214話「チーム櫻井モデル」
高槻興産へ再提案を行ってから、数日が過ぎた。
島川不動産の営業部には、ようやく普段の空気が戻りつつあった。
もっとも、案件が終わったわけではない。
高槻から認められたのは、あくまで計画の方向性だ。
神谷と樹里は修正した企画をさらに具体化し、社内の各部署や協力会社との調整を進めている。
樹里の机には、今日も高槻興産に関する資料が積まれていた。
それでも、あの3日間に比べれば、営業部全体に張り詰めていた緊張は薄れている。
昼休みを終えた陽菜が、自分の席へ戻ろうとしたときだった。
「日高さん、櫻井さん。ちょっといいか」
黒澤に呼ばれ、陽菜と樹里は顔を見合わせた。
黒澤の手には、見慣れない企画書がある。
2人が会議室へ入ると、黒澤は企画書を机へ置いた。
「住宅販売部から、営業部に応援要請が来てる」
陽菜が椅子へ座りながら、企画書の表紙を見る。
『モデルハウスですか?』
「ああ。年明けから住宅展示場への来場を増やすために、いくつか企画を打つらしい。2月には大規模な抽選会も予定してる」
黒澤が企画書を開く。
モデルハウスの来場者数、成約率、過去に行われた催事の実績。
複数の数字が、細かく並んでいた。
「ただ、今の住宅販売部だけじゃ人が足りない。受付、案内、アンケートの回収だけじゃなく、来場者の反応を見て、その後の営業に繋げるところまでやりたいらしい」
『営業部から人を出すんですね』
「そういうことだ。今月中に現地を見て準備を始める。本格的に動くのは年明けからだ。いつまでと区切るつもりはない。少なくとも、2月の抽選会までは動いてもらう」
陽菜は資料をめくりながら、首を傾けた。
『それで、あたしたちが呼ばれた理由は?』
「応援に出す人間を選ぶためだ」
『日高先輩が?』
「いや」
黒澤は陽菜を見る。
「リーダーは、櫻井さんに任せる」
陽菜の指が止まった。
『……あたし?』
「ああ」
『日高先輩じゃなくて?』
「日高さんは高槻興産がある。神谷と日高さんの2人は、今の時点であの案件から外せない」
黒澤はそこで一度言葉を切った。
「それだけじゃない。今回必要なのは、誰より正しい答えを出す人間じゃない。立場も得意なことも違う人間をまとめて、同じ方向へ向かせられる人間だ」
陽菜の顔から、いつもの軽い笑みが少しだけ消える。
「櫻井さん。お前は人を巻き込む」
『褒められてます?』
「一応な」
『一応なんだ』
「ふざけてるように見えて、気づけば周りまで動いてる。それが今回の仕事には必要だ」
陽菜は返事をせず、隣に座る樹里を見た。
樹里はまっすぐに陽菜を見返している。
『私も、櫻井さんが適任だと思います』
『日高先輩まで』
『嫌ですか』
『嫌じゃないです。ただ、急だなって思っただけです』
「時間をかければ、覚悟が決まるのか?」
『決まらないですね』
「なら、今決めろ」
陽菜は企画書へ視線を戻した。
受付に立つ人間。
来場者を案内する人間。
子供連れの家族へ目を配る人間。
住宅販売部へ情報を繋ぐ人間。
ただ人数を揃えれば済む仕事ではない。
陽菜はしばらく黙っていた。
やがて顔を上げる。
『やります』
「そうか」
『でも、人選はあたしに任せてください』
「そのために呼んだ」
陽菜は営業部の面々を思い浮かべる。
誰に、何ができるのか。
誰と誰を組ませれば、足りないところを補えるのか。
普段なら思いついた名前をすぐに口にする陽菜が、珍しく時間をかけて考えていた。
『まず、柚希ちゃん』
「早川さんか」
『はい。初対面の人にも壁を作らせないし、受付も事務処理もできます』
「ほかは」
『凛ちゃん。細かい変化に気づけるから。お客さんが口に出さないことも、凛ちゃんなら拾えると思います』
黒澤が頷く。
『それから、陸』
「山本を入れるのか」
『入れます』
「まだ入社して間もないぞ」
『だからです。今までは、あたしが指示して、陸が動くことが多かった。でも、お客さんの前では、毎回あたしが答えを教えるわけにはいきません』
陽菜の声には、普段とは異なる真剣さがあった。
『自分で見て、自分で決めて、自分の言葉で動けるようになってほしいです』
「育成まで含めて考えてるなら、構わない」
黒澤が手元の用紙へ3人の名前を書き込む。
その隣で、樹里が口を開いた。
『黒澤部長。もう1人、加えていただけませんか』
「誰だ」
『川原さんです』
陽菜が樹里を見る。
黒澤も、ペンを止めた。
「川原さんは日高さんの教育担当だろ。高槻で日高さんが会社を空けることが多い分、今はようやく直接話せる時間が増えてきたところじゃないのか」
『はい』
「それでも出すのか?」
『中途半端に私のそばへ置いておくより、必要な仕事を任せるべきだと思います』
樹里は迷わなかった。
『川原さんは、与えられた仕事を正確に処理できます。数字の違和感にも気づけるようになりました。ただ、自分の担当だけを見ていては、そこで止まります』
「モデルハウスなら、来場者だけじゃなく、受付や案内、住宅販売部の動きまで見なきゃならない」
『はい。川原さんには、仕事全体がどう動いているのかを見る経験が必要です』
黒澤は陽菜へ目を向けた。
「櫻井さんはどうだ」
陽菜は少しだけ考え、頷いた。
『あたしは構いません』
「決まりだな」
黒澤は4人目の欄へ、川原萌と書き込んだ。
「年内は準備と現地下見だ。今週末、一度全員で現場を見てこい。実際の役割は、現場を見てから決めればいい」
『わかりました』
「櫻井さん」
『はい』
「任せたぞ」
陽菜は企画書を閉じた。
『任されました』
会議室を出たあと、陽菜は隣を歩く樹里を横目で見た。
『日高先輩』
『何ですか』
『萌を、あたしに預けて大丈夫なんですか』
『櫻井さんだからお願いしたんです』
『それ、本人にも言ってあげた方がいいんじゃないですか』
樹里の足が、わずかに止まる。
『私が何を期待しているのかを、ですか』
『うん』
『先に答えを教えてしまえば、川原さんはそこへ向かおうとします』
『真面目だからね』
『自分で何を見るべきか、自分で決めてほしいんです』
陽菜はしばらく樹里の横顔を見ていた。
『相変わらず、言葉が足りないなあ』
『必要なことは伝えます』
『その“必要なこと”の基準が、厳しすぎるんですよ』
『そうでしょうか』
『そうです』
陽菜は呆れたように笑い、先に営業部へ戻った。
その日の午後。
営業部の一角に、今回選ばれた4人が集められた。
柚希は期待と不安が半分ずつ混ざった顔をしている。
凛は配られた企画書へ静かに目を通していた。
陸は緊張した様子で背筋を伸ばし、萌は自分が呼ばれた理由を探すように、陽菜と樹里を交互に見ている。
『今日から、このメンバーでモデルハウスの応援に入ります』
陽菜が全員を見渡す。
『年内は下見と準備。年明けから本格的に動く予定です。2月には大きな抽選会もあるから、ちょっと手伝って終わり、って仕事じゃないよ』
「モデルハウスの仕事って、住宅販売部の方を補助する感じですか?」
柚希が尋ねる。
『最初はそう。でも、言われたことだけやるつもりはない』
陽菜は企画書を指先で軽く叩いた。
『来てくれた人が何を求めてるか。どうしたらもう一度来たいと思ってもらえるか。営業に何を残せるか。あたしたちなりに考えて、動く』
「営業部の仕事とは、少し違いますね」
凛が言う。
『違うように見えて、たぶん同じ。相手が口にしてないものを見つける仕事だから』
凛は小さく頷いた。
陽菜は次に陸を見る。
『陸』
「はい」
『今回は、あたしの後ろについてくるだけじゃダメだからね』
「はい。自分で考えて動きます」
『返事はいいんだよなあ』
「まだ何もしてないのに、それを言われるんですか」
『今までの実績』
「これから変えます」
『言ったね? 覚えとくから』
柚希が笑い、陸は少しだけ困った顔をした。
その輪の中で、萌だけが口を開かなかった。
視線は企画書ではなく、少し離れた自分の席へ戻ろうとしている樹里へ向けられている。
「日高先輩は、参加されないんですか」
萌の問いに、樹里が足を止めた。
『私は高槻興産の案件があります。常に同行することはできません』
「そう、ですか」
『川原さんを推薦したのは、私です』
萌が顔を上げる。
「日高先輩が……私を?」
『はい』
「どうしてですか」
短い問いだった。
だが、その中には、いくつもの感情が混ざっていた。
ようやく樹里と話せるようになった。
自分を見てもらえているのかもしれないと思い始めた。
その直後に、別の仕事へ送られる。
萌には、それが期待なのか、それとも自分を手元から外すためなのか、判断できなかった。
『川原さんなら、この仕事で得られるものがあると思ったからです』
「それは、何ですか」
樹里はすぐには答えなかった。
萌から視線を逸らすことなく、静かに言う。
『それを私が先に決めれば、川原さんの判断ではなくなります』
萌の表情が、僅かに曇った。
「……わかりました」
納得した声ではなかった。
それでも萌は、それ以上尋ねなかった。
樹里も言葉を重ねず、自分の席へ戻っていく。
陽菜は、その背中と萌の顔を交互に見た。
それから、わざと明るく両手を叩く。
『はい。難しい話はここまで』
「難しくしたのは日高先輩だと思います」
柚希の小さな声に、陽菜が吹き出した。
『それはそう』
少しだけ空気が緩む。
『役割は現場を見てから決める。今週末の下見では、住宅だけ見て終わらないでね。受付の位置、人の流れ、子供連れのお客さんがどこで止まるか。働いてる人が何に困ってるか。見られるものは全部見る』
「全部ですか」
陸が呟く。
『全部』
「結構、範囲が広いですね」
『だから人数がいるんじゃん』
陽菜は笑い、ホワイトボードの前へ立った。
『それと、いつまでも“モデルハウス応援組”じゃ格好悪いから、名前を決めます』
「名前が必要なんですか?」
凛が不思議そうに尋ねる。
『必要。チームには名前があった方が強そうでしょ』
「強さを競う仕事ではないと思いますけど」
『気持ちの問題だよ、凛ちゃん』
陽菜はホワイトボードへ大きく文字を書く。
チーム櫻井モデル。
書き終えると、満足そうに振り返った。
『今日から、あたしたちはチーム櫻井モデルです』
「自分の名字を入れたんですか」
陸が率直に言う。
『リーダーの特権』
「その名前、黒澤部長の許可は取ったんですか?」
『取ってない』
「大丈夫なんですか」
『怒られたら、そのとき考える』
「リーダーが最初からそれでいいんですか」
『陸。細かいこと気にしてると大きくなれないよ』
「櫻井さんにだけは言われたくないです」
『言うようになったじゃん』
陽菜が楽しそうに陸の背中を叩く。
柚希が笑い、凛も口元を緩めた。
萌も、ほんの少しだけ表情を和らげる。
陽菜はそれを見逃さなかった。
『萌』
「はい」
『日高先輩が何を考えてるか、あたしから答え合わせはしないよ』
萌の表情が、再び僅かに固くなる。
『それは、萌と日高先輩の間の話だから』
「……はい」
『でも、あたしが萌をいらないと思ってるわけじゃない』
萌が陽菜を見る。
『このチームには、萌が必要。何を任せるかは、これから一緒に決める』
「私を、見てくれるんですか」
『見るよ』
陽菜は迷わず答えた。
『萌も、陸も、凛ちゃんも、柚希ちゃんも。全員見る。あたしが見落としたら、遠慮なく言って』
「リーダーなのに、ですか」
『リーダーだからだよ』
陽菜は4人の顔を順番に見た。
『あたし1人で全部できるなら、チームなんていらないでしょ』
萌は、手元の企画書へ目を落とした。
まだ、樹里の考えていることはわからない。
推薦された理由も、そこで何を得ることを期待されているのかも。
だが、陽菜は自分を必要だと言った。
ならば今は、この場所でやるしかない。
「わかりました。よろしくお願いします」
『うん。よろしく』
陽菜が笑う。
『じゃあ今週末、全員で下見に行くよ。ほかの会社のモデルハウスも並んでるから、負けないようにね』
「まだ何も始まっていないのに、もう勝ち負けなんですか?」
『始まる前から負けるつもりで行く人はいないでしょ』
陽菜は、ホワイトボードに書かれた名前を指差した。
『チーム櫻井モデル。ここから始めよう』
その声に、4人が頷いた。
まだ誰も知らない。
この小さなチームが、年明けから多くの人を巻き込み、大きな仕事へ育っていくことを。
萌と陸が、それぞれ自分に足りなかった力を手にすることを。
そして陽菜自身も、人の先頭に立つことの重さと喜びを知ることを。
その最初の一歩は、12月の寒い週末。
いくつもの住宅会社が並ぶ、モデルハウスの下見から始まる。




