207話「異動」
会議室へ入ると、黒澤は扉を閉めた。
彩花は勧められた椅子へ座る。
机を挟んだ向かいに腰を下ろした黒澤は、手にしていた書類を置いた。
「急に呼んで悪かったな」
「いえ」
「まだ正式発表前だ。ここで聞いたことは、明日の朝まで誰にも話さないでくれ」
その前置きだけで、通常の業務連絡ではないと分かった。
「分かりました」
黒澤は一度、書類へ視線を落とした。
「12月1日付で、森下さんに総務部へ異動してもらいたい」
彩花は、すぐには反応できなかった。
「……私がですか?」
「ああ」
「どうしてですか」
「総務部から、営業の現場を理解している人間が欲しいと要望があった」
「それで、私ですか」
「俺が推薦した」
彩花の眉が僅かに動く。
「黒澤部長が?」
「そうだ」
「私は、総務の経験がありません」
「最初から経験者だけを求めているわけじゃない。営業部とほかの部署を繋げられる人間が必要なんだ」
「繋げる……」
「今、社内の手続きや情報共有を見直してる。だが、総務の中だけで制度を作っても、現場で使えなければ意味がない」
黒澤は彩花を見る。
「営業の人間が、どこで困るのか。新人が、何を分からないまま仕事をしているのか。上にいる人間が見落としていることを拾える人間が必要だ」
「それが、私だと?」
「ああ」
「買い被りではありませんか」
「森下さんは、相手が誰でも必要なことを言える」
「言い方がきついと言われることはあります」
「黙って見過ごすよりいい」
黒澤は腕を組む。
「それに、数字だけで人を見ない。最近は特にな」
昼食を取らずに働いていた萌。
誰も頼んでいないのに、席から連れ出した。
黒澤がその場面を見ていたのかは分からない。
だが、彩花が以前とは少し変わったことには気づいていた。
「これは、営業から外されるということですか?」
彩花は、まっすぐに尋ねた。
遠回しな言葉は使わない。
「違う」
黒澤も、迷わず否定した。
「森下さんの営業成績に問題はない。むしろ、安定して結果を出している」
「では、なぜ私を動かすんですか」
「結果を出せる人間を、同じ場所に置き続けることだけが評価じゃないからだ」
彩花は黙った。
「総務部へ行けば、営業とは違う仕事を一から覚えることになる。楽ではない」
「はい」
「今まで積み上げたものが、無駄になったように感じるかもしれない」
「……そうですね」
「だが、営業を知っていることは向こうでも武器になる。俺は、森下さんならやれると思っている」
黒澤は書類を彩花の前へ滑らせた。
「もちろん、何も考えずに受けろとは言わない。今日一日は考えていい」
「断ることもできるんですか?」
「希望を聞く余地はある。ただ、俺としては行ってほしい」
彩花は書類へ視線を落とす。
総務部。
これまで、自分が進もうと考えたことのない場所だった。
営業として数字を上げる。
顧客から選ばれる。
隣にいる樹里へ負けない。
そのことばかり考えてきた。
「日高ではなく、私を選んだ理由を聞いてもいいですか」
口にしてから、自分でも情けない質問だと思った。
異動の話をされているのは自分だ。
それでも、樹里との比較から完全には離れられなかった。
黒澤は呆れなかった。
「日高さんは、高槻興産の案件がある」
「それがなければ、日高を選びましたか?」
「選ばない」
即答だった。
彩花が顔を上げる。
「どうしてですか」
「今回、総務部に必要なのは、森下さんだからだ」
黒澤は、はっきりと言った。
「日高さんには日高さんの強みがある。森下さんには、森下さんにしかできないことがある。そこを比べるつもりはない」
彩花は、もう一度書類を見る。
樹里の代わりではない。
営業部で不要になったわけでもない。
自分を見た上で、黒澤は推薦した。
「少し、考えさせてください」
「ああ。明日の朝、返事を聞かせてくれ」
「分かりました」
彩花は書類を手に立ち上がる。
会議室を出る直前、黒澤がもう一度呼び止めた。
「森下さん」
「はい」
「異動しても、同じ会社だ」
「分かっています」
「顔が、今生の別れみたいになってるぞ」
「なっていません」
「ならいい」
彩花は小さく頭を下げ、会議室を出た。
◇
営業部へ戻る。
いつもと同じ景色だった。
電話に応対する中井。
資料を確認している佐藤。
陽菜の隣で、内見候補の物件を探している陸。
そして、画面へ向かい続ける萌。
樹里は、神谷と高槻興産の資料について話している。
12月になれば、この席から離れる。
同じ社内にはいる。
それでも、毎日この景色を見ることはなくなる。
「彩花さん」
萌に呼ばれ、彩花は足を止めた。
「どうしたの?」
「昨日の話なんですけど」
「うん」
「少しだけ、資料を見てもらえませんか」
昼食の席で伝えた。
教育担当でなくても、同じ営業部の先輩へ頼っていい。
萌は、それを実行しようとしている。
「いいよ」
彩花は萌の隣へ立った。
画面には、区画ごとに想定する業種と、その根拠がまとめられていた。
「ここなんですけど、周辺人口だけで生活支援の窓口が必要だと判断するのは、根拠が弱いでしょうか」
「弱いね」
「やっぱり、そうですよね」
「近隣に同じサービスがあるか調べた?」
「既存店舗までは調べました。でも、訪問型のサービスはまだです」
「なら、そこまで調べた方がいい。店舗がなくても、すでに地域が満たされている可能性があるから」
「分かりました」
「それから、利用者だけじゃなくて、働く側も見た方がいいよ」
「働く側?」
「裏手は人通りが少ないんでしょ。夜まで女性一人になる業種なら、防犯面で避けられるかもしれない」
萌は、すぐにメモを取る。
「ありがとうございます」
「ほかは?」
「今は大丈夫です」
「そう」
彩花は自分の席へ戻ろうとする。
「彩花さん」
「何?」
「昨日、声を掛けてもらえてよかったです」
彩花の足が止まる。
「昼を食べただけでしょ」
「それでもです」
「大げさ」
彩花は振り返らず、自分の席へ戻った。
総務部へ異動する。
その話を、今ここで萌に伝えることはできない。
まだ正式発表前だった。
席へ着くと、樹里と目が合った。
樹里は何も言わない。
だが、彩花が会議室から戻って以降、何度かこちらを見ていた。
「何?」
『別に』
「気になるなら聞けば?」
『今は聞かない』
「珍しい」
『明日になれば分かる話だろ』
黒澤に呼ばれたことを見ていたらしい。
それでも、正式に話せるまで待つ。
樹里は、そういうところだけは余計に踏み込まなかった。
◇
その夜。
彩花は自宅のテーブルに、異動の書類を置いていた。
断れば、営業部に残れる可能性はある。
慣れた仕事。
積み重ねてきた実績。
樹里と競い続けられる場所。
それを離れることが、怖くないわけではなかった。
総務部へ行けば、一から覚え直さなければならない。
営業成績のように、結果が数字で見えるとも限らない。
自分がどこまで通用するのか、分からなかった。
だからこそ、挑む価値がある。
彩花は書類を見つめたまま、樹里の顔を思い浮かべる。
入社した頃から、勝手に競ってきた。
感情も言葉も多くないのに、周囲には自然と人が集まる。
その姿を見るたび、自分が劣っている気がした。
負けたくなかった。
今も、その気持ちは変わっていない。
「部署が変わったくらいで、終わるわけじゃない」
彩花は一人で呟いた。
営業部に残らなければ、樹里と競えないわけではない。
違う部署で結果を出し、会社全体を動かせる人間になればいい。
彩花はスマートフォンを手に取った。
黒澤へ、明日の朝に伝えるつもりだった返事を、会社のメールで送る。
「総務部への異動を、お受けします」
送信したあとも、不安は消えなかった。
それでも、後悔はなかった。
◇
翌朝。
始業前の営業部で、黒澤が立ち上がった。
「仕事を始める前に、一つ話がある」
社員たちが顔を上げる。
「12月1日付で、森下さんが総務部へ異動することになった」
室内が静まり返る。
『えっ、彩花さんが?』
最初に声を上げたのは陽菜だった。
「そう」
彩花は自分の席から立ち上がる。
「昨日、内示を受けました。急な話ですが、異動までの間に引き継ぎを終わらせます。よろしくお願いします」
『どうして総務部なんですか?』
「向こうから、営業経験のある人間が欲しいと要望があったから」
黒澤が答える。
『もう戻ってこないんですか?』
「同じ会社なんだから、会おうと思えば毎日会えるでしょ」
『でも、同じ営業部じゃなくなるじゃないですか』
「死ぬわけじゃないんだから、そんな顔しないで」
陽菜は不満そうに唇を尖らせた。
萌は、何も言えなかった。
昨日、ようやく彩花へ相談できた。
これからも頼っていいと言われた。
その相手が、もうすぐ営業部を離れる。
自分が引き留められる話ではない。
それでも、胸の奥に小さな寂しさが生まれていた。
樹里は、立ち上がった彩花を見つめていた。
正式な発表が終わり、社員たちがそれぞれの仕事へ戻り始める。
樹里は彩花の席へ向かった。
『おめでとう』
「異動だよ。昇進じゃない」
『評価された結果だろ』
「そう言われた」
『なら、おめでとうでいい』
彩花は樹里を見る。
「悔しくないの?」
『何が』
「ライバルが営業部からいなくなる」
『部署が変わるだけだ』
「私が総務へ行っても、まだ競うつもり?」
『当然だ』
樹里は迷わず答えた。
『競う場所が変わるだけだろ』
彩花の口元が、僅かに緩む。
「そう」
『安心したか』
「別に」
『そうか』
「日高」
『何』
「私がいなくなったからって、気を抜かないで」
『それはこっちの台詞だ』
互いに笑いはしなかった。
それでも、二人の間に流れる空気は穏やかだった。
入社当初のように、相手を敵として睨んでいるわけではない。
認めている。
認めているからこそ、負けたくない。
その関係は、所属する部署が変わっても終わらなかった。
『送別会やろうよ』
陽菜が二人の間へ入ってくる。
「いらない」
『やる』
「まだ一か月近くいるんだけど」
『早めに日程決めないと、みんなの予定が合わないじゃん』
「大げさにしなくていいから」
『寄せ書きも作ろう』
「話を聞いて」
『凛ちゃんと柚希ちゃんにも声掛けるね』
「陽菜さん」
『美園さんにも来てもらおうかな』
「どうして美園さんまで来るの?」
『彩花さん、京都で仲良くなったでしょ?』
「同じ部屋だっただけ」
『美園さん、彩花さんのこと好きだと思うよ』
「勝手に話を広げないで」
陽菜はすでにスマートフォンを取り出している。
止める気はない。
彩花は諦めたように息を吐いた。
樹里は、そのやり取りを横で見ていた。
『諦めろ』
「日高が止めてよ」
『無理だ』
「同期でしょ」
『同期だから忠告してる』
彩花は陽菜を見る。
その周りでは、凛と柚希が送別会の日程について話し始め、陸も佐藤へ店を探すのかと尋ねている。
まだ異動まで時間はある。
同じ会社に残る。
それでも、離れることを惜しんでくれる人たちがいる。
以前の彩花なら、その輪の中へ素直に立つことはできなかった。
今も、少しだけ居心地が悪い。
けれど、嫌ではなかった。
「大げさにしないでよ」
もう一度だけ言った。
今度は、先ほどよりも声が柔らかかった。




