200話「名前」
中井の部屋へ着いても、陽菜はナース服を脱がなかった。
玄関でコートだけを脱ぎ、そのまま部屋の中へ入っていく。
後ろから扉を閉めた中井は、目のやり場に困ったように一度俯いた。
『中井くん』
「はい」
『また顔しか見ないつもり?』
「見たら、陽菜さんがからかうでしょう」
『見なくてもからかうよ』
「では、僕はどうすればいいんですか」
『好きにすればいいじゃん』
陽菜は振り返る。
Roseでは、周囲の反応を面白がっていた。
中井が顔を赤くするたびに笑い、わざと胸元を意識させるような言葉も口にした。
しかし今は、二人きりだった。
同じナース服を着ているはずなのに、その表情は先ほどまでと少し違っている。
『ねえ。本当に似合ってた?』
「似合っていました」
『可愛かった?』
「可愛かったです」
『ほかの人より?』
「僕は、陽菜さんしか見ていません」
迷いのない返事だった。
陽菜は僅かに目を細める。
『嘘。日高先輩のチャイナ服も見てたでしょ』
「視界には入りました」
『凛ちゃんのバニーも?』
「入りました」
『柚希ちゃんの制服も?』
「入りました」
『美園さんのメイドも?』
「入りました」
『全部見てるじゃん』
「見えたことと、見ていたことは違います」
『中井くん、そういうこと言えるようになったんだ』
「陽菜さんに鍛えられました」
『成長したね』
陽菜は楽しそうに笑った。
それから中井へ近づき、胸元へ人差し指を当てる。
『じゃあ、診察します』
「まだ続けるんですか」
『患者さん。今日はどこが悪いんですか?』
「特に悪いところはありません」
『さっき、心臓が速いって言ってたよ』
「原因が目の前にいるので」
『治してほしい?』
「陽菜さんに治せますか?」
『もっと悪くすることなら、できるかも』
指先が、中井の胸元をゆっくりとなぞる。
中井は、その手をそっと掴んだ。
「陽菜さん」
『何?』
「今日は、いつも以上にからかいますね」
『楽しいから』
「それだけですか?」
陽菜の笑みが、僅かに止まる。
中井は、掴んでいた手を強く握らない。
逃げようと思えば、いつでも離れられる程度の力だった。
「何か、言いたいことがあるんですか」
『……どうして?』
「陽菜さんは、本当に伝えたいことがあるときほど、たくさんふざけるので」
陽菜は中井を見つめた。
以前なら、さらに冗談を重ねていた。
何でもないと笑い、自分から話を終わらせていた。
だが今夜は、逃げたくなかった。
『抱いてほしい』
中井の指が動く。
『今日は、あたしが中井くんに抱かれたい』
「陽菜さん……」
『嫌?』
「嫌なわけがありません」
中井の返事を聞き、陽菜は胸元に置いていた手を、そのまま首の後ろへ回した。
『じゃあ、キスして』
中井の腕が、陽菜の腰へ回る。
引き寄せられた身体が重なり、唇が触れた。
最初のキスは、確かめるように短かった。
離れようとした中井の後頭部を、陽菜が逃がさない。
『まだ』
もう一度、唇が重なる。
今度は、先ほどよりも深く、長い。
陽菜の身体から、からかうための力が少しずつ抜けていく。
中井の胸へ預けるように、重みを寄せた。
唇が離れる。
二人の呼吸が近くで混じった。
「寝室へ行きますか」
『うん』
いつもの陽菜なら、ここでも一言、相手を困らせる言葉を添えていた。
しかし今夜は、素直に頷いた。
◇
寝室へ入ると、陽菜はベッドの縁へ腰を下ろした。
中井が、その前に立つ。
ナース服に触れようと伸ばされた手が、途中で止まった。
「脱がせてもいいですか」
『うん』
中井の指が、衣装の留め具へ触れる。
一つずつ外されるたび、隠れていた肌が夜の空気へ晒されていく。
陽菜は中井から目を逸らさなかった。
『緊張してる?』
「しています」
『何回もしてるのに?』
「陽菜さんが、今夜はいつもと違うので」
『どこが?』
「僕を見ている顔が違います」
『変な顔?』
「好きだと思う顔です」
陽菜は、一瞬だけ息を止めた。
『……そういうこと、普通に言うようになったね』
「言わなければ、伝わらないので」
『誰かさんみたい』
「日高さんですか?」
『うん。最近は前より話すようになったけどね』
最後の留め具が外れる。
中井は衣装を乱暴に脱がせず、陽菜の肩からゆっくりと滑らせた。
ナース服が、ベッドの脇へ落ちる。
陽菜は自分の身体を隠さなかった。
中井の手を取り、胸元へ導く。
『今日は、優しくするだけじゃ嫌』
「無理はさせません」
『そうじゃないよ』
陽菜は首を横に振る。
『あたしが欲しいって言ってるの』
中井の目を見つめたまま、その手へ自分の手を重ねる。
『ちゃんと、中井くんが欲しい』
中井の表情から、迷いが消えた。
ベッドへ身体を預けた陽菜へ、覆い被さる。
触れる手も、落とされる口づけも、今までと同じように優しい。
それでも、そこに込められた熱は違っていた。
陽菜も、ただ受け止めているだけではない。
中井の背中へ腕を回す。
唇を求める。
名前を呼び、もっと近くへ来てほしいと伝える。
二人の間に残っていた僅かな隙間まで、自分から埋めていく。
中井が何度も陽菜の表情を確かめる。
「苦しくありませんか」
『大丈夫』
「痛くないですか」
『平気』
「無理をしていませんか」
『してないよ』
陽菜は中井の頬へ触れた。
『あたしばっかり見てないで、中井くんも気持ちよくなって』
「でも」
『今日は、あたしがそうしたいの』
中井の身体を、自分の方へ引き寄せる。
『もっと来て』
重なった身体が、ゆっくりと動き始める。
吐息が近くで混じる。
中井が動くたび、陽菜はその背中へ回した腕に力を込めた。
離れたくない。
もっと深く、近くで感じたい。
そんな気持ちを、今夜は隠さなかった。
『中井くん』
「はい」
『好き』
動きが、一瞬だけ止まる。
陽菜は、逃がさないように中井を抱き締めた。
『好きだよ。あたし、中井くんのこと、すごく好き』
「僕も、陽菜さんが好きです」
『知ってる』
「何度でも言います」
『じゃあ、何度でも聞く』
再び、二人の身体が動き始める。
次第に言葉は途切れ、呼吸だけが重なっていった。
陽菜の指が、中井の背中へ食い込む。
何度も名前を呼ぶ。
そのたびに、中井も『陽菜さん』と返した。
いつもと同じ呼び方。
大切にするような、距離を守るような名前だった。
やがて、中井の呼吸が大きく崩れる。
動きが深くなり、抱き締める腕へ力が込められた。
陽菜も、その瞬間が近いことを感じ取る。
『中井くん』
「陽菜さん……」
『いいよ』
陽菜は中井の耳元へ唇を寄せる。
『あたしのことだけ考えて』
その言葉で、中井の理性が途切れた。
最後の瞬間。
いつもの敬称より先に、感情がそのまま声になった。
「陽菜――」
初めて呼び捨てにされた名前が、陽菜の耳元で震えた。
中井の身体が強く重なり、そのまま陽菜を抱き締める。
陽菜は目を見開いた。
驚いたのは、一瞬だけだった。
すぐに腕を回し、中井の身体を強く抱き返す。
二人の荒い呼吸が、静かな寝室に残った。
◇
しばらくして、中井が僅かに身体を起こした。
「陽菜さん」
『何?』
「今……」
『呼んだね』
陽菜は中井の頬を両手で挟む。
『あたしのこと、陽菜って呼んだ』
「すみません」
『何で謝るの?』
「勝手に呼び方を変えたので」
『あの瞬間だけだったけどね』
「……はい」
『もう一回呼んで』
中井の顔が赤くなる。
「陽菜さん」
『戻ってるじゃん』
「今は、無理です」
『どうして?』
「恥ずかしいので」
『さっきはもっと恥ずかしいことしてたのに?』
「それとこれは別です」
陽菜は声を立てて笑った。
笑いながらも、中井の身体を離そうとはしない。
胸元へ顔を寄せ、その鼓動へ耳を澄ませる。
『ねえ、中井くん』
「はい」
『嬉しかった』
「呼び捨てがですか?」
『うん』
「嫌ではなかったんですか」
『嫌なら、もう一回呼んでなんて言わないでしょ』
陽菜は中井の胸元へ頬を押しつけた。
『でも、無理に変えなくていいよ』
「いいんですか?」
『いつもの“陽菜さん”も好きだから』
中井の腕が、陽菜の背中へ回る。
「分かりました」
『ただし』
「はい」
『また我慢できなくなったときは、陽菜って呼んで』
「それは、自分で決められることではないと思います」
『じゃあ、呼んじゃうくらいにしてあげる』
「陽菜さん」
『次も楽しみだね』
「今からですか?」
『何のこと?』
「……何でもありません」
陽菜は満足そうに笑った。
今夜、中井が呼んだのは、たった一度だけだった。
けれど、その一度で十分だった。
大切に扱われることが、嬉しかった。
優しく名前を呼ばれることも、好きだった。
それでも今夜は、中井の中にある余裕も遠慮も消え、自分だけを求める声が聞けた。
陽菜は目を閉じ、中井の胸元へ身体を預ける。
以前は、彼から与えられる愛を受け止める夜だった。
今夜は違う。
陽菜自身が中井を求め、その愛へ自分から手を伸ばした。
二人の間にあったものは、もう片方から与えられるだけのものではない。
互いに求め、互いに返すものへ変わり始めていた。




