205話「任せる」
翌朝。
樹里は川原萌を、小さな会議室へ呼んだ。
机の上に置かれているのは、萌が作成した周辺調査の資料だった。
「失礼します」
『座ってください』
「はい」
萌が向かいへ座る。
樹里は資料を開き、夜間の人通りと周辺施設をまとめたページを示した。
『この資料を、もう一段掘り下げてもらいます』
「もう一段、ですか」
『はい』
樹里は別の資料を隣へ置く。
高槻興産が計画している区画の配置図だった。
『人通りが多い、少ないという結果だけでは、実際の誘致には使えません』
「分かっています」
『それぞれの区画に、どのような業種が適しているか。根拠と合わせてまとめてください』
「私がですか?」
『はい』
萌は配置図を見る。
以前の調査とは違う。
周辺を見て、数字を集めるだけでは終わらない。
集めた情報から、実際に何を誘致するのかを考えなければならない。
「想定する業種は、日高先輩の方で決まっているんですか?」
『決まっていません』
「では、私が一から考えるということですか?」
『そうです』
樹里の返事に迷いはなかった。
「私には、まだ難しいと思います」
『難しい仕事です』
「それでも、私に?」
『川原さんが現地を見ました。資料の数字だけではなく、時間帯による街の違いも知っています』
「だから私が考えるんですか」
『はい』
樹里は萌を見る。
『あなたが見たものを、仕事へ繋げてください』
期待している。
樹里は、そのつもりで言った。
しかし萌には、突き放されたように聞こえた。
見てきたのだから、あとは自分で考えろ。
そう言われた気がした。
「期限はいつですか?」
『明日の15時までに、一度見せてください』
「明日……」
『完成していなくても構いません。方向だけ確認します』
「分かりました」
『質問はありますか』
いくらでもあった。
どこまで具体的に書けばいいのか。
収益性を、どの程度まで考えるのか。
業種を選ぶ基準は何か。
けれど、それをすべて尋ねれば、自分には考える力がないと認めるような気がした。
「ありません」
『では、お願いします』
樹里は資料を萌へ渡す。
会議室を出ようとしたところで、扉の外から神谷に呼ばれた。
「日高さん。高槻興産から電話です」
『今、行きます』
樹里は萌へ小さく頭を下げ、すぐに会議室を出ていった。
残された萌は、一人で配置図を見つめる。
(また、いなくなる)
仕事を任されたことよりも、その事実の方が強く残った。
◇
午前中。
高槻興産から入った連絡を受け、神谷と樹里は急遽、現地へ向かうことになった。
出発前、樹里は萌の席へ立ち寄る。
『川原さん』
「はい」
『午後は戻れない可能性があります』
「そうですか」
『分からない点があれば、まとめておいてください。戻り次第確認します』
「今日中に戻れなかったら、どうすればいいですか?」
『神谷さんか私へ、会社のメールで送ってください』
「二人とも、高槻興産にいるんですよね?」
『確認はできます』
「分かりました」
『お願いします』
樹里は神谷とともに営業部を出ていく。
萌は、開いたばかりの資料へ視線を戻した。
分からない点をまとめておけと言われても、何が分からないのかさえ整理できていない。
隣の席を見る。
陽菜も、陸の内見へ同行するため、出かける準備をしていた。
萌は声を掛けようとして、やめた。
陽菜は自分の教育担当ではない。
それに、陸の仕事を邪魔したくなかった。
◇
『今日は、陸が案内して』
物件へ向かう途中、陽菜が言った。
「僕が全部ですか?」
『最初の説明から、部屋の案内まで』
「陽菜さんは?」
『隣にいるよ。でも、基本は口を出さない』
「まだ一人で案内したことはありません」
『だから今日やるの』
「失敗したら、どうするんですか」
『あたしがいるんだから、取り返せるよ』
陽菜は歩きながら、陸を見る。
『でも、最初から助けてもらうつもりでやったら怒るからね』
「分かっています」
『お客さんの話、ちゃんと覚えてる?』
「足の悪いお母様と住む予定です。駐車場が建物の入口に近いことと、病院へ行きやすいことを希望されています」
『うん。それだけ忘れなければ大丈夫』
「設備の説明は?」
『必要なものはして。でも、覚えたことを全部話そうとしないでね』
「どういう意味ですか?」
『部屋を見に来た人は、陸の暗記発表を聞きたいわけじゃないから』
「……はい」
『そこで暮らせるかを見に来てるの。相手の顔を見て』
物件の前では、先日電話を受けた女性と、その母親が待っていた。
陸は二人へ駆け寄り、頭を下げる。
「お待たせいたしました。島川不動産の山本です。本日はよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
女性の隣で、母親も小さく頭を下げた。
陽菜は少し後ろに立ち、二人を見守る。
陸は駐車場の位置から説明を始めた。
建物の入口までの距離。
段差の少ない経路。
近隣の病院と、最寄りのバス停。
昨日、自分で提案した理由を一つずつ伝えていく。
そこまでは順調だった。
部屋へ入る。
陸は緊張から、覚えてきた設備の説明を次々と始めた。
「こちらの給湯器は追い焚き機能がありまして、浴室乾燥機も備わっています。収納は各部屋に――」
女性は頷いている。
しかし母親は、玄関からほとんど動いていなかった。
陽菜は何も言わない。
陸は次の説明へ移ろうとしたところで、ようやく母親の様子に気づいた。
「何か、気になるところがありますか?」
「この段差が、少し高いかなと思って」
玄関と廊下の間には、僅かな段差がある。
若い人間なら、気にも留めない高さだった。
しかし、足の悪い人にとっては違う。
陸は説明を止めた。
「すみません。僕が先に確認すべきでした」
その場へしゃがみ、段差の高さを見る。
浴室にも、小さな段差がある。
トイレには手すりがない。
駐車場が近いことだけに気を取られ、部屋の中で暮らす人の動きまでは考えられていなかった。
「この物件を、そのままお勧めすることはできません」
女性が驚いたように陸を見る。
「でも、電話ではこちらがいいと」
「はい。駐車場と病院への距離だけを考えていました。室内の段差まで確認できていませんでした」
陸は立ち上がり、二人へ頭を下げる。
「申し訳ありません。もう一度、条件に合う物件を探させてください」
「今日、契約を勧めないんですか?」
「この部屋で不便があると分かったまま、勧めることはできません」
女性は母親を見る。
母親も、陸を見ながら僅かに笑った。
「正直に言ってくれて、ありがとう」
「いえ。確認が足りませんでした」
「また探してもらえますか?」
「はい。必ず探します」
契約には至らなかった。
それでも二人は、次も陸へ頼むと言ってくれた。
◇
物件を出たあと、陸は肩を落として歩いていた。
陽菜は隣にいるが、すぐには何も言わない。
「すみませんでした」
『何が?』
「段差に気づきませんでした」
『うん』
「電話のときは、できたと思っていました」
『駐車場のことに気づけたのは、よかったよ』
「でも、部屋の中まで考えられませんでした」
『だから今日、気づいたんでしょ?』
陸は陽菜を見る。
『契約を取ろうと思えば、そのまま勧めることもできた』
「それは駄目です」
『どうして?』
「住んでから困るのは、お客様だからです」
『うん』
陽菜は笑う。
『そこを自分で決められたなら、今日の案内は失敗だけじゃないよ』
「契約は取れませんでした」
『契約を取るだけが営業じゃない』
陽菜は立ち止まる。
『今日、あの二人は次も陸に頼むって言ったでしょ?』
「はい」
『それは、部屋じゃなくて陸を信用したってことだよ』
陸は、すぐには答えなかった。
契約を取れなかった。
だから失敗したと思っていた。
しかし、もう一度任せてもらえた。
それも確かな結果だった。
『次は、部屋へ入ってからの生活も考える』
「はい」
『今日できなかったこと、次はできるね』
「はい」
『じゃあ、一緒に探そうか』
「陽菜さんも探してくれるんですか?」
『教育担当だからね』
「さっき、基本は口を出さないって」
『次の物件を探すところは別。何でも一人でやれば偉いわけじゃないよ』
陸は僅かに笑った。
「分かりました。お願いします」
『うん。戻ったら条件整理しよう』
二人は並んで会社へ戻った。
◇
萌は一人で資料と向き合っていた。
現地で見たものを、仕事へ繋げる。
樹里の言葉を何度も思い返す。
表通りには、帰宅途中の会社員が多かった。
短時間で利用できる飲食店や、小売店。
裏手は人通りこそ少ないが、騒音も少ない。
予約制の店舗。
小規模な事務所。
昼間には、近隣に住む高齢者の姿も多かった。
地域に根づいた生活支援の窓口。
思いついた業種を並べる。
しかし、それだけでは単なる想像だった。
萌は周辺人口の年齢層、近隣施設の不足、既存店舗の営業時間を調べ始める。
数字と現地で見た光景を、一つずつ結びつけていく。
気づけば、昼休みもほとんど席を立たずに過ぎていた。
「川原さん。昼、食べた?」
戻ってきた陸が声を掛ける。
「まだ」
「もうすぐ休憩終わるよ」
「分かってる」
「何か買ってこようか?」
「大丈夫」
萌は画面から目を離さない。
陸は、机の上に広げられた資料を見る。
「難しそうだね」
「難しいよ」
「日高先輩から?」
「うん」
「手伝おうか?」
「山本に分かるの?」
「分からないけど、調べ物くらいなら」
萌は一瞬、陸を見る。
悪気がないことは分かっている。
それでも、今は優しさを受け取る余裕がなかった。
「自分の仕事をした方がいいよ」
「……分かった」
陸はそれ以上踏み込まず、自分の席へ戻った。
萌は小さく息を吐く。
自分でも、言い方が強かったと分かっている。
しかし謝ることもできず、再び資料へ視線を落とした。
◇
夕方になっても、樹里と神谷は戻らなかった。
萌は途中までまとめた資料を、会社のメールで樹里へ送る。
本文を何度も書き直した。
「現時点での案を送付します。確認をお願いします」
それだけを打ち、送信する。
返事が届いたのは、30分後だった。
「確認しました。方向性に問題はありません。明日、続きを相談します」
短い文章。
間違ってはいないらしい。
しかし、正しいとも言われていない。
萌は画面を見つめる。
(結局、何を考えてるのか分からない)
その頃、高槻興産の会議室では、樹里が萌の資料を開いていた。
隣にいる神谷へ画面を向ける。
『見てください』
「川原さんの案ですか?」
『はい』
表通りと裏手。
時間帯。
利用者層。
それぞれの条件から、適した業種が整理され始めている。
「一日で、ここまで考えたんですか」
『そうです』
「十分、形になっていますね」
『はい。明日、収益性を加えれば提案に使えます』
「かなり期待していますね」
樹里は画面を見つめたまま、短く答える。
『できますから』
それだけの期待を、まだ本人には伝えていない。
任せることが信頼だと、樹里は思っている。
言葉にしなくても、難しい仕事を渡した意味は伝わると思っている。
しかし萌が受け取ったのは、信頼ではなかった。
説明のないまま仕事を置かれ、一人にされたという感覚だけだった。
二人は同じ資料を見ている。
それでも、見えているものはまるで違っていた。




