210話「空いた席」
12月1日。
森下彩花は、いつもより少し早く出社した。
エレベーターを降りる階は、これまでと同じだった。
そこから曲がる方向が、今日から変わる。
営業部の前を通り過ぎ、総務部へ向かう。
一瞬だけ足を止めそうになったが、彩花はそのまま歩いた。
総務部には、すでに新しい席が用意されていた。
パソコンと電話。
数冊の業務マニュアル。
机の端には、小さな名札が置かれている。
森下彩花。
「今日からよろしくお願いします」
彩花が頭を下げると、総務部の社員たちもそれぞれに挨拶を返した。
「営業部とは、仕事の進め方も少し違うと思います。まずは社内申請と備品管理から覚えてもらいますね」
「承知しました」
「わからないことがあれば、遠慮なく聞いてください」
「ありがとうございます」
彩花は席へ着き、渡されたマニュアルを開いた。
見慣れない仕事ばかりではない。
営業部にいた頃も、交通費や出張費の申請、備品の依頼などで総務部とは何度も関わっている。
だが、申請する側と処理する側では、見えるものが違った。
1件の申請書にも、確認しなければならない項目がいくつもある。
不備があれば、提出した社員へ差し戻す。
期日を過ぎれば、別の処理まで止まる。
営業部にいた頃は面倒だと思っていた確認にも、すべて理由があった。
(外から見ているだけでは、わからないこともある)
彩花はマニュアルを読み進めながら、気づいた点をノートへ書き留めていった。
一方、営業部では。
『……なんか変』
陽菜が、自分の席から斜め前を見つめていた。
昨日まで彩花が座っていた席に、人はいない。
パソコンは撤去され、机の上も綺麗に片づけられている。
異動しただけだとわかっていても、そこだけ景色が欠けているように見えた。
「櫻井さん。朝から何回目でしょうか」
隣にいた中井が、苦笑する。
『何が?』
「森下さんの席を見るのがです」
『数えてたの?』
「少なくとも、僕が気づいただけで5回目です」
『だって、昨日までいたんだよ』
「同じ会社にいますよ」
『中井君は寂しくないの?』
「寂しくないとは言いませんけど、森下さんが望んで決めたことですから」
『正論を言われると、からかいにくいなあ』
「からかう前提なんですか」
『中井君と話すときは、大体そうだよ』
「否定できません」
中井は困ったように笑い、自分の仕事へ戻った。
陽菜も仕方なくパソコンへ向き直る。
その直後、陸がファイルを持って近づいてきた。
「櫻井先輩。昨日、森下さんから引き継いだ案件なんですけど」
『うん。どうしたの?』
「過去の見積書が見つからなくて」
『共有フォルダにはない?』
「探したんですけど、どれかわからなくて」
『ちょっと見せて』
陽菜が陸の持つ資料へ手を伸ばす。
その間に、陸はファイルの最後に貼られた付箋を見つけた。
「……ありました」
『どこ?』
「保存先が書いてあります。年度が違うので、別のフォルダに入っているみたいです」
『そこまで残してくれてたんだ』
「森下さん、すごいですね」
『うん』
陽菜は、空いた席をもう一度見た。
『こういうところ、彩花さんらしい』
自分がいなくなったあとに、誰かが困らないようにする。
面と向かって心配だとは言わない。
優しい言葉をかけることもしない。
それでも、必要なものは残していく。
陽菜は立ち上がった。
『陸、保存先がわかったなら、自分で見つけてみて』
「わかりました」
『それでも見つからなかったら、また呼んで』
「はい」
陸が自分の席へ戻っていく。
その近くでは、萌が資料を開いたまま、何度も樹里の様子を窺っていた。
樹里は神谷と並び、高槻興産の資料を確認している。
「日高さん。こちらの収益予測ですが、先方へ出す前にもう一度条件を整理した方がよさそうです」
『そうですね。空室率を楽観的に見せるより、複数の想定を用意した方が高槻社長も判断しやすいと思います』
「私も同意見です。森山さんから数字が届き次第、作り直しましょう」
『承知しました』
話しかける隙がない。
萌はそう判断し、視線を資料へ戻した。
昨日までなら、彩花のところへ持っていったかもしれない。
だが、彩花はもう営業部にはいない。
陽菜は陸の電話対応を見ている。
中井も佐藤も、それぞれの仕事を抱えていた。
(忙しいかどうかは、聞かれた側が決めること)
彩花の言葉が浮かぶ。
萌は資料を持って立ち上がった。
数歩進み、樹里の席の前で待つ。
神谷が先に萌へ気づいた。
「川原さん。日高さんに用事ですか」
「はい。でも、お話が終わってからで大丈夫です」
『急ぎですか』
樹里が尋ねる。
「今日中に判断したい箇所があります」
樹里は時計を確認した。
『神谷さん。すみません。5分だけよろしいですか』
「もちろんです。私は先に森山さんへ連絡しておきます」
『ありがとうございます』
神谷が席を離れる。
樹里は隣の椅子を引いた。
『座ってください』
「はい」
萌は樹里の隣へ座り、資料を開いた。
「前回指摘された箇所を修正しました。ただ、周辺企業の従業員数について、公開されている情報だけでは正確な数字が出せませんでした」
『それで、こちらの範囲表示に変えたんですね』
「はい。断定するより、この方が安全だと思いました」
『妥当です』
「でも、数字の幅が広すぎる気もして」
樹里は資料へ目を通す。
『この資料の目的は、正確な人数を証明することではありません。周辺にどの程度の需要が見込めるか、その根拠を示すことです』
「では、このままでいいでしょうか」
『いいえ。範囲を出した理由を、もう一文加えてください。情報が足りないから曖昧にしたのではなく、複数の資料を照合した結果だと伝わるように』
「わかりました」
萌は指摘された箇所へ印をつけた。
ここで終われば、今までと同じだった。
修正点を聞く。
直す。
再び提出する。
萌はペンを握ったまま、動かなかった。
『他にもありますか』
「……仕事のことではないんですけど、聞いてもいいですか」
『はい』
樹里は資料から顔を上げた。
逃げられないように、萌はその目を見る。
「どうして、私にこの仕事を任せたんですか」
樹里はすぐには答えなかった。
「新人だから、経験させるためですか」
『それもあります』
「それだけですか」
声が僅かに震える。
樹里の表情は変わらない。
それでも、萌は続けた。
「日高先輩は、ほとんど会社にいません。戻ってきても、修正するところだけ言って、すぐに高槻興産へ行ってしまいます」
『すみません』
「謝ってほしいわけではありません」
思っていたより、強い声が出た。
近くにいた社員が一瞬だけこちらを見る。
萌は怯みそうになったが、目を逸らさなかった。
「私の仕事を見ているのか、わからなかったんです」
『見ています』
「だったら、どうして私なんですか」
樹里は、萌の顔を真っ直ぐに見た。
答えを探しているのではない。
どう伝えるべきかを考えているようだった。
『川原さんが、数字だけで判断しなかったからです』
「……え?」
『以前提出してもらった物件調査に、通勤経路と周辺店舗の利用時間が書かれていました』
「はい」
『指示した項目ではありませんでした』
「実際に現地へ行ったとき、気になったので」
『多くの人は、頼まれていないことまで調べません』
樹里は資料の一部を指で押さえた。
『川原さんは、自分が気になったことを、そのままにしなかった。数字の向こうで、誰がどのように暮らすのかを考えていた』
萌は何も言えなかった。
『高槻興産の案件には、その視点が必要だと思いました。だから、川原さんに任せました』
「それを……初めに言ってほしかったです」
萌の口から、正直な言葉が漏れた。
言ったあとで、胸が強く鳴る。
先輩に向けるには、生意気な言葉だったかもしれない。
だが、樹里は怒らなかった。
『そうですね』
静かに認める。
『私の中でわかっていれば、それで十分だと思っていました』
「私は、わかりませんでした」
『はい』
『彩花にも、同じことを言われました』
樹里が、ほんの少しだけ困ったように息を吐く。
『私は、人に伝えることが得意ではありません』
「知っています」
萌が即答すると、樹里が僅かに目を細めた。
「でも、言ってもらわないとわからないです」
『わかりました』
「本当に、わかっていますか」
『努力します』
「……そこは、わかったって言い切ってください」
『難しい注文ですね』
樹里の口元が、ほんの僅かに緩む。
萌は初めて、樹里との会話の中で力を抜いた。
『川原さん』
「はい」
『高槻興産の案件は、私と神谷さんだけで進めているものではありません。川原さんが調べたものも、判断したことも、すでに案件の一部です』
その言葉が、萌の胸へゆっくりと落ちていく。
『ただし、任せた以上、妥協するつもりはありません』
「はい」
『次の資料も、同じ水準でお願いします』
「それ以上にします」
萌は言い切った。
樹里が、僅かに眉を上げる。
「私を選んだことが間違いじゃなかったと、思わせます」
『すでに、間違いだとは思っていません』
今度こそ、萌の表情が崩れた。
嬉しさを隠そうとして、うまくいかない。
「……資料、直してきます」
『お願いします』
萌は席を立った。
自分の机へ戻る足取りは、先ほどまでより僅かに速い。
陽菜がその変化に気づき、笑った。
しかし、声はかけなかった。
今は、誰かが間へ入る必要はない。
萌が自分の言葉で尋ね、樹里が自分の言葉で答えた。
それだけで十分だった。
その頃、総務部では。
「森下さん。先ほど営業部から備品の追加依頼が来たんですけど、申請書がまだ届いていないみたいで」
「誰からですか」
「山本君です」
彩花は、小さく息を吐いた。
「内容は?」
「現地案内用のファイルと、資料ケースです」
「急ぎですか」
「今日中に欲しいそうです」
彩花は営業部へ電話をかけようとして、手を止めた。
昨日までなら、自分で確認し、必要な書類を揃え、陸のところまで持っていっただろう。
だが、それでは何も変わらない。
「申請書の場所だけ、山本君へ伝えてください。急ぎなら、本人に持ってきてもらいましょう」
「森下さんから話さなくてもいいんですか?」
「私はもう、営業部の教育担当ではありませんから」
言い切ったあと、少しだけ胸に引っかかるものがあった。
突き放したいわけではない。
自分が手を出さなくても、あの部署なら大丈夫だと信じることにしただけだ。
やがて陸が申請書を持って、総務部へやってきた。
「森下さん」
「山本君。ここでは、私ではなく担当の方へ提出して」
「あ、すみません」
「それと、次からは必要になる前に申請すること。急ぎで処理する人の仕事を増やすから」
「はい。気をつけます」
陸は担当社員へ申請書を渡し、頭を下げた。
帰る前に、彩花を見る。
「森下さん、総務部でも森下さんですね」
「何、それ」
「いえ。少し安心しました」
「用が済んだなら戻りなさい」
「はい」
陸が営業部へ戻っていく。
その背中を見送り、彩花は新しい机へ向き直った。
知らない仕事。
まだ馴染まない席。
覚えなければならないことは、いくつもある。
それでも、不思議と不安はなかった。
営業部には、自分が残したものがある。
そして自分の中にも、営業部から持ってきたものがある。
彩花は総務部の申請一覧を開いた。
部署ごとに形式が異なり、同じ内容が別々の表へ入力されている。
確認するだけでも時間がかかりそうだった。
「これ、同じ情報を3回入力しているんですか」
「部署ごとの管理表があるので」
「1つにまとめた方が、早くないですか」
隣の社員が、少し困ったように笑う。
「前からこのやり方なんです」
「前からやっていることと、正しいことは同じではないと思います」
言ってから、彩花は一度口を閉じた。
営業部では通じた言い方でも、新しい部署で同じように受け取られるとは限らない。
「……すみません。まずは、今の手順を全部教えてください」
彩花は言葉を足した。
「変えるべきかどうかは、そのあとで考えます」
「わかりました」
隣の社員が、今度は穏やかにうなずく。
彩花はノートを開いた。
総務部へ来たからといって、自分まで別の人間になる必要はない。
ただ、新しい場所には、新しい向き合い方がある。
それを知ることから始めればいい。
営業部の空いた席は、まだ誰のものにもなっていなかった。
けれど、彩花がいなくなったことで止まった仕事は、1つもない。
残された者たちは、自分で尋ね、自分で考え、前へ進み始めている。
彩花もまた、新しい席で前を向いた。
競う場所が変わっただけだ。
その言葉が、今になって少しだけわかった。




