209話「席が変わっても」
11月30日。
森下彩花が営業部で過ごす、最後の日だった。
朝から特別な空気があったわけではない。
彩花はいつもと同じ時間に出社し、いつもと同じようにパソコンを立ち上げた。
残っていた引き継ぎ資料を確認し、届いたメールに返信する。
机の上に私物はほとんど残っていなかった。
それでも彩花が座っている限り、その席は昨日までと何も変わらないように見えた。
『彩花さん、本当に今日で最後なんだね』
「会社を辞めるみたいに言わないで」
陽菜が彩花の机へ身を乗り出す。
『明日からここにいないんでしょ? それはもう、営業部にとって大事件だよ』
「大袈裟」
『昼休みになったら、総務まで会いに行くからね』
「来なくていい」
『書類を届ける用事を作る』
「業務の邪魔をしたら追い返すから」
『じゃあ、邪魔にならない程度に居座る』
「それを邪魔って言うの」
いつものように言い返しながら、彩花は書類を揃えた。
そのやり取りを聞いていた陸が、寂しそうに口を挟む。
「森下さんがいなくなると、わからないことを聞ける人が1人減りますね」
『陸。あたしもいるんだけど』
「櫻井先輩にも聞いています」
『その言い方だと、彩花さんの方が頼りになるみたいじゃん』
「実際、森下さんの説明はわかりやすいです」
『陸ぅ?』
「どちらが上という話ではなくて、それぞれ違うという意味です」
『最近、そういう逃げ方だけ上手くなったよね』
陸が困ったように笑う。
彩花はその様子を見ながら、最後のファイルを陸へ差し出した。
「山本君。午前中に頼んだ一覧、終わった?」
「はい。確認をお願いします」
「今日は見るけど、明日からは櫻井さんに出して」
「わかりました」
「櫻井さん。山本君は勢いで進めるところがあるから、提出前の日付と数字だけは必ず確認させて」
『了解。陸、聞いた?』
「聞いています」
『返事だけじゃなくて、ちゃんと覚えてね』
「はい」
陽菜の言葉に、陸は素直にうなずいた。
次に彩花は、萌の方を見る。
「萌ちゃん」
「はい」
「昨日の資料、修正できた?」
「できました。日高先輩にも提出しています」
「そう」
「……彩花さんにも、見てもらっていいですか」
萌が資料を差し出す。
彩花は受け取り、最後まで目を通した。
数字の根拠が明記され、推測と事実もきちんと分けられている。
「いいと思う」
「本当ですか」
「私が直してって言ったところは、ちゃんと直ってる。あとは日高の判断」
彩花は資料を返した。
萌はそれを受け取ったあとも、その場を離れなかった。
「明日からも、相談していいですか」
「総務の仕事に支障がない範囲なら」
「はい」
「でも、最初に相談する相手は私じゃない」
彩花の視線が、樹里へ向く。
樹里は少し離れた席で、高槻興産へ提出する資料を確認していた。
「教育担当は日高だから」
「……はい」
「不満があるなら、黙って抱えない。わからないことも、聞かないまま決めつけない」
萌は樹里の横顔を見る。
「言ってもいいんでしょうか」
「言われて困るなら、教育担当なんて引き受けなければいいの」
彩花は平然と言った。
聞こえていたのだろう。
樹里が資料から目を上げる。
『彩花。最後の日まで余計なことを言うな』
「私がいなくなってから困らないように、引き継いでるだけ」
『川原さんの教育まで引き継ぐ必要はない』
「なら、あんたがちゃんとやりなさい」
彩花と樹里の視線がぶつかる。
周囲の社員が、気まずそうに仕事へ戻った。
しかし萌だけは、2人から目を逸らさなかった。
険悪に見える。
言葉だけを聞けば、喧嘩をしているようにも思える。
それでも、どちらも本気で相手を拒絶してはいない。
簡単には譲らない。
互いの言葉だからこそ、聞き流すこともできない。
それが、2人の距離なのだと少しずつわかってきた。
『川原さん』
「はい」
突然呼ばれ、萌の背筋が伸びる。
『あとで、その資料について話します』
「修正がありますか」
『修正もあります。ただ、その前に、川原さんがどこを見て考えたのかを聞かせてください』
萌が目を見開く。
樹里はすでに資料へ視線を戻していた。
『私から聞くべきことを、今まで聞いていませんでした』
「……わかりました」
萌は資料を抱き締めるように持った。
「よろしくお願いします」
彩花は何も言わなかった。
ただ、僅かに口元を緩めて、自分の仕事へ戻った。
午後5時。
彩花は最後のメールを送り、パソコンを閉じた。
営業部の中に、静かな緊張が生まれる。
黒澤が席を立った。
「森下さん」
「はい」
「営業部での勤務は今日までだ。明日からは総務部の一員として働いてもらう」
「はい」
「部署は変わるが、同じ会社だ。営業で見てきたことを、今度は別の場所から役立ててくれ」
「承知しました」
「今まで、お疲れ」
黒澤がそう告げると、営業部の社員たちから拍手が起こった。
彩花は一瞬だけ戸惑ったあと、小さく頭を下げる。
「ありがとうございました。明日からも同じ建物にいますので、大袈裟に見送らないでください」
『彩花さんらしくない!』
陽菜の声が飛ぶ。
『もっと泣きながら、みんなと離れたくありませんって言うところでしょ』
「一度も言ったことないでしょ」
『今日なら言ってもいいんだよ』
「言わない」
『冷たいなあ』
陽菜は笑っていた。
けれど、その目は少しだけ潤んでいる。
彩花はそれに気づいても、何も指摘しなかった。
終業後。
営業部の送別会は、会社近くの居酒屋で開かれた。
彩花は最後まで必要ないと言い張っていたが、陽菜が聞くはずもなかった。
『送別会じゃなくて、壮行会だから』
「名前を変えても同じでしょ」
『全然違うよ。彩花さんが次の場所に進むのを、みんなで送り出す会』
「勝手に進めたのは櫻井さんでしょ」
『うん。だから最後まで責任を持って盛り上げます』
「その責任はいらない」
彩花の前には、陽菜が注文した料理が次々と並べられていく。
中井はグラスの数を確認し、佐藤は空いた皿を端へ寄せていた。
凛と萌は彩花の近くに座り、陸は陽菜に頼まれて飲み物の追加注文をしている。
神谷は少し離れた席で、その賑やかな様子を穏やかに見ていた。
全員のグラスが揃う。
黒澤が立ち上がった。
「長く話しても森下さんが嫌がるから、短くする」
「助かります」
「明日から総務だからって、営業のことを忘れなくてもいい。ただし、向こうの仕事を後回しにして世話を焼くのは禁止だ」
「わかっています」
「営業部の人間も、簡単なことで森下さんを頼るな。自分たちで考えろ」
黒澤が全員を見渡す。
「森下さんの、新しい仕事に。乾杯」
「乾杯!」
グラスが重なった。
会が始まれば、いつもの飲み会と大きくは変わらなかった。
陽菜が話題を広げ、陸が巻き込まれ、中井がそれを止めようとして、逆に陽菜からからかわれる。
佐藤の一言に神谷が静かに突っ込み、凛と萌が顔を見合わせて笑う。
彩花は中心で騒ぐこともなく、その光景を眺めていた。
入社した頃、自分はもっと1人で働いているつもりだった。
誰かに負けたくない。
認められたい。
周囲へ弱みを見せれば、その分だけ置いていかれる。
そう思っていた。
樹里の周囲に人が集まるたび、苛立った。
大して喋りもしない。
愛想があるわけでもない。
それなのに、なぜ皆が樹里を見るのかわからなかった。
自分の方が努力している。
自分の方が、周囲に認められるべきだ。
いつしか樹里を、自分の中だけで敵にしていた。
それでも、樹里は一度も彩花を見下さなかった。
勝手に向けられた対抗心を笑わず、仕事で正面から受け続けた。
その関係は今も変わっていない。
変わったのは、彩花の方だった。
『彩花さん』
陽菜の声で、彩花は我に返る。
『これ、みんなから』
渡されたのは、小さな紙袋だった。
中には、落ち着いた色の革製のペンケースが入っている。
「……ありがとう」
『やっと素直に言った』
「お礼くらい言うわよ」
『大切に使ってね。みんなで選んだんだから』
「櫻井さんが勝手に決めたんじゃないの?」
『途中から、誰もあたしを止めなかっただけ』
「それを勝手に決めたって言うの」
彩花はペンケースを指で撫でた。
新しい部署でも使えるように。
そんな気持ちで選ばれたものだと、すぐにわかった。
『それと、もう1つ』
陽菜が色紙を差し出す。
彩花の動きが止まった。
「こういうのは要らないって言ったでしょ」
『聞いてない』
「言った」
『あたしの記憶にはないなあ』
「都合の悪いことだけ忘れないで」
『いいから、見て』
彩花は渋々、色紙を受け取った。
営業部の社員たちの文字が並んでいる。
お世話になりました。
総務でも頑張ってください。
また相談に乗ってください。
短い言葉の中に、それぞれの顔が浮かぶ。
陸からは、説明がわかりやすくて助けられたという感謝。
萌からは、声をかけてもらえたことで1人ではないと思えたという言葉。
凛からは、仕事への向き合い方を尊敬していると書かれていた。
中井や佐藤、神谷、黒澤の文字もある。
陽菜の言葉だけは、色紙の一角を無駄に大きく使っていた。
ずっと同じ会社にいるんだから、これからも遊んでください。
その下には、早くRoseにも来てください、と勝手な追記まである。
「櫻井さん、場所を取りすぎ」
『気持ちの大きさです』
「他の人の迷惑でしょ」
『ちゃんと全員分あるから大丈夫』
彩花は呆れながら、最後の空白へ視線を移した。
そこには、他の者よりも僅かに大きな文字があった。
飾り気のない、真っ直ぐな筆跡。
たった一行だけ。
『お前には負けない』
その下に、日高樹里と書かれていた。
彩花の指が止まる。
感謝ではなかった。
寂しいとも、頑張れとも書かれていない。
優しい言葉ですらない。
それでも彩花には、どの言葉よりも深く届いた。
部署が変わっても、樹里は自分を競う相手として見ている。
隣の席からいなくなっても、自分との勝負を終わらせるつもりはない。
彩花がずっと欲しかったのは、慰めでも称賛でもなかった。
樹里に、自分を見ていてほしかった。
同じ場所に立つ人間として。
追うだけではなく、追わせる相手として。
認めてほしかった。
「……何よ、これ」
彩花が呟く。
声が少しだけ震えた。
樹里は彩花を見たまま、静かに答える。
『書いてある通りだ』
「異動する人間に書く言葉じゃないでしょ」
『退職するわけではない。明日からも同じ会社にいる』
「だからって、他に何かあったでしょ」
『思いつかなかった』
「嘘」
彩花は色紙を見つめたまま、僅かに唇を噛んだ。
泣くつもりなどなかった。
営業部を離れるだけだ。
明日からも同じ建物へ出社する。
エレベーターで会うことも、仕事で関わることもある。
別れですらない。
それなのに、視界が少しずつ滲んでいく。
陽菜が、何も言わずに笑っている。
普段なら真っ先にからかうはずなのに、今だけは黙っていた。
彩花は顔を上げ、樹里を睨む。
「私が総務へ行ったくらいで、勝ったつもりにならないで」
『思ってない』
「営業成績だけが、仕事の全部じゃないから」
『知っている』
「今度は会社全体を見て、日高より大きな仕事をする」
樹里は僅かに目を細めた。
『やってみろ』
「必ずやる」
『楽しみにしてる』
彩花の目から、とうとう一筋だけ涙が落ちた。
すぐに手の甲で拭う。
「……本当に、腹が立つ」
『それはお互い様だ』
「いつか絶対、負けたって言わせるから」
『私も、負けるつもりはない』
2人の間に、握手も抱擁もなかった。
互いに頭を下げることもない。
ただ、正面から相手を見る。
入社した日から変わらない距離で。
以前とはまったく違う気持ちを抱きながら。
『彩花さん』
陽菜が我慢できなくなったように、横から抱きついた。
『あたしは普通に寂しい!』
「ちょっと、離して」
『総務に行っても毎日会いに行くからね』
「来なくていいって言ってるでしょ」
『Roseにも連れていくから』
「勝手に決めないで」
『美園さんとももっと仲良くなってほしいし』
「だから、まだ行くとは言ってない」
『大丈夫。日高先輩も一緒だから』
「それの何が大丈夫なのよ」
彩花は陽菜を引き剥がそうとした。
けれど、本気で力を入れることはなかった。
笑い声が広がる。
色紙を持つ彩花の手は、最後までそれを離さなかった。
翌日になれば、座る場所は変わる。
見る景色も、任される仕事も変わる。
それでも、ここで得たものまで置いていく必要はない。
彩花は色紙に書かれた一行を、もう一度見る。
そして誰にも聞こえないほどの声で、短く呟いた。
「負けるわけないでしょ」




