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201話「ご主人様」

最後の客を見送るように、Roseの扉が閉まった。


 店内に残っているのは、美園と佐藤だけだった。


 テーブルの上には空いたグラスと皿が並び、壁にはハロウィンの飾りが残っている。


 美園が片づけようとした皿へ、佐藤が先に手を伸ばした。


「美園さんは座っていてください」


『私の店だよ?』


「だからです。今日は料理も準備も、ほとんど美園さんがやったじゃないですか」


『慣れてるから平気だよ』


「僕も手伝うと約束しました」


 佐藤は皿を重ね、そのまま流しへ運んでいく。


 腕まくりをし、水を流し始めた。


 美園はカウンターへ頬杖をつき、その背中を眺める。


 閉店後の店に、自分以外の誰かが立っている。


 しかも、言われたからではなく、自分から片づけを始めている。


 その光景が、少しだけくすぐったかった。


『佐藤くん』


「はい」


『慣れてるね』


「一人暮らしですから、このくらいはします」


『家でもちゃんと片づけるんだ』


「美園さんは、僕をどんな人間だと思っているんですか」


『部屋に脱いだ服を積み上げてそう』


「積み上げません」


『洗濯物を取り込んでも、畳まずにそのまま着そう』


「それは、たまにあります」


『あるんだ』


「毎回ではありません」


 美園が声を立てて笑う。


 佐藤は困った顔をしながら、洗い終えた皿を水切り籠へ置いた。


 片づけが終わる頃には、時計の針は日付が変わる時刻へ近づいていた。


「終わりました」


『ありがとう。助かったよ』


「これくらいなら、いつでも手伝います」


『毎回来たら、お客さんじゃなくなるよ』


「美園さんの店なら、それでも構いません」


 美園の目が僅かに細くなる。


『簡単に言うね』


「本心です」


『知ってる』


 美園はカウンターを出ると、入口へ向かった。


 外に出していた看板を店内へ入れ、扉の鍵を掛ける。


 店の照明を一段落とした。


 普段より暗くなったRoseに、カウンター上の小さな明かりだけが残る。


 佐藤はコートを手に取った。


「では、僕も帰ります」


『もう帰るの?』


 佐藤の手が止まる。


「片づけは終わりましたから」


『そうだね』


 美園は、まだメイド服を着たままだった。


 着替える様子もなく、佐藤との距離をゆっくりと縮める。


『ねえ、ご主人様』


「それは、もう終わりではないんですか」


『日付はまだ変わってないよ』


「もう十分です」


『何が?』


「その呼び方も、その格好もです」


『嫌だった?』


「逆です」


 佐藤は正直に答えた。


「これ以上ここにいると、帰りたくなくなります」


『帰らなくていいよ』


 美園の返事に、佐藤が黙る。


 冗談なのか、本気なのか。


 確かめるように、その顔を見つめる。


 美園は笑っていた。


 客へ向ける笑顔ではない。


 佐藤の反応だけを楽しむ、悪戯っぽい笑みだった。


『今日は、ずっと手伝ってくれたから』


「当たり前のことをしただけです」


『それでも、私が何かしてあげたいの』


「何かって……」


 美園は佐藤の胸元へ手を添え、そのまま唇を重ねた。


 短い口づけ。


 離れたあとも、手は胸元に残っている。


『ご主人様。ほかにご注文はありませんか?』


「美園さん」


『何?』


「その聞き方は、反則です」


『じゃあ、聞かない』


 美園の指が、佐藤のシャツをゆっくりと下へなぞる。


『私がしたいことをする』


「何をするつもりですか」


『分からない?』


 美園は佐藤の前で、ゆっくりと膝をついた。


 メイド服の長いスカートが、床へ広がる。


 佐藤の表情が変わった。


「美園さん、待ってください」


『嫌?』


「嫌ではありません。でも、そんな……」


『私がしたいの』


 美園は見上げたまま、佐藤の腰へ手を掛ける。


『佐藤くんを、喜ばせたい』


 その言葉に、佐藤は続けようとしていた制止を飲み込んだ。


 求めたわけではない。


 命じてもいない。


 美園が自分の意思で選び、目の前へ膝をついている。


「……無理はしないでください」


『してないよ』


「苦しかったら、すぐにやめてください」


『分かった』


「本当にですよ」


『心配性だね』


 美園は僅かに笑った。


『力を抜いて。ご主人様』


 佐藤は片手で顔を覆う。


「その呼び方は、やめてください」


『どうして?』


「余計に我慢できなくなります」


『今日は、我慢しなくていいよ』


 美園はそう告げると、佐藤の腰元へ顔を寄せた。


 留め具を外し、口で奉仕を始める。


 最初は確かめるように、ゆっくりと。


 佐藤の呼吸が変わるたび、美園は目を上げ、その反応を確かめた。


 店に響くのは、僅かな衣擦れと、佐藤が堪えようとする呼吸だけだった。


「美園さん……」


 名前を呼ばれる。


 その声に含まれる熱が、美園の胸を満たしていく。


 何かを奪われているのではない。


 求められたから従っているのでもない。


 自分が触れたい。


 自分の手と唇で、佐藤を喜ばせたい。


 そう思って選んでいる。


 美園は片手で佐藤の脚へ触れ、もう片方の手を添えながら、丁寧に口を動かした。


 佐藤の指が、美園の髪へ伸びる。


 しかし押さえつけることはせず、触れていいのか迷うように、その直前で止まった。


 美園は、その手を自分で取った。


 後頭部へ導き、髪に触れさせる。


『ん……』


 声にならない合図を受け、佐藤の指が美園の髪を撫でる。


 優しい手だった。


 それでも身体は正直に反応し、次第に呼吸を抑えられなくなっていく。


「美園さん、もう……」


 美園は離れなかった。


 止めようとする佐藤の言葉を、目だけで拒む。


 やがて佐藤の身体が強張る。


 美園は最後まで口を離さず、そのすべてを受け止めた。


 静けさの戻った店内に、二人の乱れた呼吸だけが残る。


 美園はゆっくりと顔を上げた。


 口元を指先で整え、何事もなかったように微笑む。


『ご満足いただけましたか、ご主人様?』


 佐藤は何も答えられなかった。


 顔を赤くしたまま、美園の腕を取る。


 立ち上がらせると、その身体を強く抱き締めた。


『苦しいよ』


「すみません」


 腕の力は僅かに緩んだ。


 それでも離そうとはしない。


「僕ばかり、こんなことをしてもらって……」


『嫌だった?』


「違います」


『なら、いいじゃん』


「よくありません。美園さんにも、僕が何かしたいです」


『片づけてくれた』


「そういう意味ではありません」


『分かってるよ』


 美園は佐藤の頬へ触れる。


『でも今日は、私がしたかったの』


「どうしてですか」


『好きな人が喜ぶ顔を見たかったから』


 佐藤の表情が止まる。


 美園は照れ隠しをするように、再びメイドらしく頭を下げた。


『以上、本日の特別サービスでした』


「今の言葉も、サービスですか」


『どの言葉?』


「好きな人、というところです」


『さあ。どうだろうね』


「美園さん」


『何?』


「誤魔化さないでください」


 先ほどまで戸惑っていた佐藤の目が、まっすぐに美園を捉えている。


 美園は数秒だけ視線を逸らした。


 それから、観念したように小さく息を吐く。


『サービスじゃないよ』


「よかったです」


『そんなに嬉しい?』


「嬉しいです」


 佐藤は美園の頬へ手を添え、口づけた。


 先ほど美園が何をしたのかなど、気にする様子はない。


 むしろ、確かめるように何度も唇を重ねる。


 美園の腕が、佐藤の首へ回った。


 今度は、どちらか一方が与えるだけではない。


 互いの熱を確かめるようなキスだった。


 唇が離れる。


 佐藤は、美園のメイド服を改めて見下ろした。


「本当に、似合っています」


『今さら?』


「落ち着いて言えるようになるまで、時間が必要だったんです」


『もう落ち着いたの?』


「いいえ」


『じゃあ、まだ帰れないね』


「帰さないつもりですか」


『帰りたい?』


 佐藤は首を横に振る。


「帰りたくありません」


『私も』


 美園は佐藤の手を取り、店の奥へ向かう。


 メイド服のスカートが、歩くたびに静かに揺れた。


 入口の鍵は、すでに掛かっている。


 Roseの明かりも、外からはほとんど見えない。


 賑やかな宴は終わった。


 けれど二人だけのハロウィンは、まだ終わっていなかった。

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