203話「翌朝」
ハロウィン翌日の営業部には、いつもと変わらない朝が訪れていた。
パソコンが起動する音。
電話の呼び出し音。
社員同士が交わす挨拶。
昨夜、Roseで何があったとしても、会社へ来れば仕事が始まる。
そのはずだった。
『ねえ、聞いて』
給湯室へ入ってきた柚希と凛を待ち構えていたように、陽菜が口を開いた。
「何?」
『昨日、中井くんが初めて、あたしのことを“陽菜”って呼んだ』
柚希が目を丸くする。
「呼び捨て?」
『うん』
「よかったじゃん」
『でも、一回だけ』
「普段は、陽菜さんだもんね」
『もう一回呼んでって頼んだら、戻っちゃった』
「どういうときに呼ばれたんですか?」
凛が何気なく尋ねる。
陽菜は少しも恥ずかしがらずに答えた。
『中井くんが、一番余裕なくなったとき』
凛の手が止まる。
柚希は数秒考えたあと、意味を理解して顔を赤くした。
「それって……」
『うん。それ』
「陽菜さん、朝の会社で何を話してるの?」
『聞かれたから答えただけじゃん』
「そこまで答えなくてもいいでしょ」
『だって嬉しかったんだもん』
陽菜は本当に嬉しそうだった。
恥ずかしい出来事を暴露しているという感覚が、ほとんどない。
隠す必要のない幸せを、そのまま言葉にしている。
「でも、中井さんが聞いたら困ると思います」
凛が給湯室の入口を見る。
そこには、コーヒーカップを手にした中井が立っていた。
「……もう聞いています」
陽菜が振り返る。
『おはよう、中井くん』
「おはようございます、陽菜さん」
『昨日は陽菜って呼んでくれたのに』
「陽菜さん」
『戻ってる』
「会社ですから」
『家でも戻ってたじゃん』
「お願いですから、その話はもう終わりにしてください」
「中井さん、顔が真っ赤ですよ」
柚希が笑う。
「早川さんまで、面白がらないでください」
『中井くん、可愛いでしょ?』
「僕の話を本人の前でしないでください」
『本人がいないところならいいの?』
「そういう問題ではありません」
『じゃあ、どういう問題?』
「陽菜さんが話しすぎることが問題です」
『好きな人の話をしたいのは普通じゃない?』
「それは……」
中井は言葉に詰まった。
陽菜は満足そうに笑い、その腕へ自分の腕を絡める。
『ねえ。今、陽菜って呼んでみて』
「呼びません」
『一回だけ』
「呼びません」
『昨日は呼んだのに』
「昨日は昨日です」
『また余裕なくさないとダメ?』
「櫻井さん!」
給湯室の外から、黒澤の声が飛んできた。
「朝から何の話をしてるんだ」
陽菜が入口から顔を出す。
『中井くんが昨日――』
「陽菜さん」
中井が慌てて止める。
黒澤は二人を交互に見たあと、面倒そうに眉間を押さえた。
「内容は言わなくていい。仕事を始めろ」
『はーい』
「中井も、いつまでも赤くなってないで席に戻れ」
「はい」
中井はコーヒーを淹れることすら忘れ、そのまま給湯室を出ていった。
陽菜は、その背中を見ながら笑っている。
「本当に言うんですね」
凛が呆れたように呟く。
『何を?』
「昨日のことです」
『嬉しかったからね』
「中井さんは、しばらく給湯室に来られないと思う」
柚希も苦笑した。
『じゃあ、あたしがコーヒー持っていってあげよう』
「追い打ちにならない?」
『大丈夫だよ。中井くん、あたしのこと大好きだから』
そう言い切る陽菜に、迷いはなかった。
その信頼があるからこそ、どこまでも遠慮なくからかえる。
以前の陽菜は、誰かに愛されていることを、これほど自然には口にできなかった。
今では中井の愛を疑うことなく、それを人前でも堂々と自慢している。
凛と柚希は顔を見合わせ、同時に笑った。
◇
樹里が出社してきたのは、その少しあとだった。
『おはようございます』
「おはようございます」
周囲へ挨拶を返し、自分の席へ向かう。
普段と変わらない。
表情にも、歩き方にも、不自然なところはなかった。
ただ一つ。
席へ着く直前、樹里の指先が僅かに自分の唇へ触れた。
すぐに離れたため、誰も気づかないはずだった。
『日高先輩』
陽菜を除けば。
樹里の手が止まる。
『何ですか』
『昨日、神谷さんと何かありました?』
『送っていただいただけです』
『本当に?』
『本当です』
『じゃあ、何で唇触ってたの?』
樹里の表情は変わらない。
しかし、書類を取り出そうとしていた手が僅かに止まった。
『触っていません』
『触ってたよ』
『見間違いです』
『キスした?』
『櫻井さん』
低い声だった。
陽菜は口元を押さえながら、一歩だけ後ろへ下がる。
『質問しただけじゃん』
『仕事をしてください』
『否定しないんだ』
『櫻井さん』
『はい。仕事します』
陽菜は素直に自分の席へ戻った。
けれど、その顔には確信に近い笑みが浮かんでいる。
樹里はパソコンを起動しながら、離れた席にいる神谷へ視線を向けた。
ほぼ同時に、神谷も顔を上げる。
目が合う。
昨夜を思い出したのは、二人とも同じだった。
神谷が先に小さく頭を下げる。
樹里も僅かに頭を下げ、すぐに画面へ視線を戻した。
会話はない。
それでも二人の間には、昨日までなかったものが残っていた。
◇
「佐藤くん、おはよう」
『おはようございます』
出社してきた佐藤へ陽菜が声を掛ける。
佐藤は自分の席へ向かいながら、僅かに緩んだ表情をしていた。
眠そうなわけではない。
疲れているようにも見えない。
ただ、何かを思い出すたびに口元が緩んでしまう。
陽菜は、その顔を見逃さなかった。
『昨日、閉店後も手伝ったんだよね?』
「はい。洗い物をしただけです」
『本当に、それだけ?』
「それだけです」
『美園さん、ずっとメイド服だった?』
佐藤の足が止まる。
『へえ』
「何ですか」
『まだ何も言ってないよ』
「顔が何か言っています」
『メイドさんに、特別なご奉仕でもしてもらったのかなって』
「櫻井さん」
佐藤の顔が一気に赤くなる。
陽菜は目を見開き、すぐに笑みを深くした。
『今の反応、何?』
「何でもありません」
『当たった?』
「当たっていません」
『どんなご奉仕?』
「知りません」
『佐藤くん』
「仕事を始めます」
佐藤は逃げるように自分の席へ向かう。
その途中で、神谷と目が合った。
「佐藤」
「何ですか」
「顔が赤いぞ」
「神谷先輩には関係ありません」
「俺は何も聞いてない」
「なら、放っておいてください」
敬語を崩さないまま、佐藤はいつもより早足で席へ戻った。
神谷はその背中を見送り、首を傾げる。
『神谷さん』
今度は陽菜が神谷のそばへ来る。
『昨日、日高先輩を送ったんですよね?』
「はい」
『何かありました?』
「ありません」
『佐藤くんも同じこと言ってました』
「佐藤と一緒にしないでください」
『二人とも、分かりやすいなあ』
「櫻井さんは、朝から何をしているんですか」
『みんなの幸せ確認』
「余計なお世話では?」
『幸せならいいじゃん』
陽菜は楽しそうに笑い、自分の席へ戻っていった。
神谷は樹里を見る。
今度は樹里の方が、画面から顔を上げなかった。
◇
「柚希ちゃん。昨日、零ちゃんとはどうだった?」
休憩時間。
凛から尋ねられ、柚希はスマートフォンの画面を伏せた。
「普通だよ」
「その顔で言っても、説得力がありません」
「どんな顔?」
「嬉しそうな顔です」
柚希は否定しなかった。
「家まで送ってもらった」
「それから?」
「少し話しただけ」
「それだけですか?」
「……キスはした」
凛が目を見開く。
「柚希ちゃんからですか?」
「最初は、私から」
「そうなんですね」
「何で凛ちゃんが照れてるの?」
「想像したわけではありません。ただ、柚希ちゃんからというのが意外で」
「私だって、そういうことくらいするよ」
柚希は恥ずかしそうにしながら、伏せていたスマートフォンを手に取った。
画面には、零から届いたLINEが表示されている。
「昨日の写真、何度も見てるっす」
「見すぎ」
「柚希さんが、好きなだけ見ていいと言いました」
「言ったけど、何度も報告しなくていいよ」
「可愛いので伝えたくなります」
朝から同じようなやり取りを、何度も繰り返していた。
「凛ちゃんは、青柳さんと話したの?」
「はい」
「映像で?」
「どうして分かったんですか」
「写真だけで終わる顔じゃないから」
凛は僅かに頬を赤くする。
「衣装も見せた?」
「……少しだけ」
「青柳さん、何て?」
「可愛いと」
「よかったね」
「はい」
凛は素直に頷いた。
「それから、今度は私が名古屋へ行くと伝えました」
「凛ちゃんが?」
「来てもらってばかりでは悪いので」
「会いたいからじゃなくて?」
陽菜と同じような問いを向けられ、凛は一瞬黙った。
それでも、今度は誤魔化さなかった。
「会いたいからです」
「そっか」
柚希が笑う。
二人とも、以前なら口にできなかった言葉だった。
◇
始業時刻を迎える少し前。
黒澤が手を叩き、営業部全体の視線を集めた。
「神谷、日高さん。少しいいか」
「はい」
『はい』
二人が同時に顔を上げる。
「高槻興産から連絡があった。次の中間確認の日程が決まった」
先ほどまで残っていた柔らかな空気が、一瞬で消えた。
神谷は手帳を開き、樹里は必要な資料をすぐに取り出す。
「先方から、追加で確認したい項目が届いてる。今日中に内容を整理してくれ」
「分かりました」
『承知しました』
「緒方さんと森山にも共有しておけ。ここから先は、現場側との調整がさらに増える」
「はい」
『確認後、こちらの工程表も更新します』
「頼む」
黒澤が自席へ戻る。
神谷と樹里は、すぐに互いの予定を確認し始めた。
「日高さん。午前中に追加項目を分けてもよろしいですか」
『はい。私が現場条件を確認します。神谷さんは収支と契約面をお願いします』
「分かりました。11時に一度合わせましょう」
『お願いします』
昨夜キスを交わした二人には見えなかった。
仕事が始まれば、互いに何をすべきかを迷わず判断する。
余計な感情を持ち込まない。
それでも、資料を受け渡す指先が触れそうになった瞬間だけ、二人の動きが僅かに止まった。
神谷は何も言わない。
樹里も、すぐに手を離す。
その小さな間を、近くの席にいた川原萌が見ていた。
「川原さん」
樹里に呼ばれ、萌は慌てて姿勢を正す。
「はい」
『昨日までにまとめてもらった周辺相場の資料を、もう一度確認してください。比較条件が揃っていない箇所には印をつけて、10時までに私へ』
「分かりました」
『判断に迷ったら、先に聞いてください』
「はい」
指示を伝えると、樹里はすぐに神谷と資料室へ向かった。
萌は二人の背中を見送る。
与えられた仕事は明確だった。
質問していいとも言われた。
それでも樹里は、また自分の前からいなくなる。
高槻興産の案件が重要であることは分かっている。
だが、教育担当であるはずの樹里が、自分よりも遠い場所ばかりを見ているように感じてしまう。
萌は手元の資料へ視線を落とした。
一方、別の席では、陽菜が山本陸の画面を覗き込んでいた。
『陸。ここの入力、昨日も同じところ間違えてたよ』
「すみません」
『謝る前に、原因考えて』
「確認が足りませんでした」
『どこの確認?』
「契約期間と、更新日のところです」
『うん。分かってるなら、次は自分で止められるね』
「はい」
『じゃあ直して。終わったら、あたしが見る』
陽菜は答えをすべて教えず、自分で間違いへ辿り着かせる。
陸も、以前のように陽菜の顔色ばかり窺わなくなっていた。
画面へ向き直り、入力した内容を一つずつ確認していく。
ハロウィンの夜は終わった。
それぞれの胸に、小さな変化だけを残して。
そして島川不動産では、再び仕事の日々が動き始める。
高槻興産との大型案件。
教える側と、教えられる側。
仕事と恋愛。
どれも、まだ途中にあった。




