206話「頭の中」
昼休みを知らせる時刻になっても、萌は席を立たなかった。
机の上には、昨日から作成している資料が広がっている。
表通りには、短時間で利用できる飲食店や小売店。
人通りの少ない裏手には、予約制の店舗や小規模な事務所。
思いついた業種を並べるだけでなく、周辺人口や既存店舗、収益性と結びつけなければならない。
調べるほど、別の条件が出てくる。
一つの数字を確認すれば、さらに別の資料が必要になる。
萌は画面へ顔を近づけたまま、昼休みになったことにも気づいていないようだった。
「萌ちゃん」
声を掛けられ、ようやく顔を上げる。
彩花が、鞄を手に立っていた。
「はい」
「昼、行かないの?」
「もう少し進めてからにします」
「昨日も遅かったでしょ」
「大丈夫です」
「昼を抜いたら、午後に頭が動かなくなるよ」
「でも、明日の15時までなので」
「完成版を?」
「一度見せることになっています」
彩花は、萌の机に広げられた資料を見る。
区画ごとの特徴。
周辺施設。
想定する業種。
新人へ任せるには、決して簡単な仕事ではなかった。
「これ、日高から?」
「はい」
「そう」
彩花は短く答えると、萌のパソコンを閉じた。
「彩花さん?」
「食べに行くよ」
「まだ保存していません」
「自動保存されてるでしょ」
「そうですけど」
「一人で行きたくないから付き合って」
「でも――」
「先輩のお願い」
彩花は、それ以上の反論を許さず歩き出した。
萌は閉じられたパソコンと彩花の背中を交互に見る。
やがて諦め、財布を手に席を立った。
◇
二人が入ったのは、会社から歩いて数分の場所にある定食屋だった。
昼時の店内は混んでいたが、奥に二人分の席が空いている。
注文を済ませると、彩花は水を一口飲んだ。
「それで」
「何ですか?」
「何を抱えてるの?」
「何もありません」
「仕事が難しいだけ?」
「……はい」
「嘘」
彩花は迷わず言った。
「難しい仕事を任されたことだけが理由なら、あんな顔にはならない」
「どんな顔をしていましたか」
「誰にも声を掛けてほしくないのに、誰かに気づいてほしそうな顔」
萌は視線を落とした。
「そんな顔、していません」
「してたよ」
運ばれてきた定食が、二人の前へ置かれる。
彩花は箸を手に取った。
「食べながらでいいから話して」
「本当に、何もないです」
「なら、私が勝手に話す」
彩花は味噌汁へ口をつける。
「日高の教え方が、分かりにくいんでしょ」
萌の箸が止まった。
否定しようとした。
しかし、すぐには言葉が出なかった。
「日高は、説明が足りないから」
「でも、日高先輩は仕事ができる人です」
「それとこれとは別」
彩花は淡々と答える。
「仕事ができる人間が、教えるのも上手いとは限らない」
「陽菜さんは、山本にちゃんと説明しています」
「見てれば分かるね」
「できたことも、できなかったことも、その場で言っています」
「うん」
「日高先輩は……」
萌は口を閉じた。
本人のいない場所で不満を口にすることへの抵抗があった。
自分が未熟だから理解できないだけかもしれない。
それでも、胸の奥に溜まっていたものは消えなかった。
彩花は急かさず、食事を続けている。
「私のことなんて、見ていない気がします」
ようやく、萌が言った。
「仕事を渡して、そのあとは神谷さんと高槻興産へ行ってしまいます。戻ってきても、問題があるかないかしか言われません」
「うん」
「昨日の資料も、何日もかけて調べました。でも、戻ってきたのは修正点だけでした」
「使うとは言われた?」
「言われました」
「どこで?」
「高槻興産の中間確認です」
「正式な資料として?」
「たぶん……そうだと思います」
彩花は箸を止め、萌を見る。
「日高が、新人の資料を大型案件の中間確認に使ったんだ」
「必要な数字があったからだと思います」
「使えない資料なら、必要な数字があっても使わないよ」
「でも」
「だから日高は正しい、とは言わない」
彩花は先回りして、萌の言葉を止めた。
「評価しているなら、本人へ伝えないと意味がない。萌ちゃんが不満に思うのは当然だよ」
樹里を庇われると思っていた。
自分の受け取り方が間違っていると、諭されるかもしれないと思っていた。
しかし彩花は、萌の不満を否定しなかった。
「彩花さんも、日高先輩を分かりにくいと思うんですか?」
「思うよ」
「同期なのに?」
「同期だから」
彩花は僅かに笑う。
「私も、昔から何度も腹が立ってる。何を考えているのか言わないくせに、周りには人が集まるし、結果だけは出すから」
「嫌いなんですか?」
「嫌いだった」
過去形だった。
「入社した頃はね。勝手に目障りだと思って、勝手に負けたくないと思ってた」
「今は?」
「今も負けたくはないよ」
彩花は迷わず答えた。
「認めてるから、余計に負けたくない」
萌は、意外そうに彩花を見る。
「日高先輩も、彩花さんのことをそう思っているんでしょうか」
「本人に聞いて」
「聞けません」
「私も聞かない」
「どうしてですか?」
「言葉で確認したら、負けたみたいで嫌だから」
彩花らしい答えに、萌は僅かに笑った。
張り詰めていた表情が、ほんの少し緩む。
「日高は、見ていない相手に難しい仕事を渡さないよ」
彩花が言った。
「どうして、そう思うんですか」
「できないと思った相手には、できる範囲のことしかさせないから」
「では、期待されているということですか」
「たぶんね」
「たぶん……」
「私は日高じゃないから、断言はできない」
彩花は水を一口飲む。
「ただ、今の仕事を萌ちゃんに任せたのは、現地を見たからだけじゃないと思う」
「ほかに何がありますか?」
「見たものから、自分で考えられると思ったから」
樹里から言われた言葉が蘇る。
『あなたが見たものを、仕事へ繋げてください』
萌は、その言葉を突き放されたものとして受け取った。
だが別の意味があったのかもしれない。
「それなら、そう言ってくれればいいのに」
「その通り」
彩花は、あっさり同意する。
「期待しているなら、そう言えって話だよ」
萌は俯いた。
不満が消えたわけではない。
樹里が何を考えているのかも、まだ分からない。
それでも、自分は何も見られていないという確信だけが、僅かに揺らいだ。
「彩花さん」
「何?」
「この話、日高先輩には言わないでください」
「言わないよ」
「本当ですか?」
「相談された内容を、そのまま本人へ話したりしない」
「ありがとうございます」
「ただし」
彩花は萌を見る。
「分からないまま限界まで抱え込むのも駄目。日高に聞けないなら、ほかの先輩に聞いてもいい」
「教育担当が違ってもですか?」
「同じ営業部でしょ」
彩花は店内の時計を確認し、残っていた食事へ箸を伸ばす。
「日高と神谷さんがいなければ、陽菜さんでも、中井くんでも、佐藤くんでもいい。私でもいい」
「迷惑ではありませんか?」
「新人が一人で詰まってるのを放っておく方が問題だよ」
萌は小さく頷いた。
「分かりました」
「それと、昼は食べること」
「はい」
「今日は私が連れ出したけど、明日から自分で行って」
「はい」
「返事だけは素直だね」
「返事だけって何ですか」
萌が僅かに頬を膨らませる。
彩花は、その顔を見て笑った。
◇
午後。
萌は自分の席へ戻ると、資料を開いた。
彩花に話す前と、仕事内容は何も変わっていない。
期限も、求められている結果も同じだ。
それでも、画面へ向かう息苦しさは少しだけ薄れていた。
「萌」
陽菜が資料を手に近づいてくる。
『昨日の夜、大丈夫だった?』
「何がですか?」
『遅くまで残ってたでしょ。今日も昼まで席にいたし』
「見ていたんですか」
『見えるよ。同じ部屋にいるんだから』
「……大丈夫です」
『本当に?』
「さっき、彩花さんと昼を食べてきました」
陽菜は少し離れた席にいる彩花を見る。
彩花はパソコンへ向かったまま、こちらを見なかった。
『そっか』
「はい」
『なら、今は聞かない』
陽菜は萌の机へ、小さな菓子を一つ置いた。
『でも、困ったらあたしにも言って。教育担当じゃなくても、同じ営業部だから』
昼食の席で、彩花にも同じことを言われた。
萌は菓子を見つめ、それから陽菜を見る。
「ありがとうございます」
『うん。あと、陸がうるさかったら言って。あたしが止めるから』
「聞こえてますよ」
陸が隣の席から顔を上げる。
『聞こえるように言った』
「僕、何もしてないじゃないですか」
『萌の邪魔しそうな顔してた』
「どんな顔ですか」
『これから話し掛けようかなって顔』
「……少し聞きたいことはありました」
『ほら』
「でも、今はやめます」
陸は素直に画面へ戻った。
萌は小さく笑い、机に置かれた菓子を引き出しへしまった。
一人で仕事をしている。
そう思っていた。
けれど、本当に誰も見ていなかったわけではない。
◇
夕方。
樹里が資料室から戻ると、彩花が通路に立っていた。
『どうした』
「待ってた」
『私を?』
「少しだけ話がある」
『何』
樹里はその場で足を止める。
彩花は周囲を確認してから、声を僅かに落とした。
「日高。後輩に仕事を任せるとき、どうしてその人へ任せたのか説明してる?」
『必要な条件は伝えている』
「条件の話じゃない」
『では、何の話だ』
「お前が、その人をどう見てるか」
樹里が僅かに眉を寄せる。
『誰かに何か言われたのか』
「別に」
『なら、どうして急にそんな話をする』
「見ていて思っただけ」
彩花は樹里から目を逸らさない。
「お前は、自分が分かっていることなら、相手にも伝わっていると思いすぎ」
『思っていない』
「思ってるよ」
『根拠は』
「何年同期やってると思ってるの」
樹里は黙った。
「仕事を渡すことが信頼だと思ってる。細かく修正することが期待だと思ってる。でも、受け取る側は、お前の頭の中まで読めない」
『……川原さんのことか』
「誰とは言ってない」
『今の状況で、ほかにいない』
「なら、自分で考えて」
『彩花』
「相談された内容を、そのまま話すつもりはない」
その一言で、樹里は追及を止めた。
彩花は萌から、何かを聞いた。
だが、何を言われたのかまでは明かさない。
それは萌との間で守るべきものなのだろう。
「一つだけ言っておく」
『何』
「正しく評価していても、本人に届かなければ、評価していないのと同じだから」
彩花はそれだけ言い残し、自分の席へ戻ろうとした。
『彩花』
「何?」
『……分かった』
短い返事だった。
彩花は振り返らない。
「本当に分かったなら、言葉にしなよ」
樹里は、その背中を見送った。
萌の席へ視線を向ける。
画面に集中し、資料を作り続けている。
樹里はすぐに声を掛けようとした。
しかし、何を言えばいいのか分からず、足が止まった。
期待している。
できると思っている。
だから任せた。
それを口にするだけのことが、樹里には難しかった。
「日高さん」
事務員に呼ばれ、樹里は振り返る。
「黒澤部長がお呼びです」
『分かりました』
樹里はもう一度、萌を見る。
結局、何も言えないまま部長席へ向かった。
◇
その少しあと。
「森下さん」
黒澤が彩花を呼んだ。
「はい」
「今、少しいいか」
「大丈夫です」
「会議室へ来てくれ」
黒澤は一枚の書類を手にしていた。
表紙には、人事に関する文字が見える。
彩花は僅かに眉を寄せた。
「何かありましたか?」
「中で話す」
黒澤が先に会議室へ入る。
彩花も、そのあとに続いた。
扉が閉まる。
まだ営業部の誰も知らない。
萌と樹里の間へ、細い道を繋いだばかりの彩花が、間もなくこの部署を離れることを。




