202話「離れた場所で」
Roseを出た柚希と零は、並んで夜道を歩いていた。
柚希は制服の上からコートを羽織っている。
外から見えるのはスカートの裾と、黒い靴下だけだった。
それでも、隣を歩く零は何度も柚希へ視線を向けている。
「零ちゃん」
「はい」
「まだ見てる」
「すみません」
「謝るくらいなら、見なければいいのに」
「それは無理です」
「即答なんだ」
「今日しか見られないかもしれないので」
「制服なら、家に持って帰るよ」
「では、また着てくれるんすか?」
「そういう意味じゃない」
柚希は笑いながら、コートの前を合わせた。
夜の空気は冷たい。
吐いた息が、街灯の下で僅かに白くなる。
零は自分の首に巻いていたマフラーを外そうとした。
「寒いですか?」
「少しだけ。でも大丈夫だよ」
「これ、使ってください」
「零ちゃんが寒くなるでしょ?」
「自分は平気っす」
「平気じゃないよ。鼻、赤くなってるもん」
柚希は零の手を止める。
そのまま腕へ自分の腕を絡め、身体を寄せた。
「こうすれば、二人とも少し暖かいでしょ」
零の足が止まりかける。
「歩きにくい?」
「違います」
「じゃあ、行こう」
「はい」
再び歩き始める。
触れ合った腕から、互いの体温が伝わってくる。
零は少し緊張しながらも、その距離から逃げなかった。
「今日は楽しかったね」
「はい」
「陽菜さん、ずっと騒いでた」
「いつもどおりっす」
「日高先輩のチャイナ服、本当に綺麗だったな」
「樹里さんは、何を着ても似合うと思います」
「零ちゃん、日高先輩のこと好きだよね」
「好きです」
迷いのない返事だった。
柚希は、零の横顔を見る。
「そういう好きと、私への好きは違う?」
「違います」
「すぐ分かるんだ」
「樹里さんは、ずっと背中を追ってた人っす」
零は前を向いたまま答える。
「柚希さんは、隣にいたい人です」
柚希の足が僅かに遅くなる。
絡めていた腕へ、少しだけ力が入った。
「今日の零ちゃん、時々すごいこと言うよね」
「変でしたか?」
「変じゃない。嬉しい」
「なら、よかったです」
「でも、急に言われると返事に困る」
「返事はなくていいっす」
「それは嫌」
柚希は少し考える。
「私は、零ちゃんの隣を歩きたいよ」
今度は零が黙った。
「どう?」
「……嬉しいっす」
「じゃあ、おあいこだね」
二人は腕を組んだまま歩き続けた。
◇
柚希の住む建物へ着く。
入口の前で足を止めても、絡めていた腕はすぐには離れなかった。
「送ってくれてありがとう」
「はい」
「零ちゃんは、一人で帰れる?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「自分を誰だと思ってるんすか」
「私の彼女」
零の言葉が止まった。
柚希は照れながらも、言い直さなかった。
「だから、心配してるの」
「……ちゃんと帰ったら、LINEします」
「うん。お願い」
柚希は腕を解いた。
離れたところへ、冷たい空気が入り込む。
少しだけ名残惜しくなり、零の袖を掴んだ。
「零ちゃん」
「はい」
「今日、一緒に撮った写真、送ってくれる?」
「もちろんです」
「二人だけで写ってる方も」
「分かりました」
「昔の写真も、いつか見せてね」
零は僅かに目を伏せた。
「探しておきます」
「無理はしなくていいよ」
「見せたいです」
零は、今度は柚希の目を見て答えた。
「格好つけてた自分も、失敗した自分も、柚希さんには知ってほしいっす」
「うん。待ってる」
過去を聞いても、柚希の態度は変わらなかった。
無理に明るく振る舞っているようにも見えない。
それが零には、何よりも嬉しかった。
「柚希さん」
「なに?」
「今日は、ありがとうございました」
「私、何かした?」
「自分と一緒にいてくれました」
「それは、これからもするよ」
零の目が僅かに揺れる。
柚希は周囲へ一度だけ視線を向けると、零の頬へ手を添えた。
背伸びをし、唇を重ねる。
触れるだけの短いキス。
離れたあと、柚希の方が先に目を逸らした。
「今日、ずっと見てたご褒美」
「見ていてよかったっす」
「そういう意味じゃないよ」
「もう一回見てもいいですか」
「何を?」
「柚希さんを」
「今も見てるでしょ?」
「近くで見たいです」
零が僅かに身体を寄せる。
今度は、先ほどよりもゆっくりと唇が重なった。
柚希は拒まず、零のコートを軽く掴む。
長くは続けない。
二人とも、まだ急がなくていいと思っていた。
唇が離れる。
「おやすみ、零ちゃん」
「おやすみなさい、柚希さん」
今度こそ柚希は建物の中へ入った。
扉が閉まったあとも、零はしばらくそこに立っていた。
唇に残った温度を確かめるように、指先でそっと触れる。
その顔には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
◇
帰宅した凛は、コートを脱いでも、すぐにはバニーガールの衣装を着替えなかった。
青柳へ送った写真とは別に、陽菜が撮ったものを何枚か確認する。
笑顔が硬い。
耳へ触れる手も、どこか不自然だった。
それでも最後の一枚だけは、少しだけ自然に笑えている。
凛がその写真を見ていると、青柳からLINEが届いた。
「もう帰宅しましたか?」
「今、帰りました」
「お疲れさまでした」
「青柳さんも、お仕事お疲れさまでした」
「今、電話をしても大丈夫ですか?」
凛は自分の格好を見下ろす。
通常の音声通話なら、何を着ていても関係ない。
それでも、少し迷ってから返信した。
「大丈夫です」
間もなく、着信画面に青柳の名前が表示される。
「もしもし」
「凛さん、お帰りなさい」
「ただいま帰りました」
「パーティーは楽しかったですか?」
「はい。陽菜さんに、ずっとからかわれましたけど」
「衣装のことで?」
「それ以外にもです」
「皆さんにも好評だったんですか?」
「似合っているとは言ってもらえました」
「そうですか」
青柳の声が僅かに低くなる。
凛は、その変化に気づいた。
「青柳さん?」
「はい」
「どうかしましたか?」
「少しだけ、悔しいと思いました」
「何がですか?」
「僕が見られなかった凛さんを、ほかの人たちは直接見たので」
凛は驚き、すぐには答えられなかった。
青柳が嫉妬をそのまま言葉にしたのは、初めてだった。
「神谷さんや佐藤さんも、いたんですよね」
「いました」
「そうですか」
「でも、写真を送ったのは青柳さんだけです」
凛は、すぐに付け加えた。
「青柳さんに見せるために選んだ写真です」
電話の向こうが静かになる。
「ありがとうございます」
「それに、私が見てほしかったのも青柳さんだけです」
口にしてから、凛の頬が熱くなる。
青柳はすぐには返事をしなかった。
「青柳さん?」
「すみません。今の言葉を、もう一度頭の中で聞いていました」
「聞き直さなくていいです」
「とても嬉しかったので」
「……そうですか」
「はい」
凛はベッドの端へ腰を下ろす。
長い兎の耳が揺れた。
「凛さん」
「はい」
「まだ、その衣装を着ていますか?」
「……着ています」
「今の電話を、映像に切り替えてもいいですか?」
凛の身体が強張る。
写真は送った。
けれど映像となれば、動く姿も表情も、その場で見られる。
「嫌なら、音声のままで大丈夫です」
青柳は急かさなかった。
凛は鏡に映る自分を見る。
Roseにいたときより、表情は緩んでいる。
恥ずかしい。
それでも、会えなかった青柳に見てほしい。
「……少しだけなら」
「いいんですか?」
「はい」
凛は通話を映像へ切り替えた。
画面に、青柳の顔が映る。
仕事を終え、自宅へ帰ったあとなのだろう。
シャツ姿のまま、驚いたように凛を見ていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶を交わしたまま、青柳はしばらく何も言わなかった。
「やっぱり、変ですか?」
「違います」
「では、何か言ってください」
「とても似合っています」
写真を見たときと同じ言葉だった。
しかし声と表情が加わるだけで、凛の胸へ届くものは大きく変わった。
「可愛いです」
「……ありがとうございます」
「本当に、直接見たかったです」
「私も、直接見てほしかったです」
画面越しに目が合う。
離れていることを、これほど強く感じたのは初めてだった。
触れられない。
手を握ることもできない。
それでも、相手が自分だけを見ていることは分かる。
「凛さん」
「はい」
「少し、立っていただけますか」
「どうしてですか?」
「全身も見たいです」
「写真で見たでしょう」
「動いているところも見たいです」
「嫌です」
「分かりました」
青柳はすぐに引き下がった。
その素直さに、凛は逆に迷う。
少し考えたあと、スマートフォンを机へ立てかけた。
「少しだけですからね」
立ち上がり、画面から数歩離れる。
バニーガールの衣装が、画面の中に収まった。
凛は恥ずかしそうに両手を身体の前で重ねる。
「これでいいですか?」
「はい」
青柳は画面から目を逸らさない。
「やはり、よく似合っています」
「陽菜さんにも同じことを言われました」
「僕が言うのとは、違いますか?」
凛は僅かに俯く。
「……違います」
「よかったです」
「もう座ってもいいですか?」
「はい。ありがとうございました」
凛は急いでベッドへ戻り、スマートフォンを手に取った。
顔が熱い。
それでも、映像を切ろうとは思わなかった。
「今度は」
凛が口を開く。
「はい」
「今度は、私が名古屋へ行きます」
青柳が目を見開く。
「凛さんが?」
「青柳さんに、何度も東京へ来てもらうわけにはいきませんから」
「無理をしなくても大丈夫です」
「無理ではありません」
凛は画面の中の青柳を見る。
「私も、青柳さんが今暮らしている街を見てみたいです」
青柳の表情が、ゆっくりと緩む。
「では、案内します」
「お願いします」
「行きたい場所を、考えておいてください」
「青柳さんが普段行くところがいいです」
「観光地ではなくていいんですか?」
「青柳さんのことを知りに行くので」
また、青柳が黙る。
「どうして何も言わないんですか?」
「凛さんは、ときどき不意打ちが上手ですね」
「そんなつもりはありません」
「分かっています。だから、余計に困ります」
「困らせましたか?」
「嬉しくて、困っています」
凛は小さく笑った。
会えなかったハロウィン。
寂しさは確かにあった。
けれど、その寂しさを隠さず伝えたことで、次に会うための約束が一つ生まれた。
東京と名古屋。
画面の中と外。
今夜の二人の間には、まだ遠い距離がある。
それでも、互いへ近づこうとする気持ちは、同じ場所にあった。




