↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
210/329

210話「空いた席」

12月1日。


 森下彩花は、いつもより少し早く出社した。


 エレベーターを降りる階は、これまでと同じだった。


 そこから曲がる方向が、今日から変わる。


 営業部の前を通り過ぎ、総務部へ向かう。


 一瞬だけ足を止めそうになったが、彩花はそのまま歩いた。


 総務部には、すでに新しい席が用意されていた。


 パソコンと電話。


 数冊の業務マニュアル。


 机の端には、小さな名札が置かれている。


 森下彩花。


「今日からよろしくお願いします」


 彩花が頭を下げると、総務部の社員たちもそれぞれに挨拶を返した。


「営業部とは、仕事の進め方も少し違うと思います。まずは社内申請と備品管理から覚えてもらいますね」


「承知しました」


「わからないことがあれば、遠慮なく聞いてください」


「ありがとうございます」


 彩花は席へ着き、渡されたマニュアルを開いた。


 見慣れない仕事ばかりではない。


 営業部にいた頃も、交通費や出張費の申請、備品の依頼などで総務部とは何度も関わっている。


 だが、申請する側と処理する側では、見えるものが違った。


 1件の申請書にも、確認しなければならない項目がいくつもある。


 不備があれば、提出した社員へ差し戻す。


 期日を過ぎれば、別の処理まで止まる。


 営業部にいた頃は面倒だと思っていた確認にも、すべて理由があった。


(外から見ているだけでは、わからないこともある)


 彩花はマニュアルを読み進めながら、気づいた点をノートへ書き留めていった。


 一方、営業部では。


『……なんか変』


 陽菜が、自分の席から斜め前を見つめていた。


 昨日まで彩花が座っていた席に、人はいない。


 パソコンは撤去され、机の上も綺麗に片づけられている。


 異動しただけだとわかっていても、そこだけ景色が欠けているように見えた。


「櫻井さん。朝から何回目でしょうか」


 隣にいた中井が、苦笑する。


『何が?』


「森下さんの席を見るのがです」


『数えてたの?』


「少なくとも、僕が気づいただけで5回目です」


『だって、昨日までいたんだよ』


「同じ会社にいますよ」


『中井君は寂しくないの?』


「寂しくないとは言いませんけど、森下さんが望んで決めたことですから」


『正論を言われると、からかいにくいなあ』


「からかう前提なんですか」


『中井君と話すときは、大体そうだよ』


「否定できません」


 中井は困ったように笑い、自分の仕事へ戻った。


 陽菜も仕方なくパソコンへ向き直る。


 その直後、陸がファイルを持って近づいてきた。


「櫻井先輩。昨日、森下さんから引き継いだ案件なんですけど」


『うん。どうしたの?』


「過去の見積書が見つからなくて」


『共有フォルダにはない?』


「探したんですけど、どれかわからなくて」


『ちょっと見せて』


 陽菜が陸の持つ資料へ手を伸ばす。


 その間に、陸はファイルの最後に貼られた付箋を見つけた。


「……ありました」


『どこ?』


「保存先が書いてあります。年度が違うので、別のフォルダに入っているみたいです」


『そこまで残してくれてたんだ』


「森下さん、すごいですね」


『うん』


 陽菜は、空いた席をもう一度見た。


『こういうところ、彩花さんらしい』


 自分がいなくなったあとに、誰かが困らないようにする。


 面と向かって心配だとは言わない。


 優しい言葉をかけることもしない。


 それでも、必要なものは残していく。


 陽菜は立ち上がった。


『陸、保存先がわかったなら、自分で見つけてみて』


「わかりました」


『それでも見つからなかったら、また呼んで』


「はい」


 陸が自分の席へ戻っていく。


 その近くでは、萌が資料を開いたまま、何度も樹里の様子を窺っていた。


 樹里は神谷と並び、高槻興産の資料を確認している。


「日高さん。こちらの収益予測ですが、先方へ出す前にもう一度条件を整理した方がよさそうです」


『そうですね。空室率を楽観的に見せるより、複数の想定を用意した方が高槻社長も判断しやすいと思います』


「私も同意見です。森山さんから数字が届き次第、作り直しましょう」


『承知しました』


 話しかける隙がない。


 萌はそう判断し、視線を資料へ戻した。


 昨日までなら、彩花のところへ持っていったかもしれない。


 だが、彩花はもう営業部にはいない。


 陽菜は陸の電話対応を見ている。


 中井も佐藤も、それぞれの仕事を抱えていた。


(忙しいかどうかは、聞かれた側が決めること)


 彩花の言葉が浮かぶ。


 萌は資料を持って立ち上がった。


 数歩進み、樹里の席の前で待つ。


 神谷が先に萌へ気づいた。


「川原さん。日高さんに用事ですか」


「はい。でも、お話が終わってからで大丈夫です」


『急ぎですか』


 樹里が尋ねる。


「今日中に判断したい箇所があります」


 樹里は時計を確認した。


『神谷さん。すみません。5分だけよろしいですか』


「もちろんです。私は先に森山さんへ連絡しておきます」


『ありがとうございます』


 神谷が席を離れる。


 樹里は隣の椅子を引いた。


『座ってください』


「はい」


 萌は樹里の隣へ座り、資料を開いた。


「前回指摘された箇所を修正しました。ただ、周辺企業の従業員数について、公開されている情報だけでは正確な数字が出せませんでした」


『それで、こちらの範囲表示に変えたんですね』


「はい。断定するより、この方が安全だと思いました」


『妥当です』


「でも、数字の幅が広すぎる気もして」


 樹里は資料へ目を通す。


『この資料の目的は、正確な人数を証明することではありません。周辺にどの程度の需要が見込めるか、その根拠を示すことです』


「では、このままでいいでしょうか」


『いいえ。範囲を出した理由を、もう一文加えてください。情報が足りないから曖昧にしたのではなく、複数の資料を照合した結果だと伝わるように』


「わかりました」


 萌は指摘された箇所へ印をつけた。


 ここで終われば、今までと同じだった。


 修正点を聞く。


 直す。


 再び提出する。


 萌はペンを握ったまま、動かなかった。


『他にもありますか』


「……仕事のことではないんですけど、聞いてもいいですか」


『はい』


 樹里は資料から顔を上げた。


 逃げられないように、萌はその目を見る。


「どうして、私にこの仕事を任せたんですか」


 樹里はすぐには答えなかった。


「新人だから、経験させるためですか」


『それもあります』


「それだけですか」


 声が僅かに震える。


 樹里の表情は変わらない。


 それでも、萌は続けた。


「日高先輩は、ほとんど会社にいません。戻ってきても、修正するところだけ言って、すぐに高槻興産へ行ってしまいます」


『すみません』


「謝ってほしいわけではありません」


 思っていたより、強い声が出た。


 近くにいた社員が一瞬だけこちらを見る。


 萌は怯みそうになったが、目を逸らさなかった。


「私の仕事を見ているのか、わからなかったんです」


『見ています』


「だったら、どうして私なんですか」


 樹里は、萌の顔を真っ直ぐに見た。


 答えを探しているのではない。


 どう伝えるべきかを考えているようだった。


『川原さんが、数字だけで判断しなかったからです』


「……え?」


『以前提出してもらった物件調査に、通勤経路と周辺店舗の利用時間が書かれていました』


「はい」


『指示した項目ではありませんでした』


「実際に現地へ行ったとき、気になったので」


『多くの人は、頼まれていないことまで調べません』


 樹里は資料の一部を指で押さえた。


『川原さんは、自分が気になったことを、そのままにしなかった。数字の向こうで、誰がどのように暮らすのかを考えていた』


 萌は何も言えなかった。


『高槻興産の案件には、その視点が必要だと思いました。だから、川原さんに任せました』


「それを……初めに言ってほしかったです」


 萌の口から、正直な言葉が漏れた。


 言ったあとで、胸が強く鳴る。


 先輩に向けるには、生意気な言葉だったかもしれない。


 だが、樹里は怒らなかった。


『そうですね』


 静かに認める。


『私の中でわかっていれば、それで十分だと思っていました』


「私は、わかりませんでした」


『はい』


『彩花にも、同じことを言われました』


 樹里が、ほんの少しだけ困ったように息を吐く。


『私は、人に伝えることが得意ではありません』


「知っています」


 萌が即答すると、樹里が僅かに目を細めた。


「でも、言ってもらわないとわからないです」


『わかりました』


「本当に、わかっていますか」


『努力します』


「……そこは、わかったって言い切ってください」


『難しい注文ですね』


 樹里の口元が、ほんの僅かに緩む。


 萌は初めて、樹里との会話の中で力を抜いた。


『川原さん』


「はい」


『高槻興産の案件は、私と神谷さんだけで進めているものではありません。川原さんが調べたものも、判断したことも、すでに案件の一部です』


 その言葉が、萌の胸へゆっくりと落ちていく。


『ただし、任せた以上、妥協するつもりはありません』


「はい」


『次の資料も、同じ水準でお願いします』


「それ以上にします」


 萌は言い切った。


 樹里が、僅かに眉を上げる。


「私を選んだことが間違いじゃなかったと、思わせます」


『すでに、間違いだとは思っていません』


 今度こそ、萌の表情が崩れた。


 嬉しさを隠そうとして、うまくいかない。


「……資料、直してきます」


『お願いします』


 萌は席を立った。


 自分の机へ戻る足取りは、先ほどまでより僅かに速い。


 陽菜がその変化に気づき、笑った。


 しかし、声はかけなかった。


 今は、誰かが間へ入る必要はない。


 萌が自分の言葉で尋ね、樹里が自分の言葉で答えた。


 それだけで十分だった。


 その頃、総務部では。


「森下さん。先ほど営業部から備品の追加依頼が来たんですけど、申請書がまだ届いていないみたいで」


「誰からですか」


「山本君です」


 彩花は、小さく息を吐いた。


「内容は?」


「現地案内用のファイルと、資料ケースです」


「急ぎですか」


「今日中に欲しいそうです」


 彩花は営業部へ電話をかけようとして、手を止めた。


 昨日までなら、自分で確認し、必要な書類を揃え、陸のところまで持っていっただろう。


 だが、それでは何も変わらない。


「申請書の場所だけ、山本君へ伝えてください。急ぎなら、本人に持ってきてもらいましょう」


「森下さんから話さなくてもいいんですか?」


「私はもう、営業部の教育担当ではありませんから」


 言い切ったあと、少しだけ胸に引っかかるものがあった。


 突き放したいわけではない。


 自分が手を出さなくても、あの部署なら大丈夫だと信じることにしただけだ。


 やがて陸が申請書を持って、総務部へやってきた。


「森下さん」


「山本君。ここでは、私ではなく担当の方へ提出して」


「あ、すみません」


「それと、次からは必要になる前に申請すること。急ぎで処理する人の仕事を増やすから」


「はい。気をつけます」


 陸は担当社員へ申請書を渡し、頭を下げた。


 帰る前に、彩花を見る。


「森下さん、総務部でも森下さんですね」


「何、それ」


「いえ。少し安心しました」


「用が済んだなら戻りなさい」


「はい」


 陸が営業部へ戻っていく。


 その背中を見送り、彩花は新しい机へ向き直った。


 知らない仕事。


 まだ馴染まない席。


 覚えなければならないことは、いくつもある。


 それでも、不思議と不安はなかった。


 営業部には、自分が残したものがある。


 そして自分の中にも、営業部から持ってきたものがある。


 彩花は総務部の申請一覧を開いた。


 部署ごとに形式が異なり、同じ内容が別々の表へ入力されている。


 確認するだけでも時間がかかりそうだった。


「これ、同じ情報を3回入力しているんですか」


「部署ごとの管理表があるので」


「1つにまとめた方が、早くないですか」


 隣の社員が、少し困ったように笑う。


「前からこのやり方なんです」


「前からやっていることと、正しいことは同じではないと思います」


 言ってから、彩花は一度口を閉じた。


 営業部では通じた言い方でも、新しい部署で同じように受け取られるとは限らない。


「……すみません。まずは、今の手順を全部教えてください」


 彩花は言葉を足した。


「変えるべきかどうかは、そのあとで考えます」


「わかりました」


 隣の社員が、今度は穏やかにうなずく。


 彩花はノートを開いた。


 総務部へ来たからといって、自分まで別の人間になる必要はない。


 ただ、新しい場所には、新しい向き合い方がある。


 それを知ることから始めればいい。


 営業部の空いた席は、まだ誰のものにもなっていなかった。


 けれど、彩花がいなくなったことで止まった仕事は、1つもない。


 残された者たちは、自分で尋ね、自分で考え、前へ進み始めている。


 彩花もまた、新しい席で前を向いた。


 競う場所が変わっただけだ。


 その言葉が、今になって少しだけわかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。