『ほかにも理由あるの?』
「毎日使ってもらえる物がよかったんです」
中井は、陽菜の手の中にあるキーケースを見る。
「僕と会えない日にも、陽菜さんのそばに置いてもらえるので」
陽菜は、深い赤色の革へ視線を落とした。
「それに、その革は使うほど色が深くなるそうです」
『へえ』
「今の陽菜さんだけではなくて、これから先の陽菜さんにも似合うと思いました」
陽菜が顔を上げる。
『それ、ずいぶん先まで、あたしと一緒にいるつもりで選んだでしょ』
「はい。そのつもりです」
中井は迷わず答えた。
陽菜はしばらく何も言わなかった。
やがてキーケースを胸元へ抱き、柔らかく笑う。
『ありがとう。大事にする』
「使ってください」
『使うよ。毎日』
店を出たあと、2人は中井の部屋へ向かった。
陽菜はそれまで使っていた鍵を外し、もらったばかりのキーケースへ入れ替える。
金具へ収まったのは、陽菜自身の部屋の鍵だった。
『似合う?』
「鍵に似合うという表現をするんですか?」
『あたしに』
「似合っています」
『よし』
陽菜は満足そうにキーケースを鞄へしまった。
いつか別の鍵が加わる場所には、まだ何もない。
今はただ、中井から贈られた物の中へ、自分が帰る部屋の鍵を収めた。
その夜。
2人は何度も唇を重ねた。
陽菜が中井の首へ腕を回し、自分から身体を預ける。
触れられるたびに、愛されていることが伝わってくる。
中井の腕の中では、何かを与え続けなくてもいい。
強く見せなくても、誰かを笑わせなくてもいい。
ただ、愛される側でいられる。
中井がベッド脇へ手を伸ばした。
いつものように避妊具を取ろうとする。
その手首を、陽菜が掴んだ。
『今日は、いらない』
中井の動きが止まる。
「陽菜さん」
『なしがいい』
「それは……」
『意味はわかってるよ』
陽菜は、中井の目をまっすぐに見る。
『避妊しないってことも、何が起きるかも』
「その場の気持ちだけで、決めていいことではありません」
『うん』
「妊娠する可能性があります」
『わかってる』
「陽菜さんの身体や仕事も、変わるかもしれません」
『それもわかってるよ』
陽菜は、掴んでいた手を離した。
無理に従わせるつもりはなかった。
『今すぐ子供が欲しいから言ってるわけじゃない。できても簡単に何とかなるなんて、思ってないよ』
「では、どうして……」
『中井くんとの間に、何もない方がいいって思った』
陽菜は、少しだけ恥ずかしそうに笑う。
『あたし、中井くんとの先を考えてる』
中井の目が、僅かに揺れる。
『もし予定より早く何かが変わっても、中井くんとなら一緒に考えられる。怖くても、逃げないで話せるって思ってる』
「僕も、逃げません」
『うん。知ってる』
「陽菜さんと家族になる未来も、考えています」
『じゃあ、今日はあたしを信じて』
中井はすぐには動かなかった。
陽菜の表情を確かめる。
そこに迷いや、勢いだけで口にした軽さがないことを確認する。
「明日になっても、後悔しませんか」
『しない』
「本当に?」
『しつこいなあ』
「大切なことなので」
『なら、明日も聞いて。何回でも同じこと言うから』
陽菜は、中井の頬へ手を添えた。
『中井くんがいい』
その言葉を聞き、中井は陽菜へ唇を重ねた。
今までよりも慎重に。
そして、今までよりも深く。
何も隔てない感触に、2人の呼吸が揺れる。
陽菜は不安から目を逸らすためではなく、すべてを理解したうえで中井を受け入れた。
中井もまた、陽菜の言葉だけに責任を預けることはしなかった。
最後まで何度も意思を確かめ、陽菜の名を呼んだ。
やがて中井は、避妊をしないまま陽菜の中で達した。
陽菜は離れようとする中井の背中へ腕を回し、そのまま強く抱きしめる。
「陽菜さん……」
『うん』
「本当に、中に……」
『あたしがお願いしたんでしょ』
「でも」
『そんな顔しないで』
陽菜は、中井の額へ自分の額を重ねた。
『嬉しかったよ』
中井は、陽菜の頬へ触れる。
「もし何かあったら、2人で考えさせてください」
『当たり前じゃん。あたし1人の話にするつもりないよ』
「はい」
『中井くんも、1人で抱えないでね』
「わかりました」
2人は、もう一度唇を重ねた。
その夜に何かが変わったのかは、まだ誰にもわからない。
ただ、2人が互いの未来を、別々のものとして考えることはなくなっていた。
陽菜が中井の腕の中で眠りにつき始めた頃。
樹里と神谷は、静かなレストランで向かい合っていた。
高槻興産の話は、ほとんどしなかった。
仕事の話を始めれば、2人とも止まらなくなる。
今日だけは互いにそれをわかっていた。
「今年は、日高さんに何度も助けていただきました」
『私も、神谷さんに助けていただきました』
「僕は倒れましたけど」
『それは忘れていません』
「来年は、倒れないようにします」
『当然です』
樹里は真顔で答えたあと、僅かに口元を緩めた。
『ですが、神谷さんは変わったと思います』
「何か変わりましたか?」
『人へ仕事を渡せるようになりました』
「それは、褒めていただいているのでしょうか」
『はい』
「すぐに怒られると思って、身構えていました」
『必要なら怒ります』
「来年もお願いします」
『怒られる前提で話さないでください』
食事を終え、神谷が小さな箱を差し出した。
「日高さん。こちらを」
『私にですか』
「クリスマスプレゼントです」
樹里は箱を受け取る。
『ありがとうございます。実は、私からもあります』
樹里も、鞄から同じくらいの大きさの箱を取り出した。
互いにプレゼントを渡し、ほぼ同時に包装を解く。
樹里の箱から現れたのは、淡い桃色のボールペン。
神谷の箱から現れたのは、艶を抑えた黒色のボールペンだった。
色は違う。
だが、形も、金具も、箱に記された商品名も同じだった。
2人の手が、同時に止まる。
樹里は、自分の手元にある桃色のペンを見る。
それから、神谷が持っている黒色のペンへ視線を移した。
神谷も、まったく同じ順番で2本を見比べている。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
視線が重なる。
どちらも、何も言わなかった。
何が起きたのかを理解するまでの、ほんの一瞬。
その場だけ、時間が止まったように静まり返る。
次の瞬間。
2人は、同時に吹き出した。
『ふっ……あはははっ』
「ははっ……同じ、同じものですか」
樹里は口元へ手を添えたが、笑いを抑えられなかった。
肩を震わせ、目元を僅かに潤ませながら、声を上げて笑っている。
神谷も椅子の背へ身体を預け、珍しく周囲を気にせず笑い続けた。
『こんなこと……ありますか』
「ありませんよ、普通」
『色まで同じでなくて、よかったです』
「そこまで同じだったら、店が間違えたと思います」
その言葉に、樹里が再び吹き出す。
近くの席にいた客が、何事かと2人へ視線を向けた。
普段の樹里なら、それに気づいた瞬間に表情を戻していただろう。
だが今は、気にする余裕もない。
神谷と顔を見合わせるたびに、笑いが込み上げてくる。
仕事中には決して見せない、何の警戒も残っていない笑顔だった。
しばらくして、ようやく笑いが収まる。
樹里は目元を指で拭い、改めて桃色のペンを見つめた。
『驚きました』
「僕もです。まさか、種類まで重なるとは思いませんでした」
『私たちは、贈り物を選ぶ考え方まで似ているんですね』
「好きなものも、あんこで同じでした」
『そうでしたね』
「案外、似た者同士なのかもしれません」
『それは、少し複雑です』
「なぜですか」
『神谷さんの頑固なところまで、私にもあるということでしょう』
「日高さんにだけは言われたくありません」
再び2人の視線が重なる。
今度は声を上げるほどではなかったが、同時に笑みが零れた。
神谷が、淡い桃色のペンを手に取る。
樹里も、黒色のペンを箱から取り出した。
そこで、互いのペンに刻まれた小さな文字に気づく。
Yuma。
Juri。
大笑いの余韻が残っていた2人の間に、今度は別の静けさが落ちた。
「名前まで」
神谷が呟く。
樹里は、自分のペンに刻まれた文字を見ていた。
『神谷さんも、名字ではないんですね』
「日高さんもです」
『仕事で使う物なので、名字の方が自然かと思ったんですが』
「僕も同じことを考えました」
『それでも、名前にしたんですか』
「はい」
『私もです』
2人は再び顔を見合わせる。
先ほどまでとは違い、今度はどちらも笑わなかった。
名前を刻むことを選んだ意味を、互いに考えている。
「色は違いましたね」
『神谷さんには、黒が似合うと思いました』
「僕は、日高さんがご自身では選ばない色にしました」
『桃色は、私には似合わないと?』
「逆です。似合うと思ったから選びました」
樹里は、もう一度ペンを見る。
『大切に使います』
「僕もです」
『ですが、仕事中に名前を見られたら困ります』
「僕も少し恥ずかしいです」
『なら、どうして入れたんですか』
「日高さんに頂いたものだと、僕だけにはわかるので」
樹里が神谷を見る。
神谷は照れながらも、視線を逸らさなかった。
「日高さんは?」
少しの沈黙が落ちる。
『私も、同じです』
店を出ると、神谷は樹里を自宅まで送った。
冷たい空気の中を、2人は並んで歩く。
樹里の鞄には、神谷から贈られたペンが入っている。
それだけで、普段と同じ帰り道が少し違って感じられた。
樹里の住む建物の前で、2人は足を止める。
「今日は、ありがとうございました」
『こちらこそ、ありがとうございました』
「よい年末をお過ごしください」
『神谷さんも』
そう言って別れるはずだった。
だが、神谷はその場を動かなかった。
樹里も、すぐには入口へ向かわない。
「日高さん」
『はい』
神谷が、一歩だけ近づく。
樹里は、その動きの意味に気づいていた。
止めることもできた。
距離を取ることもできた。
それでも樹里は、何も言わなかった。
神谷の手が、樹里の頬へ触れる。
拒まれないことを確かめてから、ゆっくりと顔を寄せた。
2人の唇が重なる。
触れるだけの、静かな口づけだった。
やがて神谷が離れる。
樹里は俯かず、その目を見つめていた。
「メリークリスマス、日高さん」
樹里の目元が、僅かに柔らかくなる。
『メリークリスマス、神谷さん』
それ以上の言葉はなかった。
樹里は建物の中へ入り、神谷はその姿が見えなくなるまで見送った。
同じ形をした、色違いの2本のペン。
まだ同じ場所へ帰る関係ではない。
それでも2人は、互いの名前を手元へ残す物を選んでいた。
それぞれの未来へ踏み込んだ夜と、まだゆっくり距離を縮めている夜。
形は違っても、2つの関係は確かに先へ進んでいた。




