↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
200/329

200話「名前」

中井の部屋へ着いても、陽菜はナース服を脱がなかった。


 玄関でコートだけを脱ぎ、そのまま部屋の中へ入っていく。


 後ろから扉を閉めた中井は、目のやり場に困ったように一度俯いた。


『中井くん』


「はい」


『また顔しか見ないつもり?』


「見たら、陽菜さんがからかうでしょう」


『見なくてもからかうよ』


「では、僕はどうすればいいんですか」


『好きにすればいいじゃん』


 陽菜は振り返る。


 Roseでは、周囲の反応を面白がっていた。


 中井が顔を赤くするたびに笑い、わざと胸元を意識させるような言葉も口にした。


 しかし今は、二人きりだった。


 同じナース服を着ているはずなのに、その表情は先ほどまでと少し違っている。


『ねえ。本当に似合ってた?』


「似合っていました」


『可愛かった?』


「可愛かったです」


『ほかの人より?』


「僕は、陽菜さんしか見ていません」


 迷いのない返事だった。


 陽菜は僅かに目を細める。


『嘘。日高先輩のチャイナ服も見てたでしょ』


「視界には入りました」


『凛ちゃんのバニーも?』


「入りました」


『柚希ちゃんの制服も?』


「入りました」


『美園さんのメイドも?』


「入りました」


『全部見てるじゃん』


「見えたことと、見ていたことは違います」


『中井くん、そういうこと言えるようになったんだ』


「陽菜さんに鍛えられました」


『成長したね』


 陽菜は楽しそうに笑った。


 それから中井へ近づき、胸元へ人差し指を当てる。


『じゃあ、診察します』


「まだ続けるんですか」


『患者さん。今日はどこが悪いんですか?』


「特に悪いところはありません」


『さっき、心臓が速いって言ってたよ』


「原因が目の前にいるので」


『治してほしい?』


「陽菜さんに治せますか?」


『もっと悪くすることなら、できるかも』


 指先が、中井の胸元をゆっくりとなぞる。


 中井は、その手をそっと掴んだ。


「陽菜さん」


『何?』


「今日は、いつも以上にからかいますね」


『楽しいから』


「それだけですか?」


 陽菜の笑みが、僅かに止まる。


 中井は、掴んでいた手を強く握らない。


 逃げようと思えば、いつでも離れられる程度の力だった。


「何か、言いたいことがあるんですか」


『……どうして?』


「陽菜さんは、本当に伝えたいことがあるときほど、たくさんふざけるので」


 陽菜は中井を見つめた。


 以前なら、さらに冗談を重ねていた。


 何でもないと笑い、自分から話を終わらせていた。


 だが今夜は、逃げたくなかった。


『抱いてほしい』


 中井の指が動く。


『今日は、あたしが中井くんに抱かれたい』


「陽菜さん……」


『嫌?』


「嫌なわけがありません」


 中井の返事を聞き、陽菜は胸元に置いていた手を、そのまま首の後ろへ回した。


『じゃあ、キスして』


 中井の腕が、陽菜の腰へ回る。


 引き寄せられた身体が重なり、唇が触れた。


 最初のキスは、確かめるように短かった。


 離れようとした中井の後頭部を、陽菜が逃がさない。


『まだ』


 もう一度、唇が重なる。


 今度は、先ほどよりも深く、長い。


 陽菜の身体から、からかうための力が少しずつ抜けていく。


 中井の胸へ預けるように、重みを寄せた。


 唇が離れる。


 二人の呼吸が近くで混じった。


「寝室へ行きますか」


『うん』


 いつもの陽菜なら、ここでも一言、相手を困らせる言葉を添えていた。


 しかし今夜は、素直に頷いた。


     ◇


 寝室へ入ると、陽菜はベッドの縁へ腰を下ろした。


 中井が、その前に立つ。


 ナース服に触れようと伸ばされた手が、途中で止まった。


「脱がせてもいいですか」


『うん』


 中井の指が、衣装の留め具へ触れる。


 一つずつ外されるたび、隠れていた肌が夜の空気へ晒されていく。


 陽菜は中井から目を逸らさなかった。


『緊張してる?』


「しています」


『何回もしてるのに?』


「陽菜さんが、今夜はいつもと違うので」


『どこが?』


「僕を見ている顔が違います」


『変な顔?』


「好きだと思う顔です」


 陽菜は、一瞬だけ息を止めた。


『……そういうこと、普通に言うようになったね』


「言わなければ、伝わらないので」


『誰かさんみたい』


「日高さんですか?」


『うん。最近は前より話すようになったけどね』


 最後の留め具が外れる。


 中井は衣装を乱暴に脱がせず、陽菜の肩からゆっくりと滑らせた。


 ナース服が、ベッドの脇へ落ちる。


 陽菜は自分の身体を隠さなかった。


 中井の手を取り、胸元へ導く。


『今日は、優しくするだけじゃ嫌』


「無理はさせません」


『そうじゃないよ』


 陽菜は首を横に振る。


『あたしが欲しいって言ってるの』


 中井の目を見つめたまま、その手へ自分の手を重ねる。


『ちゃんと、中井くんが欲しい』


 中井の表情から、迷いが消えた。


 ベッドへ身体を預けた陽菜へ、覆い被さる。


 触れる手も、落とされる口づけも、今までと同じように優しい。


 それでも、そこに込められた熱は違っていた。


 陽菜も、ただ受け止めているだけではない。


 中井の背中へ腕を回す。


 唇を求める。


 名前を呼び、もっと近くへ来てほしいと伝える。


 二人の間に残っていた僅かな隙間まで、自分から埋めていく。


 中井が何度も陽菜の表情を確かめる。


「苦しくありませんか」


『大丈夫』


「痛くないですか」


『平気』


「無理をしていませんか」


『してないよ』


 陽菜は中井の頬へ触れた。


『あたしばっかり見てないで、中井くんも気持ちよくなって』


「でも」


『今日は、あたしがそうしたいの』


 中井の身体を、自分の方へ引き寄せる。


『もっと来て』


 重なった身体が、ゆっくりと動き始める。


 吐息が近くで混じる。


 中井が動くたび、陽菜はその背中へ回した腕に力を込めた。


 離れたくない。


 もっと深く、近くで感じたい。


 そんな気持ちを、今夜は隠さなかった。


『中井くん』


「はい」


『好き』


 動きが、一瞬だけ止まる。


 陽菜は、逃がさないように中井を抱き締めた。


『好きだよ。あたし、中井くんのこと、すごく好き』


「僕も、陽菜さんが好きです」


『知ってる』


「何度でも言います」


『じゃあ、何度でも聞く』


 再び、二人の身体が動き始める。


 次第に言葉は途切れ、呼吸だけが重なっていった。


 陽菜の指が、中井の背中へ食い込む。


 何度も名前を呼ぶ。


 そのたびに、中井も『陽菜さん』と返した。


 いつもと同じ呼び方。


 大切にするような、距離を守るような名前だった。


 やがて、中井の呼吸が大きく崩れる。


 動きが深くなり、抱き締める腕へ力が込められた。


 陽菜も、その瞬間が近いことを感じ取る。


『中井くん』


「陽菜さん……」


『いいよ』


 陽菜は中井の耳元へ唇を寄せる。


『あたしのことだけ考えて』


 その言葉で、中井の理性が途切れた。


 最後の瞬間。


 いつもの敬称より先に、感情がそのまま声になった。


「陽菜――」


 初めて呼び捨てにされた名前が、陽菜の耳元で震えた。


 中井の身体が強く重なり、そのまま陽菜を抱き締める。


 陽菜は目を見開いた。


 驚いたのは、一瞬だけだった。


 すぐに腕を回し、中井の身体を強く抱き返す。


 二人の荒い呼吸が、静かな寝室に残った。


     ◇


 しばらくして、中井が僅かに身体を起こした。


「陽菜さん」


『何?』


「今……」


『呼んだね』


 陽菜は中井の頬を両手で挟む。


『あたしのこと、陽菜って呼んだ』


「すみません」


『何で謝るの?』


「勝手に呼び方を変えたので」


『あの瞬間だけだったけどね』


「……はい」


『もう一回呼んで』


 中井の顔が赤くなる。


「陽菜さん」


『戻ってるじゃん』


「今は、無理です」


『どうして?』


「恥ずかしいので」


『さっきはもっと恥ずかしいことしてたのに?』


「それとこれは別です」


 陽菜は声を立てて笑った。


 笑いながらも、中井の身体を離そうとはしない。


 胸元へ顔を寄せ、その鼓動へ耳を澄ませる。


『ねえ、中井くん』


「はい」


『嬉しかった』


「呼び捨てがですか?」


『うん』


「嫌ではなかったんですか」


『嫌なら、もう一回呼んでなんて言わないでしょ』


 陽菜は中井の胸元へ頬を押しつけた。


『でも、無理に変えなくていいよ』


「いいんですか?」


『いつもの“陽菜さん”も好きだから』


 中井の腕が、陽菜の背中へ回る。


「分かりました」


『ただし』


「はい」


『また我慢できなくなったときは、陽菜って呼んで』


「それは、自分で決められることではないと思います」


『じゃあ、呼んじゃうくらいにしてあげる』


「陽菜さん」


『次も楽しみだね』


「今からですか?」


『何のこと?』


「……何でもありません」


 陽菜は満足そうに笑った。


 今夜、中井が呼んだのは、たった一度だけだった。


 けれど、その一度で十分だった。


 大切に扱われることが、嬉しかった。


 優しく名前を呼ばれることも、好きだった。


 それでも今夜は、中井の中にある余裕も遠慮も消え、自分だけを求める声が聞けた。


 陽菜は目を閉じ、中井の胸元へ身体を預ける。


 以前は、彼から与えられる愛を受け止める夜だった。


 今夜は違う。


 陽菜自身が中井を求め、その愛へ自分から手を伸ばした。


 二人の間にあったものは、もう片方から与えられるだけのものではない。


 互いに求め、互いに返すものへ変わり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。