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211話「崩れた前提」

12月に入り、高槻興産との大型案件は新たな段階へ進んでいた。


 取得予定の物件を、どのような形で運用するのか。


 周辺環境や収益性だけではなく、入居を見込む企業、設備投資、維持管理費まで含めた具体的な事業計画が必要になる。


 その日、神谷と樹里は、作成した資料を持って高槻興産を訪れていた。


 会議室の中央には、高槻社長が座っている。


 資料をめくる音だけが、長い机の上へ響いていた。


 神谷は姿勢を崩さず、相手が読み終えるのを待っている。


 樹里も隣で黙っていた。


 以前の神谷なら、この沈黙に耐えきれず、資料の補足を始めていたかもしれない。


 だが今は、相手が考える時間を奪わなかった。


 高槻社長の指が、あるページで止まる。


「神谷」


「はい」


「入居を見込んでいる企業が、契約更新の時期に撤退したらどうする」


 神谷は資料へ目を落とした。


「現時点では、長期契約を前提として交渉を進める計画です」


「それは答えになっていない」


「失礼しました」


 高槻社長は資料を机へ置いた。


「長期契約を結べば、必ず残るのか」


「いいえ」


「相手の経営状況が変わることもある。業界そのものが傾くこともある。それを契約書だけで縛れると思っているなら、随分と都合のいい計画だ」


 厳しい言葉だった。


 だが、神谷自身を否定しているわけではない。


 高槻社長が見ているのは、資料の中にある甘さだけだった。


「第二候補となる企業の選定も進めています」


「社名を並べただけだろ」


 高槻社長が、資料の別のページを開く。


「第一候補が抜けたあと、同じ条件でここへ入る企業がどれだけある。業種も規模も違う相手を並べて、候補が複数あるように見せているだけじゃないのか」


 神谷は反論しなかった。


 指摘された通りだった。


 候補となる企業は挙げている。


 だが、それぞれが必要とする設備も、負担できる賃料も異なる。


 空いた場所へ、そのまま別の企業を入れられるわけではない。


「申し訳ありません。撤退した場合の損失を抑えることに意識が偏り、その後の運用まで具体化できていませんでした」


「謝る必要はない。俺は失敗を見つけて怒っているんじゃない」


 高槻社長の声は低い。


「失敗したとき、誰が困るのかを聞いている」


 神谷が顔を上げる。


「高槻興産だけじゃない。そこで働く人間も、周辺の店も、管理を請け負う会社も巻き込まれる。お前たちの出した数字が崩れたとき、その人間たちをどう守る」


 樹里は、資料の余白に短く書き込んだ。


 撤退後の運用。


 設備転用。


 再募集までの空白期間。


 どれも検討していなかったわけではない。


 しかし、計画として繋がっていない。


 数字を成立させることに集中するあまり、崩れたあとの時間が抜け落ちていた。


「高槻社長」


 神谷が口を開く。


「計画を見直します」


「いつまでに出す」


 以前の神谷なら、今日中と答えていたかもしれない。


 無理でも引き受ける。


 求められた以上の速さで返すことが、信頼になると思っていた。


 神谷は一度だけ息を吸った。


「3日、いただけますか」


 樹里が神谷を見る。


「候補企業を並べ直すだけでは不十分です。設備の転用費用と、再募集までの期間も含めて再計算します。関係部署へ確認する時間が必要です」


 高槻社長は、しばらく神谷を見つめていた。


「2日ではできないのか」


「形だけならできます」


「形だけの資料を持ってくるつもりか」


「いいえ。ですから、3日いただきたいです」


 神谷は目を逸らさなかった。


 会議室に沈黙が落ちる。


 やがて高槻社長が、僅かに口元を緩めた。


「わかった。3日後の午後に持ってこい」


「ありがとうございます」


「ただし、3日かければ許されると思うな。次も同じ穴があれば、そのときは資料ではなく、お前の見方を疑う」


「承知しました」


 神谷と樹里が頭を下げる。


 高槻社長は再び資料を手に取った。


「日高」


『はい』


「お前は、今の指摘に気づいていたか」


 樹里は誤魔化さなかった。


『十分には考えられていませんでした』


「神谷を庇わないのか」


『私も作成に関わった資料です。神谷さんだけの見落としではありません』


「そうか」


 高槻社長は短く答えた。


「なら、2人で直せ。ただし、2人だけで直そうとするな」


 その言葉に、神谷の表情が僅かに変わる。


「この規模の仕事を、2人だけで完成させられると思うな。必要な人間を使え。使った人間の仕事に、責任を持て」


「はい」


「以上だ」


 会議室を出たあとも、神谷はしばらく何も言わなかった。


 高槻興産の建物を出て、冷たい風の吹く歩道を歩く。


 樹里は隣に並び、口を開いた。


『3日と答えたのは、正しい判断だったと思います』


「一瞬、明日までにと答えそうになりました」


『そうでしょうね』


「否定してくれてもいいんですよ」


『事実ですから』


 神谷が苦笑する。


「日高さんには、隠せませんね」


『倒れたことを忘れたとは言わせません』


「忘れてはいません」


『なら、同じことをしないでください』


「はい」


 神谷は足を止めた。


「ただ、悔しいです」


 その声に、以前のような焦りはなかった。


 見落とした自分を責め、すべてを取り返そうとする危うさではない。


 指摘されたことを正面から受け止めた上での悔しさだった。


「考えていたつもりでした。入居する企業も、収益も、その先も」


『考えていたと思います』


「それでも、足りませんでした」


『足りないなら、増やせばいい』


 樹里は神谷を見る。


『私たちだけでは見えないものを、見ている人間がいます』


「川原さんですか」


『はい』


 神谷は少し考えたあと、うなずいた。


「会社へ戻ったら、協力を頼みます」


『神谷さんから伝えてください』


「日高さんではなく?」


『この案件の責任者は、神谷さんです』


 樹里の声に迷いはなかった。


『誰に、何を任せるのか。それを決めるのも、神谷さんの仕事です』


「……そうですね」


 神谷は再び歩き出した。


「では、日高さんにも改めてお願いします」


『何でしょうか』


「私がまた全部抱えようとしたら、止めてください」


『その前に、ご自分で止まってください』


「厳しいですね」


『当然です』


「それでも止まれなかったときは?」


『怒鳴ります』


 神谷が声を上げて笑った。


「それは、避けたいです」


『私も避けたいです』


 2人は並び、島川不動産へ戻った。


 営業部へ入ると、黒澤がすぐに顔を上げた。


「どうだった」


「修正になりました」


 神谷は高槻社長から指摘された内容を説明した。


 黒澤は黙って聞き終えたあと、腕を組む。


「期限は」


「3日後です」


「お前が決めたのか」


「はい」


「なら、その判断には責任を持て。ただし、前みたいに1人で抱えるな」


「わかっています」


「本当にわかってる顔には見えないけどな」


 黒澤は営業部を見渡した。


「必要な人間は使え。今ある仕事の調整が必要なら、俺に言え」


「ありがとうございます」


 神谷は自分の席へ戻らなかった。


 営業部の中央に立ち、全員へ声をかける。


「少しだけ、時間をもらえますか」


 社員たちが手を止める。


「高槻興産へ提出した計画に、見直しが必要になりました。入居予定の企業が撤退した場合の運用について、想定が足りていませんでした」


 神谷は失敗を隠さなかった。


「3日後に、修正した計画を提出します。いくつか、協力をお願いしたいです」


 佐藤へは、条件が近い物件の過去事例。


 中井へは、設備変更に必要となる費用の確認。


 陽菜と陸へは、周辺企業への聞き取り内容の整理。


 そして神谷は、萌を見る。


「川原さん」


「はい」


「以前調べてもらった企業情報を、業種ではなく、必要となる設備ごとに分類し直してもらえますか」


「設備ごと、ですか」


「はい。入居企業が変わっても転用しやすい設備と、大きな改修が必要になる設備を分けたいです」


 萌はすぐに返事をしなかった。


 自分に任された仕事の重さを考えている。


「私で、大丈夫でしょうか」


「日高さんから、川原さんの調査には、実際に利用する人間の視点があると聞きました」


 萌が樹里を見る。


 樹里は何も言わず、小さくうなずいた。


「今回は、数字を並べるだけでは足りません」


 神谷が続ける。


「そこで働く人が変わったとき、建物をどう使い続けられるのか。川原さんに考えてほしいです」


「……わかりました」


「お願いします」


「はい。やります」


 萌は強く答えた。


 神谷は全体へ目を向ける。


「私と日高さんは、計画全体を組み直します。ただ、すべてを私たちだけで決めるつもりはありません。気づいたことがあれば、担当に関係なく教えてください」


『神谷さん』


 陽菜が手を挙げる。


「はい」


『あたしは、陸と一緒に周辺のお店も見てきていいですか』


「理由を聞いても?」


『企業が抜けたら、困るのは建物の中だけじゃないんですよね。近くのお店が何を期待してるのかも、聞けるかもしれません』


 神谷は少し考える。


「お願いします。ただし、先方の内部情報は話さないでください」


『もちろんです』


「山本。櫻井さんの補助をお願い」


「わかりました」


『補助じゃなくて、一緒にやるんだよ』


「はい。一緒にやります」


 陸が言い直すと、陽菜は満足そうに笑った。


 仕事が分かれていく。


 神谷の手元から離れ、それぞれの席へ渡っていく。


 以前なら、不安だった。


 自分で確認しなければ、抜けが出る。


 自分で作らなければ、求める形にならない。


 そんな考えが、頭から離れなかった。


 だが今は違う。


 任せることは、責任を捨てることではない。


 任せた仕事を受け取り、全体へ繋ぐところまでが、自分の責任なのだ。


 その日の夕方。


 萌は過去の物件資料を探していた。


 だが、一部の契約書は共有フォルダに保存されていない。


「日高先輩。5年前の契約終了物件について、確認したい資料があります」


『紙で保管されている可能性があります。総務部へ確認しましょう』


 樹里と萌は、揃って総務部へ向かった。


 受付に声をかける前に、彩花が2人へ気づく。


「何?」


『過去の契約書を確認したい』


「何年度?」


『5年前。契約終了後に、設備の改修が発生した物件だ』


「保管台帳は確認した?」


『場所がわからない』


「そこから?」


 彩花は呆れたように言い、総務部の共有画面を開いた。


「契約書そのものは倉庫。でも、勝手には持ち出せないから申請が必要」


『急ぎなんだ』


「急ぎなら手続きを飛ばしていいとは言ってない」


『わかってる。方法を教えてくれ』


 彩花は樹里ではなく、萌を見る。


「萌ちゃん。申請するのは誰?」


「私です」


「なら、こっちに来て」


「はい」


「日高は仕事に戻っていい。申請書の書き方まで教育担当が見守る必要はないでしょ」


『頼んだ』


「私は総務の仕事をしてるだけ」


『それでいい』


 樹里はそれ以上口を出さず、営業部へ戻った。


 彩花は萌を隣へ座らせ、保管台帳の見方を説明する。


「必要な契約番号を先に特定して。それがないと、倉庫で探す人が困るから」


「はい」


「閲覧理由は、高槻興産案件の参考資料でいい。ただし、原本を持ち出すなら部長の許可が必要」


「写しでは駄目ですか」


「確認したい内容による。何を見るの?」


「入居企業が変わった際の、設備の改修範囲です」


「それなら、契約書だけじゃ足りないかも」


 彩花が別の台帳を開く。


「工事完了報告書も一緒に申請して。実際に何を撤去して、何を残したかはそっちにある」


 萌は目を見開いた。


「ありがとうございます」


「お礼は、必要な情報を見つけてから言って」


 言葉は素っ気ない。


 それでも萌には、彩花が営業部にいた頃と変わらず、自分の仕事を見てくれていることがわかった。


 違うのは、答えをすべて渡さなくなったことだけだった。


 夜8時。


 営業部の机には、集められた情報が少しずつ戻ってきていた。


 佐藤が過去の事例をまとめ、中井が設備費の概算を出す。


 陽菜と陸は、翌日に聞き取りを行う店を選んでいた。


 萌も、総務部から借りた資料を読み込んでいる。


 神谷は、それぞれから渡された内容を確認していた。


 修正したい箇所は、まだいくつもある。


 今夜中に進められることもある。


 神谷の手が、新しい資料を開きかけた。


 そのとき、時計が目に入る。


 午後8時を過ぎていた。


 神谷は手を止めた。


「今日は、ここまでにしましょう」


 全員が顔を上げる。


 佐藤が驚いたように神谷を見る。


「神谷さんから言うんですね」


「どういう意味ですか」


「前なら、もう少しだけと言っていた気がして」


「私も反省はします」


 神谷は苦笑した。


「日高さんに、また『仕事を舐めるな』と怒鳴られる前に止めることにしました」


 営業部にいた全員の動きが、一瞬だけ止まった。


 あの日。


 倒れた神谷が無理に出社しようとしたと知り、樹里は電話越しに声を荒らげた。


 仕事を舐めるな。


 滅多に感情を表へ出さない樹里の怒声は、電話から漏れただけでも営業部全体を凍りつかせた。


『あれは、忘れられないよね』


 陽菜がしみじみと言う。


『日高先輩があんな声を出すところ、あたしでも滅多に見ないもん』


「正直、電話越しでも怖かったです」


 陸が小さく続ける。


「俺、しばらく動けなかったです」


「山本だけじゃないよ」


 中井が苦笑する。


「僕も、声をかけていいのかわからなかったから」


「俺もです」


 佐藤もうなずく。


「神谷さん本人より、周りにいた俺たちの方が固まっていた気がします」


「私も、よく覚えています」


 萌が樹里を見る。


「あのときは、日高先輩がどうしてあそこまで怒ったのか、少し怖くてわかりませんでした」


 樹里は何も言わない。


「でも今は、少しわかります」


 萌は続けた。


「神谷さんに来てほしくなかったんじゃなくて、仕事を続けてほしかったから、止めたんですよね」


 神谷が、静かに樹里を見る。


 樹里は皆の視線を受け、僅かに眉を寄せた。


『その話は、もういいでしょう』


『よくないよ』


 陽菜がすぐに食いつく。


『日高先輩が、神谷さんをすごく心配してた証拠じゃん』


『櫻井さん。余計なことを言わないでください』


『だって本当でしょ?』


『必要だったから叱っただけです』


「必要だったとしても、あそこまで怒るのは珍しいですよね」


 中井まで穏やかに追い打ちをかける。


『中井さんまで何ですか』


「すみません。ただ、皆が同じことを感じていたと思います」


 神谷は困ったように笑っている。


「私には十分伝わりました」


『神谷さんも、笑っていないでください』


「はい。ですが、あの日の言葉があったから、今日は止まれました」


 樹里が神谷を見る。


「ありがとうございました」


 真っ直ぐに礼を言われ、樹里は一瞬だけ返す言葉を失った。


 やがて、視線を逸らす。


『……同じことを繰り返さないなら、それで構いません』


「はい」


 神谷は全体へ向き直った。


「明日の朝、集めた情報を一度共有します。足りない部分を確認してから動きましょう」


 誰も異論を口にしなかった。


 それぞれが資料を閉じ、帰る準備を始める。


 重かった空気は、いつの間にか柔らかくなっていた。


 その中で萌は、自分の作った一覧を見つめた。


 まだ未完成だった。


 それでも、その資料は確かに、大きな案件の中へ繋がっている。


 誰かの仕事を助けるための、小さな一部として。


 神谷はすべてを抱えることをやめた。


 樹里は、自分の評価を言葉にした。


 萌も、黙って答えを待つことをやめ始めている。


 そして営業部の全員が、あの日の樹里の怒声を覚えていた。


 恐ろしかったからだけではない。


 仕事を続けるためには、立ち止まらなければならないと教えられたからだ。


 高槻社長によって崩された前提の上に、新しい計画が作られていく。


 今度は、2人だけの手ではなく。


 多くの人間が見つけたものを、神谷と樹里が1つへ繋ぐ形で。

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