212話「残った理由」
翌朝。
営業部の机の上には、それぞれが集めた資料が並べられていた。
神谷は全員を集め、短い打ち合わせを始める。
「昨日お願いした内容を、一度共有させてください」
佐藤が、過去の物件事例をまとめた資料を開いた。
「条件の近い物件を8件まで絞りました。そのうち、主要な入居企業が撤退したものは3件です」
「空室期間は?」
「最短で4か月。最も長いものは、1年2か月です」
神谷の表情が僅かに険しくなる。
「差が出た理由はわかりますか」
「新しい企業を見つけるまでの期間だけではありません。内装や設備の撤去に時間がかかっています」
中井が、費用をまとめた表を差し出した。
「僕も確認しました。特定の企業に合わせて設備を作り込んだ物件ほど、原状回復と改修の費用が大きくなっています」
「次の企業が見つかっても、すぐに入居できないということですね」
「はい。工事期間中は、当然賃料も入りません」
高槻社長に指摘された問題が、数字として見え始めていた。
次の入居企業を用意するだけでは足りない。
その企業が建物を使える状態になるまで、どれだけの時間と費用が必要なのか。
昨日の計画には、その視点が欠けていた。
「川原さんの方は、どうですか」
神谷に尋ねられ、萌が資料を開く。
「まだ途中です。過去の契約書と工事完了報告書を照合していますが、設備の分類に自信がありません」
「どの部分が難しいですか」
「同じ給排水設備でも、残されたものと、すべて撤去されたものがあります。工事の知識がないので、何が違うのか判断できなくて」
萌は、わからないことを誤魔化さなかった。
以前なら、何とか自分だけで答えを出そうとしていたかもしれない。
「中井さん。川原さんと一緒に確認してもらえますか」
「はい。僕も詳しいわけではありませんが、過去の見積書と照らせば違いは見つけられると思います」
「お願いします」
神谷は陽菜と陸を見る。
「櫻井さんと山本は、予定通り現地へ?」
『はい。午前中から回ってきます』
「聞き取りを断られる店もあると思います。無理はしないでください」
『大丈夫です。知らない人と話すの、得意なんで』
「櫻井先輩の場合、距離を詰めすぎないかの方が心配です」
陸が真面目に言った。
陽菜が隣を振り返る。
『陸、最近あたしへの遠慮がなくなってない?』
「教育していただいた成果だと思います」
『あたし、そんなこと教えたっけ?』
「思ったことは相手に伝えた方がいいと、いつも言っています」
『そうだけど、あたし相手に実践しなくてもよくない?』
「相手によって変えるのは、よくないと思います」
陸は涼しい顔で答えた。
周囲から小さな笑いが起こる。
『……まあいいや。行こ、陸』
「はい」
陽菜と陸は資料を持ち、会社を出た。
高槻興産が取得を予定している物件の周囲には、飲食店や小売店が並んでいる。
駅から少し離れているため、通りを歩く人の多くは近隣企業の従業員だった。
最初に入ったのは、小さな定食屋だった。
昼の営業にはまだ早く、店主がカウンターの中で仕込みをしている。
『すみません。少しだけ、お話を聞かせてもらってもいいですか』
「営業なら間に合ってるよ」
顔を上げることもなく、店主が答えた。
『何かを売りに来たわけじゃないです』
「アンケートも断ってる」
『そうですよね。忙しいところに知らない人が来たら、面倒ですよね』
「わかってるなら帰ってくれ」
陽菜は引き下がらなかった。
だが、無理に質問を始めることもしなかった。
『ここの日替わり、今日は生姜焼きなんですね』
「そうだけど」
『看板を見て、美味しそうだなって思って』
「昼前に食っていくのか」
『お話を聞かせてもらえたら、2人分お願いします』
店主が、ようやく顔を上げた。
「そういう頼み方は、ずるいんじゃないか」
『嫌なら、普通に食べて帰ります』
陽菜が笑う。
店主は呆れたように息を吐いた。
「仕込みながらでいいなら聞くよ」
『ありがとうございます』
陽菜は簡単に目的を説明した。
特定の企業名や内部情報には触れず、周辺で働く人の増減が店にどのような影響を与えるのかを尋ねる。
「そりゃ、大きい会社が来れば客は増えるよ」
店主は玉ねぎを切りながら答えた。
「昼なんか特にな。でも、その会社だけを当てにするのは怖い」
『以前、何かあったんですか』
「向こうの古いビルに、前は大きな会社が入ってたんだ」
店主が窓の外へ顎を向ける。
「昼は毎日満席だった。それが移転した途端、半分も来なくなった」
『次の会社は入らなかったんですか』
「入ったよ。でも、前とは人数も勤務時間も違った。来る人間が変われば、同じ建物に人がいても、こっちの客になるとは限らない」
陽菜は話を聞きながら、要点を書き留める。
隣に座る陸も、メモを取っていた。
「他に聞きたいことは?」
『会社が変わっても、ここを利用してもらうためには、何が必要だと思いますか』
「それがわかれば苦労しないよ」
店主が苦笑する。
「結局、会社の人間だけを見ないことじゃないか。近くに住んでる人も来られる店なら、少しは違う」
陽菜がうなずき、次の質問へ移ろうとする。
その前に、陸が口を開いた。
「営業時間を、以前から変えましたか」
店主の手が止まる。
「どうして?」
「店の入口に、朝定食の札が裏返して置いてありました。前は朝も営業していたのかと思って」
陽菜が入口を見る。
壁際に立てかけられた札の裏から、確かに文字が僅かに透けている。
「ああ。前の会社があった頃はな」
店主が答えた。
「早朝に出勤する人が多かったから、朝も開けてた。でも、いなくなってからやめた」
「次に入った会社の人は、朝が遅いんですか」
「出勤時間がばらばららしい。朝に店を開けても、ほとんど来ない」
「昼の人数だけではなく、働く時間も関係するんですね」
「そういうことだな」
陸は新しいページを開き、店主の言葉を書き込んだ。
店を出たあと、陽菜は陸の横顔を見る。
『朝定食の札、よく気づいたね』
「たまたまです」
『たまたま気づいても、質問にしなかったら何も聞けないじゃん』
「櫻井先輩なら、聞くと思ったので」
『あたしは気づかなかった』
「そうなんですか」
『ちょっと嬉しそうな顔しないでよ』
「していません」
『してるって』
陽菜は笑いながら、陸の肩を軽く叩いた。
『でも、今の質問は良かった。会社の人数ばっかり気にしてたら、働く時間までは見えなかったから』
「ありがとうございます」
『次の店では、陸が最初に聞いてみて』
「俺がですか」
『うん。あたしは横で見てる』
「断られたらどうしますか」
『そのときは助ける。でも、最初から助けてもらうつもりで話したらダメだよ』
「……わかりました」
次に訪れた喫茶店では、陸が自分から店主へ声をかけた。
言葉は少し硬い。
説明も、陽菜ほど自然ではない。
それでも、相手の返事を聞きながら質問を変えていった。
会社員だけでなく、近隣住民が利用する時間。
建物にあれば便利だと思う施設。
従業員の年齢や家族構成が変わった場合、周辺で必要とされるもの。
用意していた質問だけではない。
相手が口にした言葉を拾い、その先を尋ねていた。
陽菜は途中で口を挟まなかった。
陸が言葉に詰まったときも、答えを代わりに言わない。
ただ、店主から見えない位置で小さくうなずいた。
会社へ戻る頃には、2人のメモは予定していた枚数を大きく超えていた。
一方、営業部では。
萌と中井が、過去の工事資料を並べていた。
「この物件は、入居企業が変わったあとも給排水設備が残されています」
萌が図面の一部を指す。
「こちらは、ほとんど撤去されています。違いは何でしょうか」
「配管の位置だと思います」
中井が、2つの図面を見比べる。
「残された方は、複数の区画から使えるようになっています。撤去された方は、前の企業が使っていた場所に集中していますね」
「専用に作られていたから、次の企業では使えなかったということですか」
「おそらく。ただ、僕だけでは断定できないので、工事担当にも確認した方がいいです」
「はい」
萌は資料の端へ付箋を貼った。
設備の種類だけで分類していた表へ、配置と転用の可否を加えていく。
しばらく作業を続けたあと、萌の手が止まった。
「中井さん」
「どうしました?」
「この3つの物件、次の企業が決まるまでの期間は違います。でも、決まってから入居するまでの期間は短いです」
「共通点は?」
「設備が、複数の用途に転用されています」
萌は別の資料を開く。
「前の企業が退去したあと、一部を残したまま区画だけ変更しています。次の企業に合わせて全部を作り直していません」
「空室期間の問題だけではなく、入居が決まったあとの工事期間も短くできるということですね」
「はい」
萌は自分の考えを、急いで紙へ書き始めた。
特定の企業に最適な建物を作る。
その企業が使い続ける限りは、効率がいい。
だが、企業が替われば、その最適さが大きな負担へ変わる。
「企業を替える方法だけを考えるのではなくて……」
萌が呟く。
「替わっても使えるようにしておけばいいんじゃないでしょうか」
中井が萌を見る。
「設備を最初から、転用しやすい形にするということですか」
「はい。ただ、それが本当に可能なのかはわかりません」
「専門的な判断は、工事担当へ確認しましょう。でも、考え方としては神谷さんたちが探している答えに近いと思います」
萌は立ち上がった。
「神谷さんに話してきます」
「僕も一緒に行きます」
「いえ」
萌は一度首を振った。
「まずは、私から説明してみます」
神谷と樹里は、会議室で計画を組み直していた。
萌が扉を叩く。
「失礼します。少し、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
神谷に促され、萌は2人の前へ資料を広げた。
緊張で、指先に力が入る。
「過去の物件を調べて、気づいたことがあります」
萌は、設備をすべて撤去した物件と、一部を転用した物件の違いを説明した。
途中で何度か言葉に詰まった。
それでも、樹里も神谷も口を挟まず、最後まで聞いていた。
「入居する企業ごとに、建物を作り込む必要はあると思います」
萌は続ける。
「でも、すべてをその企業専用にすると、撤退したときに何も残らなくなります」
「つまり、専用部分と共用できる部分を、最初から分けるということですか」
神谷が尋ねる。
「はい。配管や電気設備など、簡単に変えられない部分は、できるだけ次にも使える形にしておく。内装や区画で、それぞれの企業に合わせることができれば……」
萌は自信を失いかけ、声を小さくする。
「すみません。工事の知識がないので、現実にできるかはわかりません」
『実現できるかどうかを判断するのは、今ではありません』
樹里が答える。
『川原さんが見つけたのは、計画の方向です』
樹里は資料を手に取る。
『私たちは、撤退した企業の代わりを探していました。しかし、それだけでは同じことを繰り返す可能性がある』
「はい」
『企業が替わることを、失敗として扱わない建物にする』
樹里が神谷を見る。
『高槻社長が求めていた答えに、近いと思います』
「私もそう思います」
神谷は、ホワイトボードに書かれていた計画の一部を消した。
第二候補企業。
その文字の代わりに、新しい言葉を書く。
用途変更への対応。
「候補企業は必要です。ただ、誰を入れるかだけではなく、誰が入っても使える範囲を広げる」
神谷が萌を振り返る。
「川原さん。この資料を、計画の中へ入れさせてください」
「はい」
「それと、工事担当者への確認にも同席してもらえますか」
「私がですか」
「川原さんが見つけた疑問です。私たちから説明するより、川原さん自身が聞いた方がいい」
萌は一瞬戸惑ったあと、強くうなずいた。
「わかりました」
『川原さん』
樹里が呼び止める。
『よく見つけました』
短い言葉だった。
だが今度は、その言葉が何を評価しているのか、萌にもわかった。
「ありがとうございます」
萌は真っ直ぐに答えた。
夕方。
陽菜と陸が営業部へ戻ってきた。
『ただいま戻りました』
「戻りました」
2人はすぐに会議室へ入り、聞き取りの結果を報告した。
従業員の人数だけではなく、勤務時間や年齢層によって周辺店舗の利用状況が変わること。
1つの大企業だけに人の流れを依存すると、その企業が撤退した際、地域全体への影響が大きくなること。
陽菜が概要を説明したあと、陸が定食屋の事例を話した。
「入居する人数が同じでも、働く時間が変われば、周辺の店を利用する時間も変わります」
「そこに気づいたのは、山本ですか」
神谷が尋ねる。
「はい。店の前に、使われていない朝定食の札があったので聞きました」
『あたしは気づかなかったんですよ』
陽菜が、どこか誇らしそうに付け加える。
『陸が見つけて、自分で聞きました』
陸が照れたように視線を落とす。
「周辺への影響を考えるなら、入居企業の規模だけでなく、働き方まで想定する必要があると思います」
「その通りです」
神谷は、萌の提案と陸の報告を並べて見る。
企業が替わっても使い続けられる建物。
働く人が替わっても、周辺との関係が途切れない運用。
別々に調べていた2つの内容が、1つの方向へ繋がっていく。
「日高さん」
『はい』
「計画の中心を、変えましょう」
『私も、その方がいいと思います』
「撤退した場合の対策を付け加えるだけでは足りません。この物件そのものを、変化へ対応できる形にします」
神谷は、新しい資料を開いた。
「第一候補の企業が長く使うことは、もちろん目指します。ただ、その企業がいなくなっても、建物と周辺に残るものを作る」
樹里がうなずく。
『それなら、高槻社長の問いに答えられます』
「はい。ただし、形にするには全員の情報が必要です」
神谷が会議室にいる者たちを見る。
「川原さんには、設備転用の事例を。山本には、勤務形態が周辺へ与える影響を、もう少し整理してもらいます」
「はい」
「わかりました」
萌と陸が同時に答える。
陽菜は隣に立つ陸の背中を、軽く叩いた。
『陸、良かったね』
「まだ終わっていません」
『それ、日高先輩みたい』
『櫻井さん。余計なことを教えないでください』
『あたしが教えたんじゃないよ。勝手に似てきたんじゃない?』
「俺は櫻井先輩に教わっています」
『うん。今のは偉い』
「褒める基準が、仕事と関係なくなっていませんか」
『そこに気づくのも成長だよ』
「そうなんですか?」
陸が困惑すると、会議室に小さな笑いが起こった。
萌も、つられるように笑っていた。
樹里はそんな2人を見つめる。
萌も陸も、まだ経験は足りない。
1人で任せられる仕事も多くない。
それでも、経験の少なさは、何も見つけられない理由にはならない。
先入観がないからこそ、見えるものもある。
誰かの後ろを歩くだけではなく、自分の目で見つけたものを言葉にする。
その言葉が今、大きな計画の方向を変えようとしていた。
高槻社長に指摘された、崩れたあとの世界。
そこへ何を残せるのか。
答えは、後から代わりを探すことだけではなかった。
人が替わっても。
企業が替わっても。
仕事を引き継ぎ、次へ使える形にしておく。
それは、彩花が営業部へ残していったものと、どこか似ていた。




