218話「正解のないクリスマス」
12月24日。
終業時刻が近づくにつれ、柚希が時計を見る回数は増えていた。
本人は仕事へ集中しているつもりだった。
だが、書類を確認しては時計を見る。
パソコンへ入力しては、また時計を見る。
その様子を、陽菜が見逃すはずもなかった。
『柚希ちゃん』
「何?」
『まだ定時まで12分あるよ』
「知ってるよ」
『零に会いたくて仕方ないんだ』
「時計を見てただけでしょ」
『この30分で、もう5回は見てる』
「数えてたの?」
『あたし、周りをよく見てるから』
「そういうところに使わないでよ」
柚希は顔を赤くし、パソコンの画面へ視線を戻した。
その隣で、凛が小さく笑っている。
「楽しみなんですね」
「凛ちゃんまで……」
『いいじゃん。恋人と過ごす初めてのクリスマスなんだから』
「陽菜さん、声が大きい」
『大丈夫。もうみんな知ってるよ』
「知ってることと、大きな声で言われることは別なの」
『今夜、帰ってこなかったりして』
「帰るよ!」
柚希が勢いよく振り返る。
周囲にいた社員が何人か、思わず顔を上げた。
陽菜は机へ顔を伏せ、肩を震わせている。
「陽菜さん!」
『柚希ちゃんの方が声大きいじゃん』
「誰のせいだと思ってるの?」
『零が好きすぎる柚希ちゃんのせい』
「もういい!」
柚希は完全に顔を赤くして、仕事へ戻った。
その後も陽菜は何度か話しかけようとしたが、柚希は一度も振り向かなかった。
やがて終業時刻を告げる音が鳴る。
柚希は途中だった入力を終え、保存したことを確認してからパソコンを閉じた。
急いでいるからといって、仕事を雑にはしない。
上着を着て、机の下へ置いていた紙袋を持つ。
『柚希ちゃん』
「今度は何?」
『楽しんできてね』
先ほどまでとは違う、陽菜の柔らかな声だった。
柚希は僅かに目を丸くする。
「……うん。ありがとう」
『零によろしく』
「変なこと、LINEしないでね」
『しないよ』
「目を見て言って」
『時間なくなるよ?』
柚希は陽菜を疑うように見つめたあと、諦めて営業部を出た。
会社の外へ出ると、冷たい風が頬へ当たった。
街にはイルミネーションが灯り、行き交う人の中には、プレゼントらしい紙袋を持つ者も多い。
少し離れた場所に、零が立っていた。
黒い上着を着て、片手にはヘルメットを持っている。
柚希に気づくと、すぐに背筋を伸ばした。
「柚希さん。お疲れさまです」
「待った?」
「いえ。自分も今来たところです」
「それ、待ってた人が言う言葉じゃない?」
「本当に、そんなに待ってないっす」
零はそう言いながら、自分の腕時計を隠すように袖を下ろした。
「どのくらい前に来たの?」
「……20分くらいです」
「やっぱり待ってるじゃん」
「遅れる方が嫌だったので」
「寒かったでしょ」
「大丈夫っす」
柚希は、零の頬が少し赤くなっていることに気づいた。
寒さだけではないのかもしれない。
「じゃあ、早く行こう」
「はい」
零が予備のヘルメットを柚希へ渡す。
柚希は受け取りながら、零のバイクを見る。
「今日は、零ちゃんの後ろなんだね」
「車の方がよかったですか?」
「ううん。こっちがいい」
柚希が笑う。
「零ちゃんに、しっかり掴まれるから」
零の動きが止まった。
「……柚希さん」
「何?」
「出発する前から、そういうこと言わないでください」
「陽菜さんに散々からかわれたから、私も誰かを困らせたくなったの」
「それを自分に向けるんですか」
「零ちゃん以外に言ったら駄目でしょ」
零は返す言葉を失い、ヘルメットを被った。
その耳が赤くなっていることを、柚希は見逃さなかった。
2人は、駅から少し離れたレストランへ向かった。
華やかすぎず、静かに食事のできる小さな店だった。
予約をしたのは零だった。
窓際の席からは、通りに並ぶイルミネーションが見える。
「素敵な店だね」
「よかったです。自分、こういうところには慣れてないので」
「たくさん調べたの?」
「少しだけです」
「本当に?」
「……かなり調べました」
零は視線を逸らし、水の入ったグラスへ手を伸ばした。
柚希は嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
「まだ何もしてないです」
「私のために考えてくれたでしょ。それが嬉しいの」
零の手が止まる。
以前の柚希なら、相手が自分のために何をしてくれたかより、自分が嫌われないために何をするべきかを考えていた。
誘われれば応じる。
呼ばれれば会いに行く。
断れば離れていく気がして、自分の気持ちを後回しにしていた。
今は違う。
零といるときは、嬉しいことを嬉しいと言える。
会いたかったことも、そばにいたいことも、隠さなくていい。
食事を終えたあと、2人は店の外にある広場へ移動した。
中央の大きな木には、無数の光が飾られている。
家族や恋人たちが、その前で写真を撮っていた。
少し離れたベンチへ座り、零が持っていた紙袋を差し出す。
「柚希さん。これ」
「私に?」
「はい。クリスマスプレゼントです」
柚希は丁寧に包みを開いた。
中に入っていたのは、柔らかな色合いの薄手のマフラーだった。
「可愛い……」
「柚希さんのコートに合うと思って」
「着けてもいい?」
「もちろんです」
柚希は、すぐにマフラーを首へ巻いた。
「どう?」
零は、しばらく柚希を見つめた。
「似合ってるっす」
「よかった」
「思っていたより、ずっと似合っています」
「零ちゃんが選んでくれたからだよ」
柚希はマフラーへ頬を寄せた。
柔らかな生地に、零の指が僅かに触れる。
すぐに手を離そうとしたが、柚希がその手を掴んだ。
「今度は、私から」
柚希は隣に置いていた紙袋を渡す。
零が包みを開くと、中から薄手のバイク用グローブが現れた。
「これ……」
「前に雑誌で見てたでしょ」
「覚えてたんですか?」
「うん。欲しそうな顔してたから」
「そんな顔してました?」
「してたよ。でも、まだ今のが使えるからって、買うのをやめてた」
零はグローブを手に取り、革の感触を確かめる。
操作性を損なわない薄さと、冬の風を防ぐ素材。
自分が見ていたものと同じだった。
「嬉しいっす」
「本当?」
「はい。大切に使います」
「使わない方が、もったいないからね」
「使います。でも、大切にします」
零はグローブを胸元へ抱えるようにして、もう一度柚希を見た。
「自分のこと、見ていてくれたんですね」
「当たり前でしょ。付き合ってるんだから」
柚希は自然に答えた。
言ってから少し恥ずかしくなり、視線をイルミネーションへ逃がす。
零も黙ってしまった。
賑やかな広場の中で、2人の間にだけ静かな時間が流れる。
「自分、今日のためにいろいろ調べました」
「お店のこと?」
「それだけじゃないです」
零は膝の上で両手を組む。
「クリスマスに、恋人同士が何をするのか。どこへ行けばいいのか。どうしたら、柚希さんに喜んでもらえるのか」
「そんなことまで調べたの?」
「自分が、ちゃんとしないといけないと思ったので」
「どうして?」
零は少し迷ってから答えた。
「自分たちは、女同士だから」
その声は、周囲の音に消えそうなほど小さかった。
「自分が引っ張らないと、恋人らしくならない気がしていました」
柚希は、零の横顔を見る。
「零ちゃん」
「はい」
「零ちゃんは、私の彼氏じゃないよ」
零の表情が強張った。
柚希は、その手を握る。
「私の彼女だよ」
零が柚希を見る。
「どっちかが男の人の代わりをしなくてもいいと思う」
「でも……」
「付き合ってほしいって言ってくれたとき、零ちゃんが言ったんだよ」
柚希は、あの日の言葉を覚えていた。
「女の子同士なんて、正解がわからない。でも、私となら成功も失敗も楽しみたいって」
「……言いました」
「私も、まだ正解なんてわからない」
柚希は、繋いだ手へ少しだけ力を込める。
「だから、一緒に考えよう。零ちゃんだけに全部任せたくない」
「柚希さん……」
「今日のお店を選んでくれたのは嬉しい。迎えに来てくれたのも、マフラーも嬉しい。でも、私も零ちゃんに何かしたい」
柚希は笑う。
「2人で恋人になったんだから、2人で近づいていきたい」
零の目元が、僅かに潤む。
「自分、本当に柚希さんでよかったです」
「それ、付き合うときにも聞いた気がする」
「何回でも言いたいっす」
「じゃあ、私も何回でも言う」
柚希は、零の肩へ寄り添った。
「零ちゃんが好き」
「自分も、柚希さんが好きっす」
2人の前を、手を繋いだ恋人たちが通り過ぎる。
零は周囲の目を気にするように、一度だけ広場を見た。
柚希が、繋いだ手を離そうとする。
その前に、零が握り直した。
「離さなくていいです」
「見られるかもしれないよ」
「見られて困ることは、してないっす」
「うん」
柚希は、零の手を握り返した。
しばらく並んでイルミネーションを眺める。
やがて柚希が、零の名前を呼んだ。
「零ちゃん」
「はい」
「こっち向いて」
零が顔を向ける。
柚希は、その頬へ手を添えた。
何をされるのかわからないまま目を見開く零へ、柚希から唇を重ねる。
ほんの短い口づけだった。
離れたあと、零は動けずにいた。
「……柚希さん」
「何?」
「今のは……」
「クリスマスだから」
「理由になってないです」
「私がしたかったから」
柚希は恥ずかしそうにしながらも、目を逸らさなかった。
「零ちゃんだけに任せたくないって、言ったでしょ」
零の顔が、ゆっくりと赤くなる。
「もう一度してもいいですか」
「今度は零ちゃんから?」
「はい」
「いいよ」
2度目の口づけは、最初よりも少しだけ長かった。
どちらが男で、どちらが女なのか。
どちらが導き、どちらがついていくのか。
そんな答えは必要なかった。
零が迷えば、柚希が手を伸ばす。
柚希が立ち止まれば、零が隣に立つ。
2人でしか作れない関係を、2人で見つけていけばいい。
口づけを終えた直後、柚希のスマートフォンが震えた。
届いたのは、陽菜からのLINEだった。
『今頃、零とキスしてたりして』
柚希は無言で画面を伏せる。
「誰からですか?」
「陽菜さん」
「何て?」
「絶対に言わない」
零は不思議そうにしていたが、それ以上は尋ねなかった。
柚希は陽菜への返信をせず、零の手をもう一度握る。
「もう少しだけ、歩こう」
「寒くないですか?」
「零ちゃんがくれたマフラーがあるから、大丈夫」
「それなら、よかったです」
2人は手を繋いだまま、光の下を歩き始めた。
正解は、まだわからない。
それでも、隣にいる相手を好きだという気持ちだけは、もう迷わなかった。




