204話「届かない評価」
ハロウィンから数日が過ぎた。
島川不動産の会議室では、高槻興産へ提出する中間資料の最終確認が行われていた。
机の上には、収支計画、周辺相場、想定される入居者層、工事工程に関する資料が並んでいる。
神谷は全体の進行を確認し、樹里は一枚ずつ数字と条件を照合していた。
「日高さん。収支計画の修正版です」
『ありがとうございます』
樹里は神谷から資料を受け取る。
二人の指先が、僅かに触れた。
ほんの一瞬。
どちらも表情を変えず、そのまま手を離す。
神谷は次の資料へ視線を移し、樹里も何事もなかったようにページをめくった。
仕事中に、あの夜のことを持ち込むつもりはない。
その点だけは、言葉を交わさなくても一致していた。
「川原さんがまとめた周辺相場の資料ですが、日高さんは確認しましたか」
『はい。比較条件の異なる物件が二件含まれていたので、修正をお願いしました』
「ほかは?」
『問題ありません。特に、駅からの距離だけでなく、周辺施設と夜間の人通りまで整理されていました。今回の資料に使えます』
「そこまで調べていたんですね」
『現地にも足を運んだようです』
「よく見ていますね」
『はい』
樹里は短く頷き、川原萌が作成した資料を中間報告書へ差し込んだ。
新人が作ったからといって、参考資料として脇へ置くことはしない。
必要な情報であれば、正式な資料へ組み込む。
樹里にとっては、それが評価だった。
しかし、その会話を萌は聞いていなかった。
◇
萌は、自分の席で修正作業を続けていた。
午前10時までに提出した資料は、30分後に戻ってきた。
付箋が二枚貼られている。
一枚目には、比較対象とした物件の築年数が揃っていないこと。
二枚目には、夜間人口に関する数値の出典が古いこと。
指摘は、どちらも正しかった。
萌自身、調べ直せば納得できる。
それでも、胸の奥には小さな引っ掛かりが残った。
「川原さん」
背後から樹里に呼ばれ、萌は振り返る。
「はい」
『修正をお願いします。終わり次第、神谷さんにも共有してください』
「分かりました」
『午後の中間確認で使用します』
「この資料をですか?」
『はい』
樹里はそれだけ答えると、次の書類へ視線を落とした。
萌は、何かを待った。
足りない点があるなら、もっと説明してほしい。
反対に、使える部分があったのなら、それも聞きたかった。
だが樹里から続く言葉はない。
「日高先輩」
『何ですか』
「……いえ。修正します」
『お願いします』
樹里は神谷に呼ばれ、萌の席を離れた。
萌は二枚の付箋を見る。
自分が何日もかけて調べた資料。
そこに残された樹里の言葉は、修正すべき二点だけだった。
(悪いところしか、見ていない)
午後の中間確認で使うと言われた。
それが、評価であることには気づかなかった。
使うなら使うで、必要だからだろう。
自分でなくても作れた資料だ。
萌には、そう思えてしまった。
◇
高槻興産の会議室には、高槻社長をはじめ、緒方と森山、数名の担当者が揃っていた。
島川不動産から出席したのは、神谷と樹里だった。
挨拶を済ませると、神谷が資料を開く。
「本日は、前回ご指摘いただいた内容を反映した中間案をご説明します」
「頼む」
高槻は椅子へ深く座り、腕を組んだ。
機嫌が悪いわけではない。
かといって、相手を安心させるような笑みも浮かべない。
提出されたものだけを見て判断する。
神谷は、高槻の態度に呑まれることなく説明を始めた。
収支。
今後の工程。
想定する入居者層。
一つずつ、必要な数字と根拠を示していく。
以前のように、すべてを自分の言葉だけで抱え込もうとはしない。
現場条件については樹里へ説明を譲り、質問があれば互いに補う。
二人の役割は、明確に分かれていた。
「想定賃料について、もう少し上げられないのか」
高槻が尋ねる。
「表通りに面した物件だけ見れば、引き上げる余地はあります」
神谷が答える。
「ただし、今回の区画全体に同じ条件を当てはめるのは難しいと判断しています」
「理由は」
神谷が樹里を見る。
樹里は周辺相場の資料を開いた。
『駅からの距離は同程度でも、夜間の人通りに大きな差があります』
高槻の前へ、資料を差し出す。
『表通り側は、飲食店の閉店後も一定の通行量があります。一方、裏手の区画は午後9時以降、人通りが大きく減少します』
「それで、区画ごとに賃料を変えるのか」
『はい。一律に引き上げれば、表面上の収益は増えます。ただ、裏手の空室期間が延びる可能性があります』
「安く貸せばいいという話ではないだろうな」
『違います』
樹里は迷わず答えた。
『裏手には、静かな環境を求める業種を誘致します。表通りとは別の価値を持たせた上で、賃料を設定します』
「具体的には」
『予約制の店舗や、小規模事務所を想定しています。夜間の人通りが少ないことを、欠点だけとして扱いません』
高槻は資料へ視線を落とす。
樹里が示しているのは、萌が調べた夜間の人通りと周辺施設の情報だった。
数秒の沈黙。
高槻は指先で資料を叩く。
「この調査は、誰がやった」
『弊社の新人です』
「新人?」
『はい』
「現地へ行ったのか」
『昼と夜、それぞれ確認しています』
高槻の口元が僅かに動いた。
「数字だけ拾って終わらなかったのはいい」
それは、高槻なりの評価だった。
「ただし、夜間の調査なら安全面も考えろ。新人一人で行かせたわけじゃないだろうな」
『一人での調査ではありません』
「ならいい」
高槻は次のページをめくる。
「続きを聞かせろ」
神谷と樹里は視線を交わし、説明を再開した。
◇
中間確認が終わる。
緒方が資料を閉じ、神谷へ向き直った。
「前回より、かなり整理されましたね」
「ありがとうございます」
「質問への返答も早かったです」
「日高さんと役割を分けた結果です」
神谷は、当然のように答えた。
一人で抱え込み、倒れた。
その失敗を、もう繰り返さない。
緒方も、その変化に気づいていた。
「神谷さん、少し雰囲気が変わりましたね」
「そうですか」
「はい。前は、何を聞いても全部一人で答えようとしていました」
「その結果、一度ご迷惑をお掛けしましたから」
「倒れたことですか?」
「はい」
神谷は、その事実を誤魔化さなかった。
「一人で抱えることと、責任を持つことは違うと教えられました」
緒方の視線が、隣にいる樹里へ向く。
樹里は資料を鞄へ収めている。
「日高さんに?」
「はい」
神谷は短く答えた。
そこに、恋愛感情を持ち込むことはしない。
仕事の上で、必要なことを教えられた。
それだけを正しく伝えた。
「いい相棒ですね」
「はい」
今度の返事には、迷いがなかった。
少し離れた場所では、森山が樹里へ声を掛けていた。
「日高さん」
『はい』
「先日の件は、すみませんでした」
樹里は森山を見る。
仕事の連絡へ、個人的な誘いを混ぜた件だった。
『もう終わったことです』
「ありがとうございます。今後は、仕事の範囲を越えません」
『お願いします』
「それと、今日の説明は分かりやすかったです」
『ありがとうございます』
「夜間の人通りまで調べるのは、日高さんの指示ですか?」
『最初の項目は私が決めました。ただ、周辺施設との関係まで調べたのは川原さんです』
「先ほど言っていた新人の方ですね」
『はい』
「優秀ですね」
樹里は僅かに頷く。
『まだ粗い部分はあります。ただ、よく見ています』
「日高さんがそこまで言うなら、期待されているんですね」
樹里は答えなかった。
期待している。
だからこそ、細かな誤りまで見逃さず指摘している。
今の萌なら、直せると思っている。
しかし、その期待を本人へ言葉で伝えたことはなかった。
◇
その頃、島川不動産では、陽菜が陸の電話対応を隣で聞いていた。
「はい。先日ご案内した山本です」
陸は受話器を握り、相手の言葉をメモへ書き留める。
「駐車場の位置ですね。確認しますので、少々お待ちください」
保留ボタンを押す。
「陽菜さん。先日の物件なんですけど」
『うん』
「敷地内の駐車場が埋まっていて、近隣の月極を案内する予定でしたよね」
『そうだね』
「お客様が、足が悪いご家族と一緒に住むそうなんです。距離がある駐車場だと、難しいかもしれません」
陽菜は、すぐには答えを教えなかった。
『陸は、どうしたい?』
「別の物件も提案したいです。駅からは少し離れますけど、建物の入口に近い駐車場が一台空いています」
『それだけ?』
「近くに病院もあります。今のお客様なら、最初に案内した物件より合っていると思います」
『じゃあ、そう伝えてみな』
「勝手に別の物件を出しても大丈夫ですか?」
『勝手じゃないよ。ちゃんと相手の話を聞いて、理由があって提案するんでしょ?』
「はい」
『なら、自信持って』
「分かりました」
陸は保留を解除する。
相手へ謝意を伝えたあと、別の物件を提案した。
電話口の声に耳を傾けながら、必要な情報を一つずつ説明していく。
やがて内見の日程が決まった。
「ありがとうございます。それでは当日、よろしくお願いいたします」
電話を切る。
陸は長く息を吐いた。
『陸』
「はい」
『よく気づいたね』
陽菜は、はっきりと言った。
『駐車場があるかだけじゃなくて、誰が使うのかまで聞けてた。今の提案、よかったよ』
「ありがとうございます」
『最初の頃なら、あたしに答えを聞いてたでしょ?』
「……はい」
『今回は、自分で別の物件まで考えた』
陽菜は陸の肩を軽く叩く。
『成長したじゃん』
陸の顔に、素直な笑みが浮かんだ。
「陽菜さんの教え方がいいからです」
『それは知ってる』
「自分で言うんですね」
『事実だからね』
陽菜が笑い、陸もつられて笑った。
その会話を、萌は少し離れた席で聞いていた。
陸が褒められている。
同期が成長していることは、嬉しい。
それでも、自分の胸には別の感情が生まれていた。
陽菜は、陸の何がよかったのかを言葉にした。
以前との違いまで伝えた。
樹里から自分に返ってきたのは、二枚の付箋と修正の指示だけだった。
萌は作業を終えた資料を見つめる。
自分も、現地へ足を運んだ。
夜まで残って、人通りを確認した。
周辺の店にも入り、客層を見た。
そこまでしたことを、樹里は知っているのだろうか。
(私のことなんて、見ていない)
萌は、そう思った。
樹里が高槻社長の前で、萌の仕事を自分のものにしなかったことを知らない。
森山に、よく見ていると評価していたことも知らない。
届かなければ、評価は存在しないのと同じだった。
◇
夕方。
神谷と樹里が会社へ戻ってきた。
樹里は自分の席へ着くより先に、萌のもとへ向かう。
『川原さん』
「はい」
『修正版を確認しました』
「何か問題がありましたか」
『ありません。このまま使用します』
「そうですか」
『ありがとうございました』
「……はい」
樹里は小さく頭を下げ、神谷に呼ばれて会議室へ向かった。
萌は、その背中を見送る。
問題がない。
使う。
その二つが、樹里なりの高い評価だとは思えなかった。
せめて一言。
どこがよかったのか、何に役立ったのか。
それを聞きたかった。
けれど、追い掛けてまで求めることはできなかった。
褒めてほしいと口にすれば、自分が幼く見える気がした。
会議室へ入った樹里は、神谷へ萌の資料を差し出す。
『高槻社長からも評価をいただきました。今後の調査項目を、川原さんへ任せたいと思います』
「いいと思います」
『次は、現地条件と想定業種を結びつけてもらいます』
「難易度を上げるんですね」
『できます』
樹里は迷わず答えた。
『川原さんなら、できます』
その言葉は、会議室の外にいる萌には届かなかった。




